――コポコポ。

 マリンブルーの硝子玉の中で気泡が踊り、空気を掻き立てる音が鳴る。
 気泡の一つに、二人分の人影が映り込む。

 それは、手を伸ばす彼女と、逡巡する彼の、ある日の光景に似ていた。

「私の心の、在処になってくれませんか?」

 彼女は勇気を振り絞って、彼へと手を伸ばす。

「私のこと、攫ってくれませんか……?」

 この世界で唯一、一緒に居たいと心から思った相手に。

 彼女は今まで彼に思いを告げたことはない。
 この願いが、平民である彼の重荷になることは分かっていた。
 あまりにも図々しいことは理解している。
 それでも、もし叶うことならば……。

 目を瞑り彼の様子を待つが、反応がない。

 彼女がそっと目を開いて彼を見上げると、彼は手を伸ばしかけて硬直していた。

「……」

 きっと、戸惑っているに違いない。
 やはり無理があったと、彼女は目を伏せて自身の手を引こうとする。

「ま、待って……!」
「え……」

 その瞬間、彼女は腕を力強く引かれ、抱きしめられる。

「いま言った言葉の意味、分かってるのか?」
「え?」
「攫ってくださいって、言ったんだよな?」
「い、言ったよ」
「良いの? 俺が攫って。ただのしがない平民の硝子職人なのにさ」

 彼の胸の中に抱きしめられ、思わぬ温もりに彼女は泣き出しそうになる。

「貴方だから、良いの……」
「貴族みたいに満足に食わせてあげられないと思う」
「私はね、ドレスも宝石も要らないし、食べ物だって質素で問題ないのよ。それにね、貴方だけが頑張らなくて良いのよ。私だって、一緒に働くわ」
「え? 一緒に?」
「例えば貴方の作った硝子玉をアクセサリーにして売り出しましょう? 宝石に手が出せない庶民向けに……難しいかしら?」
「それ、面白そうだな!」
「そうでしょう?」
「それでは攫わせてください、お嬢さま」
「ふふふ、攫ってくれるなら、もうお嬢さまじゃなくなるのよ」
「はは、そうだな。あ、そうだ、これ……」

 二人で微笑みあっていると、彼はふと思い出したように気泡が含まれた硝子玉を彼女に差し出した。

「君のために……作ったんだ。プロポーズの証として受け取って欲しい。……プロポーズしたのは君だけど、さ」

 いつも粗雑にポケットに硝子玉を突っ込む彼が、今回ばかりは質素な巾着袋に一つだけ包んだ硝子玉を丁寧に取り出し、彼女に差し出す。

 世界にたった一つしかない、彼女のためだけを考えて作られた、彼にとっての最高傑作がそこにあった。

「わあ……! ありがとう……! 嬉しいわ!」

 破顔した彼女はそれを受け取り、いつものように空に掲げる。

「ずっと、ずっと、大切にするわ……!」
「本当に嬉しそうにしてくれるよな。作り甲斐があるよ」
「そうよ。だって私は、貴方の作った気泡のある硝子玉が、大好きなんだもの」
「え? 俺は?」

 彼女が空に掲げた硝子玉は、果たして何色に染まっていたのだろうか。

「もちろん、大好きよ……!」

――音は水底に沈むように、沈黙して行く。硝子玉の奥底へ。

 この世界に心を置いていけない。
 だけど唯一置いても良いと思った場所にだけは、共に居ることを許して欲しい。
 彼女は最期にそう願った。

 何故ならば、彼女が心を残していた気泡は、彼女にとってはたった一つの……。

――希望だったから。

~了~