不運からの最強男

 あの日を境に、すべてが変わった。
 リアは『アーベル家の仮至宝』として扱われ、その日からアーベル家に滞在することになった。
 婚約期間は大幅に短縮され、近く正式にアーベル侯爵家へ嫁ぐことが決まった。
 一方で、ヴィリバルトは夜ごと、知らない景色の夢を見るようになった。
 夢の中の光景は、彼の記憶には存在しないはずなのに、胸の奥が冷たく締めつけられるような嫌な感覚だけが残った。

「ヴィリバルトの様子はどうだ?」

 重厚な机の向こうで、ヘルベルトが腕を組んだまま問いかけた。

「毎夜うなされているようです。寝台から落ちかけたこともございます」

 ハンスが静かに報告する。

「そうか……」

 短く返したヘルベルトの声には、父親としての不安が滲んでいた。
 その報告を聞いていたギルベルトが、静かに口を開く。

「父上……今日は、どのようなお話で」

 ヘルベルトはしばし沈黙し、机上の書類に視線を落としたまま、低く告げた。

「……リア嬢との婚姻を、早急に行う。そして二年後に、ギルベルト、お前に家督を譲る」

 ギルベルトは息を呑む。

「……家督を、私に……?」

 ヘルベルトはゆっくりとうなずいた。

「アーベル家は、これから大きく変わる。数百年もの間、空白だった至宝が、仮とはいえ宿った。この変化は避けられん。お前には、その中心に立つ覚悟を持ってもらう」

 ギルベルトは拳を握りしめ、リアとヴィリバルトの顔を思い浮かべた。
 特にヴィリバルトの変化は、日を追うごとに顕著になっていった。
 ──ある朝、食堂に姿を見せた彼は、いつものようにギルベルトへ駆け寄ることもなく、席へついた。

「兄さん、おはよう」

 その一言に、ギルベルトは思わず顔を上げた。
 いつもなら兄様と呼ぶはずの弟が、 まるで年齢を飛び越えたような落ち着いた声音で、兄さんと口にした。

「ヴィリバルト……?」

 呼びかけると、ヴィリバルトはゆっくりと視線を向ける。
 その赤い瞳は、以前よりもずっと深く、どこか遠くを見ているようだった。

「父さんは、もう王宮へ向かったの?」

 父様ではなく、父さん。
 その変化が単なる気まぐれではないことを、ギルベルトは直感した。
 母ラウラが、戸惑いを隠せないまま返事をする。

「ええ……もうお出かけになりましたわ」

 ヴィリバルトは小さくうなずき、食堂を見回す。

「……リアさんは、まだ来てないんだね」

 ラウラは少し言いにくそうに答えた。

「リアさんは……エルデン家へご挨拶に行っておりますの。急なお話でしたから、ご家族へきちんと説明をしに」
「……そうなんだ。ひとりで?」
「いや、アンナを侍女として同行させている」

 ギルベルトの言葉を聞いた瞬間、ヴィリバルトの表情がほんの少しだけ緩んだ。

「……アンナが一緒なら、大丈夫だね」

 その穏やかな声音を聞きながら、ギルベルトの胸には、言いようのない違和感が広がっていった。
 つい最近までのヴィリバルトは、夜中にうなされて泣き出すことが増え、そのたびにギルベルトは部屋へ駆けつけ、抱きしめて落ち着くまでそばにいた。
 時には「兄様、行かないで……」と袖を掴まれ、そのまま一緒に寝台に入った夜もあった。
 ──あの弱々しくて、甘えん坊だった弟が。
 目の前のヴィリバルトは、まるで急速に成長してしまったかのようだ。
 その変化が、どうしようもなく不安だった。
 ヴィリバルトだけではない。
 もっと大きな、抗えない流れがアーベル家を包み始めている
 ギルベルトには、そんな予感があった。
 アーベル家の誰もが、言葉にはしないまま、あの日を境になにかが変わり始めていることを感じていた。

 すでに世界は動き始めていた。
 至宝が宿った瞬間、リアが仮至宝になったことは、この世界のすべての人間に認知された。
 誰かが告げたわけでも、情報が伝達されたわけでもない。
 ただ、世界そのものが『そうである』として書き換えられた。
 それが、至宝が宿るという現象だった。