いきなり、グロテスクな話を失礼するが、今自分の脚が千切れたとしよう。
 それはもう、分かり易く、左脚だけ自分の体から解離したのだ。
 原因はなんだっていい。交通事故の真ん中にいたとか、豪雨への供物になったとか、なんだっていい。
 その時、愛する家族――愛せない家族も存在することを注釈しておく――が君の名前を鳴き叫び、駆け寄る方はどちらだろう?
 《《千切れた脚だろうか》》?《《残された体躯だろうか》》?

 僕は、小学五年生の夏、葉月のカリギュラに吸い込まれてしまった。
 回転する扇風機に、右手の人差し指を入れてしまったのである。
 説明書に大きな文字で書いてある過失を、犯してしまったのである。
 その後のことは、よく覚えていない。僕は絶叫したし、両親は《《指を失くした僕を》》、病院へ運び込んだ。
 しかし、"僕"はそれじゃなかったんだ。
 意識は脳みそにあるし、そのおかげで自身の運動をコントロールできる。が、違うんだ。
 僕は人差し指なんだ。人差し指が僕なんだ。あのとき駆け寄るべきだったのは、血まみれで深爪な指だったのだ。
 今の僕が何か、分からない。知能が低くなった訳でもないし、反射神経も鈍っていない。
 しかし、空っ方だ。空っ方で、ボロボロだ。
 空っ方なので、夢がない。
 そのことが、人差し指を失う=僕を失う、と云う等式を気付かせた。
 退院したのが、八月三十一日だったので、僕は、僕の指の噂が広まった教室に足を踏み入れることになった。
 ギブスをつけたヒーローの様に、稀有と心配と、興味と……そんな目で見られると思っていた。
 しかし、5年一組がこの夏失った物は、もっと大きく、凄惨だった。

 教室の扉を開けた、直ぐ真ん前は、シルエット・Qの座席だ。
 普段なら、大袈裟に椅子を引き、彼の友人との談義に大笑いを咲かせているはずだった。
 しかし、今日は違った。
 机に伏せ、一言も発さず、偶に顔を上げたと思えば、びしょ濡れだった。
 唇や眼差しの輪郭も崩れ、ガラス棒で攪拌すれば、晴天に流れそうだった。
 人は涙だけで、こんなにも濡れるのだろうか?!
 きっと、他に何か要因があるのだろう、と普通の人は思うだろう。
 しかし僕は、その黒々とした瞳を見て、理由が分かった。
 「嗚呼、こいつも空っ方なんだ。空っ方の癖して涙が収まらないんだ。入れ物のない体なんだ」

 僕の隣の席は、ジグソー・Pだ。人数の関係上、ここだけ男子のペアなのだ。
 机の上には花瓶があり、やはり濡れていた。活き活きとした、青い花弁。触れてみたが、名前は知らなかった。
 「ジグソー・Pは、死んだよ。俺の傍で」
 シルエット・Qは僕の横にいつの間にか立ち、強引に囁いた。
 「皆、そのことは既に知っている。だからアンタの席まで来たんだ」
 彼の顔はもう、とっくに水彩に溶かされ、表情は伺えなかった。顔面に渦巻く涙の凝集は、"悲しい"なんて、初等の語彙しか思い出させてくれなかった。
 それが非常に遣る瀬なかった。
 花瓶からは、海の香がした。
 分かったのは、夏がもう、引き潮になって征く、と云うことだった。

 「花屋に、行かないか?」
 暑すぎて死んでいる、蝉や女子や野良猫を避け、僕は校門に寄り掛かっているシルエット・Qを誘った。
 「ジクソー・Pへ手向けたくって。海百合、なんてのは、名前も相まって良さ気だとおもったんだけど、どうやら花じゃないらしいんだ、海百合は。だから誘った」
 シルエット・Qは暫く見ない内に長く育った影法師を見ながら――空っ方なので、単に下を向いたまましか歩けないだけかもしれない――、何事もなく帰路につこうとした。
 「待ってくれ、君の耳の後ろのこれはなんだい?」
 そこを更に僕は食い止める。
 「ホクロみたいな物があるんだ。あ!これはマズい。非常にマズい。これ、熱中症の兆しだ。今は黒いけれど、茶色くなったら……君も早く、一刻を争わなくっちゃ!」
 適当な言葉を並べ、僕はシルエット・Qを花屋へ連れて行くことに成功した。
 もし彼が熱中症の行を本気で信じていたなら、優しい言葉を掛けまくり、保冷剤を好きなだけあげよう。
 しかしまだ、僕の目的を達成するまで、油を絶やさないように努めないといけない。花屋の主人は、かなり曲者なのだ。

 ジグソー・P、男、享年十二歳、奈釣ヶ浜の海水浴場での海難事故で溺死。水死体は《《見つかっていない》》。
 僕との関係性は希薄。クラスメートではあるが、仲は良くない。悪い訳でもない。今年初めて同じクラスになったから、どんな信条を持っていたかは分からない。
 そしてそれは、シルエット・Qだって同じなはずだ。
 この夏に、僕が知らない関係性を築いたのだろうか?
 "俺の傍で死んだ"、と云う言葉の真意も気になる。
 
 これは、僕が僕を探す、空っ方な(ものがたり)だ。

 「……らっしゃい。どれも五百円」
 声だけ聞こえる。花屋の主人は今日もやる気がない。バックヤードで寝ているのだろう。
 店名が"花屋"の時点で、道行く他人も目を逸らすが、仕方がない。
 店内は意外と綺麗で、花束しか売られていない。
 取り敢えず、どれもカラフルに飾りつけたようで、同じ作品は一つとしてない。協調性もない。
 「おじさん、沼、見ていくね」
 "沼"のことはあまり公に出来ないので、必要最小限の声を心がける。
 「お、コラム・Nじゃぁねぇか、その声は。いや、待て。動くなぁそこをぉぉ、いや、動けよぉ前に三歩きっかりだぞ?」
 僕達は言われた通り、前に三歩だけ進んだ。ガーベラの花弁が鼻先を擽った。
 「二人いるなぁ〜、足音的に。で、沼が見たい、と……。OK、特大のスコップを持って、店の裏でまってるぜぇ」
 寝起きの声は随分ご機嫌になった。
 カラスの声の時報が四時を告げた。
 空っ方の僕達は、裏口を探した。この店の裏口の位置は度々変わるのだ。
 二礼二拍手一礼をして、ベニヤの二枚板に体を当てると、扉は間抜けた音を立て、沼の傍まで僕達を運んだ。
 店主のクライム・Bを待つ間、僕達は手持ち無沙汰で、腰を下ろそうにも地面が泥濘んでいるので、静かな沼を見つめるしかなかった。
 突如、ガシッとした音がシルエット・Qから聞こえた。
 ブロンズの髪の男が、スコップでシルエット・Qを押し込んでいたのだ。
 「おい、コラム・N!お前も手伝え!こいつ、鬱な眼をしておいて、なかなかしぶとい…!ガタイが良いからかなぁ?!」
 「待って、おじさん」
 僕は言葉でクライム・Bを制止する。
 泥の付いていない新品のスコップを態々出してもらったが、まず、この誤解を解かなくてはならない。
 クライム・Bはシルエット・Qを、沼に沈めて殺そうとしている。
 「違う、その人は。僕が《《殺したいと思った人間》》じゃない」
 「えっ」と言い、クライム・Bはスコップで沼と逆向きにシルエット・Qを押し戻した。
 「危ねえぇー!Crime・Bになるところだったぜぇ。俺はぁClimb・B。登っていかなくちゃぁならない」
 お前は、としゃくって、僕の隣の友人にも自己紹介を促す。
 「二人は、どう云った関係で?」
 シルエット・Qは妙に冷静な調子で質問した。
 「遠ぉい親戚だそうだ。俺のじっちゃんと、こいつの母親が、なんかぁ、こう、仲良し?肝心なことは、知らない――知りたいんだけどな」
 僕は首を縦に振り、本題を切り出す。
 「彼、シルエット・Q君って云うんだけど、僕と同じで空っ方なんだ。白夜の街に朝焼けも夕焼けもない様に、自分も、自分が持っていた夢もないんだ」
 「ちょっと待てぇ。お前、空っ方なのか?てか、空っ方ってどぉ云ぅ意味だよぉ?!」
 クライム・Bはブロンズの髪をかき上げた。彼の髪質は"紙"の様で、掻くと皺くちゃになる。
 その度に僕は、気に入らなくて、ぐちゃぐちゃに丸めた読書感想文の原稿を思い出すのだった。
 僕は、包帯を巻いた人差し指を見せた。
 「切れた。扇風機で。今は痛くないけれど、思い出すだけで痛い――あまり上手く覚えていないけど」
 「で、利き手の指を失ったショックで、お前は空っ方な少年になっている。で、合ってる?」
 そういえば、"人差し指=僕"を他人に説明するのは難しい。
 ここは、そう云うことにしておこう。
 「そう。で、シルエット・Q君は、クラスメイトを近くで失ったんだ。指の方が圧倒的に軽症なのは分かっている。でも、同情せずにはいられなかった…!」
 クライム・Qは興味を示さず、スコップをひょいっと真上に投げた。
 自由落下することなく、スコップはどこかに収納された。
 「で、調べたんだけど、死んだクラスメイトのジグソー・P(享年十二歳、男、身長130cm、体重36kg)の遺体は見つかっていない」
 「興味が出た」
 クライム・Bはスコップを持ち直し、腰を上げた。爪先はもう沼の方へ向いていた。
 「俺は興味が出たぞぉ。だからお前らも興味を出せ」
 僕はそれなりにやる気だったが、それ以上の気勢は生まれなかった。
 "僕"がいなくなって以来、強いやる気、死ぬ気で何かをすると云うことは金輪際訪れないのかもしれない。
 が、先ずは状況を理解できていないシルエット・Qに得意顔で説明しなくてはならない。
 「理解が追い付かないかもしれないが、この沼は無限なんだ。どんなサイズの物でも入るし……」
 「――入るし、……入る。まぁそれは御伽噺を信じすぎた奴の妄言だ。なぁ、コラム、シルエット・Q君を誂うんじゃぁない。これから仲良くなるんだからよぉ」
 夏の延長線が、遥か遠くの入道雲まで伸びていた。隣町は多分、雨だ。

 「確かに、お前の母親は、来たぜぇ。八月二十九日に。防犯カメラが言っている」
 九月二日、僕は管理室で映像を見せてもらっている。
 二十九日の客は僕の母親だけだった。
 しかし、花束は買わず、カメラの視界から出ていった。
 「確かに、母だ。見て!袋を持っている。最後の晩餐で、ユダが銀貨の入った袋を手に入れたときくらい、後生大事に掴んでいる。この袋の中に僕が……僕の指が入っている」
 記念と書いてサービスだ、と、クライム・Bは花束を僕に渡した。驚くほど中で根を張っていた。
 「空っ方のお前が、目標を見つけたんだ。今日は記念日だ。ついでに、その根っこが特徴的な植物は、ハミダシ草。覚えておくと、いい」
 髪をぐちゃぐちゃにまとめ上げ、僕をバックヤードに案内する。
 「いいかぁ?シルエット・Qに、この沼の秘密を教えてはならない。それが俺の使命だからだ。もし知られたら、――俺まで空っ方になっちまうかもなぁ」
 屈んだ体勢のまま、廃棄予定の旧式レジスターに片足を乗せる。しかし、やる気は乗らず、再び足を戻してしまう。
 クライム・Bは窓枠に飛び乗り、両の手を広げ、右脚と左脚を絡めた――ハミダシ草の様に。
 「お前の代わりに、高らかに言わせてもらうぜぇ。俺達がすべきことは、シルエット・Qを利用して、お前の指を見つけ出すことだ!」
 そう言い放つのと、窓を開け放つのは同時だった。
 クライム・Bは鉄棒の地獄回りの要領で、外の大地へ降り立った。
 きっと、日課の花摘み――トイレではなく文字通りの花摘みに出掛けたのだろう。
 ここ、花屋"花屋"は、新鮮に自生していた花を直接ブーケにしている。
 道の花を摘んで、誰かにあげて良いのなら、花屋を強盗しても良いんじゃないか、とクライム・Bはよく口にする。僕だったら……そう思うだろうか?
 "花屋で買った"と云うレッテルに金を払って、愛する人に贈るのは気が退けるらしい。
 クライム・Bは、花(特に花言葉)も、花屋も、花を買う奴も、花屋の花を貰って喜ぶ奴も嫌いな、曲者なのである。

 "沼"、正式名称は不明。多分、底なし沼。何年か前から、花屋の裏手に在る。
 物をいくら捨てようと、枯れない。
 沼を探すと、必ず何かを発見できる。
 沼の詳細は、クライム・Bの家系の者しか知らないはずだが、よく、捨てた記憶のない物も掘り出される。
 一度だけ、泥の中から掘り出した瞬間、汚れが消え去った事例がある。
 その件の理由は不明。写真は残っている。

 九月三日は、快晴だった。
 相変わらずシルエット・Qは、教室で泣いていた。涙で、顔中の部位が揺蕩っていた。筋雲みたいだった。
 この日から彼は、熱心に説得せずとも花屋に来てくれるようになった。
 僕は詳しい事情も説明せず、彼にスコップを渡した。「掘ってくれ」、と沼を指した。
 僕は一つ、憂患がある。シルエット・Qは本来人気者なのだ。昼休みには上級生と校庭の真ん中でサッカーをするような人物なのだ。
 僕なんかと仲良く泥弄りをしたところで、彼にとってなんの(プラス)も生まれない。
 彼が天機で培ってきた友情も、多くが修復不能になってしまうかもしれない……。
 そんな憂思は口にせず、黙々とヘドロを掬っていると、飛行機雲がモクモクと僕達を追い越して行った。
 額を流れ、もう二度と戻ってこなかった汗は、まだ夏の匂いがした。
 クライム・Bが寄越す、六時の合図を待ってから、スコップを置くと、カレーライスの香がした。
 花屋は、クライム・Bの住居も兼ねていた。
 僕と違って中辛を平気な顔をで食べるシルエット・Qが、こちらを見た。
 泣き跡で、顔は文字通りぐちゃぐちゃだったが、それでも夕日が反射すると美しい。
 夕日が美しいのか、と思ったが、実は、コントラストが美しいのだ。
 これから沈む夕日と、昼頃は沈み込み、夕方の作業で明るさを少しずつ取り戻すシルエット・Qの対比なのだ。
 「今日は、オルゴールと腕時計と幾つかの鉄くずが採れた。ところで、今日はよく採れた方かい?」
 乱切りの具材を頬張りながら、彼は一つ尋ねた。
 僕は直ぐにオルゴールの蓋を、綺麗を保っていた右手で慎重に開けた。葉桜の隙間に蒼空が覗く様に、少し開けただけで黄金が反射した。
 「いいね。こう云う《《なんで捨てられたのか分からない代物》》に良い値がつくんだ」
 そのオルゴールを磨き、クライム・Bに渡すと、大人とは思えないほど大喜びした。
 そして冷凍庫からポッキンアイスを出して、綺麗に分けてくれた。
 「いいかぁ?社会のお勉強だぁ。もぉ一度、アイスが欲しいなら、どうする?簡単だな。今日のことを学習し、再びお宝を見つけだす。な?」
 異様に真剣な目つきだった。
 フクロウを超え、もはやヨタカの様な不気味な瞳だった。
 昔近所に住んでいた、自称催眠術師のおじさんも、こんな眼をしていた。
 「君達はよくやったんだ。安日給に不平を言わず、自分の意志で、楽しんで、今日の分をやりきったんだ。いいかい?大人はこれから君達に、周りのせいにするな!、と大声で責任を負わせてくる。少し熱くなるが、俺はそんな大人が嫌いだ。そう云う奴ほど、環境に、政治に文句をつけるんだ」
 ここでヒートアップし過ぎたことに気付き、クライム・Bはポッキンアイスを取り出した。大人気なく、《《二本とも食べた》》。
 「それぞれに事情があるってのがぁ、とどのつまりだが、花屋、ケーキ屋は自分の置かれた環境を愚痴ってはいけないね」
 僕達は真面目な話をするクライム・Bを、随分と珍奇な眼で見ていた。アイスは少し溶け、指がくっついてしまった。
 扇風機のことを思い出し、叫びそうになった。僕がいなくなってから、感覚は鈍化してきている気がする。
 早く指を見つけないと、孤独が薄れる、なんて云う、恐ろしいことに成ってしまう。
 「僕達が空っ方じゃなければ、この話を聞いたとき、もっと大人に近付けられただろうね」
 と、澄まして言ってみたが、シルエット・Qはアイスに夢中だった。
 あの話が、不器用な花屋の店主の寂しい愚痴だと云うことを、空っ方の僕達が知る由もなかった。

 九月四日は、大安だった。しかし、秋雨だった。短くなった人差し指が痛かった。
 学校に休みの連絡をして、校門の直前で引き返して、病院に行くと、もう半日が終わっていた。雨の日は、《《既に半分ないような物》》なので、九月四日は零になった。
 "遺痛"、と書かれた診断書を持って花屋に入る。
 普段のクライム・Bは、シャッターを締め切り――それが花屋としては悍ましい異常なのだが――、バックヤードで寝ているのだが、今日は違った。
 シャッターを開け、花束を通に出し、豪快に水遣りをしていた。
 「行ってきたよ、病院。これ、診断書。"遺痛"、って云う《《失った部分が痛み出す病気》》らしい。なんらかの兆しだと思う。凶兆じゃなければないほど、良い」
 「で、約束通り、俺の症状のことも診てもらった?」
 「私は占い師ではありませんって、一蹴されちゃった。頭の病気を疑われないだけよかった」
 実を言うと、面倒くさかったので訊いていない。
 バックヤードに入れてもらうと、中はとても片付いていた。古い物がなくなっていた。
 周りの人が、長雨にマイナスの溜息を吐く間、クライム・Bと云う男は、感嘆の溜息を吐き、彼の商いに精を出すらしい。
 彼は菌類に近い人類でも、虹に憧れたナメクジでもなく、ただ単に癖の強い男なのだ。
 「さっき昼寝をして、また同じ夢を見たぜぇ。シルエット・Q君が入水自殺する夢。本当に健康上問題ないって医者に言われたんだな?」
 「夢のせいで大病に発展した事例は未だないって」
 やっぱりな、と、クライム・Bはボロノイ模様の白い鉢を出してきた。
 欲しい物があれば、直ぐさま食指を伸ばしてきそうな、南国で育ってそうな、植物が植わっていた。
 「《《アロエ》》を食えば、医者要らずぅー」
 彼は棘々しい枝?葉?を、予め引いてあったミシン目に沿って千切り、中のゼリーを啜った。
 僕にも勧めてくるが、謹んで断った。
 「万が一にさ、それが正夢になったりしたらさ、今日学校を休んだことを一生後悔する。その一生を、あと一週間で辞めてしまうかもしれない。責任は、誰がとる?」
 クライム・Bは、手に刺さりっぱなしの棘を、大振りで抜き始めた――苛ついている証拠だ。
 「おいじゃあぁよぉ、今、学校の前まで行って、確かめればぁ良いじゃぁないか」
 「それが面倒だから、どうしようか悩んでいたんだ」
 クライム・Bは舌打ちした。「ドクター・Gが」、と吐き捨てた。
 彼は基本的に寛容なのだが、敬意を払われないと、正常に生きていけないのだ。
 雨雲は猫の様に重なり、朝顔の向く方には、隣町があった。
 それだけ、沈黙があった。
 「俺が行ってやるよ。小学校へ行って、あ~不審者だ、って指差されに行くよ。お前、空っ方になったって言うけどよぉ、あんま変わってないぜ、普段と。いつまで経っても、殺したい奴の一人も見つけられない……」
 彼のその後の言葉は覚えていない。きっと、酷く罵倒していたと思う。店内の毒草を口に詰めようとしたかもしれない。
 僕は、眠くなかったが、突然昼寝した。
 最後の記憶は、強い風だった。
 風が吹けば、海が啼く……

 "海の家"、そこに俺は住んでいる。
 アロハシャツの前を開け、焼きそばを持った毛脛が往来する、あの"海の家"じゃない。
 海の眼の前にある、家だ。低層マンションだ。
 元はホテルだったらしく、シンプルで充実した内装の家々が、海岸線に合わせている。
 サントリーニ島を安く済ませた見た目をしている癖に、キョロ充みたいな建ち方をしている。
 端の棟の住人は、もう一方の端の棟を知らないくらい、長く連立している。
 遮る物のない海は、眩しい。海なし県在住の方にも分かるように言うと、《《目を瞑っても眩しい、瞼の裏を震わせて脳に届く細波の旋律だけで眩しい》》。初めて海岸を遊歩するときには、是非気を付けてほしい。
 そんな海を、《《別の意味で》》直視できなくなったのは、いつからだろう?
 去年、クロールで25m泳げるようになったのだが、怖くって仕方ない。
 海の中で、寂しくって泣いたって、届きやしないらしい。
 イヤホンを付けた革靴が右往左往する都会でもそう云うことが起きるのだが、海の中では《《絶対》》に泣き声は届かないのだ。涙も泡沫に成って征く。
 だから、最期にここを選んだ。
 生を超越する瞬間に、海洋への恐怖も克服しようと思ったのだ。
 花紺青と云うのは、俺が最後に見た常世だ。
 そして、君はそんな俺を一番傍で見ているんだろう?
 そうに決まっている。なぁ、見ているんだよ
 「シルエット・Q」

 泥の様に眠る、と云う言葉は、どういった経緯で生まれたのだろう?
 今のこの状態に陥った故人がいたのかもしれない。
 恐らく、僕は昼寝をしている間、何者かによって、泥中に沈められた。
 冷蔵庫で冷やす前の麦茶の様に生温い泥濘を這い上がっていく。
 鼓膜を破る様な触感が《《右の人差し指》》に伝った。
 「ぷはぁっっ!ぁあああ!!」
 久し振りの酸素を、ヨーグルトのフタにやるように、舐める。もう、夕暮れだったので、酸味の中に甘味があった。
 そして僕は走る。裸足なのは、靴を捨ててしまったからだ。
 逆境を前進する様は、泳ぐ、と云った方が適切なのかもしれない。
 シルエット・Qの元に戻らなくては!
 バス停を次々と追い越して行くと、港口の見える活版印刷所だ。左に曲がる。
 そこからはもう、細波の魔法の射程圏内だ。
 徒に引く潮の音に耳を澄まし、タイミングを合わせれば、爽快だ。少年少女の足は軽くなる。
 クライム・Bは、彼の背丈ほどのスツールに腰掛け、スマホを地面に置き、有線イヤホンで音を楽しんでいた。
 リズムを取っている様だったが、実際はうたた寝をしているだけだった。
 片方を耳から抜き、自分の耳に付ける。それは、ワイヤレスイヤホンだったが、ツタ植物を伝わせて、態々有線にされていた。
 快晴が近付いてくる。
 「すいません、お客様でしたか…うーん、商品は全て税込500円ですので、お財布のご準備を…」
 「準備をするのは、そっちだ。早くレジに立て、って言っているんじゃない。もうすぐ、シルエット・Qが帰ってくるから、心の準備をしておくんだ。僕を殺し損ねたが、登っていくんだろ?クライム・B……」
 それは、僕が聞いたことのない声だった。クライム・Bが、怯えた目で……俺を見ていた。
 「「誰?」」
 誰だ?眼の前の男は。彫りが深い顔かと思ったが、隈が多いだけだし、髪質が死んでいる。リンスーをしていないのか?
 護岸工事で守る必要性を感じさせない小港を過ぎれば、砂浜海岸だ。
 「そうだ、俺はシルエット・Qの元に戻らなくては!なんで花屋の中なんだ?快晴がもう、ここまで来ているって云うのに!!」
 呵責の言葉とは裏腹に、俺は花束を漁り始めた。その中で、一つの小さな植物を拾った。
 名前を知らない草木だったが、それがハミダシ草であることは分かった。
 「シルエット・Q!」
 きっと何回も失敗を重ねたのだろう。彼の呼吸は荒く、全身が水に浸した紙の様に脆弱だった。
 彼は僕の姿を見留めると、純真なまま、裸足のまま、駆けて来た。
 「花屋に戻ろう。君の無事を、僕が待っているんだ」

 根が特徴的な植物は、驚くほど僕の指に馴染んだ。
 《《僕の右手に、ジグソー・Pの人差し指が付いた》》。
 溽暑を秋が覆っていった。

 「僕、と云う人格?、自己?は僕の右手の人差し指にあった。それは偶然、ジグソー・Pも同じだった。沼の中で僕の体とジグソー・Pの体、僕の指とジグソー・Pの指が、混ざった」
 僕は、ジグソー・Pの指が付いた僕の手を握った。ドッペルゲンガーってきっと、こう云う気分なのだろう。
 彼の指もハミダシ草の根で結び付けておく――それまでは泥の僅かな接着力に頼るのみだった。
 シルエット・Qは、十年来同じ飼い主に飼われてきた犬がする様に、ジグソー・Pに抱きついたまま、離れなかった。
 人格は僕なので、非常に気持ちが悪かった。
 しかしそれは、他人があの様な仕打ちを受けていても大して惟わない、と云う利己的な感情の裏返しだった。
 そしてそれは正に、自己が安定した証だった。
 沼から蘇った一方は海へ走り、もう一方は花屋で待った。
 あの時間、双方とも自覚が混濁し、感じる景色が攪拌されたあの時間が臨界点だった。
 「俺だって、何もしなかった訳じゃぁない。だからアイスを二本食べる。ただし、お前らも二本、だ」
 冷蔵庫からは目眩がするほど光が漏れていた。
 「内緒だ」、とクライム・Bは僕を手招いた。
 「シルエット・Qについて、追跡したのだが、あいつが言っていた、"俺の傍で死んだ"って奴、分かったぜぇ。ジグソー・Pが自殺した海の眼の前のマンションがあいつの家だ」
 シルエット・Qは特別繊細な人間なのだと思う。
 彼がサッカーをしているとき、その本性をどう抑えているのかは分からない。しかし、その難儀な性格を笑ってはいけないことだけは分かった。

 片耳を共有しているイヤホンの曲が変わり、僕が知っている曲が流れ始めた。
 僕はクライム・Bに歌うよう促す。
 彼は髪を後ろで結んだ。花束みたいな格好になった。
 "Oh-Oh-Oh-Oh、Oh−Oh"
 「僕は考えて、そして決めたんですが!僕はこのままでいたい!僕の体はジグソー・Pにあげよう」
 彼は優美な死人なのだ。僕の体が、彼の命を繋ぎ止めているのなら、シルエット・Qを悲しませないためにも、この決断を英断にしてみせる。
 "Oh-Oh-Oh-Oh、Oh-Oh-Ohh!"
 今度こそ、教室の中で、稀有や心配や興味の目で見られるかもしれない。
 もし、入れ替わった体で、何か自分にとって不利益なことが起きそうだったら、即刻ジグソー・Pを殺すと心に決める。
 "Oh-Oh-Oh-Oh、Oh−Oh Oh-Oh-Oh-Oh、Oh-Oh-Ohh!"