国王の生誕祭まで、あと数日。
アーベル侯爵家の屋敷は祭礼を控え、慌ただしさを増していた。
だが、その喧騒から離れたリアの私室だけは、穏やかな笑い声に満ちていた。
床に座り込んだマリアンネが積み木を並べ、その横でテオバルトがよちよちと歩きながら、時折リアの膝にしがみつく。
リアは微笑みながら、ふたりを見守っていた。
その幸せな光景を前に、ふとギルベルトの言葉が胸に浮かぶ。
『……今年の社交界は、無理をしなくていい』
ギルベルトらしい気遣いを思い返すだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
ちょうどそのとき、コン、と軽いノックが響いた。
「義姉さん、入ってもいい?」
落ち着いた声でそう言ったのは、成人を迎え、十七歳となったヴィリバルトだった。
「ええ、もちろんよ。ヴィリー」
リアが微笑んで迎えると、マリアンネがぱっと顔を輝かせた。
「ヴィリー叔父ちゃまだ!」
マリアンネが積み木をよけて駆け寄り、ヴィリバルトに勢いよく抱きつく。
テオバルトも負けじとよちよち歩きで続き、ヴィリバルトの足元にしがみついた。
「あはは、我が家の姫と王子は、今日も威勢がいいね」
ヴィリバルトは笑いながらふたりを抱き上げ、リアへ向き直った。
「……義姉さん、聞いたよ。今年の生誕祭、兄さんが出席を止めたんだって?」
「ええ。まだ産後一年だからって」
「兄さんらしい判断だよ。マリーの時は産後の経過が悪かったから。テオの時は二年は休めって、ずっと言ってたしね」
「本当に……心配性なんだから」
リアが照れたように笑うと、ヴィリバルトはふっと表情を引き締めた。
「実はね、義姉さん。私も魔術省からの依頼で、生誕祭には出席できないんだ」
「まあ……この時期に緊急の任務なんて珍しいわね」
「そうなんだよ。だから兄さんに報告するついでに、義姉さんのところにも顔を出したんだ。マリーやテオ、それにアルにも……会いたかったしね」
***
「──以上が、魔術省からの正式な依頼内容だよ。明日から生誕祭の期間中は、王都を離れることになる」
ギルベルトは真剣な表情で弟の報告を受け止めた。
「緊急性は高いのか」
「うん。詳細は省令で伏せられているけど、早急に対処すべき案件だとだけ伝えられている」
ギルベルトは短く息を吐く。
「……そうか。なら仕方ないな」
ヴィリバルトは少しだけためらいながら続けた。
「兄さんひとりで、社交は大丈夫かい」
「心配するな。お前は任務に集中しろ」
「兄さんさえよければ、フラウにお願いする?」
「それはダメだ」
即答だった。
「それは残念」
ヴィリバルトは肩をすくめ、わざとらしく息をついた。
ギルベルトは低く念を押す。
「……フラウにはこの話をするな」
「わかってるよ、兄さん。冗談だって」
軽く笑う弟の声音に、どこか本気が混じっている気がして、ギルベルトは目を細めた。
「……絶対だぞ。ヴィリバルト」
***
生誕祭当日の夜、王都の大広間は熱気に満ちていた。
高い天井から吊るされた灯りが揺れ、磨かれた大理石の床に金色の光が落ちる。
楽団の奏でる序曲と貴族たちの衣擦れ、笑い声が重なって、祝祭の夜らしい華やかさが広がっていた。
その中を、ギルベルトはひとりで立っていた。
本来なら隣にリアがいるはずだったが、彼女は産後一年が経っても社交界に姿を見せていない。
事情を知らぬ者たちの囁きが、扇子の陰で揺れた。
「また産後の経過が悪いのかしら」
「それとも……夫人としての務めを果たせない?」
「第二夫人の座が空く可能性も……」
しかし、誰ひとりとしてギルベルトに近づこうとはしなかった。
彼の纏う空気が、近寄りがたいほど鋭かったからだ。
令嬢たちは一歩踏み出しかけては、その空気に触れた途端、そっと足を引く。
普段ならヴィリバルトが柔らかく場を和らげてくれるが、今夜はその盾もない。
その均衡を破るように、背後から控えめな声がかかった。
「……アーベル隊長。社交の最中に失礼します」
ギルベルトが振り返ると、新米らしい若い兵士が緊張した面持ちで立っていた。
「どうした」
ギルベルトが声を落とすと、兵士は視線を泳がせながら言葉を探した。
「ご令嬢がひとり……その、少し困っておられるようでして。体調を崩したというわけではないのですが、お連れする方も見当たらず、どう対応すべきか……」
明らかに新米の困惑が滲んでいた。
ギルベルトは軽くうなずいた。
「名は」
「それが……警戒されているのか、教えていただけず……」
申し訳なさそうに眉を下げる兵士に、ギルベルトは短く言った。
「……案内しろ」
兵士はほっとしたように姿勢を正した。
「は、はい。こちらです」
大広間の喧騒から離れた廊下へ足を踏み入れると、祝祭の音が遠のき、空気がひどく静かになる。
「こちらの部屋に……」
扉の前で兵士は緊張したまま立ち止まり、ギルベルトに頭を下げて下がった。
ギルベルトはノックし、ゆっくりと扉を開ける。
部屋の中には、深い紫のドレスをまとった女性がひとり。椅子に腰掛けたまま、こちらを見上げていた。
ギルベルトはその顔に見覚えがない。
だが、女性は違った。
「……まあ。ギルベルト様」
まるで恋人に会ったかのような声音だった。
ギルベルトが眉をひそめたそのとき、背後で兵士がぽつりとつぶやく。
「アーベル隊長のお知り合いでしたか……」
ギルベルトは振り返らず、低く言った。
「失礼だが、ご令嬢。あなたは?」
女性はゆっくりと立ち上がり、微笑みを浮かべたまま一歩近づいた。
「ひどいですわ。ギルベルト様。私たちの関係がいくら秘め事であったとしても、そのように他人行儀な言い方をなさるなんて。……わたくしは、あなたのデボラですのに」
兵士が息をのんだのがわかった。
ギルベルトは即座に口を開く。
「なにか、誤解があるようだ」
その言葉を遮るように、デボラの指先で小さな魔道具が淡く光った。
空気が揺れ、ギルベルトの体が急に重くなる。
足が床に縫い付けられたように動かない。
「っ……」
喉が詰まり、声も出ない。
デボラはその様子を確認すると、まるで当然のようにギルベルトへ身を寄せた。
首に腕を回し、顔を引き寄せる。
唇が触れた瞬間、背後の兵士が激しく動揺した気配が走る。
「し、失礼しました……!」
慌てたように言い残し、兵士は扉を閉めて部屋を後にした。
ギルベルトは必死に体を動かそうとするが、魔道具の効果が全身を絡め取るように意識を鈍らせていく。
視界が揺れ、デボラの姿が滲んだ。
「すぐに終わりますわ、ギルベルト様」
その声を最後に、意識が暗闇へと沈んだ。
ギルベルトの意識の底に、ふと、布の擦れる音が落ちてきた。続いて、扉がそっと開く気配がした。
「失礼いたしま……っ、きゃあっ!」
甲高い悲鳴が響き、ギルベルトは重いまぶたを開いた。
視界がぼやけている。天井。薄暗い部屋。冷たい空気。
自分の体には薄い布がかけられているだけで、胸元は大きくはだけ、衣服は乱れ、肌が露わになっていた。
そして、隣には、なにも身につけていないデボラが、ギルベルトの肩に頬を寄せるように横たわっている。
その姿は、どう見ても事後を思わせる光景だった。
状況を理解するより早く、部屋の入口では若い侍女が震えながら口元を押さえていた。
頬は真っ赤に染まり、目は大きく見開かれてい。
「も、申し訳ございません……っ! し、失礼いたします……!」
声が裏返り、慌てて扉を閉めようとした瞬間、デボラがゆっくりと体を起こした。
掛けられた布が滑り落ち、侍女の視界になにも身につけていない姿が露わになる。
「待ちなさい」
甘く、しかし命令の響きを帯びた声だった。
「ドレスが汚れてしまったの。代わりの物を用意して頂戴」
「はっ、はい……!」
侍女は真っ赤な顔で震えながら返事をし、逃げるように部屋を出ていった。
扉が閉まると同時に、ギルベルトはようやく自分の体が動くことに気づく。
まだ重さは残るが、意識を奪われた直後のような麻痺は消えている。
ギルベルトはまず視線をそらし、デボラを見ないようにしながら、乱れた衣服を手早く整えた。
胸元を閉じ、布を払い、深く息を吸う。
そしてデボラの顔だけを見据えた。
「……目的はなんだ」
低く、押し殺した声だった。
怒りを抑え込んでいるのが、わずかな震えとなって滲む。
デボラは布を胸元にかけ直しながら、愉しむように微笑んだ。
「まあ。目覚めてすぐにそれを聞くのね。さすがはギルベルト様だわ」
ギルベルトの拳がわずかに震える。
「答えろ」
デボラはその反応すら楽しむように、ゆっくりと首を傾げた。
「そんなに急がなくても……すぐに分かりますわ。もう、噂は広がり始めているでしょうから」
ギルベルトの背筋に、冷たいものが走った。
アーベル侯爵家の屋敷は祭礼を控え、慌ただしさを増していた。
だが、その喧騒から離れたリアの私室だけは、穏やかな笑い声に満ちていた。
床に座り込んだマリアンネが積み木を並べ、その横でテオバルトがよちよちと歩きながら、時折リアの膝にしがみつく。
リアは微笑みながら、ふたりを見守っていた。
その幸せな光景を前に、ふとギルベルトの言葉が胸に浮かぶ。
『……今年の社交界は、無理をしなくていい』
ギルベルトらしい気遣いを思い返すだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
ちょうどそのとき、コン、と軽いノックが響いた。
「義姉さん、入ってもいい?」
落ち着いた声でそう言ったのは、成人を迎え、十七歳となったヴィリバルトだった。
「ええ、もちろんよ。ヴィリー」
リアが微笑んで迎えると、マリアンネがぱっと顔を輝かせた。
「ヴィリー叔父ちゃまだ!」
マリアンネが積み木をよけて駆け寄り、ヴィリバルトに勢いよく抱きつく。
テオバルトも負けじとよちよち歩きで続き、ヴィリバルトの足元にしがみついた。
「あはは、我が家の姫と王子は、今日も威勢がいいね」
ヴィリバルトは笑いながらふたりを抱き上げ、リアへ向き直った。
「……義姉さん、聞いたよ。今年の生誕祭、兄さんが出席を止めたんだって?」
「ええ。まだ産後一年だからって」
「兄さんらしい判断だよ。マリーの時は産後の経過が悪かったから。テオの時は二年は休めって、ずっと言ってたしね」
「本当に……心配性なんだから」
リアが照れたように笑うと、ヴィリバルトはふっと表情を引き締めた。
「実はね、義姉さん。私も魔術省からの依頼で、生誕祭には出席できないんだ」
「まあ……この時期に緊急の任務なんて珍しいわね」
「そうなんだよ。だから兄さんに報告するついでに、義姉さんのところにも顔を出したんだ。マリーやテオ、それにアルにも……会いたかったしね」
***
「──以上が、魔術省からの正式な依頼内容だよ。明日から生誕祭の期間中は、王都を離れることになる」
ギルベルトは真剣な表情で弟の報告を受け止めた。
「緊急性は高いのか」
「うん。詳細は省令で伏せられているけど、早急に対処すべき案件だとだけ伝えられている」
ギルベルトは短く息を吐く。
「……そうか。なら仕方ないな」
ヴィリバルトは少しだけためらいながら続けた。
「兄さんひとりで、社交は大丈夫かい」
「心配するな。お前は任務に集中しろ」
「兄さんさえよければ、フラウにお願いする?」
「それはダメだ」
即答だった。
「それは残念」
ヴィリバルトは肩をすくめ、わざとらしく息をついた。
ギルベルトは低く念を押す。
「……フラウにはこの話をするな」
「わかってるよ、兄さん。冗談だって」
軽く笑う弟の声音に、どこか本気が混じっている気がして、ギルベルトは目を細めた。
「……絶対だぞ。ヴィリバルト」
***
生誕祭当日の夜、王都の大広間は熱気に満ちていた。
高い天井から吊るされた灯りが揺れ、磨かれた大理石の床に金色の光が落ちる。
楽団の奏でる序曲と貴族たちの衣擦れ、笑い声が重なって、祝祭の夜らしい華やかさが広がっていた。
その中を、ギルベルトはひとりで立っていた。
本来なら隣にリアがいるはずだったが、彼女は産後一年が経っても社交界に姿を見せていない。
事情を知らぬ者たちの囁きが、扇子の陰で揺れた。
「また産後の経過が悪いのかしら」
「それとも……夫人としての務めを果たせない?」
「第二夫人の座が空く可能性も……」
しかし、誰ひとりとしてギルベルトに近づこうとはしなかった。
彼の纏う空気が、近寄りがたいほど鋭かったからだ。
令嬢たちは一歩踏み出しかけては、その空気に触れた途端、そっと足を引く。
普段ならヴィリバルトが柔らかく場を和らげてくれるが、今夜はその盾もない。
その均衡を破るように、背後から控えめな声がかかった。
「……アーベル隊長。社交の最中に失礼します」
ギルベルトが振り返ると、新米らしい若い兵士が緊張した面持ちで立っていた。
「どうした」
ギルベルトが声を落とすと、兵士は視線を泳がせながら言葉を探した。
「ご令嬢がひとり……その、少し困っておられるようでして。体調を崩したというわけではないのですが、お連れする方も見当たらず、どう対応すべきか……」
明らかに新米の困惑が滲んでいた。
ギルベルトは軽くうなずいた。
「名は」
「それが……警戒されているのか、教えていただけず……」
申し訳なさそうに眉を下げる兵士に、ギルベルトは短く言った。
「……案内しろ」
兵士はほっとしたように姿勢を正した。
「は、はい。こちらです」
大広間の喧騒から離れた廊下へ足を踏み入れると、祝祭の音が遠のき、空気がひどく静かになる。
「こちらの部屋に……」
扉の前で兵士は緊張したまま立ち止まり、ギルベルトに頭を下げて下がった。
ギルベルトはノックし、ゆっくりと扉を開ける。
部屋の中には、深い紫のドレスをまとった女性がひとり。椅子に腰掛けたまま、こちらを見上げていた。
ギルベルトはその顔に見覚えがない。
だが、女性は違った。
「……まあ。ギルベルト様」
まるで恋人に会ったかのような声音だった。
ギルベルトが眉をひそめたそのとき、背後で兵士がぽつりとつぶやく。
「アーベル隊長のお知り合いでしたか……」
ギルベルトは振り返らず、低く言った。
「失礼だが、ご令嬢。あなたは?」
女性はゆっくりと立ち上がり、微笑みを浮かべたまま一歩近づいた。
「ひどいですわ。ギルベルト様。私たちの関係がいくら秘め事であったとしても、そのように他人行儀な言い方をなさるなんて。……わたくしは、あなたのデボラですのに」
兵士が息をのんだのがわかった。
ギルベルトは即座に口を開く。
「なにか、誤解があるようだ」
その言葉を遮るように、デボラの指先で小さな魔道具が淡く光った。
空気が揺れ、ギルベルトの体が急に重くなる。
足が床に縫い付けられたように動かない。
「っ……」
喉が詰まり、声も出ない。
デボラはその様子を確認すると、まるで当然のようにギルベルトへ身を寄せた。
首に腕を回し、顔を引き寄せる。
唇が触れた瞬間、背後の兵士が激しく動揺した気配が走る。
「し、失礼しました……!」
慌てたように言い残し、兵士は扉を閉めて部屋を後にした。
ギルベルトは必死に体を動かそうとするが、魔道具の効果が全身を絡め取るように意識を鈍らせていく。
視界が揺れ、デボラの姿が滲んだ。
「すぐに終わりますわ、ギルベルト様」
その声を最後に、意識が暗闇へと沈んだ。
ギルベルトの意識の底に、ふと、布の擦れる音が落ちてきた。続いて、扉がそっと開く気配がした。
「失礼いたしま……っ、きゃあっ!」
甲高い悲鳴が響き、ギルベルトは重いまぶたを開いた。
視界がぼやけている。天井。薄暗い部屋。冷たい空気。
自分の体には薄い布がかけられているだけで、胸元は大きくはだけ、衣服は乱れ、肌が露わになっていた。
そして、隣には、なにも身につけていないデボラが、ギルベルトの肩に頬を寄せるように横たわっている。
その姿は、どう見ても事後を思わせる光景だった。
状況を理解するより早く、部屋の入口では若い侍女が震えながら口元を押さえていた。
頬は真っ赤に染まり、目は大きく見開かれてい。
「も、申し訳ございません……っ! し、失礼いたします……!」
声が裏返り、慌てて扉を閉めようとした瞬間、デボラがゆっくりと体を起こした。
掛けられた布が滑り落ち、侍女の視界になにも身につけていない姿が露わになる。
「待ちなさい」
甘く、しかし命令の響きを帯びた声だった。
「ドレスが汚れてしまったの。代わりの物を用意して頂戴」
「はっ、はい……!」
侍女は真っ赤な顔で震えながら返事をし、逃げるように部屋を出ていった。
扉が閉まると同時に、ギルベルトはようやく自分の体が動くことに気づく。
まだ重さは残るが、意識を奪われた直後のような麻痺は消えている。
ギルベルトはまず視線をそらし、デボラを見ないようにしながら、乱れた衣服を手早く整えた。
胸元を閉じ、布を払い、深く息を吸う。
そしてデボラの顔だけを見据えた。
「……目的はなんだ」
低く、押し殺した声だった。
怒りを抑え込んでいるのが、わずかな震えとなって滲む。
デボラは布を胸元にかけ直しながら、愉しむように微笑んだ。
「まあ。目覚めてすぐにそれを聞くのね。さすがはギルベルト様だわ」
ギルベルトの拳がわずかに震える。
「答えろ」
デボラはその反応すら楽しむように、ゆっくりと首を傾げた。
「そんなに急がなくても……すぐに分かりますわ。もう、噂は広がり始めているでしょうから」
ギルベルトの背筋に、冷たいものが走った。
