S.S:Silent Society

 部室には、すでに人の気配があった。

 窓際の椅子に腰を下ろした藤宮は、スマホを手にしていたが、画面はほとんど見ていなかった。
 机に向かう東雲は、本を開いたまま、ページをめくる気配もなかった。
 言葉を交わさなくても、そこにいる理由は説明しなくていい。
 それが、もう当たり前になっている。

 同じ時間、同じ場所。
 距離だけが、少しずつ変わっていく。

 沈黙は、心地よい――はずだった。

(……近い)

 東雲は視線を落としたまま、藤宮の存在を意識していた。
 名前で呼ばれるようになってから、距離が少しずつ、確実に変わっている。

 椅子の脚がわずかに触れ合う。
 藤宮の体温が、空気越しに伝わってくる気がする。

 胸の奥が、どくん、と鳴った。

 「なあ、智輝」

 不意に名前を呼ばれて、東雲は肩を跳ねさせた。

 「……な、なに」

 声が少し上ずる。
 藤宮はそれに気づいた様子もなく、立ち上がった。

 「それ、何読んでるん?」

 藤宮は自然な動作で東雲の横に立ち、机に手をついた。
 肩越しに、ページをのぞき込む。
 距離が、一気に縮まる。
 東雲は息を止めた。
 視界の端に、藤宮の横顔が入る。整った鼻筋、長いまつげ、近くで見るとやけに端正な輪郭。

(……顔、近……っ)

 頬が熱くなるのが、自分でもわかった。
 心臓が、さっきより速く脈を打っている。

 「へえ……難しそうやな」
 「……心理学の、参考書」
 「真面目やなあ」

 そう言って笑う藤宮の声が、耳に近い。
 東雲はうまく返事ができず、視線を本に戻した。

(落ち着け……友達、やろ)

 自分に言い聞かせるように、そう思う。
 けれど、藤宮はすぐには離れなかった。
 その後、昼になって二人は学内のカフェテリアへ向かった。

 「今日は外、行かん?」

 何気ない提案だった。
 東雲は一瞬迷ってから、頷いた。

 「……いいけど」

 学外の定食屋。
 並んで歩く道すがら、藤宮は自然に東雲の隣を歩いていた。
 交差点に差しかかったときだった。
 車道側に立っていた東雲の前に、藤宮が一歩踏み出す。

「危ないから、こっち」

 腰に、手が回った。
 一瞬。
 ほんの一瞬の動作だった。
 それなのに。

(……っ)

 東雲は言葉を失った。
 触れた掌の感触が、はっきりと残る。
 心臓が、どくん、どくん、と暴れる。
 顔が熱い。息がうまくできない。
 藤宮は何事もなかったように前に立ち、信号を見ていた。

(今の……普通、なん?)

 自分だけが、過剰に意識している気がして、余計に落ち着かなくなる。
 昼食を終え、午後は図書館で過ごした。
 同じテーブル。
 向かい合うのではなく、隣同士。
 藤宮はレポート、東雲は課題。
 会話は少ない。
 けれど、沈黙の質が違った。

(前は……何も考えずに、静かでいられたのに)

 今は、藤宮がページをめくる音や、ペンを走らせる音一つひとつが気になる。
 ふと視線を感じて顔を上げると、藤宮がこちらを見ていた。

 「……なに?」
 「いや。真剣な顔してるなって」

 そう言われただけなのに、胸が跳ねる。
 頬がまた、じわりと熱くなる。

 「……別に」
 「そ?」

 藤宮は軽く笑って、また作業に戻った。

(なんで……こんなに意識してるんやろ)

 夕方、部室に寄ってから、二人は一緒に帰路についた。
 並んで歩く距離が、もう当たり前になっている。
 会話も、取り留めのないものばかりだ。

 「今日、結構一緒におったな」

 藤宮の言葉に、東雲は少し間を置いて答える。

 「……そうやな」
 「友達やし。
  一緒におっても、ええやろ」

 さらっと言われて、東雲は言葉に詰まった。

(……友達)

 確かにそうだ。
 初めてできた、ちゃんとした友達。
 でも。
 胸の奥で、さっきから続くこの動悸は、友達で説明がつくものなのか。
 藤宮の横顔を盗み見る。
 夕焼けに照らされたその表情は、やけに大人びて見えた。

(……わからん)

 答えは出ないまま、家路は続く。
 ただひとつ確かなのは――
 この沈黙が、もう以前と同じ「心地よさ」ではなくなっている、ということだけだった。

(……友達、なんよな)

 そう思いながらも、東雲の胸は、まだ小さく速く鳴り続けていた。

 ◇

 その日の講義が終わったあと、藤宮のスマホが短く震えた。
 表示されたメッセージは短い。
 「今日、少しだけ話せる?」
 場所は、校舎裏の自販機のあたり。
 藤宮は一度、画面を閉じた。
 心当たりがある。というより、避けてきた。

(……逃げてたわけちゃう。けど、逃げてたんやろな)

 足取りが重い。
 なのに、行かなかったらもっと最悪になることもわかっている。
 自販機の横に、女の子が立っていた。
 目が合った瞬間、相手の表情がわずかに揺れる。

 「来てくれたんや」

 声が、笑っているのに震えている。
 藤宮は返事ができず、短く頷いた。

 「最近さ……誘っても、全然会ってくれへんやん」
 「……ごめん」
 「謝ってほしいんちゃう」

 女の子は一歩、距離を詰める。
 視線が真っ直ぐで、逃げ道を塞ぐみたいだった。

 「私、聞きたい。……私って、特別になれへんの?」

 藤宮は息を飲んだ。質問は一言なのに、重い。

(特別じゃない。これは、もう答えは出てる)

 でも、言い方がわからない。
 正直に言うことが誠実なのはわかる。けど、正直は刃にもなる。

(優しく断る方法……あるんか?)

 頭の中で、言葉を探しては崩れる。
 傷つけたくない、そういう気持ちが、逆に相手を追い詰めるのもわかっている。
 その瞬間、藤宮の脳裏に浮かんだのは、部室の静けさだった。
 東雲の顔。
 何も言わなくても見抜いてくるみたいな、静かな目。

(……あいつやったら、逃げへん)

 藤宮は、腹の底に力を入れた。喉が痛い。声が出る気がしない。
 それでも、言わなあかん。

 「……特別とは思えない」

 女の子が瞬きをする。
 藤宮は続けた。ここで止まったら、また同じになる。

 「君と付き合うつもりはない」

 一瞬、世界が止まったように静かになった。

 女の子の口が開く。声はもう、泣きそうな音だった。

 「最初は私もズルかったと思う。友達が軽く誘ってるフリしてた。断られるの怖かったから」

 藤宮は何も言えない。

 「でも、何度も会ってくれて……二人きりで映画とか、ショッピングとか行って」

 女の子は笑おうとして、失敗した顔になる。

 「私、気持ち伝えたと思ってる。……確かに藤宮くんは、その時は答えくれへんかったけど」

 声が揺れて、最後が掠れる。

 「なんで、その時に言ってくれへんかったん?」

 藤宮の胸がきしんだ。

 「……」

 「他の女の子にも同じようにしてたって、聞いてる」

 女の子は拳を握りしめて、肩を震わせる。

 「優しくされたらさ、期待するやん。思い出って、勝手に増えるやん。……私だけが、勝手に好きになったみたいになるやん」

 藤宮は、目を逸らしたくなるのを必死で堪えた。

(ほんまに、俺が悪い)

 優しさのつもりだった。
 拒絶しないことが、相手を守ると思ってた。
 でも、それはただの先延ばしで、相手に“希望”を持たせるだけの残酷さだった。

 「ごめん!」

 藤宮の声は、勢いだけで飛び出した。

 「俺が優柔不断やったんが悪いって、わかってる」

 それだけ言うのが精いっぱいで、あとは黙って頭を下げる。
 言い訳を並べたら、もっと卑怯になる気がした。
 しばらく沈黙が落ちた。
 女の子は、何か言いかけた。けれど声にはならず、踵を返す。

 「……もういい」

 小さく落ちた言葉だけが残った。
 女の子は走り去った。
 
(……俺、何してたんやろ)

 胸の奥が、ずっと重い。
 謝ったところで、戻せない。

 戻せないことが、今になって、はっきりわかる。
 藤宮は追いかけることもできず、その場に立ち尽くしたまま、指先が冷えていくのを感じていた。

 藤宮は、部室にいた。
 日が落ちかけて、窓の外が橙色に滲む。
 机も椅子も、いつもと同じ場所にある。
 それなのに、今日だけは、空気がやけに薄い。
 東雲は先に来ていて、本を開いていた。
 藤宮が入ってきても、すぐには顔を上げない。
 けれど、数秒のあと、静かに視線を上げた。
 その目から、藤宮は逃げられなかった。

(……何も言わんのに、わかってる顔してる)

「……悠誠」

 東雲が名前を呼ぶ。
 それだけで、藤宮の喉が詰まった。

 「……今日、ちょっと、あってさ」
 「うん」

 東雲は聞き返さない。
 急かさない。ただ待つ。
 藤宮は椅子に座った。背もたれに寄りかかることもできず、膝に手を置く。

 「俺、最低やった」
 「……何したん」

 東雲の声は優しい。
 優しいのに、甘やかしじゃない。

 「女の子、傷つけた。俺が……はっきりせえへんかったから」

 藤宮は目を伏せた。

 「ほんまは、もっと前に言うべきやった。付き合う気がないって。特別やないって。……それを、ずっと言えへんかった」

 言葉にすると、胸がさらに痛む。

 「優しくしとけば、傷つけへんと思ってた。断らへんかったら、嫌われへんと思ってた」

 東雲は黙って聞いている。
 藤宮は、息を吐く。

 「俺さ……小学校の、低学年のときな」

 藤宮は、視線を机に落としたまま続けた。

 「ある日、遊びに誘われてん。でも、俺、その日たまたま用事あって……断ってもうて」

 東雲は、何も言わずに聞いている。

 「その子な、一人で遊びに行って……事故に遭った」

 一拍、間が空く。

 「……亡くなった」

 東雲の指先が、わずかに震えた。

 「もちろん、俺のせいちゃうって、大人は言った。誰も責めへんかった。でも……」

 藤宮は唇を噛む。

 「俺の中では、ずっと引っかかってる。あの日、断らへんかったらって。
 一緒におったら、防げたんちゃうかって」

 声が、少し低くなる。

 「それからや。誘われて断ることが、怖くなった」

 藤宮は、苦笑いを浮かべる。

 「断る=相手を一人にする、って思ってもうてん。
 優しくしとけば大丈夫やって。拒まへんかったら、何も起きへんって」

 東雲は静かに息を吸った。

 「……それで、今日まで来たん」
 「うん」

 藤宮は、短く頷く。

 「今日、あの子にはっきり断ったときな……昔のこと、頭に浮かんだ」

 声が、かすれる。

 「また誰かを一人にした、って思ってもうて」

 沈黙が落ちる。
 重いけれど、逃げ場のない沈黙。
 東雲が、ゆっくりと口を開いた。

 「……でも」

 藤宮が顔を上げる。

 「今日のは、違うやろ」

 東雲の声は、静かだった。

 「一人にするために断ったんちゃう。
 ちゃんと向き合うために、言うたんやろ」

 藤宮は、目を見開く。

 「……智輝」

 「それに」

 東雲は続ける。

「一緒におらんかったことを、
 悠誠がずっと自分の中で背負ってきたんは分かる。
 でもな、それで全部が悠誠のせいになるわけやない」

 藤宮の胸が、強く鳴った。

 「……俺、それ、初めて言われた」

 東雲は視線を逸らし、少しだけ頬を赤くする。

 「……俺が勝手に、そう思っただけや」

 藤宮は、しばらく黙ってから、低く言った。

 「今日、はっきり言えたんは……智輝の顔、思い出したからや」

 東雲が、はっとする。

 「俺がまた、逃げそうになってんのが分かって」

 沈黙が落ちる。

 「でも」

 藤宮は、ゆっくり言う。

 「俺、智輝とは……逃げるための優しさで、一緒におりたくない」

 藤宮は、ゆっくり言う。言葉が、部室に落ちる。
 東雲の耳が、赤い。
 藤宮は、苦しそうに笑った。

 「で、思ったんや。……俺、智輝には、嫌われたくない」

 言ってしまった。言葉が部屋に落ちて、戻ってこない。
 東雲の顔が赤い。耳まで赤い。けれど目は逸らさない。
 心臓が、藤宮の方も速くなる。

 藤宮は、それ以上言葉を足さなかった。
 東雲は何も言わず、息を整えるみたいに一度目を伏せた。

「……それ、友達に言う言い方ちゃう」

藤宮は、返事が出ずに口を閉じたまま、椅子の背に指をかける。
木の冷たさが、指先に残る。
東雲は視線を逸らさず、本の角を強く押さえていた。

「……え」

声が喉で止まり、藤宮は息を吐く。部室の空気が、わずかに張りつめる。
東雲の耳が赤い。

「……今の、俺もびっくりした」

東雲はそう言ってから、唇を閉じる。椅子の脚が、床に小さく鳴る。
藤宮は、その音を聞いたまま動かなかった。

「……でも」

東雲は、机の上の本に視線を落としたまま続ける。

「今日の話、してくれてよかった」

短い言葉だった。
藤宮の胸にあった重さが、少しだけ位置を変える。
息が、深く入る。

「……うん」

藤宮は頷き、背もたれから手を離す。
椅子が、わずかにきしむ。
それ以上、言葉は足さなかった。

部室は静かだった。
時計の音も、外の声も届かない。
東雲は、本を押さえた指をゆるめる。
部室の静けさが、そのまま残った。

翌日も、藤宮は部室にいた。
窓から差す夕方の光が、床に長く伸びている。
東雲は机に向かい、本を開いている。

藤宮は窓際の椅子に座り、背筋を伸ばしたまま視線を前に置く。
スマホには触れない。
部室の静けさが、昨日と同じ形で残っている。

藤宮は、東雲の横顔を見る。
ページをめくる音が、一定の間隔で続く。
その音が途切れないことに、少しだけ安心する。

「……なあ」

藤宮が声を出すと、東雲はすぐ顔を上げた。
視線が合う。逸らされない。

「……最近さ」

藤宮は、椅子の脚を床に押しつける。

「俺ら、ずっと一緒やな」

東雲は、否定せずに頷く。本を閉じ、机に置く。指が重なる。

「……そうやな」

短い返事だった。
藤宮は、その音量を確かめるみたいに息を吐く。

「友達って、こんなもんやったっけ」

問いは、宙に残る。
東雲はすぐに答えず、机の木目を見る。

「……友達やとは思う」

間を置いて、そう言った。椅子の背に、体重をかける。

「けど」

言葉が続く前に、藤宮は目を伏せる。床の影が、少し動く。

「友達にしては、近い」

東雲は、淡々と続けた。藤宮の喉が、小さく鳴る。

「やっぱり、そう思う?」
「思う」

即答だった。部室の空気が、静かに張る。
藤宮は、背筋を伸ばす。

「俺さ」

声が、少し低くなる。

「智輝を、特別に扱ってると思う」

東雲の指が、机の上でわずかに動く。

「他の人には、せえへんこと、してる」

藤宮は視線を上げる。東雲は逸らさない。

「それが、ええかどうかは分からん」

椅子が、少しきしむ。

「でも、やめる気はない」

東雲は、ゆっくり息を吐いた。胸の動きが、はっきり見える。

「……俺も」

東雲は、間を置いて口を開く。

「藤宮とおる時間、減らしたいとは思ってへん」

藤宮の肩の力が、少し抜ける。

「正直」

東雲は、一度だけ目を伏せる。

「この距離を、手放したくないとは思ってる」

静かな声だった。
藤宮は、その言葉を聞いたまま動かない。

「……それって」

藤宮は、椅子を引かずに一歩だけ距離を詰める。

「俺が、勘違いしてもええん?」

東雲は一瞬だけ目を見開き、すぐに視線を戻す。

「……勘違いではないと思う」

短く、区切る。

「確認、やろ」

藤宮は、息を吐いた。胸の奥が、ゆっくり落ち着く。

「そっか」

指先が、自然に机の縁に触れる。

「俺、智輝の隣におりたい」

言い切りだった。声は、揺れていない。

「友達かどうかは、今はええ」

東雲は、黙って聞いている。

「選ぶなら……智輝を選ぶ」

沈黙が落ちる。東雲は、そのまま頷いた。

「……うん」

藤宮は、視線を逸らさずに続ける。

「確認ついでに、もう一個」

東雲は、小さく頷く。

「俺らさ……付き合うってことで、ええんかな」

問いは、静かだった。
東雲は一度目を伏せ、すぐに顔を上げる。

「……ええと思う」

藤宮は、肩の力を抜く。

「そっか」

それだけ言って、息を吐いた。

部室は、変わらず静かだった。
椅子も、机も、昨日と同じ場所にある。
ただ、二人の距離だけが、少しだけ違っていた。