S.S:Silent Society

藤宮は、朝の時点で、もうぐったりしていた。
(今日は……行かんからな。あの部屋には、絶対行かへん)
そう決めて家を出たはずなのに、頭のどこかでは
旧校舎の、あの静かな部屋の光景ばかりがちらついている。
大学に着き、いつものように講義棟へ向かう。
一コマ目が始まる前、まだ席に余裕がある時間帯。
藤宮は後ろ寄りの席に鞄を置いた。
その瞬間、明るい声が飛んでくる。
「悠誠、おはよ!」
「今日さ、講義終わったあと空いてる?」
「この前言ってたカフェ、行かへん? スイーツおごるし!」
別々の女の子たちが、ほぼ同時に寄ってくる。
(……来た)
心の中で小さくため息をつきながら、
藤宮は、なるべく穏やかに笑顔を作った。
「今日の夕方は、バイト入ってんねん。ごめん、行かれへん」
「え、じゃあ明日は?」
「明日も、シフト入ってて。
  今ちょっと詰めて入れてもうてるからさ」
「そうなんや〜……」
期待していた分だけ肩を落とす女の子たち。
それでも、拍子抜けするほど、あっさり引き下がっていった。
「しゃあないな〜。体壊さんようにな」
「落ち着いたら、また声かけてな?」
「そのうちまた誘うわ」
思っていたより、ずっとあっさり引き下がっていく。
残された藤宮は、ぽかんとした顔でその背中を見送った。
(……え、こんなもんなん?)
もっと色々言われると思っていた。
「なんで?」「誰かとどっか行くん?」と詰められるのが、
いつの間にか“普通”になっていたせいだ。
胸のあたりが、ふっと軽くなる。
(ちゃんと断っても、世界は終わらへん、ってことか……)
理解はした。でも、その理解に心が追いつくには、まだ少し時間がかかりそうだ。
二コマ目、三コマ目と講義を受けるうちに、じわじわと疲労が溜まってきた。
昼休みになっても、食堂に行く気は起こらず、
コンビニのおにぎりを一つだけ買って、中庭のベンチに腰を下ろす。
一口かじって、味がよく分からないことに気づいた。
(断るって、こんなに体力いるんか……)
今まで、「断らへん方が楽や」と思って流されてきた理由が、
今日になってようやく、身体レベルで理解できた気がした。
(……そら、しんどいわな)
誰かの期待を裏切るんじゃないか、がっかりさせるんじゃないか。
そう思うたびに、喉の奥がきゅっと固くなる。
(……今日は絶対、行かん)
あの部屋まで足を運んだら、きっと、また昨日みたいに何かを揺さぶられる。
それが怖かった。

 ◇
四コマ目が終わるころには、
藤宮の頭の中は、ほとんど真っ白になっていた。
(帰ろ。今日はまっすぐ帰って、風呂入って寝よ)
鞄を肩にかけ、校門の方へと歩き出す。
夕方の光が、構内をオレンジ色に染めていた。
渡り廊下の窓から外を見れば、部活動の掛け声が遠く聞こえる。
その視線の端に――
旧校舎の屋根が、さりげなく映り込んだ。
足が、止まる。
(……見んようにしよ)
わざと視線をそらし、別の建物を眺める。
時計台、図書館、グラウンド。
どれだけ頑張っても、
頭の中には、紅茶の香りと、あの静かな声が浮かんでしまう。
「また、迷い込んできてもええから」
昨日の東雲の言葉が、妙に耳に残っていた。
(……迷い込む、な)
あの部屋に行くことは、自分の弱さを認めることのような気がして、
藤宮は意地になって踵を返そうとする。
けれど――
振り返った先には、旧校舎へ続く小道が伸びていた。
足が、勝手にそっちへ向かう。
「……はあ」
自分でも呆れるほど深いため息を一つ落とし、藤宮は小道を進んでいった。
(どの口が“行かん”って言うたんやろな、ほんま)
そう心の中でツッコミを入れながら、結局、旧校舎の階段を上がっていた。
ひんやりした空気。軋む床板。
廊下の突き当たり、
ドアにかけられた “Silent Society” のプレート
扉の前で一度だけ立ち止まり、軽くノックをする。
「……どうぞ」
中から、落ち着いた声が返ってきた。
ドアを開けると、東雲が机に肘をついて本を読んでいた。
視線だけこちらに向けて、少し目を丸くする。
「藤宮」
「……よ」
言った瞬間、自分でもびっくりするくらい、間の抜けた挨拶になっていた。
東雲は、ふっと小さく笑う。
「また、迷い込んできたん?」
「迷い込んだつもりはないけど……まあ、似たようなもんやな」
藤宮は、どこか居心地悪そうに頭をかきながら、部屋の中に一歩足を踏み入れる。
東雲は本を閉じて立ち上がった。
「一人で本読んでただけやし。誰か来てくれた方が、正直、嬉しい」
「お前の暇つぶし要員みたいで、なんか複雑やけど」
口ではそう言いながらも、藤宮の呟きには、わずかな安堵が混じっていた。
「座り」
促されるまま、昨日と同じ椅子に腰を下ろす。
東雲は、紅茶の支度を始めた。
「なんか、疲れてへん?」
「今日、ちょっと……色々断りまくって、疲れた」
「ふうん」
ケトルからポットに湯を注ぐ手を止めずに、東雲は短く相槌を打つ。
「大変やったんやな」
「まあ……普段やったら、流されてまうとこをな。
  頑張ったら、思ってた以上に体力使った、って感じ」
東雲は、そこで初めて少しだけ藤宮の方を見た。
「……そっか」
それ以上は何も聞かない。
どんな場面で、誰に、どんなふうに断ったのか。
そういうことには一切触れず、ただ「そっか」とだけ受け取る。
ティーポットからカップに琥珀色の液体を注ぎ、テーブルの上にそっと置いた。
「熱いから、気ぃつけてな」
「……ありがとう」
藤宮は両手でカップを包み、一口啜る。
喉を通っていく温度に、少しずつ心も緩んでいく気がした。
(なんやろな……
 ここ来ると、ちょっとだけ楽になるんわ)
そんなことを思った瞬間――
コンコン、と控えめなノックの音が、部屋の空気を揺らした。
東雲と藤宮は、ほぼ同時に顔を上げた。
東雲が「どうぞ」と声を掛けると、ドアが、ほんの少しだけ開く。
隙間から覗いたのは、華奢な女の子の顔だった。
「……えっと」
目がきょろきょろと部屋の中を泳ぎ、東雲と藤宮の顔を順に見た瞬間、
分かりやすいくらい肩が跳ねる。
「ご、ごめんなさい……! 勝手に開けて……」
「大丈夫やで」
東雲は、できるだけ柔らかい声で言った。
「ここ、サークルの部室やから入ってもええよ」
女の子は、しばらく迷った末に、おそるおそる一歩だけ中へ足を踏み入れる。
改めて部屋の中を見回し――
机の向こうに座る金髪ピアスの東雲と、その向かいにいる長身の藤宮を見比べて、
ますます落ち着かなそうに目を伏せた。
(……俺ら、顔面偏差値高すぎるしな)
藤宮は内心でそうツッコみながら、余計な圧を与えないように視線を少し外す。
東雲が椅子を指さした。
「そこ、座って?」
「……はい」
女の子は、ぎこちなく腰を下ろす。
膝の上で握りしめた手が、小刻みに震えていた。
「紅茶、飲める?」
「えっ」
「あかんかったら、水でもええけど」
「い、いえ……の、飲めます」
女の子が答え終わる前に、東雲は準備を始めていた。
電気ケトルの小さな沸騰音と、ティーポットに湯を注ぐ音だけが、しばらく部屋に響く。
女の子は、その背中と、向かいに座る藤宮の横顔を交互に見て、
ますます居心地悪そうに身を縮めた。
やがて、東雲がトレイを持って戻ってくる。
「熱いから気ぃつけてな」
カップが目の前に置かれ、
ついでに藤宮の前にも、何も言わず新しいカップが置かれた。
「あ、悪い」
「ついで」
東雲のその一言に、女の子は少しだけ目を丸くしている。
でも、緊張は簡単にはほぐれないようだ。
女の子は両手でカップを包み、湯気だけを眺めていたが――
意を決したように、小さな声で口を開いた。
「あの……ここって、その……何の部屋なんですか?」
東雲は、ほんの一瞬だけ旗の方に視線をやってから、
女の子の方に向き直る。
「“Silent Society”っていうサークルの部室や」
「……さいれんと、そさ……?」
初めて聞く単語をうまく発音できず、女の子はさらに視線を落とした。
「迷い込みそうな名前やろ」
東雲の軽い言い方に、藤宮は(お前が言うな)と内心で苦笑する。
「ここまで来る人は、大体みんな、
  “なんとなく歩いてたら辿り着いた”って言う」
女の子は、はっと顔を上げた。
「……わたしも、です。気づいたら、この廊下にいて……
  扉の上の板に、英語で何か書いてあるの見て……」
それが「S.S. Silent Society」と刻まれた真鍮のプレートだと、
藤宮はすぐに察した。
「なんとなく、中どうなってるのか気になって……
  ノックしてしまって……」
「迷い込んだんやな」
東雲は、くすっと笑った。
「ここ、そういう人が来るところやから」
「そ、そういう……?」
「悩みとか愚痴とか、
  “どうしたらええか分からへんこと”を、ちょっとだけ話していく場所やから」
そう説明されても、女の子の表情はまだ硬いままだった。
視線が二人のあいだを行き来し、最後に藤宮の方で止まる。
「で、でも……人がいるって、知らなくて……」
言葉を選ぶように、少し間が空く。
「その……知らない人に聞かれるの、ちょっと……」
「ああ」
東雲は、すぐに状況を理解したようだった。
藤宮を見ると、小さく首を振る。
「大丈夫。話す気があるなら、藤宮には席を外してもらう。
  ここは“話す人が安心できること”が一番やから」
それを聞いて、女の子の肩の力がわずかに抜ける。
「……あ、いや」
藤宮が慌てたように口を開いた。
「俺は、どっちでもええよ。君が嫌やったら、すぐ向こう行くし」
視線を合わせて、はっきりと言う。
「話したいなら話したらええし、聞かれたくないなら、無理せんでええ」
女の子は、目を丸くして藤宮を見た。
「……いいんですか」
「俺も、“なんとなく迷い込んだ側”やし」
そう言って、藤宮は肩をすくめる。
東雲は、そのやり取りを見て、少しだけ目元を和らげた。
「無理に話さんくてもええよ。
  ここまで来て、紅茶飲んで、帰るだけでもええし。それでも、ちょっと楽になる人もおるから」
しばらく沈黙が流れた。
女の子は、膝の上でぎゅっと指を絡め――やがて、おそるおそる口を開いた。
「……その、“ちょっとだけ”でいいなら……少し、聞いてもらってもいいですか」
「うん」
東雲は、短く頷いた。
「話したくなったところからでええよ」
そこから先は、自然と流れ始めた。
――サークルの雑用が、なぜか自分にばかり回ってくること。
――「頼めば断らない」と思われている気がすること。
――“いい子”でいたい気持ちと、“疲れた”気持ちが、
   ごちゃごちゃに混ざってしまっていること。
言葉にし始めると、女の子の瞳には、少しずつ涙が滲んでいった。
藤宮は、カップを持ったまま黙って聞いていた。
(……“俺とは違う”けど、“分かる”とこはある)
そんなふうに感じながら。
「……でも、断ったら、“いい子じゃなくなる”気がして……」
女の子は、自分を責めるみたいに俯いた。
藤宮は、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がちくんと痛んだ。
(“いい子じゃなくなる”……か)
東雲は、少し間を置いてから、ゆっくり口を開いた。
「“断ったら、良い子じゃなくなる気がする”って、さっき言ってたやろ?」
「……はい」
「多分それ、“拒否の回避”が強く出てるんやと思う」
「きょ、ひ……?」
女の子は目を瞬かせる。
藤宮は、カップを持ったまま、ぴたりと動きを止めた。
(……心理学用語か?)
「“拒否の回避”。断ることで起こるかもしれへん摩擦とか、
  嫌われるかもしれへん不安を避けるために、
  本当は嫌やのに、“嫌って言えない”状態のこと」
東雲の声は、責める調子ではない。あくまで、説明として淡々としている。
「それ自体は、珍しいことでもないし、悪いことでもないよ」
女の子は、少しだけ顔を上げた。
「ただ、それが強くなりすぎると、“自分の気持ち”より“相手の期待”を優先しすぎてしまう。
  その結果、自分がどんどん削られていく」
指でテーブルの縁をなぞりながら、東雲は続けた。
「“優しい”って言われるのは、嬉しい言葉やと思う。でも、“優しい”って言葉の中には、時々、
  “都合のいい人”って意味が紛れ込むこともある」
女の子の肩が、小さく震えた。
(“都合のいい人”……)
藤宮は、胸の中でその言葉を反芻する。
――頼めば断らない。
――誘えば来てくれる。
――いつもニコニコしている。
(……全部、俺やんか)
心の中で、自嘲気味に笑う。
東雲は、女の子の目から視線を逸らさないようにしながら言った。
「だから、全部を受け取らんでええねん。“いつもありがとう”って言ってくれる人には、
  “今日は他の人にも頼んでみて”って、一回だけでも返してみる」
「……そんなこと、しても……いいんでしょうか」
「いいと思う。
  “いつもありがとう”って言われる立場の人間は、“たまには断る権利”も持ってるから」
藤宮の喉が、きゅっと締まる。
(“たまには断る権利”……)
今朝の女の子たちの顔が浮かぶ。「また誘うわ」と軽く言ってくれた彼女たち。
(あれぐらいなら……
 もっと前から、普通に断っても良かったんやな)
頭ではとっくに分かっていることのはずなのに、改めて言葉にされると、
まるで終わってしまった過去まで責められている気がしてしまう。
東雲の声は、静かに続いていた。
「自分が潰れてまうまで無理するのは、誰のためにもならへんよ」
その一言が、藤宮の胸のど真ん中に突き刺さった。
(……っ)
あの時の記憶が、一気に浮かび上がる。
――あの日。
――誘われた遊び。
――断った自分。
――一人で行かせてしまったこと。
――戻ってこなかったこと。
(“誰のためにもならへん”……?
 断らずに一緒に行ってたら、どうなってたんかって話やろ)
頭の中で、勝手にそう変換してしまう。
東雲はそんなつもりで言ってはいないのに。
胸の奥で、ずっと触れないようにしていた傷が、ざくりと抉られた気がした。
気づけば、椅子から立ち上がっていた。
「……悪い。俺、ちょっと出るわ」
東雲も女の子も、驚いたようにこちらを見る。
藤宮は、その視線から逃げるようにドアノブを掴んだ。
「藤宮――」
東雲が名前を呼ぶ声が聞こえたが、それを振り切るように扉を開け、そのまま廊下に出た。
扉が閉まる直前、紅茶の香りと、女の子の小さな息を呑む音が、
背中を撫でていった。
(……何やってんねん、俺)
廊下を歩きながら、藤宮は自分に吐き捨てる。
(あいつは、女の子に話してただけやろ。
 俺のこと責めたわけちゃうのに)
頭では分かっているのに、
感情はうまく言うことを聞いてくれない。
(事情も話してへん相手に、勝手に刺さって、勝手にキレて……
 アホちゃうか、ほんま)
階段を降りる足音だけが、やけに大きく響いた。

 ◇
部屋には、一瞬だけ、重い沈黙が落ちた。
東雲は、閉まった扉の方をしばらく見つめ、小さく息を吐く。
「……ごめんな。驚いたやろ」
向いの椅子に座る女の子が、おそるおそる口を開いた。
「わたしが、何か……」
「違う」
東雲はすぐに首を横に振る。
「今のは、多分、俺の言葉が刺さっただけやから。
  君のせいちゃうよ」
「でも……」
「大丈夫」
できるだけ柔らかい声で言い切る。
今は目の前の女の子を、きちんとケアするのが先だ。
「さっきの話の続きやけどな」
東雲は、話を元のレールに少し戻した。
「いきなり全部断るのは、多分しんどいと思う。せやから、最初の一歩だけ決めよか。
  “これは引き受ける、これは別の人に振る”って」
「……でも、そんなふうにしたら、嫌われちゃうかもしれないし……」
「“全部断る”わけちゃうやろ?」
「……はい」
「“全部やってくれる子”から、“やれる範囲で手伝ってくれる子”になるだけや。
  それは、ちゃんと君の中で決めてええバランスやと思う」
女の子は、しばらく黙って考え込んでいたが、やがて、かすかに頷いた。
「……一回だけ、言ってみます。
  “今日は無理やから、他の人にも頼んで”って」
「それで十分やと思う」
東雲は、少しだけ笑った。
「その一回で、世界が終わるかどうか、試してみよ」
「……終わらなさそうですね」
「多分な」
女の子は、ふっと息を吐いた。
さっきまで固まっていた肩が、少しだけ下がる。
「なんか、ちょっとだけ楽になりました」
「よかった」
「“たまには断る権利”って、言われたことなかったから……」
その言葉の重みを感じながら、東雲は静かに頷く。
「来てくれて、ありがとう」
女の子は深く頭を下げて、部屋を後にした。
ドアが閉まる音がして、また静寂が戻ってくる。
東雲は椅子に腰を下ろし、さっきまで藤宮が座っていた席を、ぼんやりと見つめた。
(……やっぱり、刺さってたな)
藤宮の顔。立ち上がるときの、あの痛そうな目。
(俺の言葉が、やと思う)
事情は何も知らない。
でも、“何かに触れてしまった”ことだけは、はっきり分かった。
胸の奥に、嫌な余韻が残る。
――もう、来ぇへんかもしれへんな。
喉の奥が、じんわりと重くなる。窓の外を見ると、空はもう薄暗い。
(もう、帰ろ)
そう決めて、東雲は最低限の片付けだけを済ませ、部屋を出た。
家の前まで帰ってきたのに、足が自然と向かったのは――
お隣の家だった。

東雲は、慣れた手つきでインターホンを押した。
「はーい」
聞き慣れた声がして、ガチャ、と鍵の開く音が続く。
ドアが開くと、スーツの上着を脱いだばかりの男が顔を覗かせた。
「お、智輝。珍しい時間やな」
「……ただいま、って言うのも変やけど」
「ほぼ実家やろ。入れ入れ」
東条啓介は、当たり前みたいに東雲を中へ通した。
リビングには、法律関係の書類がテーブルの上に積まれているが、
それでもどこか整っている。
ソファに座り込むと、東雲の身体から、少しだけ力が抜けた。
「飲み物、どうする?」
「なんでもええ」
「ほな、ジュースでええか」
東条はキッチンからグラスを二つ持ってきて、テーブルに置く。
グラスの水面をじっと見つめたまま、東雲はぽつりと口を開いた。
「今日、ちょっと……失敗?したかもしれへん」
「ほう?」
東条は、それ以上は何も言わず、続きを待っている。
その沈黙の使い方が、東雲には心地よかった。
「迷い込んで来た子に、“拒否の回避”の話しててな。
  自分を削ってまで、相手の期待ばっかり優先するのはしんどい、って」
「うん」
「そしたら、途中で、
  別の子が立ち上がって、何も言わんと出ていった」
東条は眉を少し上げた。
「別の子?」
「たまたま部屋におった子。二回しか喋ったことない」
「ふうん」
東雲は、グラスを指で軽くつつきながら続ける。
「多分やけど……
  俺の言葉が、その子にも刺さったんやと思う」
「……なるほどな」
東条の声には、責める気配はない。
ただ、状況を整理しているだけの、いつもの調子だ。
「その子の事情は、何も知らん。でも、あの顔は……
  どう考えても、“平気な顔”やなかったから」
「で、自分を責めてるんやな」
東雲は、少しだけ黙り込んだあと、認めるように頷いた。
「……うん。
  やっぱり、言い方が悪かったんかなって」
「言い方、きつかったん?」
「自分では、普通に説明したつもりやったけど」
東条は、ふっと笑みを漏らした。
「お前、たまにあるもんな。
  “ただの事実”を言ったつもりが、相手にはナイフに見えてるやつ」
「否定は、できへん」
東雲は目を伏せる。
「女の子の方は、大丈夫そうやったし。
  一緒に、“最初の一回だけ断る練習しよ”って決めて。
  ちょっと楽になったって言うて帰ってった」
「ほんなら、少なくともその子に関しては成功やろ」
「……問題は、もう一人の方」
東条はグラスを持ち上げ、少しだけ中身を揺らした。
「その子の名前は?」
「藤宮悠誠。法学部の二回」
「ほう、法学部。智輝、好きそうやな」
「何が」
「理屈と筋の通りそうなとこ」
さらっと言われて、東雲は少しだけ目を細めた。
「……なんでやろな」
「ん?」
「まだ二回しか喋ってへんのに、
  あいつがもう来てくれへんかもしれへん、って思ったら、なんか、淋しいっていうか」
言いながら、自分でもおかしいと思った。
東条は、あからさまにニヤリと笑う。
「ふーん」
「……その顔、やめて」
「いやいや。二回しか会ったことない相手やのに、
  来なくなったら淋しいって?」
「……」
「智輝、お前さ」
東条は、くいっと顎を上げて言った。
「そいつの顔、めっちゃ好みなんやろ」
「は?」
予想してなかった角度からの言葉に、東雲は思わず間の抜けた声を出した。
東条は楽しそうに続ける。
「前からやん。お前、男女問わずわかりやすいくらい面食いやで」
「……自覚は、ある」
そこは否定しなかった。
「綺麗な顔のやつとか、自分の好みど真ん中の顔とかには、
  最初の印象から甘めになるねん。そんで、“何でか分からんけど気になる”って」
「そんな単純な話ちゃうと思うけど」
「そらもちろん、それ“だけ”ちゃうやろけどな」
東条はグラスをテーブルに置き、少し真面目な目つきになる。
「でも、顔が好みやと、ちょっとしたことで胸がざわついたり、
  “もう来てくれへんかも”ってだけで淋しかったり――そういうもんやろ?」
東雲は、返す言葉を失った。
(……顔が、好み)
藤宮の顔が、頭に浮かぶ。涼しげな目元、整った輪郭。笑ったときの口元。
確かに、初めて見た瞬間から、「綺麗な顔やな」とは思っていた。
でも、それを自覚的に“好み”と認識していたわけではない。
東条は、そんな東雲の表情を見て、少しだけ声を和らげた。
「確かに、お前の言葉で反応したんやろな。
  でもそれは、“お前が傷つけた”って話とは違う」
啓介は、智輝を見て静かに言った。
「その子の中に、
  もともと触れられたら痛いとこがあっただけや」
東条は指を一本立てる。
「お前の責任は、ない。
  相手を攻撃するために使った言葉ちゃうんやろ?」
「……うん」
「せやったら、あとは向こうのタイミングや。
  来たかったら、また来る」
東雲は、グラスの水面を見つめた。
「……来る、かな」
「そら知らん」
即答だった。
「来るかどうかは、あいつの問題や。
  でも、お前は“開けとく側”なんやろ?」
「……“追い返さない”ルール」
自分で決めたはずのルールを、東条の口から再確認させられる。
「せやろ?じゃあ、扉だけ開けとき。
  来るかどうかは、向こうの自由や」
東雲は、ようやく小さく笑った。
「それ、ずるい言い方やな」
「弁護士やからな」
東条は、わざとらしく肩をすくめる。
それでも、その軽さに少し救われる気がした。

 ◇
一方そのころ――
藤宮は、自分の部屋のベッドに、バタンと倒れ込んでいた。
天井を見上げながら、さっきの自分の行動を何度も再生してみる。
(……ほんま、何してんねん、俺)
女の子に向けて話していた言葉を、勝手に自分への非難に変換して、
勝手に痛くなって、勝手に出ていった。
(事情も話してへんのにやで?)
東雲は、何も知らない。
遊びに誘われた日のことも、そこで自分が何を選んだのかも。
(事情知らん相手の言葉に、勝手に刺さって怒るとか……子どもか)
枕に顔を押し付けて、くぐもった声で唸る。
(でも、あの言葉、マジで、痛かったな……)
「自分が潰れてまうまで無理するのは、誰のためにもならへん」
頭では、正しい言葉だと分かっている。だからこそ、余計に苦い。
(あいつは、女の子に言ってただけ。俺のこと責めたわけちゃう)
何度そう言い聞かせても、胸の奥のざらつきは、すぐには消えなかった。
それでも――時間が少し経つと、怒りの矛先は、完全に自分自身だけに向いていく。
(……謝りに行かなあかんな)
口に出してみた瞬間、ようやく少しだけ胸の圧迫が和らいだ気がした。

 ◇
次の日。
授業が終わると、藤宮の足は、旧校舎へ向かっていた。
(……三日連続や、ここまで来んの)
自分で自分にツッコミを入れつつも、足取りは思ったほど重くはない。
“謝りに行く”という目的があるからかもしれない。
廊下の突き当たり。見慣れたドアの前で立ち止まり、深呼吸を一つ。
コンコン、とノックする。
「どうぞ」
返ってきた声は、いつも通りだった。
藤宮は、ドアを開ける。
「……よ」
東雲は、机の上に紙を広げて何かを書いていたが、
顔を上げて藤宮を見ると、少しだけ目を見開いた。
「藤宮」
「おはよ。……って時間でもないけど」
言葉のあとに、妙な間が残った。
「今日は、“迷い込んだ”って感じやないな」
「……謝りに来た」
そう言って、続けた。
「昨日は、悪かった。何も言わんと出ていって」
東雲は、少しだけ瞬きをしてから首を横に振った。
「びっくりはしたけどな。別に、怒ってへん」
「それでも、ちゃんと言いたかってん」
藤宮は、軽く頭を下げた。
「事情とか……上手く説明できへんねんけど」
「うん」
東雲は、それ以上何も聞かなかった。
 “事情は?”とも、“何があったん?”とも言わず、
 ただ「うん」と受け取る。
「言えるときが来たら、言えばええし。
  言いたくないなら、言わんでええ」
その言い方は、責めず、急かさず、
 ただそこに居場所を残すような響きをしていた。
藤宮は、少しだけ肩の力を抜く。
「……ありがとうな」
「別に」
東雲は立ち上がると、いつものように紅茶を淹れ始めた。
「座ったら?
  謝りに来ただけやったら、もったいない」
「もったいないて」
苦笑しながらも、
藤宮は言われた通り椅子に腰を下ろす。
「昨日の子、どうなったん?」
ふと、そんな言葉が口からこぼれた。
東雲は、ポットに湯を注ぎながら答える。
「“一回だけ断ってみる”って決めて帰った。
  どうなったかは、また来てくれたときに聞く」
「……そっか」
(“また来てくれたとき”って、自然に言うんやな。)
そんなことを思いながら、藤宮は出されたカップを受け取った。
部屋の中には、昨日と同じ紅茶の香りが満ちていく。
しばらくのあいだ、二人は、ほとんど何も喋らなかった。
けれど、その沈黙は、気まずさよりも、心地よさの方が勝っていた。
(……言えるようになったら、話そか)
藤宮は、カップの縁を指でなぞりながら、自分の胸の内にそっとそう決める。
あの時のこと。
断れなくなった理由のこと。
今はまだ、言葉にする準備ができていない。
けれど、“いつかここで話すかもしれない”と考えられるくらいには――
この部屋と、この相手が、心に馴染み始めていた。