三十数年前。
ヴィリバルトは、兄ギルベルトの婚約者となったリア・フォン・エルデンを迎えるため、三人だけのお茶会の準備を進めていた。
「楽しみね、ヴィリバルト」
フラウが嬉しそうにささやく。
「フラウ、わかっているとは思うけど……今日は姿を見せたらダメだからね」
「わかってるわ!」
「リアさんが驚いて、兄様の婚約を辞退したら大変だから」
小声で釘を刺しながらも、ヴィリバルトはどこか落ち着かない様子でカップを並べていく。
可愛らしく彩られたテーブルには、アイリス産の紅茶と、アーベル家のレシピで焼かれたラズリーのクッキーが並んでいた。
「クッキーにしたのね」
フラウは甘い香りにうっとりしながら、テーブルの上をふわりと漂う。
「うん。紅茶にはクッキーが合うかと思って」
「ラズリーのクッキーなんて、とても贅沢だわ」
「料理長が大量のラズリーに驚いていたよ。ありがとうね、フラウ」
フラウは嬉しそうにくるりと一回転し、ヴィリバルトの肩のあたりまで寄ってくる。
「うふふ、ヴィリバルトのためだもの。いいわよ」
そのとき、テラスへ続く扉が控えめにノックされた。
「ヴィリバルト、入るぞ」
ギルベルトの落ち着いた声がして、扉が静かに開く。
その横には、淡い水色のドレスをまとったリアが寄り添うように立っていた。
「お待たせしました、ヴィリバルト様」
リアが柔らかく微笑むと、ギルベルトはその横顔を愛おしげに見つめる。
ふたりは自然に並んでいるけれど、手が触れそうで触れない、初々しい距離感があった。
「リアさん、ようこそ。今日は来てくれて嬉しいよ」
ヴィリバルトが明るく声をかけると、リアは少し肩の力を抜いて微笑んだ。
「こちらこそ、お招きいただき光栄です。ギルベルト様から、ヴィリバルト様のお話はよく伺っています」
「そうなの? 兄様が?」
ヴィリバルトが目を丸くすると、ギルベルトはわずかに視線をそらし、照れ隠しのように咳払いをした。
「……まあ、少しな」
「ギルベルト様が……とても楽しみにしておられたので」
「リア……」
ギルベルトが小さく名を呼ぶと、リアはその声だけで頬を染め、控えめに微笑んだ。
《とても綺麗な子だわ》
姿を消したままのフラウが、風の揺らぎのようにそっとヴィリバルトの耳元へ寄り、念話でささやく。
《当たり前じゃないか、兄様が選んだ人だよ》
ヴィリバルトも心の中で返すと、フラウは満足そうに小さく羽音を震わせた。
三人はテーブルを囲み、アイリス産の紅茶の香りに包まれながら穏やかな時間を過ごす。
リアはラズリーのクッキーを一口かじり、驚いたように目を丸くした。
「……とても美味しいです。アーベル家のレシピなのですね」
「うん。料理長が腕によりをかけてくれたんだ」
ギルベルトはそんなリアの反応を嬉しそうに眺め、リアはその視線に気づくたび、少し照れたように微笑んだ。
その柔らかな空気を、テラスの外から控えめなノックが破る。
「ギルベルト様、ハンスでございます。旦那様が至急のご用件でお呼びです」
ギルベルトはわずかに眉を寄せ、立ち上がった。
「すまない、少し席を外す。リア、ヴィリバルトと話していてくれ」
「はい、ギルベルト様」
リアは丁寧にうなずき、ギルベルトは軽く微笑んでから扉の向こうへ消えていった。
テラスには、ヴィリバルトとリア、そして姿を消したフラウだけが残る。
静かな風が、ふたりの間をそっと通り抜けた。
リアは少し緊張したようにカップを持ち、ヴィリバルトもどう切り出すか迷っている。
《ねえ、ヴィリバルト。馴れ初め、聞いてみたら?》
フラウがくすくす笑うように念話を送ってくる。
《えっ、今?》
《今よ。だって気になるじゃない。ギルベルトとリアのこと》
ヴィリバルトは小さく息を吸い、リアに向き直る。
「……あの、リアさん。よかったら、兄様との……その、馴れ初めを聞いてもいいですか?」
リアは驚いたように目を瞬き、すぐに頬を染めて微笑む。
「えっと……その……。ギルベルト様とは、最初は──」
最初こそ恥ずかしそうに言葉を選んでいたが、話し始めると、少しずつ表情がほどけていった。
紅茶の湯気が静かに揺れる中、ギルベルトとの出会いから、最初の誤解、そして距離が縮まっていった日のことまで、リアは控えめな声で丁寧に語っていく。
やがて話し終えると、リアはそっとカップを置き、指先で縁をなぞった。
「──ということなんです」
「そんな兄様、見たことありません」
ヴィリバルトは思わず目を丸くした。
リアは照れたように俯きながらも、どこか幸せそうに微笑んでいる。
《素敵だわ!》
フラウの念話が弾むように響いた、その直後だった。
テラスの空気が、ふっと沈んだ。
風が止まり、紅茶の湯気がぴたりと動きを失う。
リアが不思議そうに周囲を見回す。
「……あれ? 急に、空気が……」
ヴィリバルトも眉をひそめた。
その瞬間、テラスの隅に黒い霧が滲み出すように現れた。
形があるようで、ない。影のようで、霧のようで、しかし確かになにかがそこにいる。
リアは息を呑む。
「な、なに……?」
黒い霧はゆっくりと揺れ、まるで誰かを探すように空気をなでる。
そして、ヴィリバルトのほうへ、まっすぐ伸びた。
《……友よ》
声とも音ともつかない響きが、ヴィリバルトの頭の奥に直接触れた。
《やっと……転生したんだね》
リアには聞こえていない。
そのとき、フラウが顕現し、風を裂くように黒い霧へ飛び込んだ。
「ヴィリバルトになにをするの!」
小さな体とは思えないほどの勢いで、フラウは黒い霧にぶつかり、押し返そうとする。
霧は揺らぎ、低く震えた。
だが怯むどころか、まるで抱きしめるようにヴィリバルトへ迫り続ける。
襲うわけではない。
けれど、執着にも似た歓喜が霧全体から溢れていた。
「ヴィリバルト様、危ない……!」
リアは椅子を倒しそうな勢いで立ち上がり、ヴィリバルトの前に身を投げ出すように腕を広げた。
黒い霧は、その動きを見て一瞬だけ止まる。
だが次の瞬間、霧の指先のような一部がリアの腕の隙間をすり抜け、ヴィリバルトの胸もとに触れた。
「……っ!」
ヴィリバルトの体が大きく震えた。
胸の奥が焼けるように熱くなり、視界の端で知らないはずの光景が閃いた。
《友よ……やっと……》
その声は歓喜と安堵に満ちていた。
だが、ヴィリバルトの胸の奥に、説明できない嫌悪と恐怖が走る。
「……やめろ。僕に触れるな」
その言葉は、霧を切り裂くように鋭く響いた。
黒い霧が大きく揺れる。
《どうして……拒むの?》
その響きには、深い悲しみと、理解できないという混乱が混じっていた。
フラウが必死に霧を押し返しながら叫ぶ。
「ヴィリバルトはあなたの友なんかじゃないわ!」
黒い霧は後退し、中心が砕けるように震えた。
《どうして……どうして……拒絶するの……友よ……》
その声は、悲鳴にも似ていた。
そして、絶望にうちひしがれたかのように嘆きながら、霧はリアの胸元へと流れ込み、吸い込まれるように消えた。
ヴィリバルトは、兄ギルベルトの婚約者となったリア・フォン・エルデンを迎えるため、三人だけのお茶会の準備を進めていた。
「楽しみね、ヴィリバルト」
フラウが嬉しそうにささやく。
「フラウ、わかっているとは思うけど……今日は姿を見せたらダメだからね」
「わかってるわ!」
「リアさんが驚いて、兄様の婚約を辞退したら大変だから」
小声で釘を刺しながらも、ヴィリバルトはどこか落ち着かない様子でカップを並べていく。
可愛らしく彩られたテーブルには、アイリス産の紅茶と、アーベル家のレシピで焼かれたラズリーのクッキーが並んでいた。
「クッキーにしたのね」
フラウは甘い香りにうっとりしながら、テーブルの上をふわりと漂う。
「うん。紅茶にはクッキーが合うかと思って」
「ラズリーのクッキーなんて、とても贅沢だわ」
「料理長が大量のラズリーに驚いていたよ。ありがとうね、フラウ」
フラウは嬉しそうにくるりと一回転し、ヴィリバルトの肩のあたりまで寄ってくる。
「うふふ、ヴィリバルトのためだもの。いいわよ」
そのとき、テラスへ続く扉が控えめにノックされた。
「ヴィリバルト、入るぞ」
ギルベルトの落ち着いた声がして、扉が静かに開く。
その横には、淡い水色のドレスをまとったリアが寄り添うように立っていた。
「お待たせしました、ヴィリバルト様」
リアが柔らかく微笑むと、ギルベルトはその横顔を愛おしげに見つめる。
ふたりは自然に並んでいるけれど、手が触れそうで触れない、初々しい距離感があった。
「リアさん、ようこそ。今日は来てくれて嬉しいよ」
ヴィリバルトが明るく声をかけると、リアは少し肩の力を抜いて微笑んだ。
「こちらこそ、お招きいただき光栄です。ギルベルト様から、ヴィリバルト様のお話はよく伺っています」
「そうなの? 兄様が?」
ヴィリバルトが目を丸くすると、ギルベルトはわずかに視線をそらし、照れ隠しのように咳払いをした。
「……まあ、少しな」
「ギルベルト様が……とても楽しみにしておられたので」
「リア……」
ギルベルトが小さく名を呼ぶと、リアはその声だけで頬を染め、控えめに微笑んだ。
《とても綺麗な子だわ》
姿を消したままのフラウが、風の揺らぎのようにそっとヴィリバルトの耳元へ寄り、念話でささやく。
《当たり前じゃないか、兄様が選んだ人だよ》
ヴィリバルトも心の中で返すと、フラウは満足そうに小さく羽音を震わせた。
三人はテーブルを囲み、アイリス産の紅茶の香りに包まれながら穏やかな時間を過ごす。
リアはラズリーのクッキーを一口かじり、驚いたように目を丸くした。
「……とても美味しいです。アーベル家のレシピなのですね」
「うん。料理長が腕によりをかけてくれたんだ」
ギルベルトはそんなリアの反応を嬉しそうに眺め、リアはその視線に気づくたび、少し照れたように微笑んだ。
その柔らかな空気を、テラスの外から控えめなノックが破る。
「ギルベルト様、ハンスでございます。旦那様が至急のご用件でお呼びです」
ギルベルトはわずかに眉を寄せ、立ち上がった。
「すまない、少し席を外す。リア、ヴィリバルトと話していてくれ」
「はい、ギルベルト様」
リアは丁寧にうなずき、ギルベルトは軽く微笑んでから扉の向こうへ消えていった。
テラスには、ヴィリバルトとリア、そして姿を消したフラウだけが残る。
静かな風が、ふたりの間をそっと通り抜けた。
リアは少し緊張したようにカップを持ち、ヴィリバルトもどう切り出すか迷っている。
《ねえ、ヴィリバルト。馴れ初め、聞いてみたら?》
フラウがくすくす笑うように念話を送ってくる。
《えっ、今?》
《今よ。だって気になるじゃない。ギルベルトとリアのこと》
ヴィリバルトは小さく息を吸い、リアに向き直る。
「……あの、リアさん。よかったら、兄様との……その、馴れ初めを聞いてもいいですか?」
リアは驚いたように目を瞬き、すぐに頬を染めて微笑む。
「えっと……その……。ギルベルト様とは、最初は──」
最初こそ恥ずかしそうに言葉を選んでいたが、話し始めると、少しずつ表情がほどけていった。
紅茶の湯気が静かに揺れる中、ギルベルトとの出会いから、最初の誤解、そして距離が縮まっていった日のことまで、リアは控えめな声で丁寧に語っていく。
やがて話し終えると、リアはそっとカップを置き、指先で縁をなぞった。
「──ということなんです」
「そんな兄様、見たことありません」
ヴィリバルトは思わず目を丸くした。
リアは照れたように俯きながらも、どこか幸せそうに微笑んでいる。
《素敵だわ!》
フラウの念話が弾むように響いた、その直後だった。
テラスの空気が、ふっと沈んだ。
風が止まり、紅茶の湯気がぴたりと動きを失う。
リアが不思議そうに周囲を見回す。
「……あれ? 急に、空気が……」
ヴィリバルトも眉をひそめた。
その瞬間、テラスの隅に黒い霧が滲み出すように現れた。
形があるようで、ない。影のようで、霧のようで、しかし確かになにかがそこにいる。
リアは息を呑む。
「な、なに……?」
黒い霧はゆっくりと揺れ、まるで誰かを探すように空気をなでる。
そして、ヴィリバルトのほうへ、まっすぐ伸びた。
《……友よ》
声とも音ともつかない響きが、ヴィリバルトの頭の奥に直接触れた。
《やっと……転生したんだね》
リアには聞こえていない。
そのとき、フラウが顕現し、風を裂くように黒い霧へ飛び込んだ。
「ヴィリバルトになにをするの!」
小さな体とは思えないほどの勢いで、フラウは黒い霧にぶつかり、押し返そうとする。
霧は揺らぎ、低く震えた。
だが怯むどころか、まるで抱きしめるようにヴィリバルトへ迫り続ける。
襲うわけではない。
けれど、執着にも似た歓喜が霧全体から溢れていた。
「ヴィリバルト様、危ない……!」
リアは椅子を倒しそうな勢いで立ち上がり、ヴィリバルトの前に身を投げ出すように腕を広げた。
黒い霧は、その動きを見て一瞬だけ止まる。
だが次の瞬間、霧の指先のような一部がリアの腕の隙間をすり抜け、ヴィリバルトの胸もとに触れた。
「……っ!」
ヴィリバルトの体が大きく震えた。
胸の奥が焼けるように熱くなり、視界の端で知らないはずの光景が閃いた。
《友よ……やっと……》
その声は歓喜と安堵に満ちていた。
だが、ヴィリバルトの胸の奥に、説明できない嫌悪と恐怖が走る。
「……やめろ。僕に触れるな」
その言葉は、霧を切り裂くように鋭く響いた。
黒い霧が大きく揺れる。
《どうして……拒むの?》
その響きには、深い悲しみと、理解できないという混乱が混じっていた。
フラウが必死に霧を押し返しながら叫ぶ。
「ヴィリバルトはあなたの友なんかじゃないわ!」
黒い霧は後退し、中心が砕けるように震えた。
《どうして……どうして……拒絶するの……友よ……》
その声は、悲鳴にも似ていた。
そして、絶望にうちひしがれたかのように嘆きながら、霧はリアの胸元へと流れ込み、吸い込まれるように消えた。
