学生会館。
夕方。人の流れが、少しだけ緩む時間。
智輝は、壁際のベンチに座っていた。
ノートは開いているが、視線は落ち着いていない。
「……東雲さん」
呼ばれた声は、控えめだった。
聞き慣れてはいない。でも、顔は知っている。
同じ学部で、何度か見かけたことがある。
智輝が顔を上げると、女子学生は一瞬だけ立ち止まった。
距離を測るように、半歩引く。
「今、少し……ええですか」
智輝は、すぐに立ち上がらない。
ベンチの端を、軽く示す。
「どうぞ」
女子学生は、少し迷ってから腰を下ろした。
間には、きちんと一人分の空間が残る。
「……急ぎじゃないんですけど」
前置きが長い。
声は落ち着いているが、指先だけが忙しい。
「誰かに話すほどのことか、分からなくて」
智輝は、頷かない。
続きを待つ。
「最近、ちょっと……変で」
視線が、通路の方へ流れる。
人は多い。普通の夕方。
「知ってる人なんです。同じ学部で」
言い切りだった。
でも、名前は出ない。
「話したことは、ほとんどないです。挨拶するくらいで」
女子学生は、膝の上で手を組み直す。
「でも、向こうは……そう思ってないみたいで」
智輝は、初めて視線を向けた。
「どういう意味?」
「……説明、難しいんですけど」
短い、沈黙。
「前から、私の予定を知ってるみたいな言い方をしてきて」
偶然とも取れる言い方。
でも、軽く流せる調子じゃなかった。
「今日、最後の講義のあと、時間あるやろって言われました」
智輝は、すぐには聞き返さない。
「たまたまかなって思ったんです。
学部、同じですし」
少し間を置いて、続ける。
「でも、私がそのあと空いてるって知ってる言い方で」
「それで」
女子学生は、智輝を見る。
「これ、相談していい話なのか、分からなくなって」
智輝は、すぐには答えなかった。
通路の向こうで、誰かが足を止める。
一瞬だけ。すぐに、人の流れに溶ける。
その視線が、
どこに向いていたのかは、まだ分からない。
智輝は、女子学生の言葉を遮らなかった。
頷きもしない。
ただ、間を置く。
「同じ学部、って言いましたね」
確認みたいな口調。
「はい」
「授業、被ってる?」
「……いえ。多分、そんなに」
智輝は、ノートを閉じる。
書かない。記録しない。
「向こうから声かけられたのは、いつ?」
「新学期の終わり頃です」
少し考えてから、続ける。
「最初は、挨拶だけでした」
「それが変わったのは?」
女子学生は、言葉を探す。
「……言い方、です」
「言い方?」
「知ってる前提、みたいな」
具体的な単語は出ない。
代わりに、例が置かれる。
「“今日も遅いんですね”とか」
「“あの教室、寒いですよね”とか」
偶然で済ませられる範囲。
誰にでも言えそうな言葉。
「それ、間違ってた?」
「……いいえ」
女子学生は、首を振る。
「合ってました」
智輝は、そこで何も言わない。
「でも、私、言ってないんです」
言ってない。
教えてない。
「一回や二回なら、偶然やと思ったと思います」
女子学生は、膝の上で指を組み直す。
「でも、何回か続いて」
「頻度は?」
「週に、一、二回くらい」
多くはない。
でも、途切れない。
「連絡先は?」
「知りません」
即答だった。
「向こうから聞かれたことも?」
「ないです」
智輝は、視線を落とす。
「じゃあ、距離は?」
「……普通、です」
普通、という言葉に重さがない。
「近づいてきたりは?」
「ないです」
「触られた?」
「ないです」
智輝は、質問を続ける。
一つずつ。
短く。評価を挟まず。
「困ったのは、どこ?」
女子学生は、少し考えてから答えた。
「……考え出すと、止まらなくなるところです」
智輝は、そこで初めて顔を上げる。
「何を?」
「これ、気にしていいんかな、って」
正解を探す言い方。
「大げさかな、とか、
私が神経質なだけかな、とか」
智輝は、すぐに否定しない。
「今、困ってる?」
質問は、現在形。
女子学生は、一瞬だけ迷ってから頷いた。
「はい」
それだけだった。
智輝は、ノートを膝に置いたまま言う。
「事実だけでいい」
女子学生は、少し肩の力を抜く。
「じゃあ、今言ったところまで、で」
智輝は、そこで話を止めた。
「それ以上、決めなくていい」
女子学生は、安心したようにも、不安なようにも見えた。
通路の向こうで、誰かが立ち止まり、また動く。
学生会館は、何も変わらない。
この時点では、
誰もまだ、物語の外にいる。
それから、数日後。
学生会館。同じ時間帯。
智輝は、前と同じベンチに座っていた。
「……東雲さん」
声をかけられて、顔を上げる。
この前の女子学生だった。
今日は、立ち止まらない。
そのまま隣に座る。
距離は、前より近い。
「今、大丈夫ですか」
確認は、形式だけだった。
「どうぞ」
智輝がそう言うと、女子学生は小さく息を吐いた。
「来てよかった」
それが、最初の言葉だった。
「……あれから、少し動きがあって」
智輝は、何も言わない。
「昨日、声かけられました」
“声かけ”。
女子学生は、言い直す。
「ちゃんと、です」
智輝の視線が、自然と向く。
「どんな?」
「場所、指定されました」
曖昧じゃない言い方。
「“ここなら落ち着いて話せる”って」
その表現に、女子学生は一瞬だけ眉を寄せる。
「前は、そんなこと言われたことなかったのに」
智輝は、質問を挟む。
「二人きり?」
「……はい」
「断れた?」
「断りました」
即答だった。
「理由は?」
女子学生は、少し迷う。
「約束がある、って」
智輝は、そこで初めて一言。
「誰との?」
「……言ってないです」
女子学生は、視線を落とす。
「でも」
声が低くなる。
「そのあと、言われました」
「何て?」
「“あの人と、最近よく一緒ですよね”って」
名前は出ない。
でも、対象は一人しかいない。
「“前から思ってたんですけど”って」
前から。過去形。
「“ああいう人、やめたほうがいいですよ”」
智輝は、表情を変えない。
女子学生は、言葉を選びながら続ける。
「理由、聞いたら、“信用できない”って」
根拠はない。
でも、評価だけがある。
「それで」
女子学生は、智輝を見る。
「これ、もう……気にしていいやつですよね」
智輝は、すぐに答えなかった。
通路の向こうで、笑い声が上がる。
いつも通りの学生会館。
「前と、違うところは?」
智輝が聞く。
「……私に向けて、何かしようとしてるって分かるところです」
それは、はっきりした言葉だった。
「前は、ただ気持ち悪いだけやったのに」
女子学生は、手を握る。
「今回は、私に向けて言うてきてる感じがして」
智輝は、静かに言う。
「もう一回来たら」
女子学生は、先に頷いた。
「また、来ます」
迷いはなかった。
この時点でも、まだ誰も
“ストーカー”という言葉を使っていない。
でも、
関係を作ろうとする動きだけが、
はっきり残っていた。
女子学生は、少し間を置いてから続けた。
「昨日は、断って終わったと思ってたんです」
智輝は、視線を外さない。
「でも、今日」
女子学生は、言葉を切る。
「帰り道、待たれてました」
女子学生は、そこで言葉を切った。
「偶然、って言われました」
智輝は、何も言わない。
「私も、そうやと思おうとしました」
女子学生は、笑おうとしてやめる。
「でも」
視線が、通路の奥に流れる。
「私が出てくる時間、分かってました」
智輝は、短く聞く。
「声は?」
「……普通でした」
「内容は?」
「“心配してた”って」
女子学生は、眉を寄せる。
「“最近、変な人と一緒にいるから”って」
智輝の中で、言葉が静かに重なる。
「変な人の名前は?」
「出てないです」
それでも、指す先は一つしかない。
「それで」
女子学生は、手を握り直す。
「今日も、言われました」
「何を?」
「“あの人と、あんまり関わらんほうがいい”って、
“あの人、信用できないから”って」
「理由は?」
「“危ないから”って」
智輝は、少しだけ間を置く。
「その人は?」
「……自分のことは、何も言わないです」
自分の立場を語らない。
相手の行動だけを評価する。
「私が、どう思ってるかも」
女子学生は、首を振る。
「聞かれませんでした」
智輝は、静かに言う。
「それで、どうした?」
「帰りました」
即答だった。
「でも」
女子学生は、智輝を見る。
「これ、もう偶然とか、勘違いとかで済ませたらあかん気がして」
智輝は、否定もしない。
「前は」
女子学生は、少しだけ言葉を探す。
「私が気にしすぎなだけやと思えたんです」
「今は?」
「……相手が、私の行動を止めようとしてる」
それは、評価じゃなく、観察だった。
智輝は、ベンチから立ち上がらない。
「次に来たら」
女子学生は、間を置かず答える。
「来ると思います」
根拠は、言わない。
「来たら?」
「また、ここに来ます」
智輝は、そこで初めて頷いた。
「一人で抱えなくていい」
言い切りでも、約束でもない。
「でも」
女子学生は、視線を落とす。
「東雲さんに、迷惑かかりませんか」
智輝は、すぐに答えなかった。
通路を、人が通り過ぎる。
誰も、こちらを見ない。
「今は」
智輝は、短く言う。
「話、続けていいで」
女子学生は、息を吐いた。
そのやり取りを、
誰かが見ていたかどうかは、
この時点では分からない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
女子学生が選んだ相談相手が、
相手の中で位置を持った。
それが、
これまでとの違いだった。
智輝は、そこで一度区切る。
「今、困ってるのは」
女子学生は、少し考える。
「……これが、続く気がすることです」
理由は言わない。予感だけ。
「前は、偶然って言えたんです」
女子学生は、膝の上で手を組む。
「今回は、“狙われてる”感じがして」
智輝は、短く返す。
「分かった」
評価でも、断定でもない。
智輝は、それ以上言わない。
相談する人。相談される人。
その二人が並んだ、その事実だけが、
誰かの中で、意味を持ち始めていた。
それから、二日後。
智輝が学生会館に入ったとき、
空気が少しだけ違っていた。
人は多い。
夕方。講義終わり。
いつもと同じ時間帯。
でも、視線の落ち着かせ方が、ひとつだけ合わない。
智輝は、ポケットからスマホを出す。
画面を見るだけで、一度、指を止める。
——何かあったら、必ず連絡すること。
以前、悠誠に言われた言葉。
約束に近い形で、交わした。
智輝は、迷わず発信した。
二回も鳴らない。
「もしもし」
落ち着いた声。
「今、大丈夫?」
「大丈夫。どうした」
智輝は、歩き出す。
学生会館の外へ出るまで、話さない。
自動ドアが閉まる音。
外の空気が、少し冷たい。
「相談受けた」
前置きはしない。
「内容は?」
「まだ、事件じゃない」
息を吐いた。
「でも、俺の名前が出てる」
電話の向こうの雰囲気が変わった。
「誰に?」
「本人じゃない」
言い切る。
「第三者の話として」
悠誠は、すぐに結論を出さない。
「今、危ない?」
「分からん」
正直に答える。
「だから、連絡した」
沈黙が、少しだけ続く。
「分かった」
悠誠は、低く言う。
「念のためや、明るいうちに帰り。」
命令じゃない。確認でもない。
当たり前の共有。
「今、どこ?」
「学生会館の外」
「帰る?」
「……少しだけ、残る」
悠誠は、短く息を吐く。
「相良に、繋いだほうがええ。」
智輝は、迷わなかった。
「わかった」
悠誠との電話を切ったあと、すぐに蒼に電話をした。
通話が切り替わる。呼び出し音。
「もしもし」
蒼の声は、軽い。
「相良。今、少しええ?」
「ええで。どした」
智輝は、事実だけを並べる。
「相談が一件」
「相手は、同じ学部」
「その子の知ってる人からの接触内容が変わった」
「俺の名前が、向こうで使われてる」
蒼は、途中で口を挟まない。
「白石さんには?」
「まだ」
「せやな」
蒼は、すぐに理解する。
「これは、先に状況だけ押さえるやつや」
蒼は、そう前置きしてから続けた。
「今日、何も起きてへんやろ」
「うん」
「せやから、“されてへん今”の情報が要る」
智輝は、少し考えてから頷く。
「基準を作るってことか」
「そう」
蒼は即答した。
「場所と時間、あと相手の動き」
「白石さんに渡す用で、俺がまとめる」
「動かすのは、向こうや。
東雲は、来たものだけ受け取ったらええ」
通話が切れる。
智輝は、スマホをポケットに戻す。
浅い、息をはいた。
学生会館の明かりが、背後に残る。
何も起きていない。
でも、もう一人で持つ話でもない。
悠誠との約束は、守った。
背中の力が少し抜ける。
その夜。
知らない番号から、メッセージが入っていた。
短い。
──彼女のことで。
それだけだった。
智輝は、画面を伏せる。
誰からかは分からない。
どうやってこの番号を知ったのかも、書かれていない。
ただ、
“聞けば出てくる”距離に置かれたことだけは、はっきりしていた。
蒼に迷わず転送する。
「知らん番号」
「内容は、これだけ」
すぐに返事が来る。
『番号は、人づてやな。学部か、周辺か。今日は放置や。』
智輝は、画面を閉じる。
直後に、今度は電話がかかってきた。
画面を見る。
——非通知。
出ない。
2、3回のコールで、切れる。
気にしすぎ、で片づけられる。
でも、続けて一件。
今度は、メッセージ。
——今日は講義、二限からやろ
短い。疑問符もない。
智輝は、画面を閉じた。
煩わしさにメッセージを消去しかけて思いとどまる。
自分で判断するためじゃない。渡すために残しておく。
何が起こるかわからない、今後のために残しておく。
二限。
教室はいつも通り。周囲も変わらない。
講義が終わるころ、
机の上に伏せた端末が、もう一度震える。
——昨日は、早かったな。
主語がない。でも、時間だけは合っている。
悠誠との約束でいつもより早く帰ったから。
智輝は、指を動かさない。
教室を出る。廊下は混んでいる。
階段を下りたところで、
ポケットの中が、また振動した。
——あの子、迷惑やと思ってるで。
ここで、送り主がほぼ確定する。
智輝は、歩く速度を落とさない。
返信しない。
学生会館に入る前、蒼にだけ、短く送る。
『またメッセージ来た』
返事はすぐだった。
『見せて。触らんで保存』
智輝は、送信後端末をポケットに戻す。
学生会館。いつものベンチ。
女子学生は、いない。
画面が、もう一度だけ光る。
——余計なことは、するな
命令でも、脅しでもない。忠告の形。
智輝は、そこで初めて、深く息を吐いた。
誰かが、自分の生活を
「踏み込んでいいもの」だと判断している。
蒼からの返事が来る。
『保存できた白石さんに回す
今日も動かんでええ』
智輝は短く返す。
『了解』
夕方。人の流れが、自然に途切れない時間帯。
講義後、帰宅するために教室を出る。
女子学生は、階段の手前で足を止めた。
背後から呼ばれる声に、振り向くまでの間が、ほんの一拍だけ長い。
「少し、ええ?」
声は穏やかだった。
距離も、近くない。周囲には人がいる。
振り返ってしまったことを少し後悔しながら、返事をする。
「今は……無理です」
即答だった。
理由を考える前に、言葉が出た。
「急いでるんで」
相手は、すぐには引かなかった。
表情は変えず、声も落とさない。
「そんなに時間、取らせへんよ」
距離は一歩も詰めてこない。
でも、会話を終わらせる気配もない。
女子学生は、視線を逸らした。
人の流れを確認してから、言い直す。
「約束、あるので」
相手は、そこで少しだけ首を傾けた。
「東雲くんと?」
名前が出た瞬間、女子学生の指が強く握られる。
否定も肯定もしないまま、息を整えた。
「関係ないですよね」
声は低かった。
感情は、まだ表に出ていない。
相手は笑わない。
代わりに、諭すような調子になる。
「ああいう人と、あんまり一緒におらんほうがええで」
助言の形。
命令でも、非難でもない。
「信用できひんから」
理由は、それだけだった。
女子学生は、それ以上聞かなかった。
説明を求めても、終わらないと分かっている。
「失礼します」
短く言って、歩き出す。振り返らない。走らない。
背中に、視線が残る。でも、追ってはこない。
学生会館の中は、いつも通りだった。
立ち話をする学生。通り過ぎる人。
誰も、気に留めない。
女子学生は、壁際のベンチを見つける。
そこに、智輝が座っていた。
近づくまでに、少しだけ迷う。
でも、足は止まらなかった。
「……東雲さん」
智輝が顔を上げる。
「今、大丈夫ですか」
確認は、形式だけだった。
「どうぞ」
女子学生は、隣に座らない。
一人分の距離を空けて立ったまま、言う。
「さっき、声かけられました」
智輝は、頷かない。
続きを促すだけの沈黙を置く。
「断りました」
それだけを、まず言う。
「でも」
女子学生は、一度だけ言葉を切る。
「名前、言ってました。」
智輝の視線が、わずかに動く。
「俺の?」
女子学生は、短く頷いた。
「忠告、みたいな言い方でした」
評価は足さない。感想も言わない。
「それで……」
一瞬、視線が落ちる。
「ここに、来ました」
理由は、それだけで足りていた。
智輝は、ベンチの端を示す。
「座って」
女子学生は、ゆっくり腰を下ろす。
肩の力が、少しだけ抜ける。
学生会館は、何も変わらない。
人の流れも、空気も。
ただ一つ、
拒否をしても終わらなかった、という事実だけが、
二人の間に残っていた。
学生会館の外。
人の流れから半歩外れた場所。
白石は、壁際に立っていた。
蒼はそのすぐ隣。
蒼から逐一、報告は受けている。
「――完全に、ストーカーですね」
蒼が先に言った。確認でも推測でもない。
白石は頷いた。もう結論は出ている。
「偶然を装って予定を当てる第三者を下げて、行動を縛る
人目のある場所を選ぶ」
白石は淡々と並べる。
「典型や」
蒼は、視線を前に置いたまま言う。
「相手に怒らせたくないって思わせてる。
やのに、逃げ道は全部塞いでる」
言い切りだった。
白石は蒼を見る。
短い視線。意図は共有されている。
「被害者はもう“自分が狙われてる”と分かってる」
蒼の声が低くなる。
「分かってるのに、逃げられへんやつや」
白石は、そこで一歩だけ蒼に近づいた。
触れない。でも、位置は完全に揃う。
「東雲を使ってるのが厄介やな」
「うん」
蒼は即答した。
「そいつ頭の中のストーリーでは、女の子の側にいるのは自分だけや。
せやから余計に、相手は引かへん」
白石は視線を落とす。
「東雲は、もう“邪魔な存在”に分類されてる」
蒼の指が、軽く握られる。
「どう出てくるかな?」
感情は滲むが、声は荒れない。
「被害者を縛るために、
信用できそうな人間を切り離す」
白石は言った。
「ストーカーの常套手段や」
蒼は短く息を吐く。
「ここからは、東雲にも実害くるな」
疑問じゃない。
白石は、否定しない。
「来る」
一拍も置かない断定。
「順番や。
被害者を孤立させるための“次”や」
蒼は、白石のほうを見る。
「止める?」
白石は即答しない。代わりに、静かに言う。
「囲う」
蒼は、それで理解した。
「被害者も、東雲も、外に出さへん」
白石は頷く。
「相手だけ、動かす」
二人の距離は、最初から変わらない。
同じ判断をしているから、離れる必要がない。
学生会館では、今日も人が行き交う。
誰も、二人を気に留めない。
人の流れが途切れた瞬間だった。
背後から、声が落ちてくる。
「……東雲くん」
呼び方だけは、丁寧だった。
振り向く前に、距離が詰まる気配がある。
逃げ道を塞ぐ位置取り。
「驚かせてすみません。
でも、ちょっとだけ、どうしても伝えといたほうがいいと思って」
智輝は、歩みを止めただけで、返事はしない。
「誤解されてるみたいなんで」
勝手に前提を置く声。
「きみ、最近、あの子とよく話してますよね」
確認じゃない。
知っている、という言い方。
「最初は、偶然かなと思ったんです。
相談、って言葉も聞こえましたし」
笑う。
理由を与えてやっている、という顔。
「でも、あの子、困ってるでしょう。
前から。分かる人には、分かるんです」
智輝は視線を外さない。
「だから、僕が見てた」
主語を誇らしげに言う。
「放っておけなかった。
ああいう子は、変な人に目をつけられやすいから」
少しの間があり、声が、少しだけ低くなる。
「正直に言うと」
溜める。
「あなたが割り込んできたの、正直、迷惑でした」
言葉は柔らかいが、内容だけが、鋭い。
「順番って、あるでしょう。
関係には」
当然の理屈のように。
「僕は、前から気にかけてた。
あなたは、後から来た」
智輝が何も言わないのを、了承と取る。
「だから、線は引いたほうがいいと思うんです」
“引く”のは自分だという前提。
「彼女、今、弱ってるから。
優しい人に頼りたくなる時期なんです」
息を吐く。
「そういう時に、
男が何人も出入りすると、混乱する」
一歩、近づく。
「彼女は、僕のだから」
はっきりと言った。
「僕の、守る範囲の人だから」
その言い方だけが、妙に確信に満ちていた。
「勘違いしないでほしい。
あなたを責めてるわけじゃない」
首を傾げる。
智輝は、そこで初めて口を開いた。
「それ、誰が決めた?」
低い声。
相手は一瞬だけ間を置く。
でも、すぐに笑った。
「決める必要、あります?」
答えになっていない。
「分かってる人間が、分かってればいい」
背中を向ける前に、最後の一言。
「余計なこと、しないでください。
彼女のためですから」
人の流れに戻る。
何事もなかった顔で。
智輝は、その場に残る。
胸の奥に、嫌な重さだけが残る。
――これは、忠告じゃない。
――脅しでもない。
“所有の宣言”だった。
智輝がその場を離れたあとも、
空気だけが、変な形で残っていた。
翌日。
講義の前。
教室に入ると、視線が一つ、遅れて外れる。
偶然のタイミング。
でも、同じことが二度続く。
席に着く。
前の列の学生が、振り返りかけて、やめる。
代わりに、隣の子と小声で何か言う。
内容は聞こえない。
でも、名前だけが一度、落ちる。
「……東雲、やろ」
智輝はノートを開く。
反応しない。
休み時間。
女子学生が、教室の入口で立ち止まる。
一瞬、智輝の方を見る。近づきかけて、やめる。
代わりに、別の友人の方へ向かう。
距離が、ひとつ増える。
学内のカフェ。
列に並んでいると、背後で声がする。
「最近、あの子と一緒やった人?」
誰かが、曖昧に笑う。
「なんか、揉めてるらしいで」
らしい。主語はない。
でも、矢印だけははっきりしている。
午後。
学生会館。
ベンチは空いている。
いつもなら、誰かが座る時間帯。
今日は、誰も来ない。
代わりに、少し離れた場所で、立ち話が始まる。
視線だけが、こちらをかすめる。
——余計なこと、しないでください。
昨日の声が、重なる。
智輝は立ち上がる。
歩き出すと、
向こうも、自然に話題を変える。
追ってこない。
でも、囲いはできている。
夕方。
女子学生から、短いメッセージが入る。
「今日は……行かないほうが、いいですか」
質問の形。
でも、すでに答えは決められている文面。
智輝は、すぐに返さない。
画面を伏せる。
“彼女のため”
“心配しているだけ”
“信用できない人”
言葉だけが、
本人の知らないところで、独り歩きしている。
それは派手な噂じゃない。
否定もしにくい。
説明するほど、面倒な人間に見える。
だから厄介だ。
智輝のポケットの中で、スマホが震える。
蒼からの着信。
出る前に、もう一度、周囲を見る。
誰も敵意を向けていない。
誰も味方もしない。
立ち位置だけが、少しずつ、ずらされていく。
智輝は、通話を取った。
「相良」
声は、いつも通り。
「……始まってる」
悠誠は、参考書を閉じた。
ページの途中だった。栞も挟まない。
机の上には、開いたままのノート。
書きかけの文字。集中していた形跡だけが残っている。
スマホが伏せて置かれていた。
画面を見なくても、通知の内容は分かっている。
——学内で名前使われてる
——女子学生が一人、はっきり被害自覚
——忠告の形で接触あり
——孤立させに来てる
蒼からの要点。
感情は、どこにも挟まれていない。
悠誠は椅子に深く座り直した。
勉強に戻れる姿勢じゃない。
ペンを取る。ノートの余白に、短く書く。
「智輝」
名前だけ。
整理のためでも、メモでもない。
時間を見る。
本来なら、ここからが一番集中できる時間帯だった。
でも、今日は違う。
スマホを手に取る。
発信履歴は、まだ新しい。
一度、ためらってから、もう一度画面を見る。
ためらう理由はない。必要なことだから、自分の時間を削る。
呼び出し音。二回目で、繋がった。
「もしもし」
智輝の声は、いつも通りだった。
だから余計に、分かる。
「今、話せる?」
質問の形。
でも、答えは決まっている。
「うん」
「もう、俺は知ってる」
説明はしない。誰から聞いたかも言わない。
智輝の呼吸が、少しだけ変わる。
「……相良?」
「相良」
「明日から一緒に帰ろう」
命令ではないが、決定事項として伝える。
「勉強は?」
智輝が聞く。
悠誠は、視線を机に落とす。
閉じたままの参考書。
「後で取り戻せる」
即答だった。
「今は、そっち優先や」
電話の向こうで、智輝が小さく息を吐く。
「ごめん」
反射的な言葉。
悠誠は、すぐに被せる。
「謝るとこちゃう」
声は低い。でも、硬くはない。
「俺が決めた」
沈黙。
智輝は、何も言わない。
「毎日、時間合わせて帰ろう。久しぶりやから楽しみや。」
悠誠は切り替えが早い。
「うん。俺も」
「それと」
少しだけ、声を落とす。
「何言われても、受け取らんでええ」
説明しない。理由も付けない。
通話が切れた。
学生会館の奥。
人の少ない時間帯。
白石は、椅子に深く座っていた。
背もたれには寄りかからない。
机の上には、紙も端末もない。
蒼が向かいに立つ。
「相手、誰かは分かってる」
白石は頷いた。
「学部も、だいたいの立場もな」
蒼は、それ以上聞かない。
白石が続きを出すのを待つ。
「行動は三つ」
白石は指を立てない。
淡々と、言葉だけを置く。
「一つ目。
女子学生への接触。
本人の意思を無視して、予定や交友関係に踏み込んでる」
蒼が短く息を吐く。
「二つ目。
第三者に対する評価操作。
『危ない』『信用できない』
これは忠告やなくて、印象操作や」
白石は視線を落とさない。
「三つ目。
東雲の名前を使って、相手を囲い込もうとした」
蒼は、そこで一度頷いた。
「全部、学内ハラスメントとして成立しますね」
「成立する」
白石は即答した。
「しかも、継続性がある。偶然では片づけられへん」
蒼は腕を組む。
「で、具体的にはどうします?」
白石は、ようやく視線を外した。
窓の外。学生が行き交う、いつもの風景。
「本人を叩かへん」
「……ほう」
「叩いたら、自分は被害者やと思い込む。
妄想が補強されるだけや」
白石は静かに続ける。
「やるのは、環境を変えること」
蒼は、理解した顔になる。
「囲いを外す、ってことか」
「そう」
白石は、短く言った。
「窓口を用意する。
学部の担当、学生相談、ハラスメント窓口」
蒼が眉を上げる。
「一気に行きますね」
「一気に行くから効く」
白石は言い切った。
「相手は、“自分の中では正しい”
けど“表に出たらヤバい”その線を分かってる」
蒼は、少しだけ笑った。
「ストーカーあるあるや。」
「せやから」
白石は、視線を戻す。
「名前を出す準備をするけどまだ出さへん。
でも、出せる状態を作る」
蒼は、低く言う。
「相手は気づきますね」
「気づく」
白石は迷わない。
「自分のやってることが“個人の恋愛”やなく
“記録される行為”やって」
一拍、間が落ちる。
「その時点で、動きは止まる」
蒼は、頷いた。
「被害者側は?」
白石は、少しだけ声を落とす。
「女子学生には、もう一人で対応せんでいいって伝える。
連絡は全部、窓口を通す」
「東雲は?」
「受け止め役から外す」
白石は、はっきり言った。
「もう巻き込ませへん。名前も、使わせへん」
蒼は、深く息を吐いた。
「これで、終わる」
「終わる」
白石は、断定した。
「派手なことは起きへん。でも、相手は二度と動かれへん」
蒼は、白石の隣に腰を下ろす。
距離が、自然に近い。
「流石ですね」
「普通や」
白石は、そう返した。
「構造を見ただけや」
その後、
学内で誰かが騒ぐことはなかった。
噂は広がらない。名前も出ない。
ただ、
女子学生への接触は止まり、
智輝の周囲からも、不快な視線は消えた。
事件は、静かに終わった。
智輝は、ポケットに手を入れたまま、
歩道の端で待った。
歩道の角を曲がったところで、悠誠が足を止めた。
「……智輝」
呼び方が、少しだけ低い。
悠誠がこんな声をどういう時に出すのかもう知っている。
智輝が顔を上げる前に、悠誠の手が伸びてきて、
肩に置かれた。
「最近さ」
距離が近い。
声は抑えてるのに、熱は隠してない。
「俺、ずっと我慢してた」
智輝の喉が、小さく鳴る。
「……何を」
「全部」
即答だった。
事件のことじゃない。
説明もない。それで分かる言い方。
「連絡来るまで、来てからも。白石さんらと一緒におる間も」
悠誠は、智輝の額に自分の額を軽く当てる。
「触ったらあかんって思ってた」
智輝の手が、無意識に悠誠の服を掴む。
「……なんで」
「俺が先に壊れそうやったから」
一瞬、沈黙。
それから、悠誠が息を吐く。
「せやから、今はええやろ」
許可を求めてるようで、もう決めてる声。
智輝は、答えない。代わりに、一歩近づく。
距離が消える。
悠誠の手が、
智輝の背中に回る。抱き寄せるほど強くはない。
でも、離す気はない。
「……もう、大丈夫?」
耳元で聞かれる。
智輝は、小さく頷く。
「うん」
「ほんまに?」
「悠誠おる」
その言葉だけで良かった。
悠誠が、智輝の顎に指をかける。
上げさせる動きは、ゆっくり。
「じゃあ」
唇が触れる前に、一瞬だけ止まる。
「逃げんなよ」
そのまま、キスをする。
最初は浅く。確認みたいに。
でも離れない。
智輝が息を吸おうとしたところで、
悠誠が角度を変える。
深くなる。長い。丁寧なキス。
智輝の指が、悠誠の背中を掴む。
「……っ」
声にならない音が漏れて、
悠誠がそこで、ようやく離れた。
額が触れる距離。
「ほら」
低い声で言う。
「ちゃんと甘やかす時間」
智輝は、息を整えながら笑う。
「外やで」
「知ってる」
「……帰る?」
「帰らへん」
即答。
今度は、悠誠のほうから手を繋ぐ。
指を絡める。離す気がない繋ぎ方。
「今日のデート、これからやろ」
智輝は、少し照れた顔で答える。
「……遅い時間やけど」
「遅いほうがええ」
悠誠は、楽しそうに言った。
「誰にも邪魔されへん」
二人は、そのまま歩き出す。
事件は終わった。
でも、智輝が一人で耐えてた時間は、
ちゃんと回収される。
夕方。人の流れが、少しだけ緩む時間。
智輝は、壁際のベンチに座っていた。
ノートは開いているが、視線は落ち着いていない。
「……東雲さん」
呼ばれた声は、控えめだった。
聞き慣れてはいない。でも、顔は知っている。
同じ学部で、何度か見かけたことがある。
智輝が顔を上げると、女子学生は一瞬だけ立ち止まった。
距離を測るように、半歩引く。
「今、少し……ええですか」
智輝は、すぐに立ち上がらない。
ベンチの端を、軽く示す。
「どうぞ」
女子学生は、少し迷ってから腰を下ろした。
間には、きちんと一人分の空間が残る。
「……急ぎじゃないんですけど」
前置きが長い。
声は落ち着いているが、指先だけが忙しい。
「誰かに話すほどのことか、分からなくて」
智輝は、頷かない。
続きを待つ。
「最近、ちょっと……変で」
視線が、通路の方へ流れる。
人は多い。普通の夕方。
「知ってる人なんです。同じ学部で」
言い切りだった。
でも、名前は出ない。
「話したことは、ほとんどないです。挨拶するくらいで」
女子学生は、膝の上で手を組み直す。
「でも、向こうは……そう思ってないみたいで」
智輝は、初めて視線を向けた。
「どういう意味?」
「……説明、難しいんですけど」
短い、沈黙。
「前から、私の予定を知ってるみたいな言い方をしてきて」
偶然とも取れる言い方。
でも、軽く流せる調子じゃなかった。
「今日、最後の講義のあと、時間あるやろって言われました」
智輝は、すぐには聞き返さない。
「たまたまかなって思ったんです。
学部、同じですし」
少し間を置いて、続ける。
「でも、私がそのあと空いてるって知ってる言い方で」
「それで」
女子学生は、智輝を見る。
「これ、相談していい話なのか、分からなくなって」
智輝は、すぐには答えなかった。
通路の向こうで、誰かが足を止める。
一瞬だけ。すぐに、人の流れに溶ける。
その視線が、
どこに向いていたのかは、まだ分からない。
智輝は、女子学生の言葉を遮らなかった。
頷きもしない。
ただ、間を置く。
「同じ学部、って言いましたね」
確認みたいな口調。
「はい」
「授業、被ってる?」
「……いえ。多分、そんなに」
智輝は、ノートを閉じる。
書かない。記録しない。
「向こうから声かけられたのは、いつ?」
「新学期の終わり頃です」
少し考えてから、続ける。
「最初は、挨拶だけでした」
「それが変わったのは?」
女子学生は、言葉を探す。
「……言い方、です」
「言い方?」
「知ってる前提、みたいな」
具体的な単語は出ない。
代わりに、例が置かれる。
「“今日も遅いんですね”とか」
「“あの教室、寒いですよね”とか」
偶然で済ませられる範囲。
誰にでも言えそうな言葉。
「それ、間違ってた?」
「……いいえ」
女子学生は、首を振る。
「合ってました」
智輝は、そこで何も言わない。
「でも、私、言ってないんです」
言ってない。
教えてない。
「一回や二回なら、偶然やと思ったと思います」
女子学生は、膝の上で指を組み直す。
「でも、何回か続いて」
「頻度は?」
「週に、一、二回くらい」
多くはない。
でも、途切れない。
「連絡先は?」
「知りません」
即答だった。
「向こうから聞かれたことも?」
「ないです」
智輝は、視線を落とす。
「じゃあ、距離は?」
「……普通、です」
普通、という言葉に重さがない。
「近づいてきたりは?」
「ないです」
「触られた?」
「ないです」
智輝は、質問を続ける。
一つずつ。
短く。評価を挟まず。
「困ったのは、どこ?」
女子学生は、少し考えてから答えた。
「……考え出すと、止まらなくなるところです」
智輝は、そこで初めて顔を上げる。
「何を?」
「これ、気にしていいんかな、って」
正解を探す言い方。
「大げさかな、とか、
私が神経質なだけかな、とか」
智輝は、すぐに否定しない。
「今、困ってる?」
質問は、現在形。
女子学生は、一瞬だけ迷ってから頷いた。
「はい」
それだけだった。
智輝は、ノートを膝に置いたまま言う。
「事実だけでいい」
女子学生は、少し肩の力を抜く。
「じゃあ、今言ったところまで、で」
智輝は、そこで話を止めた。
「それ以上、決めなくていい」
女子学生は、安心したようにも、不安なようにも見えた。
通路の向こうで、誰かが立ち止まり、また動く。
学生会館は、何も変わらない。
この時点では、
誰もまだ、物語の外にいる。
それから、数日後。
学生会館。同じ時間帯。
智輝は、前と同じベンチに座っていた。
「……東雲さん」
声をかけられて、顔を上げる。
この前の女子学生だった。
今日は、立ち止まらない。
そのまま隣に座る。
距離は、前より近い。
「今、大丈夫ですか」
確認は、形式だけだった。
「どうぞ」
智輝がそう言うと、女子学生は小さく息を吐いた。
「来てよかった」
それが、最初の言葉だった。
「……あれから、少し動きがあって」
智輝は、何も言わない。
「昨日、声かけられました」
“声かけ”。
女子学生は、言い直す。
「ちゃんと、です」
智輝の視線が、自然と向く。
「どんな?」
「場所、指定されました」
曖昧じゃない言い方。
「“ここなら落ち着いて話せる”って」
その表現に、女子学生は一瞬だけ眉を寄せる。
「前は、そんなこと言われたことなかったのに」
智輝は、質問を挟む。
「二人きり?」
「……はい」
「断れた?」
「断りました」
即答だった。
「理由は?」
女子学生は、少し迷う。
「約束がある、って」
智輝は、そこで初めて一言。
「誰との?」
「……言ってないです」
女子学生は、視線を落とす。
「でも」
声が低くなる。
「そのあと、言われました」
「何て?」
「“あの人と、最近よく一緒ですよね”って」
名前は出ない。
でも、対象は一人しかいない。
「“前から思ってたんですけど”って」
前から。過去形。
「“ああいう人、やめたほうがいいですよ”」
智輝は、表情を変えない。
女子学生は、言葉を選びながら続ける。
「理由、聞いたら、“信用できない”って」
根拠はない。
でも、評価だけがある。
「それで」
女子学生は、智輝を見る。
「これ、もう……気にしていいやつですよね」
智輝は、すぐに答えなかった。
通路の向こうで、笑い声が上がる。
いつも通りの学生会館。
「前と、違うところは?」
智輝が聞く。
「……私に向けて、何かしようとしてるって分かるところです」
それは、はっきりした言葉だった。
「前は、ただ気持ち悪いだけやったのに」
女子学生は、手を握る。
「今回は、私に向けて言うてきてる感じがして」
智輝は、静かに言う。
「もう一回来たら」
女子学生は、先に頷いた。
「また、来ます」
迷いはなかった。
この時点でも、まだ誰も
“ストーカー”という言葉を使っていない。
でも、
関係を作ろうとする動きだけが、
はっきり残っていた。
女子学生は、少し間を置いてから続けた。
「昨日は、断って終わったと思ってたんです」
智輝は、視線を外さない。
「でも、今日」
女子学生は、言葉を切る。
「帰り道、待たれてました」
女子学生は、そこで言葉を切った。
「偶然、って言われました」
智輝は、何も言わない。
「私も、そうやと思おうとしました」
女子学生は、笑おうとしてやめる。
「でも」
視線が、通路の奥に流れる。
「私が出てくる時間、分かってました」
智輝は、短く聞く。
「声は?」
「……普通でした」
「内容は?」
「“心配してた”って」
女子学生は、眉を寄せる。
「“最近、変な人と一緒にいるから”って」
智輝の中で、言葉が静かに重なる。
「変な人の名前は?」
「出てないです」
それでも、指す先は一つしかない。
「それで」
女子学生は、手を握り直す。
「今日も、言われました」
「何を?」
「“あの人と、あんまり関わらんほうがいい”って、
“あの人、信用できないから”って」
「理由は?」
「“危ないから”って」
智輝は、少しだけ間を置く。
「その人は?」
「……自分のことは、何も言わないです」
自分の立場を語らない。
相手の行動だけを評価する。
「私が、どう思ってるかも」
女子学生は、首を振る。
「聞かれませんでした」
智輝は、静かに言う。
「それで、どうした?」
「帰りました」
即答だった。
「でも」
女子学生は、智輝を見る。
「これ、もう偶然とか、勘違いとかで済ませたらあかん気がして」
智輝は、否定もしない。
「前は」
女子学生は、少しだけ言葉を探す。
「私が気にしすぎなだけやと思えたんです」
「今は?」
「……相手が、私の行動を止めようとしてる」
それは、評価じゃなく、観察だった。
智輝は、ベンチから立ち上がらない。
「次に来たら」
女子学生は、間を置かず答える。
「来ると思います」
根拠は、言わない。
「来たら?」
「また、ここに来ます」
智輝は、そこで初めて頷いた。
「一人で抱えなくていい」
言い切りでも、約束でもない。
「でも」
女子学生は、視線を落とす。
「東雲さんに、迷惑かかりませんか」
智輝は、すぐに答えなかった。
通路を、人が通り過ぎる。
誰も、こちらを見ない。
「今は」
智輝は、短く言う。
「話、続けていいで」
女子学生は、息を吐いた。
そのやり取りを、
誰かが見ていたかどうかは、
この時点では分からない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
女子学生が選んだ相談相手が、
相手の中で位置を持った。
それが、
これまでとの違いだった。
智輝は、そこで一度区切る。
「今、困ってるのは」
女子学生は、少し考える。
「……これが、続く気がすることです」
理由は言わない。予感だけ。
「前は、偶然って言えたんです」
女子学生は、膝の上で手を組む。
「今回は、“狙われてる”感じがして」
智輝は、短く返す。
「分かった」
評価でも、断定でもない。
智輝は、それ以上言わない。
相談する人。相談される人。
その二人が並んだ、その事実だけが、
誰かの中で、意味を持ち始めていた。
それから、二日後。
智輝が学生会館に入ったとき、
空気が少しだけ違っていた。
人は多い。
夕方。講義終わり。
いつもと同じ時間帯。
でも、視線の落ち着かせ方が、ひとつだけ合わない。
智輝は、ポケットからスマホを出す。
画面を見るだけで、一度、指を止める。
——何かあったら、必ず連絡すること。
以前、悠誠に言われた言葉。
約束に近い形で、交わした。
智輝は、迷わず発信した。
二回も鳴らない。
「もしもし」
落ち着いた声。
「今、大丈夫?」
「大丈夫。どうした」
智輝は、歩き出す。
学生会館の外へ出るまで、話さない。
自動ドアが閉まる音。
外の空気が、少し冷たい。
「相談受けた」
前置きはしない。
「内容は?」
「まだ、事件じゃない」
息を吐いた。
「でも、俺の名前が出てる」
電話の向こうの雰囲気が変わった。
「誰に?」
「本人じゃない」
言い切る。
「第三者の話として」
悠誠は、すぐに結論を出さない。
「今、危ない?」
「分からん」
正直に答える。
「だから、連絡した」
沈黙が、少しだけ続く。
「分かった」
悠誠は、低く言う。
「念のためや、明るいうちに帰り。」
命令じゃない。確認でもない。
当たり前の共有。
「今、どこ?」
「学生会館の外」
「帰る?」
「……少しだけ、残る」
悠誠は、短く息を吐く。
「相良に、繋いだほうがええ。」
智輝は、迷わなかった。
「わかった」
悠誠との電話を切ったあと、すぐに蒼に電話をした。
通話が切り替わる。呼び出し音。
「もしもし」
蒼の声は、軽い。
「相良。今、少しええ?」
「ええで。どした」
智輝は、事実だけを並べる。
「相談が一件」
「相手は、同じ学部」
「その子の知ってる人からの接触内容が変わった」
「俺の名前が、向こうで使われてる」
蒼は、途中で口を挟まない。
「白石さんには?」
「まだ」
「せやな」
蒼は、すぐに理解する。
「これは、先に状況だけ押さえるやつや」
蒼は、そう前置きしてから続けた。
「今日、何も起きてへんやろ」
「うん」
「せやから、“されてへん今”の情報が要る」
智輝は、少し考えてから頷く。
「基準を作るってことか」
「そう」
蒼は即答した。
「場所と時間、あと相手の動き」
「白石さんに渡す用で、俺がまとめる」
「動かすのは、向こうや。
東雲は、来たものだけ受け取ったらええ」
通話が切れる。
智輝は、スマホをポケットに戻す。
浅い、息をはいた。
学生会館の明かりが、背後に残る。
何も起きていない。
でも、もう一人で持つ話でもない。
悠誠との約束は、守った。
背中の力が少し抜ける。
その夜。
知らない番号から、メッセージが入っていた。
短い。
──彼女のことで。
それだけだった。
智輝は、画面を伏せる。
誰からかは分からない。
どうやってこの番号を知ったのかも、書かれていない。
ただ、
“聞けば出てくる”距離に置かれたことだけは、はっきりしていた。
蒼に迷わず転送する。
「知らん番号」
「内容は、これだけ」
すぐに返事が来る。
『番号は、人づてやな。学部か、周辺か。今日は放置や。』
智輝は、画面を閉じる。
直後に、今度は電話がかかってきた。
画面を見る。
——非通知。
出ない。
2、3回のコールで、切れる。
気にしすぎ、で片づけられる。
でも、続けて一件。
今度は、メッセージ。
——今日は講義、二限からやろ
短い。疑問符もない。
智輝は、画面を閉じた。
煩わしさにメッセージを消去しかけて思いとどまる。
自分で判断するためじゃない。渡すために残しておく。
何が起こるかわからない、今後のために残しておく。
二限。
教室はいつも通り。周囲も変わらない。
講義が終わるころ、
机の上に伏せた端末が、もう一度震える。
——昨日は、早かったな。
主語がない。でも、時間だけは合っている。
悠誠との約束でいつもより早く帰ったから。
智輝は、指を動かさない。
教室を出る。廊下は混んでいる。
階段を下りたところで、
ポケットの中が、また振動した。
——あの子、迷惑やと思ってるで。
ここで、送り主がほぼ確定する。
智輝は、歩く速度を落とさない。
返信しない。
学生会館に入る前、蒼にだけ、短く送る。
『またメッセージ来た』
返事はすぐだった。
『見せて。触らんで保存』
智輝は、送信後端末をポケットに戻す。
学生会館。いつものベンチ。
女子学生は、いない。
画面が、もう一度だけ光る。
——余計なことは、するな
命令でも、脅しでもない。忠告の形。
智輝は、そこで初めて、深く息を吐いた。
誰かが、自分の生活を
「踏み込んでいいもの」だと判断している。
蒼からの返事が来る。
『保存できた白石さんに回す
今日も動かんでええ』
智輝は短く返す。
『了解』
夕方。人の流れが、自然に途切れない時間帯。
講義後、帰宅するために教室を出る。
女子学生は、階段の手前で足を止めた。
背後から呼ばれる声に、振り向くまでの間が、ほんの一拍だけ長い。
「少し、ええ?」
声は穏やかだった。
距離も、近くない。周囲には人がいる。
振り返ってしまったことを少し後悔しながら、返事をする。
「今は……無理です」
即答だった。
理由を考える前に、言葉が出た。
「急いでるんで」
相手は、すぐには引かなかった。
表情は変えず、声も落とさない。
「そんなに時間、取らせへんよ」
距離は一歩も詰めてこない。
でも、会話を終わらせる気配もない。
女子学生は、視線を逸らした。
人の流れを確認してから、言い直す。
「約束、あるので」
相手は、そこで少しだけ首を傾けた。
「東雲くんと?」
名前が出た瞬間、女子学生の指が強く握られる。
否定も肯定もしないまま、息を整えた。
「関係ないですよね」
声は低かった。
感情は、まだ表に出ていない。
相手は笑わない。
代わりに、諭すような調子になる。
「ああいう人と、あんまり一緒におらんほうがええで」
助言の形。
命令でも、非難でもない。
「信用できひんから」
理由は、それだけだった。
女子学生は、それ以上聞かなかった。
説明を求めても、終わらないと分かっている。
「失礼します」
短く言って、歩き出す。振り返らない。走らない。
背中に、視線が残る。でも、追ってはこない。
学生会館の中は、いつも通りだった。
立ち話をする学生。通り過ぎる人。
誰も、気に留めない。
女子学生は、壁際のベンチを見つける。
そこに、智輝が座っていた。
近づくまでに、少しだけ迷う。
でも、足は止まらなかった。
「……東雲さん」
智輝が顔を上げる。
「今、大丈夫ですか」
確認は、形式だけだった。
「どうぞ」
女子学生は、隣に座らない。
一人分の距離を空けて立ったまま、言う。
「さっき、声かけられました」
智輝は、頷かない。
続きを促すだけの沈黙を置く。
「断りました」
それだけを、まず言う。
「でも」
女子学生は、一度だけ言葉を切る。
「名前、言ってました。」
智輝の視線が、わずかに動く。
「俺の?」
女子学生は、短く頷いた。
「忠告、みたいな言い方でした」
評価は足さない。感想も言わない。
「それで……」
一瞬、視線が落ちる。
「ここに、来ました」
理由は、それだけで足りていた。
智輝は、ベンチの端を示す。
「座って」
女子学生は、ゆっくり腰を下ろす。
肩の力が、少しだけ抜ける。
学生会館は、何も変わらない。
人の流れも、空気も。
ただ一つ、
拒否をしても終わらなかった、という事実だけが、
二人の間に残っていた。
学生会館の外。
人の流れから半歩外れた場所。
白石は、壁際に立っていた。
蒼はそのすぐ隣。
蒼から逐一、報告は受けている。
「――完全に、ストーカーですね」
蒼が先に言った。確認でも推測でもない。
白石は頷いた。もう結論は出ている。
「偶然を装って予定を当てる第三者を下げて、行動を縛る
人目のある場所を選ぶ」
白石は淡々と並べる。
「典型や」
蒼は、視線を前に置いたまま言う。
「相手に怒らせたくないって思わせてる。
やのに、逃げ道は全部塞いでる」
言い切りだった。
白石は蒼を見る。
短い視線。意図は共有されている。
「被害者はもう“自分が狙われてる”と分かってる」
蒼の声が低くなる。
「分かってるのに、逃げられへんやつや」
白石は、そこで一歩だけ蒼に近づいた。
触れない。でも、位置は完全に揃う。
「東雲を使ってるのが厄介やな」
「うん」
蒼は即答した。
「そいつ頭の中のストーリーでは、女の子の側にいるのは自分だけや。
せやから余計に、相手は引かへん」
白石は視線を落とす。
「東雲は、もう“邪魔な存在”に分類されてる」
蒼の指が、軽く握られる。
「どう出てくるかな?」
感情は滲むが、声は荒れない。
「被害者を縛るために、
信用できそうな人間を切り離す」
白石は言った。
「ストーカーの常套手段や」
蒼は短く息を吐く。
「ここからは、東雲にも実害くるな」
疑問じゃない。
白石は、否定しない。
「来る」
一拍も置かない断定。
「順番や。
被害者を孤立させるための“次”や」
蒼は、白石のほうを見る。
「止める?」
白石は即答しない。代わりに、静かに言う。
「囲う」
蒼は、それで理解した。
「被害者も、東雲も、外に出さへん」
白石は頷く。
「相手だけ、動かす」
二人の距離は、最初から変わらない。
同じ判断をしているから、離れる必要がない。
学生会館では、今日も人が行き交う。
誰も、二人を気に留めない。
人の流れが途切れた瞬間だった。
背後から、声が落ちてくる。
「……東雲くん」
呼び方だけは、丁寧だった。
振り向く前に、距離が詰まる気配がある。
逃げ道を塞ぐ位置取り。
「驚かせてすみません。
でも、ちょっとだけ、どうしても伝えといたほうがいいと思って」
智輝は、歩みを止めただけで、返事はしない。
「誤解されてるみたいなんで」
勝手に前提を置く声。
「きみ、最近、あの子とよく話してますよね」
確認じゃない。
知っている、という言い方。
「最初は、偶然かなと思ったんです。
相談、って言葉も聞こえましたし」
笑う。
理由を与えてやっている、という顔。
「でも、あの子、困ってるでしょう。
前から。分かる人には、分かるんです」
智輝は視線を外さない。
「だから、僕が見てた」
主語を誇らしげに言う。
「放っておけなかった。
ああいう子は、変な人に目をつけられやすいから」
少しの間があり、声が、少しだけ低くなる。
「正直に言うと」
溜める。
「あなたが割り込んできたの、正直、迷惑でした」
言葉は柔らかいが、内容だけが、鋭い。
「順番って、あるでしょう。
関係には」
当然の理屈のように。
「僕は、前から気にかけてた。
あなたは、後から来た」
智輝が何も言わないのを、了承と取る。
「だから、線は引いたほうがいいと思うんです」
“引く”のは自分だという前提。
「彼女、今、弱ってるから。
優しい人に頼りたくなる時期なんです」
息を吐く。
「そういう時に、
男が何人も出入りすると、混乱する」
一歩、近づく。
「彼女は、僕のだから」
はっきりと言った。
「僕の、守る範囲の人だから」
その言い方だけが、妙に確信に満ちていた。
「勘違いしないでほしい。
あなたを責めてるわけじゃない」
首を傾げる。
智輝は、そこで初めて口を開いた。
「それ、誰が決めた?」
低い声。
相手は一瞬だけ間を置く。
でも、すぐに笑った。
「決める必要、あります?」
答えになっていない。
「分かってる人間が、分かってればいい」
背中を向ける前に、最後の一言。
「余計なこと、しないでください。
彼女のためですから」
人の流れに戻る。
何事もなかった顔で。
智輝は、その場に残る。
胸の奥に、嫌な重さだけが残る。
――これは、忠告じゃない。
――脅しでもない。
“所有の宣言”だった。
智輝がその場を離れたあとも、
空気だけが、変な形で残っていた。
翌日。
講義の前。
教室に入ると、視線が一つ、遅れて外れる。
偶然のタイミング。
でも、同じことが二度続く。
席に着く。
前の列の学生が、振り返りかけて、やめる。
代わりに、隣の子と小声で何か言う。
内容は聞こえない。
でも、名前だけが一度、落ちる。
「……東雲、やろ」
智輝はノートを開く。
反応しない。
休み時間。
女子学生が、教室の入口で立ち止まる。
一瞬、智輝の方を見る。近づきかけて、やめる。
代わりに、別の友人の方へ向かう。
距離が、ひとつ増える。
学内のカフェ。
列に並んでいると、背後で声がする。
「最近、あの子と一緒やった人?」
誰かが、曖昧に笑う。
「なんか、揉めてるらしいで」
らしい。主語はない。
でも、矢印だけははっきりしている。
午後。
学生会館。
ベンチは空いている。
いつもなら、誰かが座る時間帯。
今日は、誰も来ない。
代わりに、少し離れた場所で、立ち話が始まる。
視線だけが、こちらをかすめる。
——余計なこと、しないでください。
昨日の声が、重なる。
智輝は立ち上がる。
歩き出すと、
向こうも、自然に話題を変える。
追ってこない。
でも、囲いはできている。
夕方。
女子学生から、短いメッセージが入る。
「今日は……行かないほうが、いいですか」
質問の形。
でも、すでに答えは決められている文面。
智輝は、すぐに返さない。
画面を伏せる。
“彼女のため”
“心配しているだけ”
“信用できない人”
言葉だけが、
本人の知らないところで、独り歩きしている。
それは派手な噂じゃない。
否定もしにくい。
説明するほど、面倒な人間に見える。
だから厄介だ。
智輝のポケットの中で、スマホが震える。
蒼からの着信。
出る前に、もう一度、周囲を見る。
誰も敵意を向けていない。
誰も味方もしない。
立ち位置だけが、少しずつ、ずらされていく。
智輝は、通話を取った。
「相良」
声は、いつも通り。
「……始まってる」
悠誠は、参考書を閉じた。
ページの途中だった。栞も挟まない。
机の上には、開いたままのノート。
書きかけの文字。集中していた形跡だけが残っている。
スマホが伏せて置かれていた。
画面を見なくても、通知の内容は分かっている。
——学内で名前使われてる
——女子学生が一人、はっきり被害自覚
——忠告の形で接触あり
——孤立させに来てる
蒼からの要点。
感情は、どこにも挟まれていない。
悠誠は椅子に深く座り直した。
勉強に戻れる姿勢じゃない。
ペンを取る。ノートの余白に、短く書く。
「智輝」
名前だけ。
整理のためでも、メモでもない。
時間を見る。
本来なら、ここからが一番集中できる時間帯だった。
でも、今日は違う。
スマホを手に取る。
発信履歴は、まだ新しい。
一度、ためらってから、もう一度画面を見る。
ためらう理由はない。必要なことだから、自分の時間を削る。
呼び出し音。二回目で、繋がった。
「もしもし」
智輝の声は、いつも通りだった。
だから余計に、分かる。
「今、話せる?」
質問の形。
でも、答えは決まっている。
「うん」
「もう、俺は知ってる」
説明はしない。誰から聞いたかも言わない。
智輝の呼吸が、少しだけ変わる。
「……相良?」
「相良」
「明日から一緒に帰ろう」
命令ではないが、決定事項として伝える。
「勉強は?」
智輝が聞く。
悠誠は、視線を机に落とす。
閉じたままの参考書。
「後で取り戻せる」
即答だった。
「今は、そっち優先や」
電話の向こうで、智輝が小さく息を吐く。
「ごめん」
反射的な言葉。
悠誠は、すぐに被せる。
「謝るとこちゃう」
声は低い。でも、硬くはない。
「俺が決めた」
沈黙。
智輝は、何も言わない。
「毎日、時間合わせて帰ろう。久しぶりやから楽しみや。」
悠誠は切り替えが早い。
「うん。俺も」
「それと」
少しだけ、声を落とす。
「何言われても、受け取らんでええ」
説明しない。理由も付けない。
通話が切れた。
学生会館の奥。
人の少ない時間帯。
白石は、椅子に深く座っていた。
背もたれには寄りかからない。
机の上には、紙も端末もない。
蒼が向かいに立つ。
「相手、誰かは分かってる」
白石は頷いた。
「学部も、だいたいの立場もな」
蒼は、それ以上聞かない。
白石が続きを出すのを待つ。
「行動は三つ」
白石は指を立てない。
淡々と、言葉だけを置く。
「一つ目。
女子学生への接触。
本人の意思を無視して、予定や交友関係に踏み込んでる」
蒼が短く息を吐く。
「二つ目。
第三者に対する評価操作。
『危ない』『信用できない』
これは忠告やなくて、印象操作や」
白石は視線を落とさない。
「三つ目。
東雲の名前を使って、相手を囲い込もうとした」
蒼は、そこで一度頷いた。
「全部、学内ハラスメントとして成立しますね」
「成立する」
白石は即答した。
「しかも、継続性がある。偶然では片づけられへん」
蒼は腕を組む。
「で、具体的にはどうします?」
白石は、ようやく視線を外した。
窓の外。学生が行き交う、いつもの風景。
「本人を叩かへん」
「……ほう」
「叩いたら、自分は被害者やと思い込む。
妄想が補強されるだけや」
白石は静かに続ける。
「やるのは、環境を変えること」
蒼は、理解した顔になる。
「囲いを外す、ってことか」
「そう」
白石は、短く言った。
「窓口を用意する。
学部の担当、学生相談、ハラスメント窓口」
蒼が眉を上げる。
「一気に行きますね」
「一気に行くから効く」
白石は言い切った。
「相手は、“自分の中では正しい”
けど“表に出たらヤバい”その線を分かってる」
蒼は、少しだけ笑った。
「ストーカーあるあるや。」
「せやから」
白石は、視線を戻す。
「名前を出す準備をするけどまだ出さへん。
でも、出せる状態を作る」
蒼は、低く言う。
「相手は気づきますね」
「気づく」
白石は迷わない。
「自分のやってることが“個人の恋愛”やなく
“記録される行為”やって」
一拍、間が落ちる。
「その時点で、動きは止まる」
蒼は、頷いた。
「被害者側は?」
白石は、少しだけ声を落とす。
「女子学生には、もう一人で対応せんでいいって伝える。
連絡は全部、窓口を通す」
「東雲は?」
「受け止め役から外す」
白石は、はっきり言った。
「もう巻き込ませへん。名前も、使わせへん」
蒼は、深く息を吐いた。
「これで、終わる」
「終わる」
白石は、断定した。
「派手なことは起きへん。でも、相手は二度と動かれへん」
蒼は、白石の隣に腰を下ろす。
距離が、自然に近い。
「流石ですね」
「普通や」
白石は、そう返した。
「構造を見ただけや」
その後、
学内で誰かが騒ぐことはなかった。
噂は広がらない。名前も出ない。
ただ、
女子学生への接触は止まり、
智輝の周囲からも、不快な視線は消えた。
事件は、静かに終わった。
智輝は、ポケットに手を入れたまま、
歩道の端で待った。
歩道の角を曲がったところで、悠誠が足を止めた。
「……智輝」
呼び方が、少しだけ低い。
悠誠がこんな声をどういう時に出すのかもう知っている。
智輝が顔を上げる前に、悠誠の手が伸びてきて、
肩に置かれた。
「最近さ」
距離が近い。
声は抑えてるのに、熱は隠してない。
「俺、ずっと我慢してた」
智輝の喉が、小さく鳴る。
「……何を」
「全部」
即答だった。
事件のことじゃない。
説明もない。それで分かる言い方。
「連絡来るまで、来てからも。白石さんらと一緒におる間も」
悠誠は、智輝の額に自分の額を軽く当てる。
「触ったらあかんって思ってた」
智輝の手が、無意識に悠誠の服を掴む。
「……なんで」
「俺が先に壊れそうやったから」
一瞬、沈黙。
それから、悠誠が息を吐く。
「せやから、今はええやろ」
許可を求めてるようで、もう決めてる声。
智輝は、答えない。代わりに、一歩近づく。
距離が消える。
悠誠の手が、
智輝の背中に回る。抱き寄せるほど強くはない。
でも、離す気はない。
「……もう、大丈夫?」
耳元で聞かれる。
智輝は、小さく頷く。
「うん」
「ほんまに?」
「悠誠おる」
その言葉だけで良かった。
悠誠が、智輝の顎に指をかける。
上げさせる動きは、ゆっくり。
「じゃあ」
唇が触れる前に、一瞬だけ止まる。
「逃げんなよ」
そのまま、キスをする。
最初は浅く。確認みたいに。
でも離れない。
智輝が息を吸おうとしたところで、
悠誠が角度を変える。
深くなる。長い。丁寧なキス。
智輝の指が、悠誠の背中を掴む。
「……っ」
声にならない音が漏れて、
悠誠がそこで、ようやく離れた。
額が触れる距離。
「ほら」
低い声で言う。
「ちゃんと甘やかす時間」
智輝は、息を整えながら笑う。
「外やで」
「知ってる」
「……帰る?」
「帰らへん」
即答。
今度は、悠誠のほうから手を繋ぐ。
指を絡める。離す気がない繋ぎ方。
「今日のデート、これからやろ」
智輝は、少し照れた顔で答える。
「……遅い時間やけど」
「遅いほうがええ」
悠誠は、楽しそうに言った。
「誰にも邪魔されへん」
二人は、そのまま歩き出す。
事件は終わった。
でも、智輝が一人で耐えてた時間は、
ちゃんと回収される。
