女子学生は、何度か周囲を見回してから、視線を智輝に戻した。
(……この人やったよな)
学生会館で、たまに見かける。
心理学部で、話を聞く人。
そういう噂を、前に聞いたことがあった。
何かしてくれるわけじゃない。
答えをくれるわけでもない。
でも、
「話したら、少し楽になる」
そう言われていた。
学生会館の一階は、夕方になると人の流れが速くなる。
講義終わりの学生が行き交い、立ち止まる人は少ない。
智輝は、壁際のベンチに腰を下ろしていた。
ノートは開いているが、視線は文字を追っていない。
その前を、何人かが通り過ぎる。
足音、話し声、エレベーターの到着音。
いつもと変わらない時間帯。
「……あの」
声は小さかった。
聞こえた気がして、もう一度だけ耳を澄ます。
振り返ると、女子学生が一人、少し離れた位置に立っていた。
鞄を胸の前で抱えるように持っている。
智輝と目が合うと、女子学生は一瞬だけ迷った顔をした。
それから、意を決めたように近づいてくる。
「今、少し……ええですか」
距離は詰めすぎない。
逃げられる位置を残したまま、立ち止まる。
智輝はすぐに立ち上がらず、軽く頷いた。
「大丈夫やで」
女子学生は、ほっと息を吐いてから、智輝の隣に腰を下ろした。
間には、まだ一人分の空間がある。
「……変な話かもしれへんねんけど」
言葉が続かない。
視線が、行き交う人の方へ流れる。
智輝は視線を上げず、次の言葉を待った。
「学生会館で、最近、ちょっと……」
女子学生は、声を落とす。
「見られてる気がして」
智輝は相槌を打たない。
続きを待つ。
「最初は、気のせいやと思ってた。
でも、何回か……同じ場所で」
膝の上で、指が絡まる。
「スマホ向けられてる、ような。でも、音もせえへんし、一瞬やし」
言葉が途切れ、また続けられる。
「勘違いやったらって思うと、誰にも言えなくて」
智輝は、静かに問いを挟む。
「場所は?」
「……ここで。自販機の横と、掲示板の前」
人が多く、足を止めない通路。
安全だと思われている場所。
「時間は」
「夕方から夜。講義終わりくらい」
女子学生は、少し迷ってから続けた。
「私だけやない気もしてて、同じような話、聞いたこともあって……」
智輝は、その言葉を拾う。
「誰から?」
「はっきりじゃない、噂みたいな感じで」
少しだけ、言いにくそうに付け足す。
「……話、聞いてもらうだけで、ちょっと楽になる人がいる、って」
智輝は、そこで初めて女子学生の方を見る。
「それで、来た」
女子学生は、小さく頷いた。
「何かしてくれるとか、解決してくれるとか
そういうのじゃなくて。一回だけ言いたかっただけ。」
智輝は、立ち上がる。
「順番に聞かせて。いつ、どこで、どう見えたか」
女子学生は、深く息を吸ってから頷いた。
通路の向こうで、人の流れが変わる。
いつも通りの学生会館。
その中で、同じ言い方をする人間が、増えつつある。
智輝は思う。
これは、一人の話では終わらない。
学生会館の奥は、夕方になると静かになる。
人の流れはあるのに、長く留まる人は少ない。
智輝は、同じベンチに座っていた。
ノートは閉じて、スマホを伏せたまま、
智輝は立ち上がらなかった。
「……東雲さん、ですよね」
声は低めで、はっきりしていた。
振り返ると、今度は男子学生が立っている。
年は近そうだが、緊張の仕方が違う。
「少し、いいですか」
智輝は頷き、ベンチの端を示した。
「どうぞ」
男子学生は腰を下ろすが、背もたれには寄りかからない。
視線は正面。逃げ場を確認するみたいに。
「変な噂、聞いてると思うんですけど」
智輝は口を挟まず、話の続きを促した。
「学生会館で。変なこと、起きてるって」
言い切らない言い方。
でも、迷いは少ない。
「俺、写真撮られました。……多分」
智輝は、相槌を打たない。
「音はしませんでした。気づいたら、もう向こう行ってて」
男子学生は、拳を軽く握る。
「場所は、自販機の横です。掲示板の前も、通ったことあります」
智輝の中で、言葉が重なる。
同じ場所。同じ言い回し。
「時間は」
「夕方です。講義終わり」
一拍。
「俺、男だし、気のせいって言われると思って」
声が少しだけ、硬くなる。
「でも、同じような話、聞いたことあって」
智輝は、そこで顔を上げた。
「誰から?」
「直接じゃないです。友達の友達、みたいな」
男子学生は少し笑う。
「で、名前出たんです。……東雲さんの」
智輝は、何も言わない。
「話を聞いてもらうだけで、変に広げられないって」
同じ噂。同じ理由。
「俺も。それだけでいいです」
智輝は、ゆっくり頷いた。
「順番に聞く。それだけ」
男子学生は、肩の力を抜いた。
通路を人が通り過ぎる。誰も、足を止めない。
智輝は思う。
言い方が似ている。選んだ場所も、時間も。
これは、偶然では片づけられない。
でも、
まだ誰かに繋ぐ段階じゃない。
男子学生は帰って行った。
その少しあとだった。
「……やっぱりおった」
軽い声。
振り向くと、相良蒼が立っている。
鞄を肩にかけたまま、いつもの調子。
「東雲、ちょっといい?」
智輝は立ち上がらない。
「ええよ」
蒼は、少し間を取ってから続ける。
「変な聞き方するけど、最近、学生会館で話聞いた?」
智輝は、一瞬だけ考える。
「……何で?」
蒼は肩をすくめた。
「被害者の了承もらってる。名前出してええって言われてる」
その言い方は、軽いけど雑じゃない。
「写真の話。撮られたかもしれへん、ってやつ」
智輝は、否定しなかった。
蒼は、それを見て小さく息を吐く。
「やっぱりな」
智輝は、ようやく蒼を見る。
「白石さんも?」
「おる。別ルートやけどな」
蒼は、少しだけ真面目な顔になる。
「東雲。情報、突き合わせたい」
命令でも、依頼でもない。
確認の声。智輝は一拍置いて、相手の出方を待った。
自分は、まだ一人でやっている。その感覚は、変わっていない。
でも。
「……場所と時間だけなら」
蒼は、にっと笑った。
「それで十分」
ここでようやく、線が並び始める。
学生会館の奥は、いつも通りだった。
人はいる。声もある。
でも、腰を落ち着ける場所として使っているのは、限られた顔ぶれだけだ。
智輝はベンチに座ったまま、スマホを伏せている。
「……また、学生会館か」
背後から、低い声が落ちる。
白石だった。蒼も少し離れたところにいる。
智輝は振り返らない。
「ここが多いから」
それ以上は言わず、沈黙を残した。
白石も、それ以上聞かない。
蒼が口を開く。
「被害者、別口で来てる。了承もらってるやつ」
白石は頷くだけだ。
「場所と時間は?」
智輝が答える前に、スマホが震えた。
画面を見る。
――悠誠。
智輝は、即座に立ち上がった。
「来る」
それだけ言って、歩き出す。
白石も蒼も、止めない。
数分もしないうちに、通路の向こうから悠誠が現れる。
少し早足。
目が合った瞬間、智輝の表情が変わる。
「悠誠」
悠誠は、智輝の前で足を止める。
「おったな」
智輝は、自然に距離を詰めた。
肩が触れる位置。ためらいはない。
「来てくれてんやろ」
「当たり前や」
悠誠はそう言って、智輝を見る。
それから、少しだけ視線をずらす。蒼に気づいて、軽く会釈。
「相良」
「久しぶり」
蒼は軽く手を上げる。
「ゼミ違うと、ほんま会わんな」
白石の存在に、悠誠は一拍置く。
「……初めまして」
白石が応じる。
「白石です」
それだけ。
それ以上、会話は広がらない。
智輝は視線を落としたまま、言葉を返さなかった。
悠誠に向いたままだ。
「今、少し時間ある?」
「あるから来た」
智輝は頷く。
「じゃあ、座る?」
悠誠は一瞬だけ周囲を見る。
それから、首を振った。
「歩こ」
選択は、迷いなく智輝側だった。
「少し離れる」
智輝が、白石たちに向かって言う。
報告でも、断りでもない。
事実の共有。
白石は短く返す。
「分かった」
蒼も何も言わない。
智輝は、悠誠と並んで歩き出す。
学生会館の奥から、少しだけ外れる。
「……忙しそうやな」
智輝が言う。
「いつもやろ。でも、今日は来たかった」
智輝は、それを聞いて、何も言わなかった。
代わりに、歩く速度を落とす。
「嬉しい」
それだけ言う。
悠誠は、一瞬だけ息を吐いた。
「それでええ」
二人は並んで歩く。事件の話は出ない。
今は、必要ない。
少し離れた場所で、白石が蒼に言う。
「……今は、待ちやな」
「やな」
学生会館の空気は、変わらない。
でも、智輝の優先順位だけは、はっきりしていた。
悠誠と別れて戻ると、白石は立ったまま、
自販機の並ぶ壁を背にしていた。
缶が落ちる音と、床に転がる硬い響きが一瞬だけ会話を切る。
蒼は掲示板の前に立っている。
掲示物の端が、空調の風でわずかに揺れていた。
「ここ」
白石が言った。
指で示したのは、掲示板と自販機の間の細い通路。
「人は通る。でも、立ち止まらへん」
智輝は、その位置に立つ。
掲示板を見るふりをすると、自然に足が止まる。
視線を下げれば、自販機のガラスに周囲が映る。
「確かに。顔、上げんでも周りが見える」
白石は頷いた。
「夕方から夜。講義終わり。人が多い時間帯やけど、流れは速い」
蒼が言う。
「スマホ触ってるやつも多いしな。
下向いて歩くのが普通や」
白石は、自分のスマホをポケットから出し、
音を立てずに画面を操作する。
「シャッター音、消せる。フラッシュも切れる」
画面を伏せたまま続ける。
「音がないのは、技術やない。
知ってるやつの動きや」
智輝は、被害者の言葉を思い出す。
「一瞬、向けられた気がしただけ」
でも、同じ場所で何回か」
白石は通路の床を見る。
人の足跡が重なり、模様が消えている。
「同じ場所を使う理由は一つやない。
でも、同じ時間帯を選ぶ理由は一つや」
蒼が首を傾げる。
「見つかりにくい?」
「それもある」
白石は否定しない。
「けど一番は——」
白石は、掲示板の端に貼られた
「落とし物のお知らせ」に視線を移す。
「被害が被害として認識されへん」
智輝は、静かに言葉を足す。
「全員、“気のせいかもしれへん”って言う」
白石は、はっきり頷いた。
「確信を持たせない。だから誰も動かん
警察も、大学も」
蒼が、低く息を吐く。
「……続くわけやな」
白石は、通路を一度見回した。
「続いてる。今も」
智輝は肯定も否定もせず、黙って聞いた。
この場所に立ってみて, 被害者の言い方が、急に具体的になる。
これは、
“誰かが選んだ場所”だ。
学生会館の外れ、窓際の席。
夕方の光が斜めに差し、床に長い影ができている。
智輝の前に座った女子学生は、紙コップを両手で包んでいた。
中身はまだ熱い。指先が逃げ場を探すみたいに、縁をなぞる。
「……最初は、掲示板の前でした」
智輝は小さく頷き、続きを待った。
「ポスター見てたんで、足、止めてて」
言い方は落ち着いている。
でも、視線は時々、通路の方へ流れる。
「スマホは……触ってなかった、と思います」
“と思います”。
智輝は、その言葉をそのまま受け取る。
「二回目は?」
「自販機の横です。小銭、探してて」
紙コップが、かすかに鳴る。
「同じ人やと思いました?」
「……分からないです」
少し間があく。
「背、低かった気もするし、でも、前はもう少し……」
言葉が、途切れる。
「服は?覚えてないです」
即答。
でも、次の瞬間、付け足す。
「黒っぽかった、ような」
智輝は問いを挟まず、相手に任せた。
順番を変える。
「時間は?」
「どっちも、講義終わりです。でも……」
女子学生は、少し考える。
「一回目は、明るくて、二回目は、もう暗かった」
同じ時間帯。でも、光の条件が違う。
「スマホ、どっちの手でした?」
女子学生は、一瞬だけ戸惑う。
「……右。たぶん」
「前も?」
「……前は、分からない」
智輝は、そこで紙コップに目を落とす。
「音は?」
「しなかったです。でも」
女子学生は、声を落とす。
「一回目は、近かった気がして、二回目は、少し遠い」
距離の感覚が、揺れている。
「近い、って?」
「……肩、触れそうで」
「遠い、って?」
「……人一人、挟んだくらい」
智輝は、静かに言う。
「位置が、同じじゃない」
女子学生は、はっとして顔を上げる。
「……はい」
「でも、場所は同じって言った」
「……はい」
矛盾じゃない。条件が違うだけだ。
少し遅れて、男子学生の話も聞く。
「自販機の前でした。一回だけです」
「距離は?」
「……近かったです」
「音は?」
「しなかった」
「でも」
男子学生は、眉を寄せる。
「一瞬、画面が光った気がして」
フラッシュじゃない。反射でもない。
「角度、覚えてます?」
「……下から」
智輝は、そこで顔を上げる。
下から。
女子学生は、上から向けられた気がしたと言っていた。
同じ場所。
同じ時間帯。
同じ“音がしない”。
でも——
距離が違う。角度が違う。
明るさの条件が違う。手が違うかもしれない。
智輝は、二人の言葉を並べる。
「同じ人、かどうかは、まだ分からない」
二人とも、頷く。
「でも、同じ“やり方”ではある」
それだけ言って、智輝はメモを閉じた。
違和感は、ここにある。
場所は固定。条件は可変。
誰かが、状況に合わせて立ち位置を変えている。
次に繋ぐ言葉は、もう決まっていた。
智輝は、二人の証言を書き分けたメモを白石の前に置いた。
紙は折らず、そのまま滑らせる。
白石は覗き込まない。
立ったまま、視線だけを落とす。
「距離が違う。角度も違う」
蒼が、すぐに口を挟む。
「同一犯ちゃう可能性?」
白石は首を振らない。肯定もしない。
「やり方が同じ」
智輝が言う。
「音を消す。一瞬で終わらせる
被害者に確信を持たせない」
白石は、メモの一行を指でなぞる。
「上からと、下から」
蒼が眉を上げる。
「場所、同じなんやろ?自販機と掲示板」
「同じ場所でも」
白石が言う。
「立てる位置は、いくつもある」
白石は、実際に通路へ出た。
掲示板の前で足を止め、半歩ずれる。
さらに一歩、内側に入る。
「ここ、掲示板を見る人間の後ろ。ここは、近い」
次に、自販機の前へ移る。
並んでいる人の横、少し引いた位置。
「ここは、遠い。でも、視界は同じ」
蒼が、通路を見回す。
「人の流れ、止まらんな。誰が立ってても、不自然ちゃう」
白石は頷く。
「だから、角度が変わる。距離も変わる
同じ人間が、条件に合わせて動いてる」
智輝は、被害者の言葉を思い出す。
「“同じ人か分からない”って言い方、全員、してる」
白石は、即座に返す。
「分からせないためや、
同一犯やと確信されたら、話が変わる」
蒼が言う。
「警察案件になる」
「そう」
白石は短く答える。
「今は、全員、“気のせいかもしれへん”で止まってる」
智輝が、静かに足す。
「怖いのは、撮られたことより、分からないこと」
白石は、一瞬だけ智輝を見る。
「被害者の言葉やな」
「うん」
白石は通路をもう一度見渡した。
「角度を変えられる。距離を変えられる。時間帯を選べる」
蒼が、考え込む。
「……固定の場所、固定の時間。
でも、立ち位置は固定してへん」
白石は、そこで初めて断定する。
「この場所に慣れてる人間や」
蒼が即座に反応する。
「学生?職員?」
白石は首を振る。
「まだ絞り切れへん。でも——」
白石は掲示板の端を指で叩く。
「毎日、ここを通る。何度も。立ち止まる理由がある」
智輝は、メモを見返す。
「自販機。掲示板」
「そう」
白石は言った。
「目的がある場所や」
蒼が、口の端を上げる。
「偶然ちゃうな」
白石は、それ以上言わない。犯人像の輪郭だけが、残る。
学内の人間。学生会館を日常的に使う。
人の流れを把握している。被害が表に出ないラインを知っている。
智輝は、そこで言った。
「……次、来る人、多分、同じ言い方する」
白石は、短く頷いた。
「やろな」
ここで初めて、
事件は「起きている」から「続いている」に変わった。
学生会館の掲示板前で、白石は立ち止まった。
貼られた紙を一枚ずつ、視線で追っていく。
指で触れはしない。順番だけを確認している。
「ここに立つ理由は限られる」
独り言に近い声だった。
張り替え、確認、写真、管理。
どれも成立はするが、毎日続くものではない。
蒼が横から言う。
「学生でも職員でも、どれも当てはまります」
白石は視線を外さずに答えた。
「“続く”のが違う」
掲示物の中ほど、講義変更の紙で視線が止まる。
張り替えは不定期だ。写真は目的がいる。
管理は担当が限られる。
残るのは、確認。しかも毎日。
「ここを見る必要がある人間だけや」
白石は、掲示板の端を見た。
重なった紙の影で、文字が半分隠れている。
「時間割。教室変更。講義の中止」
蒼が、ようやく理解した顔をする。
「……毎日ここ通るやつ」
「通るだけやない」
白石は言葉を切る。
「立ち止まる」
智輝は、少し離れた位置からその背中を見ていた。
被害者の言葉が、頭の中で繋がる。
——掲示板を見ていた
——足を止めていた
——スマホは触っていなかった
「被害者も、同じ理由で立ってる」
智輝の声は低かった。
「“見てても不自然じゃない場所”やから、ここなら、人に声かけても変じゃない」
白石は、そこで初めて智輝を見る。
「相談の噂」
「はい」
智輝は頷く。
「この場所やから成立してる」
白石は、掲示板から一歩引いた。
「犯人も、同じ理由で立ってる」
蒼が口を挟む。
「被害者と同じ動き?」
「同じや」
白石は即答した。
「だから紛れる」
掲示板を見る側の人間。
毎日確認が必要で、立ち止まる理由がある。
スマホを持っていても不自然じゃない。
「使ってる側や」
白石はそう言って、通路を見渡した。
「掲示板を“使う人間”の中にいる」
蒼はそれ以上、何も言わなかった。
智輝は、被害者の顔を思い出す。
ここなら、話してもいいと思えた理由。
安心できる場所だと、無意識に判断した理由。
同じ理由で、犯人もここを選んでいる。
掲示板から離れたあと、白石は学生会館の通路を一度だけ往復した。
歩幅は一定。立ち止まる位置も変えない。
自販機の前。掲示板の端。人の流れが一瞬だけ詰まる地点。
「ここやな」
声は低かった。
蒼が視線を巡らせる。
「掲示板使う人間、って言うても結構おるで。
職員、サークル、ゼミ……」
白石は否定しない。
「せやから、もう一段絞る」
通路の壁に貼られた掲示の下段を指で示す。
端の方、文字が細かく、更新頻度の高い紙。
「ここを毎日確認する人間。しかも、時間帯が固定」
蒼が言う。
「講義関係や」
「学生や」
白石は即答した。
「職員は、まとめて確認できる。学生は、その都度見る」
智輝が口を挟む。
「被害者の話。全員、“講義終わり”でした」
白石は頷く。
「昼休みは起きてへん。朝もない」
蒼が腕を組む。
「夕方から夜。講義終わりに、必ずここ通る学生」
白石は続ける。
「時間割変更が関係ある。ゼミ。演習。人数少なめ」
通路の奥、ゼミ室の並ぶ方向に目を向ける。
「毎日確認する必要がある。
でも、張り替え担当じゃない」
蒼が言う。
「受講者側」
「そう」
白石は足を止めた。
「受ける側。追われてる側」
智輝は、被害者の声を思い出す。
——忙しかった
——急いでた
——止まるつもりはなかった
「焦ってるときほど」
智輝が言う。
「足、止める場所を選ぶ」
白石は一度だけ智輝を見る。
「安心できる場所やからな」
蒼が息を吐く。
「被害者も、犯人も」
「同じ理由で、ここ使ってる」
白石は否定しない。
「だから、気づかれへん」
一拍置いて、白石は言った。
「次は、掲示板のどの情報を見てるか。
そこが一致したら、かなり絞れる」
蒼が頷く。
「ゼミ名か。教室番号か」
白石は答えなかった。
代わりに、掲示板の一枚をスマホで撮る。
音はしない。
「今日から、ここ張る」
それだけ言って、白石は歩き出した。
智輝は、その背中を見ながら考える。
被害者が声をかけた理由。ここなら、話してもいいと思えた理由。
それは、
**“見られても大丈夫だと思える場所”**だったからだ。
同じ判断をした人間が、もう一人いる。
事件は、もう偶然じゃない。
掲示板の前で張る、と白石が決めてから三日。
学生会館の動きは変わらない。
講義終わり、人が流れ、自販機の前で足が止まり、また動く。
白石は、掲示板の端から一歩引いた位置に立っていた。
スマホは胸の高さ。画面は伏せている。
蒼は少し離れたソファに座り、視線だけを通路に向けている。
声はかけない。人の流れを数えている。
智輝は、掲示板の反対側。
立ち止まる人間の顔を見る位置だ。
五人、七人、十人。
見るだけで通り過ぎる。一瞬立ち止まり、首を傾げて去る。
十七時四十八分。一人の学生が掲示板の前で止まった。
法学部の棟から来た方向。肩掛けの鞄。
足元が少しだけ内側に入る。
智輝は、その動きを覚えていた。
被害者と同じ止まり方だ。
白石は動かない。
視線だけを、反射の位置に合わせる。
自販機の前に立っていた学生が、缶を取り出して離れる。
通路が一瞬、空く。
その瞬間だった。
白石のスマホが、わずかに傾く。
音はしない。でも、画面の向きが変わった。
智輝は、掲示板の前の学生の肩が強張るのを見た。
首が、ほんの少しだけすくむ。
学生は振り返らない。
でも、立ち止まったまま、動かない。
白石は、そこで初めて前に出た。
距離を詰めすぎない位置。
「今、撮った?」
声は低く、短い。
学生の手が止まる。スマホは胸元。
「……何のことですか」
即答だった。早すぎる。
白石は、続けない。
代わりに、掲示板を指した。
「ここ、毎日、見てるやろ」
学生の視線が、掲示板に戻る。
紙の端を見る。
蒼が、後ろから近づく。
「その紙、昨日も同じ位置やった」
学生は、黙った。
智輝は、横から声をかける。
「被害にあった人、全員、同じ時間帯でした」
学生の指が、スマホを握り直す。
白石は、静かに言った。
「今すぐどうこうする話やない。でも、
続けるなら、必ず誰かが確信持つ」
学生は、息を吐いた。
「……消してます」
白石は、即座に聞いた。
「全部?」
学生は、視線を落とす。
「……最近の分は」
それで十分だった。
白石は、スマホをしまう。
「今日は、ここまで。次は、大学が動く」
学生は、何も言わなかった。
ただ、掲示板から一歩離れ、人の流れに紛れた。
蒼が、白石を見る。
「当たり?」
白石は頷かない。否定もしない。
「一致した。立ち位置。時間。見る理由」
智輝は、掲示板を見た。
被害者が立ち止まった理由。
犯人が立ち止まった理由。
同じだった。
「……声、かけてよかった」
白石は、それだけ言って歩き出した。
白石は学生会館の外で立ち止まった。
さっきの学生が消えた方向を見ない。視線は地面の一点に落ちている。
「消してる、は嘘ちゃう」
蒼が言う。
「最近の分だけ、って言うた。残してる分がある」
白石は頷いた。
「残す理由がある。でも、売るやつの残し方ちゃう」
蒼が眉を寄せる。
「なんで分かるん」
「売るなら」
白石は淡々と言った。
「撮り方が雑になる。数を優先する。派手に広がる」
智輝は言う。
「噂、広がってないです。被害者も“気のせい”で止まってた」
白石は短く返す。
「だから狙ってるのは、金やない」
蒼が言う。
「支配?」
「近い」
白石は言葉を選ぶ。
「支配って言葉を、本人は使わん。“偶然映っただけ”」
“見てただけ”“消してるから問題ない”」
智輝は、さっきの顔を思い出す。
否定が早かった。説明が用意されていた。
「言い訳が先に出るタイプ」
白石は頷いた。
「バレへん範囲でやる。バレへんと思ってる」
蒼が吐き捨てるように言う。
「腹立つな」
白石はそこに乗らない。
「ここからは、手順や」
白石は智輝を見る。
「被害者、了承取れてるやつ、何人?」
「二人。今日話した人を入れるなら三人」
「三人で十分や」
白石は即答した。
「大学が動ける」
蒼が言う。
「証拠は?」
「撮れてへん」
白石は淡々と切る。
「でも、本人が“消してる”って言うた。
これは“やってた”の自己申告や」
智輝が言う。
「被害者の証言と、現場の条件が一致してます」
白石は頷く。
「次は、学生課。防犯カメラの位置確認。
掲示板周辺の死角。それと——」
白石は一拍だけ置く。
「被害者が“被害”として言葉にできる形にする。東雲の役目や」
智輝は頷いた。
「やります」
蒼が言う。
「俺は?」
白石は即答した。
「蒼は、余計な推理出すな。代わりに、噂の出どころを拾え。
同じやつが他でもやってるかを見る」
蒼が口を尖らせる。
「それ、地味ですね」
「地味が要る」
白石はそう言って歩き出した。
事件は、ここから“大学の案件”になる。
三人の役割も、ここで決まった
白石は、鞄を持ち替えた。
「ここから先は、大学の仕事や」
「俺らは、手出さん」
蒼がそれに頷く。
智輝は、スマホの画面を一度だけ見て、ポケットに戻した。
「……今日は、これで帰ります。」
白石は、短く答える。
「おう」
蒼も何も言わない。
智輝は、そのまま踵を返した。
理由は説明しない。誰も、聞かない。
学生会館を出ると、外の空気は少し冷えていた。
学生会館を出たところで、悠誠は待っていた。
壁にもたれてスマホを見ていたけど、智輝の姿を見つけると、すぐに画面を伏せる。
「終わった?」
「うん。今日は、ここまで」
智輝がそう言うと、悠誠はそれ以上聞かなかった。
理由を確認しない。代わりに、距離を詰める。
人通りの少ない歩道。
街灯の下で、二人は立ち止まる。
「時間、どれくらい?」
「十分」
即答だった。
智輝は、それがおかしくて、少し笑う。
「忙しいのに?」
「忙しいから来てる」
悠誠はそう言って、智輝の手首に触れる。
掴まない。引き寄せない。触れてるだけ。
「今日、顔見たかった」
智輝は何も言わない。代わりに、一歩近づく。
距離がなくなる。自然に、息が混じる。
悠誠の指が、智輝の背中に回る。
強くはない。でも、逃げ道は残さない。
「……我慢してた?」
智輝が小さく言う。
「してるに決まってるやろ」
悠誠はそう言って、額を軽くぶつける。
叱るみたいな距離。
「週一やぞ」
「知ってる」
「五分でも来るって言うたやろ」
「言うてたな」
悠誠の声が、少し低くなる。
「今日は、もうちょい欲しい」
智輝は答えない。
その代わり、悠誠の服を掴む。
唇が重なる。最初は軽く、確かめるみたいに。
でも離れない。
悠誠が角度を変える。
深くなる。長い。
智輝の息が乱れても、悠誠は止めない。
急がない。時間がない男のくせに、そこだけは丁寧だ。
指先が、智輝の背中で少しだけ力を持つ。
ようやく離れたとき、額が触れるほど近い。
「……帰らせたくない」
独り言みたいな声。
「でも」
悠誠は唇を離して、もう一度だけ短く触れた
そのまま、手をつなぐ。
歩き出すわけでもなく、離れるわけでもない。
数分。ただ並んで立っている。
「次」
智輝が言う。
「次は、もっと時間取る」
悠誠は、少しだけ笑った。
「約束な」
「約束」
指が絡む。
離れるときは、ちゃんと名残があった。
今日は、ここまで。
でも、それで足りてしまうくらいには、甘かった。
(……この人やったよな)
学生会館で、たまに見かける。
心理学部で、話を聞く人。
そういう噂を、前に聞いたことがあった。
何かしてくれるわけじゃない。
答えをくれるわけでもない。
でも、
「話したら、少し楽になる」
そう言われていた。
学生会館の一階は、夕方になると人の流れが速くなる。
講義終わりの学生が行き交い、立ち止まる人は少ない。
智輝は、壁際のベンチに腰を下ろしていた。
ノートは開いているが、視線は文字を追っていない。
その前を、何人かが通り過ぎる。
足音、話し声、エレベーターの到着音。
いつもと変わらない時間帯。
「……あの」
声は小さかった。
聞こえた気がして、もう一度だけ耳を澄ます。
振り返ると、女子学生が一人、少し離れた位置に立っていた。
鞄を胸の前で抱えるように持っている。
智輝と目が合うと、女子学生は一瞬だけ迷った顔をした。
それから、意を決めたように近づいてくる。
「今、少し……ええですか」
距離は詰めすぎない。
逃げられる位置を残したまま、立ち止まる。
智輝はすぐに立ち上がらず、軽く頷いた。
「大丈夫やで」
女子学生は、ほっと息を吐いてから、智輝の隣に腰を下ろした。
間には、まだ一人分の空間がある。
「……変な話かもしれへんねんけど」
言葉が続かない。
視線が、行き交う人の方へ流れる。
智輝は視線を上げず、次の言葉を待った。
「学生会館で、最近、ちょっと……」
女子学生は、声を落とす。
「見られてる気がして」
智輝は相槌を打たない。
続きを待つ。
「最初は、気のせいやと思ってた。
でも、何回か……同じ場所で」
膝の上で、指が絡まる。
「スマホ向けられてる、ような。でも、音もせえへんし、一瞬やし」
言葉が途切れ、また続けられる。
「勘違いやったらって思うと、誰にも言えなくて」
智輝は、静かに問いを挟む。
「場所は?」
「……ここで。自販機の横と、掲示板の前」
人が多く、足を止めない通路。
安全だと思われている場所。
「時間は」
「夕方から夜。講義終わりくらい」
女子学生は、少し迷ってから続けた。
「私だけやない気もしてて、同じような話、聞いたこともあって……」
智輝は、その言葉を拾う。
「誰から?」
「はっきりじゃない、噂みたいな感じで」
少しだけ、言いにくそうに付け足す。
「……話、聞いてもらうだけで、ちょっと楽になる人がいる、って」
智輝は、そこで初めて女子学生の方を見る。
「それで、来た」
女子学生は、小さく頷いた。
「何かしてくれるとか、解決してくれるとか
そういうのじゃなくて。一回だけ言いたかっただけ。」
智輝は、立ち上がる。
「順番に聞かせて。いつ、どこで、どう見えたか」
女子学生は、深く息を吸ってから頷いた。
通路の向こうで、人の流れが変わる。
いつも通りの学生会館。
その中で、同じ言い方をする人間が、増えつつある。
智輝は思う。
これは、一人の話では終わらない。
学生会館の奥は、夕方になると静かになる。
人の流れはあるのに、長く留まる人は少ない。
智輝は、同じベンチに座っていた。
ノートは閉じて、スマホを伏せたまま、
智輝は立ち上がらなかった。
「……東雲さん、ですよね」
声は低めで、はっきりしていた。
振り返ると、今度は男子学生が立っている。
年は近そうだが、緊張の仕方が違う。
「少し、いいですか」
智輝は頷き、ベンチの端を示した。
「どうぞ」
男子学生は腰を下ろすが、背もたれには寄りかからない。
視線は正面。逃げ場を確認するみたいに。
「変な噂、聞いてると思うんですけど」
智輝は口を挟まず、話の続きを促した。
「学生会館で。変なこと、起きてるって」
言い切らない言い方。
でも、迷いは少ない。
「俺、写真撮られました。……多分」
智輝は、相槌を打たない。
「音はしませんでした。気づいたら、もう向こう行ってて」
男子学生は、拳を軽く握る。
「場所は、自販機の横です。掲示板の前も、通ったことあります」
智輝の中で、言葉が重なる。
同じ場所。同じ言い回し。
「時間は」
「夕方です。講義終わり」
一拍。
「俺、男だし、気のせいって言われると思って」
声が少しだけ、硬くなる。
「でも、同じような話、聞いたことあって」
智輝は、そこで顔を上げた。
「誰から?」
「直接じゃないです。友達の友達、みたいな」
男子学生は少し笑う。
「で、名前出たんです。……東雲さんの」
智輝は、何も言わない。
「話を聞いてもらうだけで、変に広げられないって」
同じ噂。同じ理由。
「俺も。それだけでいいです」
智輝は、ゆっくり頷いた。
「順番に聞く。それだけ」
男子学生は、肩の力を抜いた。
通路を人が通り過ぎる。誰も、足を止めない。
智輝は思う。
言い方が似ている。選んだ場所も、時間も。
これは、偶然では片づけられない。
でも、
まだ誰かに繋ぐ段階じゃない。
男子学生は帰って行った。
その少しあとだった。
「……やっぱりおった」
軽い声。
振り向くと、相良蒼が立っている。
鞄を肩にかけたまま、いつもの調子。
「東雲、ちょっといい?」
智輝は立ち上がらない。
「ええよ」
蒼は、少し間を取ってから続ける。
「変な聞き方するけど、最近、学生会館で話聞いた?」
智輝は、一瞬だけ考える。
「……何で?」
蒼は肩をすくめた。
「被害者の了承もらってる。名前出してええって言われてる」
その言い方は、軽いけど雑じゃない。
「写真の話。撮られたかもしれへん、ってやつ」
智輝は、否定しなかった。
蒼は、それを見て小さく息を吐く。
「やっぱりな」
智輝は、ようやく蒼を見る。
「白石さんも?」
「おる。別ルートやけどな」
蒼は、少しだけ真面目な顔になる。
「東雲。情報、突き合わせたい」
命令でも、依頼でもない。
確認の声。智輝は一拍置いて、相手の出方を待った。
自分は、まだ一人でやっている。その感覚は、変わっていない。
でも。
「……場所と時間だけなら」
蒼は、にっと笑った。
「それで十分」
ここでようやく、線が並び始める。
学生会館の奥は、いつも通りだった。
人はいる。声もある。
でも、腰を落ち着ける場所として使っているのは、限られた顔ぶれだけだ。
智輝はベンチに座ったまま、スマホを伏せている。
「……また、学生会館か」
背後から、低い声が落ちる。
白石だった。蒼も少し離れたところにいる。
智輝は振り返らない。
「ここが多いから」
それ以上は言わず、沈黙を残した。
白石も、それ以上聞かない。
蒼が口を開く。
「被害者、別口で来てる。了承もらってるやつ」
白石は頷くだけだ。
「場所と時間は?」
智輝が答える前に、スマホが震えた。
画面を見る。
――悠誠。
智輝は、即座に立ち上がった。
「来る」
それだけ言って、歩き出す。
白石も蒼も、止めない。
数分もしないうちに、通路の向こうから悠誠が現れる。
少し早足。
目が合った瞬間、智輝の表情が変わる。
「悠誠」
悠誠は、智輝の前で足を止める。
「おったな」
智輝は、自然に距離を詰めた。
肩が触れる位置。ためらいはない。
「来てくれてんやろ」
「当たり前や」
悠誠はそう言って、智輝を見る。
それから、少しだけ視線をずらす。蒼に気づいて、軽く会釈。
「相良」
「久しぶり」
蒼は軽く手を上げる。
「ゼミ違うと、ほんま会わんな」
白石の存在に、悠誠は一拍置く。
「……初めまして」
白石が応じる。
「白石です」
それだけ。
それ以上、会話は広がらない。
智輝は視線を落としたまま、言葉を返さなかった。
悠誠に向いたままだ。
「今、少し時間ある?」
「あるから来た」
智輝は頷く。
「じゃあ、座る?」
悠誠は一瞬だけ周囲を見る。
それから、首を振った。
「歩こ」
選択は、迷いなく智輝側だった。
「少し離れる」
智輝が、白石たちに向かって言う。
報告でも、断りでもない。
事実の共有。
白石は短く返す。
「分かった」
蒼も何も言わない。
智輝は、悠誠と並んで歩き出す。
学生会館の奥から、少しだけ外れる。
「……忙しそうやな」
智輝が言う。
「いつもやろ。でも、今日は来たかった」
智輝は、それを聞いて、何も言わなかった。
代わりに、歩く速度を落とす。
「嬉しい」
それだけ言う。
悠誠は、一瞬だけ息を吐いた。
「それでええ」
二人は並んで歩く。事件の話は出ない。
今は、必要ない。
少し離れた場所で、白石が蒼に言う。
「……今は、待ちやな」
「やな」
学生会館の空気は、変わらない。
でも、智輝の優先順位だけは、はっきりしていた。
悠誠と別れて戻ると、白石は立ったまま、
自販機の並ぶ壁を背にしていた。
缶が落ちる音と、床に転がる硬い響きが一瞬だけ会話を切る。
蒼は掲示板の前に立っている。
掲示物の端が、空調の風でわずかに揺れていた。
「ここ」
白石が言った。
指で示したのは、掲示板と自販機の間の細い通路。
「人は通る。でも、立ち止まらへん」
智輝は、その位置に立つ。
掲示板を見るふりをすると、自然に足が止まる。
視線を下げれば、自販機のガラスに周囲が映る。
「確かに。顔、上げんでも周りが見える」
白石は頷いた。
「夕方から夜。講義終わり。人が多い時間帯やけど、流れは速い」
蒼が言う。
「スマホ触ってるやつも多いしな。
下向いて歩くのが普通や」
白石は、自分のスマホをポケットから出し、
音を立てずに画面を操作する。
「シャッター音、消せる。フラッシュも切れる」
画面を伏せたまま続ける。
「音がないのは、技術やない。
知ってるやつの動きや」
智輝は、被害者の言葉を思い出す。
「一瞬、向けられた気がしただけ」
でも、同じ場所で何回か」
白石は通路の床を見る。
人の足跡が重なり、模様が消えている。
「同じ場所を使う理由は一つやない。
でも、同じ時間帯を選ぶ理由は一つや」
蒼が首を傾げる。
「見つかりにくい?」
「それもある」
白石は否定しない。
「けど一番は——」
白石は、掲示板の端に貼られた
「落とし物のお知らせ」に視線を移す。
「被害が被害として認識されへん」
智輝は、静かに言葉を足す。
「全員、“気のせいかもしれへん”って言う」
白石は、はっきり頷いた。
「確信を持たせない。だから誰も動かん
警察も、大学も」
蒼が、低く息を吐く。
「……続くわけやな」
白石は、通路を一度見回した。
「続いてる。今も」
智輝は肯定も否定もせず、黙って聞いた。
この場所に立ってみて, 被害者の言い方が、急に具体的になる。
これは、
“誰かが選んだ場所”だ。
学生会館の外れ、窓際の席。
夕方の光が斜めに差し、床に長い影ができている。
智輝の前に座った女子学生は、紙コップを両手で包んでいた。
中身はまだ熱い。指先が逃げ場を探すみたいに、縁をなぞる。
「……最初は、掲示板の前でした」
智輝は小さく頷き、続きを待った。
「ポスター見てたんで、足、止めてて」
言い方は落ち着いている。
でも、視線は時々、通路の方へ流れる。
「スマホは……触ってなかった、と思います」
“と思います”。
智輝は、その言葉をそのまま受け取る。
「二回目は?」
「自販機の横です。小銭、探してて」
紙コップが、かすかに鳴る。
「同じ人やと思いました?」
「……分からないです」
少し間があく。
「背、低かった気もするし、でも、前はもう少し……」
言葉が、途切れる。
「服は?覚えてないです」
即答。
でも、次の瞬間、付け足す。
「黒っぽかった、ような」
智輝は問いを挟まず、相手に任せた。
順番を変える。
「時間は?」
「どっちも、講義終わりです。でも……」
女子学生は、少し考える。
「一回目は、明るくて、二回目は、もう暗かった」
同じ時間帯。でも、光の条件が違う。
「スマホ、どっちの手でした?」
女子学生は、一瞬だけ戸惑う。
「……右。たぶん」
「前も?」
「……前は、分からない」
智輝は、そこで紙コップに目を落とす。
「音は?」
「しなかったです。でも」
女子学生は、声を落とす。
「一回目は、近かった気がして、二回目は、少し遠い」
距離の感覚が、揺れている。
「近い、って?」
「……肩、触れそうで」
「遠い、って?」
「……人一人、挟んだくらい」
智輝は、静かに言う。
「位置が、同じじゃない」
女子学生は、はっとして顔を上げる。
「……はい」
「でも、場所は同じって言った」
「……はい」
矛盾じゃない。条件が違うだけだ。
少し遅れて、男子学生の話も聞く。
「自販機の前でした。一回だけです」
「距離は?」
「……近かったです」
「音は?」
「しなかった」
「でも」
男子学生は、眉を寄せる。
「一瞬、画面が光った気がして」
フラッシュじゃない。反射でもない。
「角度、覚えてます?」
「……下から」
智輝は、そこで顔を上げる。
下から。
女子学生は、上から向けられた気がしたと言っていた。
同じ場所。
同じ時間帯。
同じ“音がしない”。
でも——
距離が違う。角度が違う。
明るさの条件が違う。手が違うかもしれない。
智輝は、二人の言葉を並べる。
「同じ人、かどうかは、まだ分からない」
二人とも、頷く。
「でも、同じ“やり方”ではある」
それだけ言って、智輝はメモを閉じた。
違和感は、ここにある。
場所は固定。条件は可変。
誰かが、状況に合わせて立ち位置を変えている。
次に繋ぐ言葉は、もう決まっていた。
智輝は、二人の証言を書き分けたメモを白石の前に置いた。
紙は折らず、そのまま滑らせる。
白石は覗き込まない。
立ったまま、視線だけを落とす。
「距離が違う。角度も違う」
蒼が、すぐに口を挟む。
「同一犯ちゃう可能性?」
白石は首を振らない。肯定もしない。
「やり方が同じ」
智輝が言う。
「音を消す。一瞬で終わらせる
被害者に確信を持たせない」
白石は、メモの一行を指でなぞる。
「上からと、下から」
蒼が眉を上げる。
「場所、同じなんやろ?自販機と掲示板」
「同じ場所でも」
白石が言う。
「立てる位置は、いくつもある」
白石は、実際に通路へ出た。
掲示板の前で足を止め、半歩ずれる。
さらに一歩、内側に入る。
「ここ、掲示板を見る人間の後ろ。ここは、近い」
次に、自販機の前へ移る。
並んでいる人の横、少し引いた位置。
「ここは、遠い。でも、視界は同じ」
蒼が、通路を見回す。
「人の流れ、止まらんな。誰が立ってても、不自然ちゃう」
白石は頷く。
「だから、角度が変わる。距離も変わる
同じ人間が、条件に合わせて動いてる」
智輝は、被害者の言葉を思い出す。
「“同じ人か分からない”って言い方、全員、してる」
白石は、即座に返す。
「分からせないためや、
同一犯やと確信されたら、話が変わる」
蒼が言う。
「警察案件になる」
「そう」
白石は短く答える。
「今は、全員、“気のせいかもしれへん”で止まってる」
智輝が、静かに足す。
「怖いのは、撮られたことより、分からないこと」
白石は、一瞬だけ智輝を見る。
「被害者の言葉やな」
「うん」
白石は通路をもう一度見渡した。
「角度を変えられる。距離を変えられる。時間帯を選べる」
蒼が、考え込む。
「……固定の場所、固定の時間。
でも、立ち位置は固定してへん」
白石は、そこで初めて断定する。
「この場所に慣れてる人間や」
蒼が即座に反応する。
「学生?職員?」
白石は首を振る。
「まだ絞り切れへん。でも——」
白石は掲示板の端を指で叩く。
「毎日、ここを通る。何度も。立ち止まる理由がある」
智輝は、メモを見返す。
「自販機。掲示板」
「そう」
白石は言った。
「目的がある場所や」
蒼が、口の端を上げる。
「偶然ちゃうな」
白石は、それ以上言わない。犯人像の輪郭だけが、残る。
学内の人間。学生会館を日常的に使う。
人の流れを把握している。被害が表に出ないラインを知っている。
智輝は、そこで言った。
「……次、来る人、多分、同じ言い方する」
白石は、短く頷いた。
「やろな」
ここで初めて、
事件は「起きている」から「続いている」に変わった。
学生会館の掲示板前で、白石は立ち止まった。
貼られた紙を一枚ずつ、視線で追っていく。
指で触れはしない。順番だけを確認している。
「ここに立つ理由は限られる」
独り言に近い声だった。
張り替え、確認、写真、管理。
どれも成立はするが、毎日続くものではない。
蒼が横から言う。
「学生でも職員でも、どれも当てはまります」
白石は視線を外さずに答えた。
「“続く”のが違う」
掲示物の中ほど、講義変更の紙で視線が止まる。
張り替えは不定期だ。写真は目的がいる。
管理は担当が限られる。
残るのは、確認。しかも毎日。
「ここを見る必要がある人間だけや」
白石は、掲示板の端を見た。
重なった紙の影で、文字が半分隠れている。
「時間割。教室変更。講義の中止」
蒼が、ようやく理解した顔をする。
「……毎日ここ通るやつ」
「通るだけやない」
白石は言葉を切る。
「立ち止まる」
智輝は、少し離れた位置からその背中を見ていた。
被害者の言葉が、頭の中で繋がる。
——掲示板を見ていた
——足を止めていた
——スマホは触っていなかった
「被害者も、同じ理由で立ってる」
智輝の声は低かった。
「“見てても不自然じゃない場所”やから、ここなら、人に声かけても変じゃない」
白石は、そこで初めて智輝を見る。
「相談の噂」
「はい」
智輝は頷く。
「この場所やから成立してる」
白石は、掲示板から一歩引いた。
「犯人も、同じ理由で立ってる」
蒼が口を挟む。
「被害者と同じ動き?」
「同じや」
白石は即答した。
「だから紛れる」
掲示板を見る側の人間。
毎日確認が必要で、立ち止まる理由がある。
スマホを持っていても不自然じゃない。
「使ってる側や」
白石はそう言って、通路を見渡した。
「掲示板を“使う人間”の中にいる」
蒼はそれ以上、何も言わなかった。
智輝は、被害者の顔を思い出す。
ここなら、話してもいいと思えた理由。
安心できる場所だと、無意識に判断した理由。
同じ理由で、犯人もここを選んでいる。
掲示板から離れたあと、白石は学生会館の通路を一度だけ往復した。
歩幅は一定。立ち止まる位置も変えない。
自販機の前。掲示板の端。人の流れが一瞬だけ詰まる地点。
「ここやな」
声は低かった。
蒼が視線を巡らせる。
「掲示板使う人間、って言うても結構おるで。
職員、サークル、ゼミ……」
白石は否定しない。
「せやから、もう一段絞る」
通路の壁に貼られた掲示の下段を指で示す。
端の方、文字が細かく、更新頻度の高い紙。
「ここを毎日確認する人間。しかも、時間帯が固定」
蒼が言う。
「講義関係や」
「学生や」
白石は即答した。
「職員は、まとめて確認できる。学生は、その都度見る」
智輝が口を挟む。
「被害者の話。全員、“講義終わり”でした」
白石は頷く。
「昼休みは起きてへん。朝もない」
蒼が腕を組む。
「夕方から夜。講義終わりに、必ずここ通る学生」
白石は続ける。
「時間割変更が関係ある。ゼミ。演習。人数少なめ」
通路の奥、ゼミ室の並ぶ方向に目を向ける。
「毎日確認する必要がある。
でも、張り替え担当じゃない」
蒼が言う。
「受講者側」
「そう」
白石は足を止めた。
「受ける側。追われてる側」
智輝は、被害者の声を思い出す。
——忙しかった
——急いでた
——止まるつもりはなかった
「焦ってるときほど」
智輝が言う。
「足、止める場所を選ぶ」
白石は一度だけ智輝を見る。
「安心できる場所やからな」
蒼が息を吐く。
「被害者も、犯人も」
「同じ理由で、ここ使ってる」
白石は否定しない。
「だから、気づかれへん」
一拍置いて、白石は言った。
「次は、掲示板のどの情報を見てるか。
そこが一致したら、かなり絞れる」
蒼が頷く。
「ゼミ名か。教室番号か」
白石は答えなかった。
代わりに、掲示板の一枚をスマホで撮る。
音はしない。
「今日から、ここ張る」
それだけ言って、白石は歩き出した。
智輝は、その背中を見ながら考える。
被害者が声をかけた理由。ここなら、話してもいいと思えた理由。
それは、
**“見られても大丈夫だと思える場所”**だったからだ。
同じ判断をした人間が、もう一人いる。
事件は、もう偶然じゃない。
掲示板の前で張る、と白石が決めてから三日。
学生会館の動きは変わらない。
講義終わり、人が流れ、自販機の前で足が止まり、また動く。
白石は、掲示板の端から一歩引いた位置に立っていた。
スマホは胸の高さ。画面は伏せている。
蒼は少し離れたソファに座り、視線だけを通路に向けている。
声はかけない。人の流れを数えている。
智輝は、掲示板の反対側。
立ち止まる人間の顔を見る位置だ。
五人、七人、十人。
見るだけで通り過ぎる。一瞬立ち止まり、首を傾げて去る。
十七時四十八分。一人の学生が掲示板の前で止まった。
法学部の棟から来た方向。肩掛けの鞄。
足元が少しだけ内側に入る。
智輝は、その動きを覚えていた。
被害者と同じ止まり方だ。
白石は動かない。
視線だけを、反射の位置に合わせる。
自販機の前に立っていた学生が、缶を取り出して離れる。
通路が一瞬、空く。
その瞬間だった。
白石のスマホが、わずかに傾く。
音はしない。でも、画面の向きが変わった。
智輝は、掲示板の前の学生の肩が強張るのを見た。
首が、ほんの少しだけすくむ。
学生は振り返らない。
でも、立ち止まったまま、動かない。
白石は、そこで初めて前に出た。
距離を詰めすぎない位置。
「今、撮った?」
声は低く、短い。
学生の手が止まる。スマホは胸元。
「……何のことですか」
即答だった。早すぎる。
白石は、続けない。
代わりに、掲示板を指した。
「ここ、毎日、見てるやろ」
学生の視線が、掲示板に戻る。
紙の端を見る。
蒼が、後ろから近づく。
「その紙、昨日も同じ位置やった」
学生は、黙った。
智輝は、横から声をかける。
「被害にあった人、全員、同じ時間帯でした」
学生の指が、スマホを握り直す。
白石は、静かに言った。
「今すぐどうこうする話やない。でも、
続けるなら、必ず誰かが確信持つ」
学生は、息を吐いた。
「……消してます」
白石は、即座に聞いた。
「全部?」
学生は、視線を落とす。
「……最近の分は」
それで十分だった。
白石は、スマホをしまう。
「今日は、ここまで。次は、大学が動く」
学生は、何も言わなかった。
ただ、掲示板から一歩離れ、人の流れに紛れた。
蒼が、白石を見る。
「当たり?」
白石は頷かない。否定もしない。
「一致した。立ち位置。時間。見る理由」
智輝は、掲示板を見た。
被害者が立ち止まった理由。
犯人が立ち止まった理由。
同じだった。
「……声、かけてよかった」
白石は、それだけ言って歩き出した。
白石は学生会館の外で立ち止まった。
さっきの学生が消えた方向を見ない。視線は地面の一点に落ちている。
「消してる、は嘘ちゃう」
蒼が言う。
「最近の分だけ、って言うた。残してる分がある」
白石は頷いた。
「残す理由がある。でも、売るやつの残し方ちゃう」
蒼が眉を寄せる。
「なんで分かるん」
「売るなら」
白石は淡々と言った。
「撮り方が雑になる。数を優先する。派手に広がる」
智輝は言う。
「噂、広がってないです。被害者も“気のせい”で止まってた」
白石は短く返す。
「だから狙ってるのは、金やない」
蒼が言う。
「支配?」
「近い」
白石は言葉を選ぶ。
「支配って言葉を、本人は使わん。“偶然映っただけ”」
“見てただけ”“消してるから問題ない”」
智輝は、さっきの顔を思い出す。
否定が早かった。説明が用意されていた。
「言い訳が先に出るタイプ」
白石は頷いた。
「バレへん範囲でやる。バレへんと思ってる」
蒼が吐き捨てるように言う。
「腹立つな」
白石はそこに乗らない。
「ここからは、手順や」
白石は智輝を見る。
「被害者、了承取れてるやつ、何人?」
「二人。今日話した人を入れるなら三人」
「三人で十分や」
白石は即答した。
「大学が動ける」
蒼が言う。
「証拠は?」
「撮れてへん」
白石は淡々と切る。
「でも、本人が“消してる”って言うた。
これは“やってた”の自己申告や」
智輝が言う。
「被害者の証言と、現場の条件が一致してます」
白石は頷く。
「次は、学生課。防犯カメラの位置確認。
掲示板周辺の死角。それと——」
白石は一拍だけ置く。
「被害者が“被害”として言葉にできる形にする。東雲の役目や」
智輝は頷いた。
「やります」
蒼が言う。
「俺は?」
白石は即答した。
「蒼は、余計な推理出すな。代わりに、噂の出どころを拾え。
同じやつが他でもやってるかを見る」
蒼が口を尖らせる。
「それ、地味ですね」
「地味が要る」
白石はそう言って歩き出した。
事件は、ここから“大学の案件”になる。
三人の役割も、ここで決まった
白石は、鞄を持ち替えた。
「ここから先は、大学の仕事や」
「俺らは、手出さん」
蒼がそれに頷く。
智輝は、スマホの画面を一度だけ見て、ポケットに戻した。
「……今日は、これで帰ります。」
白石は、短く答える。
「おう」
蒼も何も言わない。
智輝は、そのまま踵を返した。
理由は説明しない。誰も、聞かない。
学生会館を出ると、外の空気は少し冷えていた。
学生会館を出たところで、悠誠は待っていた。
壁にもたれてスマホを見ていたけど、智輝の姿を見つけると、すぐに画面を伏せる。
「終わった?」
「うん。今日は、ここまで」
智輝がそう言うと、悠誠はそれ以上聞かなかった。
理由を確認しない。代わりに、距離を詰める。
人通りの少ない歩道。
街灯の下で、二人は立ち止まる。
「時間、どれくらい?」
「十分」
即答だった。
智輝は、それがおかしくて、少し笑う。
「忙しいのに?」
「忙しいから来てる」
悠誠はそう言って、智輝の手首に触れる。
掴まない。引き寄せない。触れてるだけ。
「今日、顔見たかった」
智輝は何も言わない。代わりに、一歩近づく。
距離がなくなる。自然に、息が混じる。
悠誠の指が、智輝の背中に回る。
強くはない。でも、逃げ道は残さない。
「……我慢してた?」
智輝が小さく言う。
「してるに決まってるやろ」
悠誠はそう言って、額を軽くぶつける。
叱るみたいな距離。
「週一やぞ」
「知ってる」
「五分でも来るって言うたやろ」
「言うてたな」
悠誠の声が、少し低くなる。
「今日は、もうちょい欲しい」
智輝は答えない。
その代わり、悠誠の服を掴む。
唇が重なる。最初は軽く、確かめるみたいに。
でも離れない。
悠誠が角度を変える。
深くなる。長い。
智輝の息が乱れても、悠誠は止めない。
急がない。時間がない男のくせに、そこだけは丁寧だ。
指先が、智輝の背中で少しだけ力を持つ。
ようやく離れたとき、額が触れるほど近い。
「……帰らせたくない」
独り言みたいな声。
「でも」
悠誠は唇を離して、もう一度だけ短く触れた
そのまま、手をつなぐ。
歩き出すわけでもなく、離れるわけでもない。
数分。ただ並んで立っている。
「次」
智輝が言う。
「次は、もっと時間取る」
悠誠は、少しだけ笑った。
「約束な」
「約束」
指が絡む。
離れるときは、ちゃんと名残があった。
今日は、ここまで。
でも、それで足りてしまうくらいには、甘かった。
