S.S:Silent Society

来週には、後期試験が始まる。
集中するために、早々に帰宅することもあるが、基本的に二人は部室で試験勉強をしている。
向かい合って座っていると、藤宮の指が、東雲の髪に触れた。
いつもの距離より、少し近い。いつもの触れ方より、迷いがない。
指先が、金色の髪をすくって、耳元まで滑る。

「……なあ」

低い声で呼ばれて、東雲は一瞬、息を止めた。

「金髪とピアスってさ」

そこで言葉が切れる。耳のすぐ後ろに、指の温度が残った。

「今さらやけど。智輝のこと知ってからやと、ちょっと不思議になってきて」

東雲は、完全に固まった。

(……なに、それ)

問い詰められているわけでもない。
責められているわけでもない。
ただ、静かに触れられて、静かに言われただけなのに、
頭が追いつかない。

(今さら?そこ?なんで、今)

声を出そうとして、失敗した、そのとき。
――コン。

控えめな音がして、ドアが少しだけ開いた。

「……すみません」

恐る恐る、男子学生が顔だけを覗かせていた。

「ここ、何ですか」

東雲と藤宮は、同時に距離を取った。
触れていた指が、すっと離れる。
藤宮は一瞬だけ視線を彷徨わせてから、短く息を吐いた。

「Silent Society」

言い切るような声だった。
説明を足す気も、相手の反応を見る余裕もない。
今の空気を、さとられたくなかった。

東雲も、遅れて頷いた。

「……サークルです」

自分でも分かるくらい、声が硬い。
普段なら、もう少し説明したかもしれない。
でも今は、無理だった。

「サークル……?」

男子学生は、部室の中を見回した。
机と椅子、ホワイトボード。思っていたより、落ち着いた空間だった。

「二人だけで?
 こんな、ちゃんとした部室なんですね」

東雲は、淡々と答える。

「去年までは四人いたんです。でも、来期からは非公式になるって決まってて。
 たぶん、この部室も使えなくなります」

「そうなんですか」

男子学生は少し驚いた顔をして、
それから、どこか安心したように肩の力を抜いた。

「……迷い込んだだけなんです。静かそうやったから」

「試験期間やしな」

藤宮が言う。

東雲は立ち上がって、棚の方へ向かった。

「せっかくやから、紅茶でも飲みます?」

唐突な提案だった。

「え、いいんですか」

「どうぞ。今、時間あるんで」

断りにくい押しでもなく、誘うでもない、自然な言い方。
男子学生は少し迷ってから、頷いた。

湯を沸かす音。カップを置く音。
部室の空気が、少しずつ緩む。

「……落ち着きますね、ここ」

ぽつりと、男子学生が言った。

「そう言われることは多いです」

東雲は答えるだけで、続きを促さない。
カップを持ったまま、男子学生は息を吐き出した。
ようやく落ち着いたかのように、深くてゆっくりした息だった。

「院試が、終わったばっかりで」

男子学生が、独り言みたいに言った。

「あ、僕。院、志望なんです」

東雲は、カップを持ったまま頷いた。

「指導教員に、
『院まで行って、何をする?』って……」

男子学生はそこで言葉を切る。

「……正確には、
 言われた“気がしてる”だけなんですけど」

誰も、すぐには返事をしなかった。

「それ以来、研究室行くのも、周りと話すのも、自分が足りてない気がして」

東雲は、静かにカップを置いた。

「それ、責められた感じ、しました?」

「はい」

即答だった。

「否定された、とは思ってないですけど」

「……でも、頭の中では残ってる」

「うん」

東雲は、肯定も否定もしない。

「それ、質問やった可能性もあります」

男子学生が顔を上げる。

「質問?」

「考えてる途中なんか、もう決まってるんか。
 それを知りたかっただけかもしれません」

藤宮は、黙って聞いている。

「しんどいときに聞くと、質問って、責めに聞こえることあるんです」

「自分の中に、『足りてへん』って前提があると」

男子学生は、ゆっくり息を吐いた。

「……それ、あります」

「決まってない=遅れてる、ではないです」

東雲は、断定しない。ただ、構造を伝える。
しばらくして、男子学生は小さく笑った。

「……ちょっと、楽になりました」

カップを置いて、立ち上がる。

「ありがとうございました」

「いえ」

ドアが閉まる。静けさが戻った。


 「で、さっき聞きそびれたけど、なんで金髪にピアスなん?」

 男子学生が部屋から出たあと、試験勉強を再開したあとすぐだった。

 「そっちこそ、なんで今さら?」
 「初めてみた見ときは、ちゃらい奴なんかと思った。話してみてすぐにそうじゃないってわかったけどな。」
 「うん、ちゃらくはないで。」

 真剣に答える東雲に藤宮はおかしくなったが、真面目な顔を続けた。

 「それで智輝のこと知っていくうちに、性格的にあわん姿やなと思って—似合ってるで、これはほんま。」
 「そういうことか。深い理由はないねん」
 「ないん?」
 「うん。最初は好奇心。
  なんでわざわざ髪染めたり、ピアス開けたりするんやろって思って」
 「で、やってみた」
 「せや。したら案外似合っててな。
  ……ファッションとして“選ぶ”って、こういうことかって分かった」
 「気に入ったから続けてる。そんだけ」

 得意げな東雲を見て、藤宮は意外に思った。
 行動よりも思索するタイプだと思っていたが、
 好奇心を、ちゃんと自分で確かめにいく人間なのだと分かった。
 東雲の新たな一面は少しの驚きはあったが納得でもあった。






 部室は静かだった。
 暖房の音と、ページをめくるかすかな音だけがある。

 東雲はソファの端に座って、文庫本を読んでいた。
 表紙には、男女が意味ありげに向かい合っているイラスト。
 いかにも大人向けの恋愛小説だった。

 ページをめくって、数行読む。もう一度、同じところを読み返す。

 「……ふむ」

 低い声で、そう呟いた。

 向かいの机でノートを広げていた藤宮が、ペンを止める。

 「今の“ふむ”、何」
 「ん?」
 「いや、明らかに考え込むときの声やったから」

 東雲は本から目を離さず、真面目な顔のまま答えた。

 「この本な」
 「うん」
 「恋愛の描写が、けっこう具体的やねん」
 「……具体的?」

 藤宮は嫌な予感を覚えたが、もう遅い。
 東雲は栞を挟んで本を閉じ、ぱっと顔を上げた。

 「好きやったら、触れたくなるのは自然やって書いてある」
 「……ほう」
 「手とか、肩とか、それ以上とか」

 藤宮はゆっくり息を吐いた。

 「それ、どんなジャンルの本なん」
 「普通の恋愛小説。男女の」
 「……なんでそれ読んでるん」
 「気になって」

 即答だった。

 「気になるって、何が」
 「人は、なんでわざわざ距離を縮めるんやろって」

 東雲は首を傾げる。

 「好きやったら、近づきたいって思うのは理屈として分かるやろ?」
 「……まあ」
 と、返事を濁す藤宮。
 「でも、どこまでが普通なんかは、よう分からん」

 そこで一拍。

 「なあ、悠誠」
 「……何」
 「悠誠は、俺に対して、どこまで普通やと思ってるん?」

 完全に地雷だった。
 藤宮は言葉を探すふりをして、視線を泳がせる。

 「その質問、今ここでする?」
 「部室やし、誰もおらん」
 「そういう問題ちゃう」

 東雲は不思議そうに眉を寄せた。

 「だって、好きやったらしたくなるって書いてあるで」
 「……本が全部正しいわけちゃう」
 「でも、経験談っぽかった」

 藤宮は額に手を当てた。

 「智輝」
 「うん」
 「その“ふむ”は、もうちょい心の中でやって」

 東雲はきょとんとしてから、少し考えた。

 「……じゃあ、今度は質問してから“ふむ”するわ」

 全然解決していなかった。

 藤宮は天井を仰いで、静かに思った。

(あかん。この好奇心、放置したら確実に事故る)

 向かいで、何も分かっていない顔の東雲が、
 もう一度、文庫本を開いている。

 ページをめくる音が、やけに大きく聞こえた。
 藤宮はノートを見つめたまま、文字が一切頭に入ってこないことに気づいていた。

 「……なあ」
 「ん?」

 東雲は本から目を離さない。本に夢中になっている。

 「その本さ」
 「うん」
 「今、どのへん?」

 質問の意図を測りかねて、東雲は少し考える。

 「付き合い始めて、距離が縮まってきたところ」
 「もう縮めんでええやろ」
 「でも、ここからが本番っぽい」

 藤宮はペンを置いた。

 「……智輝」
 「なに」
 「それ、今読まなあかん?」

 東雲はようやく顔を上げた。

 「今やからええんちゃう?」
 「なんで」
 「俺ら、付き合ってるし」

 即死級の正論。
 藤宮は一瞬、言葉を失ってから、椅子を引いた。

 「ちょっと、外の空気吸ってくるわ」
 「なんで?」
 「頭、冷やす」

 立ち上がる動きが早すぎて、東雲は反射的に聞き返す。

 「暑くないやろ」
 「暑いねん、俺が」

 意味が分からない。
 ドアに向かう背中を、東雲が不思議そうに見送る。

 「……逃げてへん?」
 「逃げてへん!」
 「今の間は、どう見ても逃げ」
 「一時撤退や!」

 ドアが開いて、冷たい空気が入り込む。

 「ほな、五分だけな」
 
 藤宮はそう言い残して、廊下に出た。
 ドアが閉まる。

 部室に残された東雲は、しばらくそのまま立っていた。
 それから、ゆっくりと椅子に座り直す。

 「……ふむ」

 今度は、さっきより少し小さい声。
 東雲は本を見下ろしながら、考える。

(逃げた、よな。なんでやろ)

 ページの中では、
 “好きなら、触れたいと思うのは自然だ”と、何度も書いてある。

 「……自然、らしいけどな」

 呟いてから、首を傾げた。

(藤宮は、俺のこと、好きやろ?せやのに、なんで逃げるんやろ)

 疑問はある。でも、不安ではない。

 むしろ——

 「……困ってる顔やったな」

 そこまで考えて、東雲は、はっとした。
 藤宮が困る、ということは。少なくとも、無関心ではない。
 東雲は、もう一度本を閉じた。

 「……質問、しすぎたか」

 でも、やめようとは思わなかった。
 廊下の向こうで、藤宮が深く息を吐く気配がする。
 その音を聞きながら、東雲は、次に聞く言葉を、無自覚に選び始めていた。
 五分と言って出ていった藤宮は、きっちり五分で戻ってきた。
 ドアが開く音に、東雲は顔を上げる。

 「おかえり」
 「……ただいま」

 声は落ち着いている。顔も平常。
 さっきまでの動揺は、きれいに隠されていた。

 「頭、冷えた?」
 「まあな」

 藤宮は何事もなかったみたいに席に戻り、ノートを開く。
 その様子を、東雲はじっと見ていた。

(……切り替え、早すぎひん?)

 でも、口には出さない。代わりに、東雲は椅子から立ち上がった。

 「なあ」
 「ん?」

 返事をしながらも、藤宮の視線はノートに落ちたまま。
 東雲は、特に狙ったわけでもなく、自然に距離を詰めた。
 机の横に立つ。少し覗き込むだけの距離。

 「何書いてんの?」
 「試験範囲のまとめ」
 「へえ」

 東雲は身をかがめて、ノートを覗いた。
 その瞬間、藤宮のペンが止まる。
 近い。さっきより、確実に。

 「……智輝」
 「なに?」

 顔を上げると、東雲の金髪が視界に入る。
 耳元。ピアスが、わずかに光っている。
 藤宮は、無意識に手を伸ばしかけて、途中で止めた。

(あかん)

 その動きを、東雲は見逃さなかった。

 「今、触ろうとした?」
 「……してへん」
 「したやろ」

 責める声じゃない。ただの確認。
 藤宮は、観念したように息を吐いた。

 「……集中できひん」
 「俺がおるから?」
 「そういう言い方すな」

 東雲は少し考えてから、素直に言った。

 「でも、嬉しい」

 その一言で、藤宮の肩がわずかに強張る。

 「嬉しいって……」
 「だって、俺が近くにおるの、嫌ちゃうってことやろ?」

 間違っていない。だから、否定できない。

 「嫌ではない」
 「ほな、ええやん」

 東雲は一歩下がる代わりに、横に並んだ。
 肩が、触れそうで触れない距離。

 「さっきの本な」
 「……まだ言うんか」
 「読んでて思ってんけど」

 東雲は、本当に不思議そうな顔をして続ける。

 「好きって、理屈ちゃうんやな」
 「……急に何」
 「考えたら、俺、藤宮のこと見てるだけで落ち着くし」

 藤宮は、完全にノートを閉じた。

 「……それ以上は今日はあかん」
 「なんで?」
 「これ以上は、俺が困る」

 正直すぎる言い方だった。東雲は、きょとんとする。

 「困るって、悪い意味?」
 「……悪くない」
 「ほな、ええやん」

 また、逃げ場を塞ぐ。藤宮は、天井を見上げた。

(この好奇心、ほんまに手強い)

 でも、突き放す気は、どうしても起きなかった。
 代わりに、距離を保つように、椅子を少し引く。
 その小さな動きに、東雲は気づいた。

 「……また距離とった」
 「今日はな」
 「昨日は?」
 「昨日も」

 東雲は、少しだけ口を尖らせる。

 「……よく分からん」

 その声は、不満というより、本当に分からない人のそれだった。
 東雲は、自分の胸のあたりを軽く押さえる。

 「ここがな、ちょっとだけ」
 「……ちょっとだけ?」
 「落ち着かん」

 藤宮は、その言葉の意味を、正確に理解してしまった。

(ああ、これ——)

 まだ名前を持たない欲。自覚するには早すぎる感情。
 そしてそれを、自分に向けられているという事実。
 藤宮は、静かに、深く息を吸った。

 「……今日は、これ以上進まへん」
 「決定事項?」
 「決定事項」

 東雲は、少し考えてから、小さく頷いた。

 「……分かった」

 でも、引くわけじゃなかった。

 「ほな、今日はここまでな」
 「……うん」

 東雲はそう言いながら、ほんの一瞬だけ、藤宮の袖をつまんだ。
 すぐに離す。わざとらしくない、無意識の仕草。
 その一瞬で、藤宮の理性が、きしんだ。

(……あかん)



 家に帰ってからも、東雲の頭の中は、部室での藤宮で満ちていた。
 参考書を開いても、視線が同じ行を行き来するだけで、内容が入ってこない。

(……集中できへん)

 ため息をついて、本を閉じる。
 藤宮が距離を取ったときの、あの一瞬の表情が、何度も浮かんだ。

(嫌、ではないって言うてた)

 それは、はっきり覚えている。
 机に頬杖をついて、天井を見る。
 好き。それは、もう分かっている。

 でも——

 「……何やろ」

 言葉にならない違和感が、胸の奥に引っかかっていた。
 不安ではない。嫌な感じでもない。
 むしろ、落ち着く。藤宮と並んでいる時間は、ずっとそうだった。
 けれど、今日の自分は、そこから一歩、先を見てしまった気がする。

(触れられるの、嫌ちゃう)

 むしろ、触れられなかったことのほうが、少しだけ、気になった。
 東雲は、無意識に自分の耳を撫でる。さっき、藤宮が触れかけた場所。
 何かを期待したわけじゃない。そう思いたい。
 でも、近づいて、それ以上がないとき。

 「……物足りない」

 ぽつりと、声が落ちた。自分で言って、驚く。

(今の、何)

 好きやから、そばにいたい。それだけで、十分やと思ってた。
 それが、いつの間にか、それだけでは足りなくなっている。
 東雲は、膝を抱えて座り直した。

(普通なんやろか)

 本に書いてあった言葉が、思い出される。

 ——好きやったら、触れたくなる。

 それを、頭では理解していたつもりだった。
 でも、今は、自分の感情として、同じ場所に辿り着いてしまった。

  「……欲しい、ってことなん?」

 声に出すと、少しだけ、現実味が増す。
 恥ずかしい。でも、否定できない。
 それが、誰に向いているのかも、もう分かっている。
 東雲は、枕に顔を埋めた。熱が、頬に集まる。

 (藤宮、困るやろな)

 そう思うと、自然と、苦笑が漏れた。
 逃げた理由も、なんとなく分かる。
 それでも——

(逃げられるん、ちょっと寂しい)

 この感情に、まだ名前はない。
 でも、もう後戻りはできないことだけは、はっきりしていた。
 明日、会ったら。いつもみたいに話して。並んで帰って。
 そのとき、同じ距離で、平気でいられるか。
 東雲は、目を閉じて考えた。
 答えは、もう出ていた。


 翌日。
 試験前のキャンパスは、いつもより少し静かだった。
 東雲は、部室のドアを開ける前に一度だけ深呼吸した。
 昨日のことを、気にしていないふりをするために。
 ドアを開けると、もう藤宮がいた。

 「おはよ」
 「……おはよ」

 声は普通。距離も、いつもと同じ。

(……よかった)

 東雲は内心でそう思いながら、鞄を置いて、いつもの席に向かった。

 「試験勉強、進んだ?」
 「まあまあ」
 「俺は全然」
 「嘘つけ」

 軽いやり取り。昨日までと変わらない。
 でも——
 東雲は、少しだけ違った。
 椅子に座るとき、無意識に、藤宮のほうを向く。
 距離は変えていない。触れてもいない。
 それでも、近い。
 藤宮は、それにすぐ気づいた。
 ノートに視線を落としたまま、肩の力がわずかに強張る。

(来た)

 東雲は気づいていない。本当に、何も意図していない。

 「なあ」
 「ん?」
 「この問題さ」

 東雲は、椅子ごと少し寄った。説明してもらうため、ただそれだけ。
 肩が、触れた。
 一瞬。
 ほんの一瞬。
 でも、藤宮の中では違った。
 ペンが止まる。呼吸が、一拍遅れる。

 「……ちょっと待って」
 「え?」

 藤宮は椅子を引いた。ごく自然に。でも、はっきり分かる距離。
 東雲は、その動きを見て、胸の奥が、きゅっと縮むのを感じた。

(……また)

 責める気はない。でも、理由が知りたくなる。

 「俺、なんかしてる?」
 「……してへん」
 「ほな、なんで離れるん?」

 声は静かだった。問い詰める調子でもない。
 それが、余計に効く。藤宮は、視線を上げられなかった。

 「……今日は、あかん日」
 「何が?」
 「俺の理性」

 冗談みたいな言い方。でも、笑えなかった。
 東雲は、しばらく黙っていた。
 それから、ぽつりと、言う。

 「……なあ」
 「ん」
 「俺な、昨日から、ちょっとだけ」

 言葉を探す。自分でも、まだ整理できていない。

 「何か、足りひん気がする」

 藤宮の喉が鳴った。

 「一緒におるのは、好きやねん」
 「……うん」
 「でも、それだけやと、落ち着かんときがある」

 東雲は、自分の胸に手を当てる。

 「ここが」

 指先が、布越しに動く。

 「変な感じする」

 その仕草が、無意識だということが、藤宮には分かってしまった。

 (……無自覚、最悪や)

 藤宮は、ゆっくり顔を上げた。

 「智輝」
 「うん」
 「それ以上は、言葉にせんでええ」

 東雲は、きょとんとする。

 「なんで?」
 「今、言語化されたら」
 「俺、止まれん」

 静かな声だった。
 東雲は、その意味を完全には理解していない。
 でも、冗談じゃないことだけは、分かった。

 「……俺、困らせてる?」
 「困らせてる」
 「嫌?」
 「嫌ちゃう」

 即答。
 だからこそ、次の言葉が、出てしまった。

 「……ほな、なんで?」

 東雲の声は、責めても、甘えてもいなかった。
 ただ、知りたいだけだった。
 藤宮は、しばらく黙ってから、椅子に深く座り直した。

 「……順番、や」
 「順番?」
 「段階ともいう。」

 言い切れない。
 でも、逃げているわけでもない。
 東雲は、少し考えてから、ゆっくり頷いた。

 「……分かった」

 東雲は、そう言ってから、すぐには動かなかった。
 少しだけ、間があって、それから、ほんのゆっくりと、椅子を引く。
 距離が、戻る。
 さっきまで当たり前みたいにあった近さが、きちんと、なくなる。
 東雲は俯いていた。表情は見えない。
 でも、
 肩が、わずかに落ちているのが分かった。

 「……勉強、続けよ」

 声は、いつも通りだった。無理に明るくもしない。
 拗ねてもいない。
 ただ、静かに、引いた。
 それが、
 藤宮には、どうしようもなく効いた。

 理屈じゃない。言葉でもない。
 わかった、と言って、ちゃんと距離を取る。
 その仕草が、東雲がどれだけ我慢してるかを、はっきり示してしまった。
 ペンを持つ手に、力が入る。

(……あかん)

  「智輝」

 名前を呼んだ声が、思ったより低くなった。
 東雲が、顔を上げる。
 その目が、少しだけ、揺れていた。

 「……なに?」

 次の瞬間だった。
 藤宮は、何も考えずに立ち上がっていた。
 藤宮の手が、背中に回った。
 逃がさない、というより、確かめるみたいな力。

 東雲が息を吸う前に、唇が重なった。
 短くはない、性急でもない。
 触れて、離れて、また触れる。
 迷いが消えるまで、ほんの少しだけ。

 東雲の胸の奥で、心臓が跳ね上がる。
 考える前に、指先が藤宮の服を掴んだ。
 それに気づいた瞬間、藤宮の腕に、さらに力が入る。
 息をするタイミングがわからなくなる、そんな触れ方だった。


 「ごめん」

 小さく、低く。

 「……今、我慢する方が無理やった」

 東雲は、何も言えなかった。
 ただ、一歩、前に出て、そのまま、藤宮の胸に顔を埋める。

 反射みたいな動き。
 藤宮は一瞬だけ息を止めて、それから、しっかり腕を回した。
 強く。迷いなく。

 「……離れんでええ」

 耳元で、そう言う。
 東雲の指が、藤宮の服を、ぎゅっと掴んだ。

 「……うん」

 声は小さくて、でも、はっきりしていた。

 抱きしめたまま、しばらく、二人とも動けなかった。
 東雲の額が、藤宮の胸に当たっている。顔を上げる気配はない。
 腕の中の体は、まだ少し硬くて、でも、逃げようとはしていなかった。
 藤宮は、息を吸って、吐いて、ようやく呼吸の速さを整えようとする。
 コート越しに伝わる体温と、胸元に触れる髪の感触が、やけに鮮明だった。

 「……」

 何か言わなければと考えるが、でも、言葉を選ぶ余裕がない。
 東雲の方が、先に動いた。
 ほんの少しだけ、藤宮の服をつかむ指に力が入る。

 ぎゅっ、と。
 小さく。

 それだけで、
 藤宮の背中に、ぞわっとしたものが走った。
 理性が、今さら遅れて追いついてくる。
 でも、腕は緩められなかった。
 むしろ、
 無意識に、もう一度、力がこもる。

 部室の時計が、カチ、と音を立てる。
 その音で、現実が戻ってきた。
 藤宮は、ゆっくり腕をほどく。
 名残惜しさが、指先に残る。
 東雲は、少し遅れて顔を上げた。
 耳まで、赤い。
 目が合いそうになって、慌てて視線を逸らす。

 「……勉強」

 ぽつりと、そう言った。
 声が、少しだけ震えている。

 「……せやな」

 藤宮も、視線を机に落とした。
 ペンを取る。ノートを開く。
 いつもと同じ動作。
 でも、
 さっきまでと同じには、戻れなかった。
 しばらくして、東雲が小さく息を吐く。

 「……心臓、うるさい」

 独り言みたいな声。
 藤宮は、思わず口元を押さえた。

 「……それ、俺のせいやから」

 東雲は、一瞬藤宮見てから、また視線を逸らす。

 「……うん」

 それだけ。ノートの文字が、少し滲んで見えた。
 勉強は、全然進まなかった。




 東雲の部屋は、静かだった。
 ドアを閉めた途端、世界が、急に遠くなる。
 鞄を置いて、ベッドの端に腰を下ろす。
 心臓が、まだ速い。

(……無理や)

 嬉しい。嫌じゃない。
 むしろ、全部、ちゃんと残ってる。
 でも、このまま考え続けたら、本当に心臓がもたない。
 東雲は、深く息を吸って、スマホを伏せた。

(この手の話は……封印や。)

 そう決めて、代わりに、昨日まで読んでいた本を思い出す。

 大人向けの恋愛小説。ページの端に残る、あの言い回し。

 (……煽る、って)

 あれか。
 こういうことか。
 分かった瞬間、胸の奥が、また熱くなる。
 でも、今度は、ちゃんと距離を取れる。
 東雲は、枕に顔を埋めて、小さく息を吐いた。

 (……一つ、知識増えた)

 それだけで、
 今日は、十分や。

 心臓は、まだ落ち着かないけれど、
 不思議と、嫌じゃなかった。