S.S:Silent Society

新年最初の講義は、思っていたよりも淡々と終わった。
 正月気分が抜けきらない教室で、板書の音だけが一定のリズムで続く。
 東雲はノートを閉じ、時計を見てから、ゆっくり席を立った。

 悠誠とは学部が違うから、講義の終わる時間も合わない。
 年が明けたからといって、それが急に変わるわけでもない。
 だから、会う場所は自然と決まっていた。

 SSの部室。

 廊下は静かで、窓の外の空は薄く白んでいる。
 冬の午後特有の、時間の輪郭が曖昧になる感じ。
 東雲は足音を抑えながら、いつもの階段を上った。

 部室の前まで来て、立ち止まる。
 中からは、まだ気配がしない。鍵を開けて、ドアを押した。

 暖房は入っていない。空気が、ひんやりと澄んでいる。
 机と椅子、ホワイトボード。年が変わっても、部屋は何も変わらない。

 東雲はコートを脱ぎ、椅子の背にかけた。
 バッグを置いて、スマホを確認する。連絡は、まだ来ていない。

(……講義、長引いてるんかな)

 そう思いながら、窓際の席に腰を下ろす。
 ガラス越しに、キャンパスを行き交う人の流れが見えた。
 笑い声。足早な影。年明けらしい浮ついた空気が、遠くにある。

 部室の中は、静かだった。

 東雲は、ふと耳を澄ませる。
 何かを待っている、という感覚だけが、はっきりと残っていた。

 ――コン、と。
 廊下の向こうで、軽い足音がした。
 東雲は、顔を上げる。ドアノブが回る音。
 次の瞬間、扉が開いた。

 「……おった」

 藤宮の声だった。

 その一言で、
 部室の空気が、少しだけ動いた。

 「講義、終わった?」
 東雲がそう聞くと、藤宮はコートを脱ぎながら頷いた。

 「終わった。思ったより長引いたわ」
 「そっちも?」
 「うん。新年一発目やのに、普通に小テストあってびびった」
 「それはご愁傷さまやな」

 藤宮は笑って、椅子を引いた。
 いつもと同じ席。それだけで、部室の空気が落ち着く。

 「正月、どうやった?」
 「家にずっとおった。親戚来て、食べて、寝て」
 「想像つくわ」
 「悠誠は?」
 「俺も似たようなもん。初詣は行ったけど」

 そこまで言って、藤宮は一瞬だけ言葉を切った。
 東雲は瞬きを一度、間を埋めるためにした。

 「……あ、行ったな。初詣」
 何でもないように答える。
 東雲にとって大晦日の夜は、特別な夜になっていたが、
 藤宮にとってはどうだったのか、わからないから平常を装いたかった。
 「いや、なんか急に思い出した」
 返事の間が短くて、声がわずかに上ずったように聞こえた。
 その考えがよぎった瞬間、胸の奥の力が、すっと抜けた。

 東雲は、机の上に置いたスマホを指でなぞる。
 年が変わって、まだ数日しか経っていないのに、
 あの夜が少し前のことみたいに感じられるのに、
 悠誠の手の感触ははっきりと蘇った。

 「冬休み、終わるん早いな」
 東雲は少し早口で話題を変える。
 「ほんまそれ。正月感、もうない」
 「でも、今日から通常運転やな」
 「せやな。SSも」

 藤宮はホワイトボードの方を見た。

 「今年、どうする?」
 「どうするって?」
 「活動。まあ、今まで通りやろうけど」

 「……来期はどうなるかわからんけど、3月まではこのままやな。」
 東雲が言うと、藤宮は頷いた。

 「そうか、部員2人やもんな。」
 「そう。増える気せんし」
 「とりあえずは地味にやっとくか」
 「地味にな。活動って言うても決まったことやってるわけちゃうし。」

 言い合って、二人で少し笑う。

 その間に、廊下から人の声が遠くで聞こえた。
 すぐに離れていく足音。

 「静かやな」
 藤宮が言った。
 「まだ人少ないんちゃう?」
 「正月明けやしな」

 藤宮はスマホを取り出して、時間を確認する。
 
 「暖房、入れる?」
 肩の当たりに寒さを感じて、東雲が聞くと藤宮は首を振った。
 「んー、もうちょい我慢する」
 「意外と寒さに強いな」
 「その代わり、静かなとこは苦手や」
 藤宮の瞳が遠くを見ているように見えた。

 「へえ」
 「考えすぎるから」

 藤宮はそう言って、椅子に深く座り直した。
 東雲は何を考えすぎるのかは聞かなかった。
 それは、誰が相手でもそうしてきたからだ。


 藤宮はコートを手に取りながら、話題を切り替える。

 「もうすぐ定期試験始まるやろ。今日は図書館行って、そのまま帰って勉強しよ思ってんねん」
 「そうやな、すぐ始まるしな。」
 
 東雲は自分の手帳を開いて、日付を確認した。

 「……あ、俺も借りなあかん専門書あったわ」
 「あるやろな」
 「講義中、名前だけ出てきて、内容全然覚えてへんやつ」
 「それ一番やばいやつやん」

 二人で小さく笑う。

 「ほな、一緒に行こ」
 藤宮が立ち上がった。
 「借りたらそのまま帰る?」
 「うん。家でやる方が集中できるし」
 「分かる」

 東雲も鞄を肩にかける。

 「俺も借りたら帰るわ。一緒に帰ろ」
 「了解」

 部室の鍵を閉めて、廊下に出る。
 冬の空気が、ひんやりと頬に当たった。

 図書館の前は、思ったより人が多かった。
 入口付近で立ち止まり、二人は自然に足を止める。

 「じゃあ、外で待ち合わせな」
 藤宮が言う。
 「俺、借りるの早いと思う」
 「俺も。借りるだけやし」
 「出たとこでええ?」
 「うん、そこ」

 それだけ決めて、別れる。
 東雲は一度だけ藤宮の背中を見てから、建物に入った。

 ——それほど時間はかからなかった。

 先に外に出ていた藤宮が、壁にもたれてスマホを見ている。
 東雲の気配に気づいて、顔を上げた。

 「早かったな」
 「そっちも」
 「まあな」

 藤宮は、東雲の持っている本に目をやる。

 「それ?」
 「うん。名前だけ聞いたことあるやつ」
 「分かる。だいたいそうなる」

 二人で並んで歩き出す。
 正門の方へ向かう流れとは、少し逆だった。

 「こっちから帰ろ」
 藤宮が言って、進路を変える。
 「近道やし」
 「そっち、あんまり通らへんとこちゃう?」
 「せやな。試験期間やと人少ないし」

 舗装の色が変わる。
 街灯の間隔が、少し広くなる。
 東雲は、無意識に周囲を見回した。

 「この講義棟、初めてきた。」
 「俺の学部、ここ使うこと多いねん」
 「へえ」

 建物の影に入った途端、空気が変わった気がした。
 人の気配が、急に薄くなる。
 足音が、やけに響く。

 「静かやな」
 東雲が言うと、藤宮は軽く頷いた。

 「この時間、だいたいこんなもんや」

 そのときだった。

 ――「……智輝」

 東雲は、足を止めた。

 「……今、何か言うた?」
 藤宮が振り返る。
 「え?」
 「今……俺の名前、呼ばへんかった?」

 藤宮は、すぐに首を横に振った。

 「いや。何も」
 「……そうか」

 一瞬の沈黙。
 風が、建物の間を抜ける音だけがする。

 「反響ちゃう?」
 藤宮が言う。
 「ここ、声とか音、変に残るし」
 「……かもな」

 そう答えながらも、
 東雲は、もう一度だけ、後ろを振り返った。

 誰もいない。
 当然だ。

 「行こ」
 藤宮が、先に歩き出す。
 東雲も、それについていった。

 ただ、
 さっき聞こえた声が、
 気のせいで片づけるには、
 少しだけ、近すぎた。

 翌日、講義の始まる少し前、
 東雲は席に着きながら、後ろの会話に耳を傾けていた。

 「昨日さ、◯号館通った?」
 「通ったけど?」
 「いや、夜。試験前で人少ないやん」
 「……ああ」
 「名前呼ばれたって言うたら変?」
 「は?」
 「誰もおらんのに。しかも自分の名前」

 東雲は、ペンを持つ手を止めた。

 「それ、何時くらい?」
 思わず、振り返って聞いていた。

 相手は少し驚いた顔をしたが、
 すぐに肩をすくめる。

 「六時過ぎ。講義終わり」
 「場所は?」
 「渡り廊下抜けたとこの階段。◯号館側」

 ——昨日、通った場所と同じだった。

 「……気のせいちゃう?」
 別の声がそう言う。
 「疲れてたんやろ」
 「俺もそう思ったんやけどな」

 それ以上、話は続かなかった。
 講義が始まり、教室の空気が切り替わる。

 だが、
 東雲の意識は、ノートの上に、うまく戻らなかった。

 講義が終わると、東雲は、自然な流れを装って、
 昨日と同じ方向に足を向けた。
 試験前のキャンパスは、やはり静かだった。
 人の数も、声も、少ない。

 ——◯号館。

 足を踏み入れると、
 昨日と同じ感覚が、ふっと戻ってくる。

(……ここや)

 わざと、歩く速度を落とす。耳を澄ませる。
 足音。遠くのドアの音。換気の低い唸り。

 ——それだけ。

 東雲は、小さく息を吐いた。

(……やっぱ、気のせいか)

 そう思った、次の瞬間。

 「……智輝」

 今度は、はっきり、聞こえた。
 立ち止まる。振り返る。
 誰もいない。
 心臓が、嫌な打ち方をする。逃げ出すほどじゃない。
 でも、立ち尽くすほどには、近い声だった。
 東雲は、その場を離れた。

 SSの部室に着いたとき、まだ藤宮の姿はなかった。
 椅子に座り、バッグを床に置く。
 しばらくして、ドアが開いた。

 「お疲れ」
 藤宮の声だった。

 「お疲れ」
 東雲は、少しだけ間を置いてから言った。

 「……なあ、悠誠」
 「ん?」
 「昨日の講義棟の話やけど」

 藤宮は、椅子を引く手を止めた。

 「俺な、今日も聞いた」
 「……何を?」
 「名前。俺の。昨日、呼んだ?って聞いたやろ。」

 藤宮は、すぐには返事をしなかった。
 返事はなく、視線だけがそのまま向けられていた。

 「同じ場所?」
 「うん。昨日と同じ」
 「時間も?」
 「講義終わり。人、少なかった」

 藤宮は、ゆっくり息を吸う。

 「……他にも?」
 「講義の前に、別の人が同じこと言うてた」

 東雲は講義前に聞いた話をする。
 しばらくの沈黙。
 藤宮は、机に肘をついて考え込む。

 「条件、揃ってるな」
 「条件?」
 「時間帯、場所、人の少なさ。あと……」
 藤宮は東雲を見る。
 「試験前で、頭パンパンなとこ」
 「……それで、声が聞こえる?」
 「“聞こえた気がする”な」

 藤宮は一拍置いてから、低い声で続きを口にした。
 東雲は藤宮の言葉で、以前、講義で聞いたか、本で読んだことを思いだした。

 「脳って、静かすぎると、
 意味のある音を勝手に作ることあるねんて」
 それを伝えると、藤宮が続ける。
 「名前とか?」
 「特にそう」

 東雲は、机に視線を落とした。

 「俺が聞いたんも……」
 「可能性は高い」

 藤宮の声は曖昧なままで、肯定にも否定にも寄らなかった。
 

 「さっき、今日も名前呼ばれたって言うたな。一人で行ったん?」
 「……うん」

 藤宮は、それを聞いて、少しだけ眉を寄せた。

 「次、行くなら一緒に行こ」
 「……確認に?」
 「そう、確認」

 それだけ言って、藤宮は立ち上がった。
 部室の空気は、昨日よりも静かだった。



 講義棟の前で、二人は足を止めた。

 「……ここやな」
 藤宮が、小さく言う。

 「うん」
 東雲は頷いて、建物を見上げた。
 昨日と同じ時間帯。同じ入口。

 「行く?」
 「行こ」

 中に入ると、
 すぐに昨日との違いに気づく。
 誰か、いる。
 奥のベンチに、ノートを広げている学生。
 階段の途中で、スマホを見ている人影。
 小さくページをめくる音。椅子がきしむ音。

 「……人、おるな」
 藤宮が言う。
 「試験前やしな」
 「せやな」

 二人は並んで歩き出す。
 足音が、二人分、重なる。
 東雲は、意識して歩調を落とした。
 耳を澄ます。
 聞こえるのは、自分たちの足音と、遠くの物音だけ。

 「……」
 「……」

 何も起きない。
 昨日、立ち止まった場所を通り過ぎても、あの感覚は、戻ってこなかった。

 「……何もないな」
 藤宮が言う。

 「うん」
 東雲は答えながら、少し考える。

 「昨日も、さっきも」
 「ん?」
 「ほんまに、誰もおらんかった」
 「確かに」

 東雲は、周囲を見回した。

 「静かやけど、今日は“無音”ちゃう」
 「……ああ」
 

 藤宮は一瞬考えてから、ゆっくり頷いた。

 「昨日は、静かすぎたんか」
 「たぶん」

 二人は階段の前で立ち止まる。

 「心理の授業や、聞いたんは。」
 東雲が言った。
 「静かすぎると、脳って勝手に意味のある音を作るって話。」
 「意味のある音?」
 「自分の名前とか。一番、反応しやすいやつ」

 藤宮は、眉を寄せる。

 「それって……」
 「錯覚やな。反響とか、換気の音とか、
 はっきりせえへん音を、“呼ばれた”って補完する」

 藤宮は、昨日の場所を振り返った。

 「……場所のせいちゃうんや」
 「うん。条件」

 東雲は、少しだけ息を吐いた。

 「一人で。静かすぎて。試験前で頭いっぱいで」

 言いながら、
 そう考えていくうちに、胸の奥のざわつきが少しずつ静まっていった。

 「今日は、違う」
 藤宮が言う。
 「人おるし」
 「音もあるし」

 しばらく、二人でその場に立っていたが、
 声は聞こえなかった。

 「……理屈は分かったわ」
 東雲が言う。
 「わかっても、嫌やな」
 藤宮は、即座に頷いた。

 「それは分かる」
 「一人では、通りたない」
 「せやな」

 藤宮は、歩き出しながら言った。

 「帰るとき、またこっち通る?」
 東雲は、一瞬迷ってから首を振った。

 「……今日はやめとく」
 「了解」

 建物を出ると、
 外の空気は、少しだけ軽かった。

 理屈より先に、隣に人の気配があることだけが残った。

 駅に向かうはずの足取りが、いつもより遅かった。
 別に、急ぐ理由がないわけじゃない。時間は分かっている。
 それでも、智輝は歩幅を詰めることができなかった。

 遠回りしていることを、悠誠に先に口にされた。

 「……遠回りしてる」

 責める調子じゃない。確かめるみたいな声。
 智輝は一瞬だけ視線を泳がせて、それから小さく頷いた。

 「うん。ちょっと」

 理由を続けなかったのに、悠誠はそれ以上聞かなかった。
 並んで歩く距離が、そのまま保たれる。

 風が強くなって、智輝は無意識に肩をすくめた。

 「寒いな」

 悠誠がそう言って、歩調を緩める。
 その先に、自販機の明かりがあった。

 「温かいの、飲も」

 智輝は少し迷ってから、頷いた。
 公園に入る。
 ベンチには向かわず、自販機の前で立ち止まる。

 缶が落ちる音。
 湯気が立って、指先がじんわり温まる。

 智輝は両手で缶を包んで、頬に当てた。

 「あったか……」

 吐いた息が白い。
 悠誠も缶を持ち替えて、手を温めている。

 並んで立ったまま、何も言わない時間が流れた。
 さっきまで普通に話していたのに、言葉が出てこない。

 智輝が顔を上げたとき、悠誠もこちらを見ていた。
 距離が近い。
 気づいた瞬間には、もう離れられないくらい。

 悠誠が何か言いかけて、やめた。
 その間に、智輝の心臓が一つ、強く鳴る。

 次の瞬間、唇に触れたのは、温度だけだった。

 短い。
 確かめるみたいで、逃げる暇もない。

 智輝は、何が起きたのか分からなくなって、
 そのまま、反射的に悠誠の胸に顔を埋めた。

 近い。
 コート越しの体温が、さっきよりはっきり分かる。

 悠誠は一瞬だけ息を詰めて、それから、しっかり腕を回した。
 強めに。迷いなく。

 「……ごめん」

 小さな声が、頭の上から落ちる。

 智輝は首を振った。
 顔は上げられないまま、缶を持つ手に力を込める。

 「……ううん」

 それ以上、何も言わなかった。
 言わなくても、分かってしまったから。

 少しして、悠誠の腕が緩む。
 名残惜しさが、静かに残る。

 「行こか」

 その声で、現実に戻る。
 智輝は最後にもう一度だけ、胸に額を押しつけてから離れた。

 歩き出すと、手の中の缶は、もう冷め始めていた。
 それでも、胸の奥は、ずっと温かいままだった。