瞬く間に噂は広がった。
デボラ・フォン・ローゼンはアーベル侯爵ギルベルトの愛人であり、近く第二夫人となる。
そんな荒唐無稽な話が、まるで真実であるかのように囁かれ始めた。
ローゼン男爵はこの機会を逃すまいと、得意げに吹聴して回る。
「娘は侯爵様に深く愛されている」
「いずれ正式に迎えられる」
その言葉が噂に火をつけ、さらに油を注いだ。
加えて、王宮でのあの一幕を目撃した侍女と新米兵士の動揺が、噂に不必要な真実味を与えてしまう。
こうして、ギルベルトの知らぬところで、ひとつの既成事実が形を取り始めていた。
***
「兄さん、魔術団でも兄さんの話でいっぱいだよ」
「……わかっている」
珍しく苛立ちを隠そうともしない兄に、ヴィリバルトは眉を寄せた。
「で、どうするの」
ギルベルトはしばらく言葉を失い、やがて押し殺した声でつぶやいた。
「……リアが……」
その声音に、ヴィリバルトはすぐに察した。
驚きではない。リアの性格を知っているからこその理解だった。
「義姉さんが……あの噂を聞いたんだね」
「……ああ」
ギルベルトは苦しげに目を伏せる。
「『彼女を侯爵家に迎え入れましょう』と……そう言った」
ヴィリバルトの表情がわずかに強張った。
「それって、身ごもっているって噂を聞いて、だね」
ギルベルトは静かにうなずく。
「リアは……俺が裏切っていないことは分かっている。でも……子どもに罪はないと……そう言っていた」
ヴィリバルトは目を細めた。
「つまり……誰かが、義姉さんの優しさを利用したってことだね」
ギルベルトが顔を上げる。
「兄さん。これは最初から義姉さんを動かすための罠だったんだよ」
「どういうことだ、ヴィリバルト」
「考えてみてよ。兄さんの体を拘束し、意識を落とすほどの魔道具を、男爵の娘が所持しているなんて普通はありえない」
そこでヴィリバルトは、年甲斐もなくにやりと笑った。
「私も賛成だよ。彼女をアーベル家のお客様として迎え入れよう」
「ヴィリバルト……?」
「相手の目的もわかるしね。私にも考えがある。それに、義姉さんの意見もちゃんと尊重できるよ」
ギルベルトはしばし黙し、やがて静かに息を吐いた。
「……わかった。お前とリアがそう言うなら、客人として彼女を迎えいれよう」
***
その日、アーベル侯爵家の庭には、しとしとと細かな雨が降り続いていた。
灰色の空の下、石畳に落ちる雨粒の音だけが静かに響く。
そんな中、一台の馬車がゆっくりと門をくぐった。
執事ハンスが傘を手に玄関前へ歩み出る。
背筋はいつも通り真っ直ぐだが、その眼差しにはどこか一線を引いた静けさがあった。
馬車の扉が開き、デボラ・フォン・ローゼンが姿を現す。
「ようこそお越しくださいました、デボラ様」
ハンスは丁寧に一礼した。
侍女アンナが傘を差し出しながら、デボラの肩にそっと手を添える。
「足元が滑りやすくなっております。どうぞお気をつけて」
柔らかな声とは裏腹に、所作は丁寧でありながら一歩引いている。
まさに、客人に向ける礼節そのものだった。
「……ふふっ、いいわ」
デボラが軽く笑ったその瞬間、玄関ホールの奥から静かな足音が響いた。
リアが姿を現した。
侯爵夫人としての装いは簡素でありながら気品に満ち、その表情には不安も疑念もなく、ただ迎える者としての覚悟があった。
「デボラ様。雨の中を……大変でしたね」
リアはゆっくりと歩み寄り、自らの手でデボラの濡れたショールを整える。
「どうか、しばらくの間……我が家でお過ごしください。あなたのお体と……そのお腹の子のためにも」
デボラの瞳が揺れた。
それが演技なのか、本心なのかは誰にも分からない。
ただ、アーベル侯爵家が、そしてリアの運命が、この瞬間から確かに変わり始めていた。
デボラ・フォン・ローゼンはアーベル侯爵ギルベルトの愛人であり、近く第二夫人となる。
そんな荒唐無稽な話が、まるで真実であるかのように囁かれ始めた。
ローゼン男爵はこの機会を逃すまいと、得意げに吹聴して回る。
「娘は侯爵様に深く愛されている」
「いずれ正式に迎えられる」
その言葉が噂に火をつけ、さらに油を注いだ。
加えて、王宮でのあの一幕を目撃した侍女と新米兵士の動揺が、噂に不必要な真実味を与えてしまう。
こうして、ギルベルトの知らぬところで、ひとつの既成事実が形を取り始めていた。
***
「兄さん、魔術団でも兄さんの話でいっぱいだよ」
「……わかっている」
珍しく苛立ちを隠そうともしない兄に、ヴィリバルトは眉を寄せた。
「で、どうするの」
ギルベルトはしばらく言葉を失い、やがて押し殺した声でつぶやいた。
「……リアが……」
その声音に、ヴィリバルトはすぐに察した。
驚きではない。リアの性格を知っているからこその理解だった。
「義姉さんが……あの噂を聞いたんだね」
「……ああ」
ギルベルトは苦しげに目を伏せる。
「『彼女を侯爵家に迎え入れましょう』と……そう言った」
ヴィリバルトの表情がわずかに強張った。
「それって、身ごもっているって噂を聞いて、だね」
ギルベルトは静かにうなずく。
「リアは……俺が裏切っていないことは分かっている。でも……子どもに罪はないと……そう言っていた」
ヴィリバルトは目を細めた。
「つまり……誰かが、義姉さんの優しさを利用したってことだね」
ギルベルトが顔を上げる。
「兄さん。これは最初から義姉さんを動かすための罠だったんだよ」
「どういうことだ、ヴィリバルト」
「考えてみてよ。兄さんの体を拘束し、意識を落とすほどの魔道具を、男爵の娘が所持しているなんて普通はありえない」
そこでヴィリバルトは、年甲斐もなくにやりと笑った。
「私も賛成だよ。彼女をアーベル家のお客様として迎え入れよう」
「ヴィリバルト……?」
「相手の目的もわかるしね。私にも考えがある。それに、義姉さんの意見もちゃんと尊重できるよ」
ギルベルトはしばし黙し、やがて静かに息を吐いた。
「……わかった。お前とリアがそう言うなら、客人として彼女を迎えいれよう」
***
その日、アーベル侯爵家の庭には、しとしとと細かな雨が降り続いていた。
灰色の空の下、石畳に落ちる雨粒の音だけが静かに響く。
そんな中、一台の馬車がゆっくりと門をくぐった。
執事ハンスが傘を手に玄関前へ歩み出る。
背筋はいつも通り真っ直ぐだが、その眼差しにはどこか一線を引いた静けさがあった。
馬車の扉が開き、デボラ・フォン・ローゼンが姿を現す。
「ようこそお越しくださいました、デボラ様」
ハンスは丁寧に一礼した。
侍女アンナが傘を差し出しながら、デボラの肩にそっと手を添える。
「足元が滑りやすくなっております。どうぞお気をつけて」
柔らかな声とは裏腹に、所作は丁寧でありながら一歩引いている。
まさに、客人に向ける礼節そのものだった。
「……ふふっ、いいわ」
デボラが軽く笑ったその瞬間、玄関ホールの奥から静かな足音が響いた。
リアが姿を現した。
侯爵夫人としての装いは簡素でありながら気品に満ち、その表情には不安も疑念もなく、ただ迎える者としての覚悟があった。
「デボラ様。雨の中を……大変でしたね」
リアはゆっくりと歩み寄り、自らの手でデボラの濡れたショールを整える。
「どうか、しばらくの間……我が家でお過ごしください。あなたのお体と……そのお腹の子のためにも」
デボラの瞳が揺れた。
それが演技なのか、本心なのかは誰にも分からない。
ただ、アーベル侯爵家が、そしてリアの運命が、この瞬間から確かに変わり始めていた。
