翌朝。
いつもより早く目が覚めてしまった。
リビングのフローリングは思いの外堅くて、昨夜はなかなか寝付けなかった。

午前6時。
彼女、イヤもういいだろう。
こうしてアパートに泊めるくらいに心を許しているんだ、桃子って呼んでも問題ないはずだ。
桃子も結衣ちゃんもまだ目覚める様子はない。
昨日の夜は遅くまで起きていたんだから仕方ないか。

そういえば、今日仕事になったって言っていたな。
結衣ちゃんに話すって言っていたのに、きっと話せてないだろう。
昨日の晩は色々あったから。

さて、コーヒーでももらおうか。

うぅーん。と伸びをして立ち上がると、肩と腰が重い。
まいったなあ。
こんな事なら、狭くてもソファーで眠るんだった。

「痛て」
キッチンへ向かいながらつい口をついてでた。
まるでじじいだな。

アパートらしくコンパクトにまとめられたキッチン。
広くはないが良く整理されている。
昨日も遅かったはずなのに、鍋も食器も綺麗に片づけられていて、予約タイマーがセットされていた炊飯器が湯気を出している。
いかにも、手を抜かない桃子らしい。

その時、
「先生?」
背後から声がした。

「おはよう」
「おはようございます。姿が見えないから、帰ったのかと思いました」
普段病院で見せるより少しだけ穏やかな表情。

「目が覚めたから、コーヒーでももらおうかと思って」
「いれましょうか?」
パジャマ姿でスッピンのまま、キッチンに入ってくる。
「いいよ。今日は仕事だろ?俺は勝手にさせてもらうから」
「じゃあ、何でも好きな物をどうそ」
「ああ、ありがとう。なあ、」
「ん?」
「桃子」
「え?」
「って呼んでもいいだろ?」
「・・・」
返事は聞こえてこなかった。
でも、ダメだとも言われない。
「俺のことは大樹でいいよ」
「はあ?」
「ほら、遅刻するぞ」
「もー」
口を尖らせながら寝室へと消えていく桃子。
かわいいなあ。


7時を過ぎて着替えと化粧の終わった桃子が出てきた。

「今日は日勤だよな?帰りは6時半くらいかな」
「ええ。さすがに土曜日の残業はないと思うけれど」
「えー、ママお仕事なの?」
眠そうに起きてきた結衣ちゃんが声を上げた。
「ごめん。この前休んだ代わりに、今日仕事にでることになったのよ」
「ええー」
「ごめんね」
「どうして?今日は映画に行く約束だったでしょ?なんで仕事に行くのよー」
すっかりへそを曲げてしまった結衣ちゃんが、プーと頬を膨らませた。

「来週はきっと休めるから。来週行きましょう?」
「イヤ」
「じゃあ、僕と行く?今日は休みだから付き合うよ」
なんとか機嫌をとろうと、俺も口を挟んだ。
「イヤ。ママと、今日行きたかったのに。もういいっ」
声を荒げ、部屋に戻ってしまった。

はー。
溜息をつき、暗い表情になった桃子。

「結衣ちゃんは見ておくから、支度しろよ」
「うん。でも・・・」

時間もないだろうに、桃子は部屋を片づけて洗濯物をたたんでいる。

「いいから。何か作ろうか?」
「いいわよ」
クスッと笑って台所に消えていった。

あっという間にいい匂いが漂う。
「味噌汁か、いい匂いだな」
「飲む?」
「そうだな。いただこうか」
「おかず、作りましょうか?」
「いいよ。TKGで」
「TKG?」
「玉子かけご飯」
「ああ」

炊きたてのご飯、桃子が作った味噌汁、玉子に醤油。
朝食がこんなに美味しいと感じたのは初めてだ。

「うまいな。結衣ちゃんも食べればいいのに」
「そのうち機嫌が直ると思うから、放っておいて」
「大丈夫なのか?どこか連れ出してやろうかと思っているんだが」
「いいわよ。甘やかせば調子に乗るだけだから」
フーン。
そんなもんか。子育てって難しいな。

「あの・・・」
ん?
何か言いたそうに、桃子が見ている。
「どうした?」
「私は仕事に行くけれど、先生はどうする?」
「俺は・・・もう少しいるよ。結衣ちゃんの事も気になるし」
「そう。あの・・・昨日は本当にありがとうございました。先生がいてくれて助かりました」
深々と頭を下げる。
「いいよ。俺が好きでやってるんだ」

朝食を食べ、片付けをし、桃子は仕事に出かけた。
「結衣、ママお仕事に行くからね」
部屋の前から声をかけていたが、結衣ちゃんの返事は聞こえてこなかった。