どれくらいの間、そうしていただろう。
ハッとしたように千早は我に返って、ボクを勢い良く殴り飛ばした。
頬が熱く、今まで味わったことのない痛みが広がっていく。
でも、そんな痛みなんて、どこかが麻痺しているのか気にならなかった。
千早は、絶望したような表情でボクを見据える。
「…女…の子……?」
やっと絞りだした声は、微かに震えていた。
バスタオル一枚を巻いた千早は――どう見たって、女の子だった。
その時、バサリと千早にかけられたずぶ濡れのジャケット。
見上げると、イッチーが立っていた。
ポタリ、ポタリと髪から落ちる雫。
ジャケットと同じ、ずぶ濡れのイッチーが立っていた。
いつの間にイッチーが帰ってきて、リビングへ入ってきたのかも分からない。
ボクの頭は、やっぱりうまく動いてくれない。
俯く千早と、真剣な眼差しでボクを見つめるイッチーを交互に見比べた。
微かに、イッチーの瞳が揺れている気がした。
「な…ん…イッチー…?」
「リョウ。」
何かを決意したかのように口を開いたイッチーの声は、ハッキリと通った。
雨音も、風の音も、恐ろしかったはずの雷鳴さえ、もうボクの耳には届いていない。
「千早は――女の子だよ。」
機能しない思考回路と同時に、今の感情が喜怒哀楽の何なのかも判断がつかなかった。
でも。
でも、イッチーの言葉をもう一度受け止めた時。
『千早は女の子だよ。』
瞬間、ボクの顔から火が吹いた。
カァッと熱くなって、ボクは顔を覆う。
ドクドクと五月蝿い心臓。
千早を押し倒した、瞳に焼き付いた千早の姿――女の子の姿。胸の感触。
――ダメだ、これは。
自分の胸を掴む、心臓をギュッと握ってしまいたい。
男にしとくのは勿体ない、
じゃあ、もしも女の子だったなら――…。
*いちご、シフォン、チーズ、チョコレート*
― by 千早 ―
初めて締めたネクタイの、首にまとわりつく感覚に耐えかねて、俺はそれをルーズに緩めた。
西園寺グループのナントカ記念ナンチャラパーティーとか何とかに招かれた俺たち。(←強制的)
豪華なホテルで立食パーティーという状況で、俺が楽しむべきは食事だけだ。
何かも分からないデカい肉に、フォークを突き刺して噛りつく。
周囲のセレブ連中は、眉間に皺を寄せて俺をガン見していた。
「皆様。本日はお集まりくださって、ありがとうございます。」
深紅のドレスに身を包んだ桜子サマは上機嫌。
その背後には、
グレーのネクタイとジャケット、黒のシャツを身に纏った壱、
全身真っ白のタキシードでTHE王子様な香住サン、
逆に全身真っ黒なスーツのリョウ、
どっかのロックスター?って感じのポップで奇抜なスーツ姿の梓月。
桜子サマはイケメン達を従えてご満悦ってか?
至って無難なスーツを着せられた俺は他人事のように眺めていたが、壱が口パクで俺を呼ぶ。
……面倒くせぇな。
俺は渋々立ち上がった。
桜子サマの長ったらしい挨拶は永遠と続き、
その後ろで立ち尽くす俺たちは、まるで本物の執事みてぇだ、と思った。
床から天井までの大きな窓の向こうには、テラスと何故かプール。
さらに、その向こうには庭園。
薔薇のアーチがあった。
非日常な空間だよな。
でも、このセレブだらけのパーティーに助けられてもいる。
正直、あの広い家の中は、今の俺にとって気まずくて堪らねぇんだ。
梓月の告白、
リョウにバレた、俺の正体。
あの嵐の夜。
俺に「部屋に行ってろ」と言った壱が、リョウ何と説明したのかは分からない。
でも、あれからリョウがその件に関して触れることはなかった。
こんなはずじゃなかったのに。
何だって、こんな事になっちまったんだ?
溜め息を吐かずにはいられなかった。
アイツらは皆イイ奴らで、俺は時々ウザったく感じながらも――楽しくて。
今まで友達なんかいなかったし、家族の温もりとか…そんなもん知らねぇから。
初めて…友達になれるかもしれねぇって思ったのに。
血なんか繋がんなくても家族に……とか。
あー何か一人でバカみてぇ。
一度そんな事を考えはじめると、俺のテンションはどんどん落ちていった。
プールサイドのテラス、
椅子に腰を下ろして水面を見つめていた。
眩しいほどに照りつく太陽、光が反射するプール。
立ちこめる花の匂いに酔ってしまいそうだ。
「食い過ぎたか?」
その声に顔を上げると、壱が立っていた。
太陽を背負う壱に目が眩む。
「…皆は?」
「捕まってるよ。」
壱の視線の先に目をやると、会場の中で人だかりが出来ている所が3つ。
どうやら、セレブな奥様やお嬢様に捕まっているらしい。
「俺も逃げてくるのに苦労したよ。」
「…美男子は大変だな。」
「お前だってそうだろ。」
「…………。」
俺は…男じゃねぇから。
それを口にはしなかったけど、壱には俺の言いたいことが分かったようだ。
「リョウのこと気にしてんのか?」
「…………。」
「大丈夫だ。アイツ、誰にも言わねぇってさ。」
「…………。」
「リョウも、俺と同じなんだよ。千早がいなくなったら困るんだ。」
「…………。」
「――仲間だからな。」
「!」
……仲間?
見上げると、壱は目を細めて微笑んでいた。
「仲間だろ?」
仲間……。
『Baby Apartment』の仲間!
「今さら、んなこと気にしてんじゃねぇよ。
千早は堂々としてろ。
男だろうが、女だろうが、千早は千早だ。」
そう言って、壱が俺の頭をクシャクシャと撫で回すから、俺は何故か泣きたくなった。(ぜってぇ泣いてやんねぇけど!)
マジで嬉しかったんだ。
千早は千早でいい、って言ってくれたことが。
俺は誰かから必要とされたことなんかなかったから、認められた気がした。
自分の存在を。
「…つーか、さ。」
「え?」
「梓月のことは、どうするんだ?」
壱は、そう言って急に近づいた。
顔と顔の距離がグッと近くなって、俺は不覚にもドキッとしてしまった。
「どう…って……?」
「梓月の気持ち、どうすんだよ?」
強い眼差しが俺を捕える。
耐えられなくなって、顔ごと目を背けた。
「…どうするも何も、梓月は俺を男だと思って告ってんだから……どうしようもねぇだろ。」
俺はそもそも男じゃねぇ。
だからゲイでもねぇ。
梓月の気持ちを受け入れるわけにはいかねぇんだよ。
梓月には悪ィけど、
俺に出来るのは、なるべく傷つかねぇようにフッてやる事くらいだ。
「…そうか。」
壱はそれだけ言うと、さっきまでとは打って変わって優しく笑う。
胸が締め付けられるような可笑しな感覚がして、俺は慌てて俯いた。
喉の奥が詰まるような息苦しさ、
壱を見てられなかった。
壱は、そんな俺に気づいていない。