玄関のチャイムが鳴った。
智輝はすぐにドアを開ける。約束の時間ちょうどだった。
外に立っていたのは悠誠だった。私服で、いつもより少しだけきれいめな格好をしている。
その違いに気づいた瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。家まで迎えに来てもらうのは、これが初めてだった。
「おはよ」
悠誠が先に声をかける。
「おはよう」
短い返事なのに、声を交わしただけで少し照れた。
智輝は靴に足を通しながら言う。
「今から出る」
その背後で足音がして、母が玄関までやってきた。
智輝の肩越しに外を覗き込み、悠誠の姿を見て、一瞬だけ言葉を失う。
「まぁ……」
間を置いて、素直な声が落ちる。
「ほんまにイケメンやな」
「ちょ、母さん」
智輝が止めるより早く、悠誠が軽く頭を下げた。
「おはようございます」
母はその様子を満足そうに眺めてから、智輝に視線を戻す。
「今日は出かけるん?」
「うん。車借りる」
「練習?」
「そう」
それ以上は聞かれなかった。
「気ぃつけてな。行ってらっしゃい」
ドアを閉めると、家の中の気配が遠のいた。外の空気が、はっきりと変わる。
智輝はポケットの中で鍵を確かめ、隣に立つ悠誠を見る。
「……行こか」
「うん」
二人は並んで歩き出した。
家を出ると、朝の空気がまだ少し冷たかった。
智輝は門扉を閉め、先に停めてある車の方へ歩く。父の車だ。今日は運転練習をするつもりで借りている。
悠誠が隣を歩きながら、何も言わずに歩幅を合わせてくる。
その距離が、いつもより近い。
「助手席、乗って」
智輝がそう言って鍵を開けると、悠誠は一瞬だけ目を瞬かせたあと、素直に助手席へ回った。
ドアが閉まる音が、住宅街に小さく響く。
運転席に座ると、シートの感触が少し硬い。
ミラーを合わせ、ハンドルに手を置く。
まだ慣れない位置関係に、指先がわずかに緊張する。
智輝はエンジンをかける前に、一度だけ息を整えた。
ゴールデンウィークに海へ行く予定がある。レンタカーを借りる話が出たとき、運転を悠誠ひとりに任せるのは嫌だと思った。
免許はある。けれど、実際に運転する機会はほとんどなかった。それを理由に、助手席に座り続けるのも違う気がした。
「いきなり遠出はせえへんよ。今日は近所だけ」
そう言いながら、智輝はブレーキを踏み、ギアを入れる。
車はゆっくりと動き出した。
住宅街の道は狭く、朝の時間帯は人通りもある。
曲がり角ごとに速度を落とし、慎重に進む。
悠誠は何も言わない。ただ、前を見ている。
一つ目の角を曲がったところで、智輝はハンドルを戻すのが少し遅れた。
車体が縁石に近づき、思わずブレーキを踏む。
心臓が一拍、早く打つ。
「大丈夫」
悠誠の声は落ち着いていた。
智輝は小さくうなずき、もう一度前を見る。
「……一人で運転できるって思われるん、嫌やねん」
信号のない交差点で一時停止しながら、ぽつりと零す。
「任せっきりになるのは、なんか違う」
悠誠は少しだけ首を傾けてから、短く笑った。
「そういうとこやと思う」
ハンドルを握ったままの智輝の手に、一瞬だけ視線を落とす。
自分で選んで、自分で並ぼうとするところ。
頼る前に、立とうとするところ。
言葉にしなくても分かる、と言うみたいに、
それ以上は何も足さなかった。
智輝はアクセルを踏み、車を前に出した。
視界の先に、いつも通る道が見える。
少しずつ、ハンドルの重さが分かってくる。
怖さと同じくらい、ちゃんと出来ているという感覚もあった。
信号で止まったとき、智輝はようやく隣を見る。
悠誠はリラックスした様子で、シートに深く腰掛けていた。
「……緊張してへん?」
「してるで」
即答だった。
「でも、任せたい時は任せるし、並びたい時は並べばええやん」
智輝は、その言葉を胸の中で転がす。
青に変わった信号を確認して、前を見る。
車はまた、静かに走り出した。
路地に入った瞬間、建物の影が増え、視界が一段暗くなった。
智輝は無意識にスピードを落とす。次の瞬間、白い影が横から飛び出した。
反射的にブレーキを踏む。車体が前に沈み、シートベルトが胸を押した。
心臓が耳の裏で強く鳴る。タイヤが止まり、音が途切れた。
智輝は息を詰めたまま、視線を落とす。
道路の端に、小さな白い塊が座り込んでいた。きょとんとした顔で、こちらを見上げている。
犬だろうか。
声にしようとして、喉で引っかかった。
悠誠が先にドアを開け、外に出る。
「止めた。大丈夫」
その声を聞いてから、智輝もドアを開けた。足が思ったより遅れる。
近づいてみると、子犬は無傷だった。ふわふわの毛並みで、首元に何もついていない。
「……ひいてない」
言葉にした途端、膝の力が抜けた。
悠誠が短く言う。「座れ」
気づけば縁石に座らされていた。
背中に回された手は強くないが、離れない。呼吸が整うまで、そこにある。
「びっくりしたな」
「……した」
子犬がちょこちょこと近づいてきて、
智輝の膝に鼻先を押しつけた。温かい。ちゃんと生きている重さ。
「迷い犬、かな」
「この毛並みで?」
悠誠がしゃがみ込み、子犬の様子を見る。
「きれいすぎるな」
智輝は何も言わず、そっと撫でた。指の下で毛が揺れ、体温が伝わる。
「獣医さん、行こ」
「うん」
悠誠が立ち上がり、智輝の手を取る。
「今日は、俺が運転する」
「……練習、やったのに」
「続きは、あとで」
子犬を抱いたまま助手席に座る。
ドアが閉まる音が、さっきより近くに感じられた。
しばらく、言葉が出なかった。
胸の奥がざわついたまま、呼吸だけが浅い。
悠誠は前を見たまま、落ち着いた声で言う。
「急に出てきたんや」
「誰でも驚く」
智輝は子犬を胸に引き寄せる。
温もりが伝わるにつれて、心拍が少しずつ整っていく。
「……かわいい」
「そやな」
動物病院の前で、エンジンの音が止まった。悠誠がエンジンを切ると車内の振動が消え、子犬が小さく鳴いた。
「着いたで」
智輝は腕の中を見下ろす。丸い目が不安そうに瞬き、喉がひくつく気配が伝わった。
「すぐ終わる」
声を落とすと、指先をぺろりと舐められる。
温い舌の感触が皮膚に残って、さっきまで耳の奥にあったブレーキの衝撃が少し遠のく。
抱えたまま外に出る。自動ドアが開く音に重なって消毒の匂いが流れ込み、白い床の光が目に刺さった。
受付で事情を伝える。拾った場所と時刻、外傷が見えないこと、首輪がないこと。
智輝は言葉を短く揃え、余計な推測を挟まない。看護師が子犬を預かり、腕の中が急に軽くなる。
空いた重さに、体の内側が遅れて揺れた。
待合の椅子に腰を落とすと、足裏にブレーキを踏み込んだ感触が戻り、靴底が床に吸い付くように思えた。
智輝は膝の上に両手を置き、指先を握ってほどく。落ち着かせる順番を探す動きが、勝手に出る。
隣に悠誠が座る。肩一つ分の距離が詰まっただけで、息が浅くなるのが自分でも分かった。
「まだ手、冷たい」
言われて初めて気づく。指先が白く、血の気が引いたみたいに鈍い。
悠誠が両手で包む。掌の熱がじわじわ移ってくるのに、包まれた形のほうが先に効いて、智輝の指がわずかにほどけた。
「ありがとう」
視線を落とすと、親指がゆっくり動き、皮膚を撫でる。
励ますでも急かすでもない速度が、胸の奥のざらつきを静めた。
「止められてよかったな」
悠誠が前を見たまま言う。智輝は頷く代わりに息を吐き、吐いた分だけ肩を落とした。
診察室のドアが開き、獣医師が顔を出した。
「マイクロチップ、入っていません」
画面を指し示しながら淡々と告げる声に、智輝の思考が一段切り替わる。
チップがないこと自体は結論にならない。装着していない飼い主もいる。
外に出す予定がない家庭なら、なおさら。
智輝は椅子の端に残っていた緊張をゆっくり沈め、次に拾う情報を待つ。
「この子、状態がいいです」
獣医師は口腔内を見た所見と、皮膚の様子を続ける。
「歯もきれいで、毛並みも手入れされています。爪も伸びすぎていない」
智輝の頭の中で、点が並ぶ。首輪がない。チップもない。
けれど健康状態は良い。迷子の線はまだ消えないが、放浪していた時間は長くないかもしれない。
拾った場所を思い浮かべる。路地の陰、車通り、近くの住宅。高級住宅地でもない。
散歩中のすれ違いで首輪が外れた可能性はある。だが、飛び出してきた角度が引っかかる。
人を探す動きでも、怖がって逃げる動きでもなく、まっすぐ道路へ出た。
智輝は自分の中で勝手に物語ができかけるのを止め、舌で上顎を押した。
今は推測より順番。獣医師が続ける。
「犬種的に、人気がある子です。盗難の相談も時々あります」
その言い方は断定ではなく、可能性の列挙だった。
智輝はそこで初めて、胸の奥がきゅっと縮むのを感じる。
嫌な想像が出たこと自体に気づき、息を浅くして押し戻す。
「断定はできませんよね」
自分の声が思ったより低く、抑えた音で出た。
獣医師は頷く。
「はい。迷子のこともあります。ただ、首輪や鑑札がないので、
手順としては警察と保健所に連絡して、照合します」
智輝は頷き、手順という言葉にだけ心が寄った。
手順は逃げ道ではなく、揺れた気持ちを置ける場所だった。
「拾った場所と時間、特徴はこちらでも記録しておきます。写真も撮っておきましょう」
智輝はスマホを取り出し、拾った場所の位置情報を開く。
地図の青い点と路地の角度を確認し、余計な確信を持たないように指を止めた。
悠誠が横から覗き込み、短く言う。
「交番、行ってくる」
智輝は顔を上げる。
「うん。場所と時間、送る」
悠誠が頷き、靴音を立てて廊下へ出ていく。
智輝は診察台の上の子犬を見る。尻尾が小さく揺れ、こちらを見上げる目が落ち着いてきている。
安心しているのが分かるほど、身勝手な想像がまた頭を持ち上げる。
どこから来た。誰が探している。誰が困っている。
智輝はそれを一つずつ押し戻し、代わりに子犬の呼吸だけを数えた。
早くない、苦しくない。舌が少し出ている。緊張は残っているが、怯えきってはいない。
獣医師がカルテに書き込みながら言う。
「同じ犬種の届出があれば、特徴で当たります。なければ、保護の手続きになります」
智輝は頷き、言葉の中の分岐にだけ意識を置く。
届出がある場合、ない場合。どちらでも、この子が安全な場所にいることは変わらない。
そこに集中すると、胸の奥の縮みが少し緩んだ。
待合に戻ると、夕方の光がガラス越しに白く伸び、床に細い影を落としていた。
智輝は椅子に座り、膝の上の空白に手を置く。
さっきまでの温度がなくなって、指先がまた冷えそうになる。
スマホが震え、悠誠からメッセージが入る。
交番は防犯カメラの確認を依頼できる、近隣で盗難届が出ている可能性がある、
特徴を伝えた。短い文だけで要点が揃い、智輝は胸の奥に小さく力が入るのを感じた。
少しして悠誠が戻る。制服の警察官と短く話したのだろう、頬が冷えて赤い。
「近所で、似た子の盗難届が出てた」
悠誠が言い、智輝の背中がわずかに硬くなる。
「似た」その曖昧さが、最後の距離だった。
「特徴が一致したら、飼い主が来る」
悠誠が続け、智輝は頷く。まだ決めつけない。決めつけないまま、用意だけする。
もし飼い主が来たら。来なかったら。
智輝はその両方の場面を頭の中で並べ、どちらにも同じ手順を置いた。
待っている間、子犬が再び診察室から出てきた。看護師の腕の中で小さく首を傾げ、智輝のほうを見て尻尾を振った。
智輝の胸の奥がふっと緩み、代わりに、さっき縮んだ場所が遅れて熱を持った。
無事でよかった、という感情がやっと届いたのだと分かる。
飼い主が来たのは、その少しあとだった。名前を呼ぶ声がして、子犬が一瞬で腕を抜け、床を走っていく。
一直線の動きが、さっき路地で見た唐突さとは違い、迷いのない確信だけを持っていた。
智輝はその後ろ姿を見送り、胸の奥に残っていた硬さがゆっくり解けていくのを感じる。
悠誠が隣で息を吐き、短く言う。「よかったな」智輝は頷き、言葉にせずに指先を握ってほどいた。
帰り道に残るのは、まだ微かなブレーキの感触と、掌に残った犬の温度だった。
駐車場に戻ると、夕方の風が少しだけ冷たかった。
子犬を抱いた腕から温度が消えて、智輝は無意識に肩をすくめる。
「……終わったな」
悠誠の声が、いつもより低い。智輝は伸びをして、首を鳴らした。
「疲れた」
「せやろ」
車に乗り込む。
身体が先に動いて、運転席に座る。
シートベルトを引く音が、やけに大きく聞こえた。
エンジンがかかる。
助手席の悠誠の気配が、近い。
「今日、途中で止まってしもたな」
「うん」
信号で車が止まる。智輝は、ハンドルに置いた手を見た。
「次は、最後までやろ」
「海の前?」
「海の前」
そう言って、悠誠は前を見る。
それだけで、智輝の呼吸が少し整った。
街が、いつもの速さで流れていく。
さっきまでの緊張が、遠ざかっていくのが分かる。
駅前を一本外れたところで、車を止めた。
住宅街は静かで、公園には誰もいない。
街灯の光が、地面に丸く落ちている。
「ここでええで」
悠誠が言う
エンジンを切ると、夜の気配が近づいた。
智輝は、ハンドルから手を離した。
指先に、昼間の感触がまだ残っている。
「送るって言うたのに」
「一日ずっと隣おってくれたやろ」
悠誠は何も言わず、視線だけ向けた。
「……今日さ」
智輝が続ける。
「俺、正直ちょっと怖かった」
「知ってる」
即答。
それだけで、胸の奥がゆるんだ。
「でも、横に悠誠がおったから」
「うん」
距離が縮まる。
悠誠の手が伸びてきて、智輝の顎に触れる。
「顔、上げて」
低い声。智輝はそのまま従う。
一瞬、止まってから、ゆっくり唇が重なった。
智輝は無意識に、シートに手をつく。
頬に添えられた指が、あたたかい。
もう一度。さっきより、近い。
離れたあと、額が触れる距離で止まる。
「……甘えてる?」
「今日は、ええやろ」
悠誠が短く笑う。
「練習もしたし」
「犬も助かったし」
「ちゃんと、帰ってきたし」
智輝は、肩を預けた。
「……次は、海やな」
「その前に、また練習」
「うん」
その返事に、悠誠の手が、背中を軽く撫でた。
「ほな、またな」
ドアを開けると、夜の空気が流れ込む。
振り返って、もう一度だけ近づく。
短く、口づける。
「気ぃつけて」
「そっちも」
ドアが閉まる。
智輝は、しばらく動かずに座っていた。
公園の暗がりは、静かなままや。
胸の奥に残ったあたたかさを確かめてから、
ゆっくり車を走らせた。
智輝はすぐにドアを開ける。約束の時間ちょうどだった。
外に立っていたのは悠誠だった。私服で、いつもより少しだけきれいめな格好をしている。
その違いに気づいた瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。家まで迎えに来てもらうのは、これが初めてだった。
「おはよ」
悠誠が先に声をかける。
「おはよう」
短い返事なのに、声を交わしただけで少し照れた。
智輝は靴に足を通しながら言う。
「今から出る」
その背後で足音がして、母が玄関までやってきた。
智輝の肩越しに外を覗き込み、悠誠の姿を見て、一瞬だけ言葉を失う。
「まぁ……」
間を置いて、素直な声が落ちる。
「ほんまにイケメンやな」
「ちょ、母さん」
智輝が止めるより早く、悠誠が軽く頭を下げた。
「おはようございます」
母はその様子を満足そうに眺めてから、智輝に視線を戻す。
「今日は出かけるん?」
「うん。車借りる」
「練習?」
「そう」
それ以上は聞かれなかった。
「気ぃつけてな。行ってらっしゃい」
ドアを閉めると、家の中の気配が遠のいた。外の空気が、はっきりと変わる。
智輝はポケットの中で鍵を確かめ、隣に立つ悠誠を見る。
「……行こか」
「うん」
二人は並んで歩き出した。
家を出ると、朝の空気がまだ少し冷たかった。
智輝は門扉を閉め、先に停めてある車の方へ歩く。父の車だ。今日は運転練習をするつもりで借りている。
悠誠が隣を歩きながら、何も言わずに歩幅を合わせてくる。
その距離が、いつもより近い。
「助手席、乗って」
智輝がそう言って鍵を開けると、悠誠は一瞬だけ目を瞬かせたあと、素直に助手席へ回った。
ドアが閉まる音が、住宅街に小さく響く。
運転席に座ると、シートの感触が少し硬い。
ミラーを合わせ、ハンドルに手を置く。
まだ慣れない位置関係に、指先がわずかに緊張する。
智輝はエンジンをかける前に、一度だけ息を整えた。
ゴールデンウィークに海へ行く予定がある。レンタカーを借りる話が出たとき、運転を悠誠ひとりに任せるのは嫌だと思った。
免許はある。けれど、実際に運転する機会はほとんどなかった。それを理由に、助手席に座り続けるのも違う気がした。
「いきなり遠出はせえへんよ。今日は近所だけ」
そう言いながら、智輝はブレーキを踏み、ギアを入れる。
車はゆっくりと動き出した。
住宅街の道は狭く、朝の時間帯は人通りもある。
曲がり角ごとに速度を落とし、慎重に進む。
悠誠は何も言わない。ただ、前を見ている。
一つ目の角を曲がったところで、智輝はハンドルを戻すのが少し遅れた。
車体が縁石に近づき、思わずブレーキを踏む。
心臓が一拍、早く打つ。
「大丈夫」
悠誠の声は落ち着いていた。
智輝は小さくうなずき、もう一度前を見る。
「……一人で運転できるって思われるん、嫌やねん」
信号のない交差点で一時停止しながら、ぽつりと零す。
「任せっきりになるのは、なんか違う」
悠誠は少しだけ首を傾けてから、短く笑った。
「そういうとこやと思う」
ハンドルを握ったままの智輝の手に、一瞬だけ視線を落とす。
自分で選んで、自分で並ぼうとするところ。
頼る前に、立とうとするところ。
言葉にしなくても分かる、と言うみたいに、
それ以上は何も足さなかった。
智輝はアクセルを踏み、車を前に出した。
視界の先に、いつも通る道が見える。
少しずつ、ハンドルの重さが分かってくる。
怖さと同じくらい、ちゃんと出来ているという感覚もあった。
信号で止まったとき、智輝はようやく隣を見る。
悠誠はリラックスした様子で、シートに深く腰掛けていた。
「……緊張してへん?」
「してるで」
即答だった。
「でも、任せたい時は任せるし、並びたい時は並べばええやん」
智輝は、その言葉を胸の中で転がす。
青に変わった信号を確認して、前を見る。
車はまた、静かに走り出した。
路地に入った瞬間、建物の影が増え、視界が一段暗くなった。
智輝は無意識にスピードを落とす。次の瞬間、白い影が横から飛び出した。
反射的にブレーキを踏む。車体が前に沈み、シートベルトが胸を押した。
心臓が耳の裏で強く鳴る。タイヤが止まり、音が途切れた。
智輝は息を詰めたまま、視線を落とす。
道路の端に、小さな白い塊が座り込んでいた。きょとんとした顔で、こちらを見上げている。
犬だろうか。
声にしようとして、喉で引っかかった。
悠誠が先にドアを開け、外に出る。
「止めた。大丈夫」
その声を聞いてから、智輝もドアを開けた。足が思ったより遅れる。
近づいてみると、子犬は無傷だった。ふわふわの毛並みで、首元に何もついていない。
「……ひいてない」
言葉にした途端、膝の力が抜けた。
悠誠が短く言う。「座れ」
気づけば縁石に座らされていた。
背中に回された手は強くないが、離れない。呼吸が整うまで、そこにある。
「びっくりしたな」
「……した」
子犬がちょこちょこと近づいてきて、
智輝の膝に鼻先を押しつけた。温かい。ちゃんと生きている重さ。
「迷い犬、かな」
「この毛並みで?」
悠誠がしゃがみ込み、子犬の様子を見る。
「きれいすぎるな」
智輝は何も言わず、そっと撫でた。指の下で毛が揺れ、体温が伝わる。
「獣医さん、行こ」
「うん」
悠誠が立ち上がり、智輝の手を取る。
「今日は、俺が運転する」
「……練習、やったのに」
「続きは、あとで」
子犬を抱いたまま助手席に座る。
ドアが閉まる音が、さっきより近くに感じられた。
しばらく、言葉が出なかった。
胸の奥がざわついたまま、呼吸だけが浅い。
悠誠は前を見たまま、落ち着いた声で言う。
「急に出てきたんや」
「誰でも驚く」
智輝は子犬を胸に引き寄せる。
温もりが伝わるにつれて、心拍が少しずつ整っていく。
「……かわいい」
「そやな」
動物病院の前で、エンジンの音が止まった。悠誠がエンジンを切ると車内の振動が消え、子犬が小さく鳴いた。
「着いたで」
智輝は腕の中を見下ろす。丸い目が不安そうに瞬き、喉がひくつく気配が伝わった。
「すぐ終わる」
声を落とすと、指先をぺろりと舐められる。
温い舌の感触が皮膚に残って、さっきまで耳の奥にあったブレーキの衝撃が少し遠のく。
抱えたまま外に出る。自動ドアが開く音に重なって消毒の匂いが流れ込み、白い床の光が目に刺さった。
受付で事情を伝える。拾った場所と時刻、外傷が見えないこと、首輪がないこと。
智輝は言葉を短く揃え、余計な推測を挟まない。看護師が子犬を預かり、腕の中が急に軽くなる。
空いた重さに、体の内側が遅れて揺れた。
待合の椅子に腰を落とすと、足裏にブレーキを踏み込んだ感触が戻り、靴底が床に吸い付くように思えた。
智輝は膝の上に両手を置き、指先を握ってほどく。落ち着かせる順番を探す動きが、勝手に出る。
隣に悠誠が座る。肩一つ分の距離が詰まっただけで、息が浅くなるのが自分でも分かった。
「まだ手、冷たい」
言われて初めて気づく。指先が白く、血の気が引いたみたいに鈍い。
悠誠が両手で包む。掌の熱がじわじわ移ってくるのに、包まれた形のほうが先に効いて、智輝の指がわずかにほどけた。
「ありがとう」
視線を落とすと、親指がゆっくり動き、皮膚を撫でる。
励ますでも急かすでもない速度が、胸の奥のざらつきを静めた。
「止められてよかったな」
悠誠が前を見たまま言う。智輝は頷く代わりに息を吐き、吐いた分だけ肩を落とした。
診察室のドアが開き、獣医師が顔を出した。
「マイクロチップ、入っていません」
画面を指し示しながら淡々と告げる声に、智輝の思考が一段切り替わる。
チップがないこと自体は結論にならない。装着していない飼い主もいる。
外に出す予定がない家庭なら、なおさら。
智輝は椅子の端に残っていた緊張をゆっくり沈め、次に拾う情報を待つ。
「この子、状態がいいです」
獣医師は口腔内を見た所見と、皮膚の様子を続ける。
「歯もきれいで、毛並みも手入れされています。爪も伸びすぎていない」
智輝の頭の中で、点が並ぶ。首輪がない。チップもない。
けれど健康状態は良い。迷子の線はまだ消えないが、放浪していた時間は長くないかもしれない。
拾った場所を思い浮かべる。路地の陰、車通り、近くの住宅。高級住宅地でもない。
散歩中のすれ違いで首輪が外れた可能性はある。だが、飛び出してきた角度が引っかかる。
人を探す動きでも、怖がって逃げる動きでもなく、まっすぐ道路へ出た。
智輝は自分の中で勝手に物語ができかけるのを止め、舌で上顎を押した。
今は推測より順番。獣医師が続ける。
「犬種的に、人気がある子です。盗難の相談も時々あります」
その言い方は断定ではなく、可能性の列挙だった。
智輝はそこで初めて、胸の奥がきゅっと縮むのを感じる。
嫌な想像が出たこと自体に気づき、息を浅くして押し戻す。
「断定はできませんよね」
自分の声が思ったより低く、抑えた音で出た。
獣医師は頷く。
「はい。迷子のこともあります。ただ、首輪や鑑札がないので、
手順としては警察と保健所に連絡して、照合します」
智輝は頷き、手順という言葉にだけ心が寄った。
手順は逃げ道ではなく、揺れた気持ちを置ける場所だった。
「拾った場所と時間、特徴はこちらでも記録しておきます。写真も撮っておきましょう」
智輝はスマホを取り出し、拾った場所の位置情報を開く。
地図の青い点と路地の角度を確認し、余計な確信を持たないように指を止めた。
悠誠が横から覗き込み、短く言う。
「交番、行ってくる」
智輝は顔を上げる。
「うん。場所と時間、送る」
悠誠が頷き、靴音を立てて廊下へ出ていく。
智輝は診察台の上の子犬を見る。尻尾が小さく揺れ、こちらを見上げる目が落ち着いてきている。
安心しているのが分かるほど、身勝手な想像がまた頭を持ち上げる。
どこから来た。誰が探している。誰が困っている。
智輝はそれを一つずつ押し戻し、代わりに子犬の呼吸だけを数えた。
早くない、苦しくない。舌が少し出ている。緊張は残っているが、怯えきってはいない。
獣医師がカルテに書き込みながら言う。
「同じ犬種の届出があれば、特徴で当たります。なければ、保護の手続きになります」
智輝は頷き、言葉の中の分岐にだけ意識を置く。
届出がある場合、ない場合。どちらでも、この子が安全な場所にいることは変わらない。
そこに集中すると、胸の奥の縮みが少し緩んだ。
待合に戻ると、夕方の光がガラス越しに白く伸び、床に細い影を落としていた。
智輝は椅子に座り、膝の上の空白に手を置く。
さっきまでの温度がなくなって、指先がまた冷えそうになる。
スマホが震え、悠誠からメッセージが入る。
交番は防犯カメラの確認を依頼できる、近隣で盗難届が出ている可能性がある、
特徴を伝えた。短い文だけで要点が揃い、智輝は胸の奥に小さく力が入るのを感じた。
少しして悠誠が戻る。制服の警察官と短く話したのだろう、頬が冷えて赤い。
「近所で、似た子の盗難届が出てた」
悠誠が言い、智輝の背中がわずかに硬くなる。
「似た」その曖昧さが、最後の距離だった。
「特徴が一致したら、飼い主が来る」
悠誠が続け、智輝は頷く。まだ決めつけない。決めつけないまま、用意だけする。
もし飼い主が来たら。来なかったら。
智輝はその両方の場面を頭の中で並べ、どちらにも同じ手順を置いた。
待っている間、子犬が再び診察室から出てきた。看護師の腕の中で小さく首を傾げ、智輝のほうを見て尻尾を振った。
智輝の胸の奥がふっと緩み、代わりに、さっき縮んだ場所が遅れて熱を持った。
無事でよかった、という感情がやっと届いたのだと分かる。
飼い主が来たのは、その少しあとだった。名前を呼ぶ声がして、子犬が一瞬で腕を抜け、床を走っていく。
一直線の動きが、さっき路地で見た唐突さとは違い、迷いのない確信だけを持っていた。
智輝はその後ろ姿を見送り、胸の奥に残っていた硬さがゆっくり解けていくのを感じる。
悠誠が隣で息を吐き、短く言う。「よかったな」智輝は頷き、言葉にせずに指先を握ってほどいた。
帰り道に残るのは、まだ微かなブレーキの感触と、掌に残った犬の温度だった。
駐車場に戻ると、夕方の風が少しだけ冷たかった。
子犬を抱いた腕から温度が消えて、智輝は無意識に肩をすくめる。
「……終わったな」
悠誠の声が、いつもより低い。智輝は伸びをして、首を鳴らした。
「疲れた」
「せやろ」
車に乗り込む。
身体が先に動いて、運転席に座る。
シートベルトを引く音が、やけに大きく聞こえた。
エンジンがかかる。
助手席の悠誠の気配が、近い。
「今日、途中で止まってしもたな」
「うん」
信号で車が止まる。智輝は、ハンドルに置いた手を見た。
「次は、最後までやろ」
「海の前?」
「海の前」
そう言って、悠誠は前を見る。
それだけで、智輝の呼吸が少し整った。
街が、いつもの速さで流れていく。
さっきまでの緊張が、遠ざかっていくのが分かる。
駅前を一本外れたところで、車を止めた。
住宅街は静かで、公園には誰もいない。
街灯の光が、地面に丸く落ちている。
「ここでええで」
悠誠が言う
エンジンを切ると、夜の気配が近づいた。
智輝は、ハンドルから手を離した。
指先に、昼間の感触がまだ残っている。
「送るって言うたのに」
「一日ずっと隣おってくれたやろ」
悠誠は何も言わず、視線だけ向けた。
「……今日さ」
智輝が続ける。
「俺、正直ちょっと怖かった」
「知ってる」
即答。
それだけで、胸の奥がゆるんだ。
「でも、横に悠誠がおったから」
「うん」
距離が縮まる。
悠誠の手が伸びてきて、智輝の顎に触れる。
「顔、上げて」
低い声。智輝はそのまま従う。
一瞬、止まってから、ゆっくり唇が重なった。
智輝は無意識に、シートに手をつく。
頬に添えられた指が、あたたかい。
もう一度。さっきより、近い。
離れたあと、額が触れる距離で止まる。
「……甘えてる?」
「今日は、ええやろ」
悠誠が短く笑う。
「練習もしたし」
「犬も助かったし」
「ちゃんと、帰ってきたし」
智輝は、肩を預けた。
「……次は、海やな」
「その前に、また練習」
「うん」
その返事に、悠誠の手が、背中を軽く撫でた。
「ほな、またな」
ドアを開けると、夜の空気が流れ込む。
振り返って、もう一度だけ近づく。
短く、口づける。
「気ぃつけて」
「そっちも」
ドアが閉まる。
智輝は、しばらく動かずに座っていた。
公園の暗がりは、静かなままや。
胸の奥に残ったあたたかさを確かめてから、
ゆっくり車を走らせた。
