デボラがアーベル侯爵家に滞在して、三日が過ぎた。
雨はようやく上がったものの、庭の草木にはまだ水気が残り、邸内には湿った静けさが漂っている。
この三日間、リアは毎朝欠かさずデボラの部屋を訪れ、体調を確かめていた。
「デボラ様、体調はどうかしら?」
「リア様、ええ……」
言葉は礼儀正しい。けれど、その瞳の奥には掴みきれない温度が揺れていた。甘さとも強さともつかない、彼女特有の気配だ。
侍女たちは距離を保ちながらも、リアの指示に従い、丁寧に世話を続けていた。
デボラの部屋のドレッサーには、彼女が持ち込んだ小さな水晶細工が置かれている。光を受けるたび淡く色を変える、手のひらほどの置物。けれど、デボラの視線だけは、ただの観賞用として扱っていなかった。
ある朝、侍女のひとりが部屋を整えている最中、その水晶細工に手を伸ばしかけた。
「触らないで!」
湿った空気を鋭く割る声が落ちた。侍女がびくりと肩を震わせる。
次の瞬間、デボラははっとしたように瞬きをし、声の調子を落とした。
「……ごめんなさい。大切なものなの。乱暴に扱われると、壊れてしまうから」
侍女は深く頭を下げ、デボラは水晶細工へ視線を戻した。触れはしない。ただ、確かめるように、なにかを思い出すように、じっと見つめていた。
その一件以来、デボラは以前にも増して水晶細工に視線を落とす時間が増え、侍女たちもまた、彼女の部屋での所作に慎重な気配を帯び始めていた。
そして六日目の昼下がり、ようやくギルベルトと会う正式な挨拶の場が設けられた。
知らせを受けたデボラは、鏡の前でゆっくりと髪を整えた。
「ふふっ、どうなるかしら?」
勝気な声が、静かな部屋に軽やかに響いた。
応接室には、柔らかな陽が差し込んでいたが、空気はどこか張りつめていた。
ギルベルトが席に着き、その隣にはリアが控えている。ヴィリバルトは斜め前に腰を下ろし、壁際には執事ハンスが一歩引いて立っていた。
扉が開き、デボラが姿を現した。
「お待たせしてしまって、ごめんなさいね」
声音は柔らかいのに、どこか人を試すような響きがある。デボラはゆっくりと歩み寄り、ギルベルトの正面に腰を下ろした。
リアが穏やかに微笑む。
「デボラ様、ようこそ。お体の具合は……」
「ええ、リア様のおかげでずいぶん楽になったわ」
丁寧な言葉の裏で、デボラの視線は一瞬だけリアを値踏みするように流れた。そのわずかな反応に、ヴィリバルトの眉がぴくりと動く。
ギルベルトが静かに口を開いた。
「まずは、ここまでの旅路を労いたい。困ったことがあれば、遠慮なく伝えてほしい」
「まあ……優しいのね、ギルベルト様は」
デボラは微笑みながら、わざとらしく首を傾げる。甘く挑発的で、距離を詰める意図が透けて見える仕草だった。
リアは微笑みを崩さず、静かに受け止めている。
ギルベルトはその挑発を受け流すように、表情を引き締めた。
「デボラ嬢、あなたを客人として屋敷に滞在することを許可する」
「あら……てっきり、私との関係をお認めになったから、こうして屋敷にお呼びくださったのだと思っていましたわ」
しおらしさを装いながらも、言葉の端々には挑発が滲む。ギルベルトが険しい表情を浮かべ、ヴィリバルトが息を吐いた。
「……兄さんが、あなたみたいな女を相手にするわけないだろう」
皮肉ではなく、切り捨てるような断言だった。普段のヴィリバルトからは想像できない低い声に、ギルベルトが目を見開き、デボラの笑みがわずかに固まる。
「勘違いも大概にしてくれ。あなたの噂をかき消すために屋敷に入れただけさ。それに、誰もあなたがアーベル家に滞在しているとは知らない」
「それはどういうことかしら? 少なくともお父様は知っているはずよ」
デボラの眉が上がる。驚きとも探りともつかない揺れだった。
「ローゼン男爵は、偽物の娘に手を上げたようだよ」
「……なにをしたの?」
「簡単なことさ。あなたが男爵邸を出た半日後に、あなたが男爵邸に戻ったんだ」
デボラのまつげが一瞬だけ震える。
「……ふふっ、面白いわ」
椅子の背にもたれ、ゆっくりと脚を組み替える。その表情には、状況を楽しむような余裕が浮かんでいた。
半日で帰宅したという事実だけで噂は根拠を失っている。それでもこの余裕。ヴィリバルトは、彼女の狙いを理解した。
「なるほどね。兄さんの第二夫人の座じゃなく、アーベル家に入り込むことが目的だったわけだ」
「なんのことかしら?」
デボラは、わざとらしく首をかしげる。
「ヴィリー」
リアが優しく呼びかけた。
「そんな言い方しなくてもいいわ。デボラ様にも事情があるはずよ」
リアはデボラに向き直り、穏やかに続けた。
「子が生まれるまでは、アーベル家で過ごしていただくのがいいと思うの。ギルも、それでいいでしょう?」
ギルベルトは一瞬だけリアを見つめ、それから静かにうなずいた。
「……リアがそう望むなら」
その返答に、ヴィリバルトは小さく息を吐き、デボラへと視線を戻した。
「よかったね。義姉さんの優しさに救われたよ」
デボラは皮肉を受けても表情を変えず、ただ冷ややかな瞳でヴィリバルトを見返した。
雨はようやく上がったものの、庭の草木にはまだ水気が残り、邸内には湿った静けさが漂っている。
この三日間、リアは毎朝欠かさずデボラの部屋を訪れ、体調を確かめていた。
「デボラ様、体調はどうかしら?」
「リア様、ええ……」
言葉は礼儀正しい。けれど、その瞳の奥には掴みきれない温度が揺れていた。甘さとも強さともつかない、彼女特有の気配だ。
侍女たちは距離を保ちながらも、リアの指示に従い、丁寧に世話を続けていた。
デボラの部屋のドレッサーには、彼女が持ち込んだ小さな水晶細工が置かれている。光を受けるたび淡く色を変える、手のひらほどの置物。けれど、デボラの視線だけは、ただの観賞用として扱っていなかった。
ある朝、侍女のひとりが部屋を整えている最中、その水晶細工に手を伸ばしかけた。
「触らないで!」
湿った空気を鋭く割る声が落ちた。侍女がびくりと肩を震わせる。
次の瞬間、デボラははっとしたように瞬きをし、声の調子を落とした。
「……ごめんなさい。大切なものなの。乱暴に扱われると、壊れてしまうから」
侍女は深く頭を下げ、デボラは水晶細工へ視線を戻した。触れはしない。ただ、確かめるように、なにかを思い出すように、じっと見つめていた。
その一件以来、デボラは以前にも増して水晶細工に視線を落とす時間が増え、侍女たちもまた、彼女の部屋での所作に慎重な気配を帯び始めていた。
そして六日目の昼下がり、ようやくギルベルトと会う正式な挨拶の場が設けられた。
知らせを受けたデボラは、鏡の前でゆっくりと髪を整えた。
「ふふっ、どうなるかしら?」
勝気な声が、静かな部屋に軽やかに響いた。
応接室には、柔らかな陽が差し込んでいたが、空気はどこか張りつめていた。
ギルベルトが席に着き、その隣にはリアが控えている。ヴィリバルトは斜め前に腰を下ろし、壁際には執事ハンスが一歩引いて立っていた。
扉が開き、デボラが姿を現した。
「お待たせしてしまって、ごめんなさいね」
声音は柔らかいのに、どこか人を試すような響きがある。デボラはゆっくりと歩み寄り、ギルベルトの正面に腰を下ろした。
リアが穏やかに微笑む。
「デボラ様、ようこそ。お体の具合は……」
「ええ、リア様のおかげでずいぶん楽になったわ」
丁寧な言葉の裏で、デボラの視線は一瞬だけリアを値踏みするように流れた。そのわずかな反応に、ヴィリバルトの眉がぴくりと動く。
ギルベルトが静かに口を開いた。
「まずは、ここまでの旅路を労いたい。困ったことがあれば、遠慮なく伝えてほしい」
「まあ……優しいのね、ギルベルト様は」
デボラは微笑みながら、わざとらしく首を傾げる。甘く挑発的で、距離を詰める意図が透けて見える仕草だった。
リアは微笑みを崩さず、静かに受け止めている。
ギルベルトはその挑発を受け流すように、表情を引き締めた。
「デボラ嬢、あなたを客人として屋敷に滞在することを許可する」
「あら……てっきり、私との関係をお認めになったから、こうして屋敷にお呼びくださったのだと思っていましたわ」
しおらしさを装いながらも、言葉の端々には挑発が滲む。ギルベルトが険しい表情を浮かべ、ヴィリバルトが息を吐いた。
「……兄さんが、あなたみたいな女を相手にするわけないだろう」
皮肉ではなく、切り捨てるような断言だった。普段のヴィリバルトからは想像できない低い声に、ギルベルトが目を見開き、デボラの笑みがわずかに固まる。
「勘違いも大概にしてくれ。あなたの噂をかき消すために屋敷に入れただけさ。それに、誰もあなたがアーベル家に滞在しているとは知らない」
「それはどういうことかしら? 少なくともお父様は知っているはずよ」
デボラの眉が上がる。驚きとも探りともつかない揺れだった。
「ローゼン男爵は、偽物の娘に手を上げたようだよ」
「……なにをしたの?」
「簡単なことさ。あなたが男爵邸を出た半日後に、あなたが男爵邸に戻ったんだ」
デボラのまつげが一瞬だけ震える。
「……ふふっ、面白いわ」
椅子の背にもたれ、ゆっくりと脚を組み替える。その表情には、状況を楽しむような余裕が浮かんでいた。
半日で帰宅したという事実だけで噂は根拠を失っている。それでもこの余裕。ヴィリバルトは、彼女の狙いを理解した。
「なるほどね。兄さんの第二夫人の座じゃなく、アーベル家に入り込むことが目的だったわけだ」
「なんのことかしら?」
デボラは、わざとらしく首をかしげる。
「ヴィリー」
リアが優しく呼びかけた。
「そんな言い方しなくてもいいわ。デボラ様にも事情があるはずよ」
リアはデボラに向き直り、穏やかに続けた。
「子が生まれるまでは、アーベル家で過ごしていただくのがいいと思うの。ギルも、それでいいでしょう?」
ギルベルトは一瞬だけリアを見つめ、それから静かにうなずいた。
「……リアがそう望むなら」
その返答に、ヴィリバルトは小さく息を吐き、デボラへと視線を戻した。
「よかったね。義姉さんの優しさに救われたよ」
デボラは皮肉を受けても表情を変えず、ただ冷ややかな瞳でヴィリバルトを見返した。
