ちぐはぐな文字、
ケータイに慣れていない千早は濁点が打てないらしい。
変換も出来ないようだ。
たどたどしいメールを読んで、暗号を解読したような気分になった。
嬉しい。嬉しかった。
俺は必死に、だらしなく緩んでしまう顔を隠す。
梓月の話が続いていたからだ。
「――なのに、だ。」
「え?」
「………俺、ゲイかもしれない。」
「…………はぁ!?」
何言ってんだ…?
驚く俺に対して、梓月はまるで諦めたみたいに冷静だった。
「…壱。俺、好きな奴がいる。」
「…………。」
「好きなんだと思う。」
梓月が、この後何を言うのか分かってしまう俺は、どうかしてるんだろうか。
まさか、と思った。――そう、思っていたかった。
でも、梓月の苦しく切なそうな、真剣な瞳が全てを語る。
知ってしまった。
そして、
俺自身も気づいてしまった。
『――ありかとう、きさやろお』
「俺、千早のことが好きだと思う。」
梓月に対する苛立ちの理由。――それは、紛れもなく嫉妬だった。
ストレートに自分の感情を千早にぶつける梓月に対して。
そして、
俺と同種の感情を持つ梓月に対して。――俺も。
――俺も、千早が好きだ。
気づくわけ、ねぇだろう。
今まで生きてきて、恋に落ちたことなんかねぇんだから。
胸の奥が苦しくなる、
呼吸さえ忘れる程の恋なんか。
千早が、好きだ。
好きだ。
好きだ。
26年間生きてきて、初めて知った。
恋ってもんが持ってる力も、
好きだって言葉の本当の意味も。
いつからだって考えたって無駄なんだろう。
気づいた時には好きだった。
気づいた時には、
千早はもう、俺の心の中にいた。
初恋だ、なんてダサすぎるよな。
初めて恋に落ちた、とかさ――…。
*ときに臆病な官能小説家*
― by 隼人 ―
四角いフレームのメガネをかけた彼女は、難しい顔をしていた。
タイトなスカートに、足の細さが引き立つ黒いタイツ。
仕事がデキる女、といういかにもな見た目の彼女は、
原稿を置いて俺を見据えた。
それから、やれやれと言うように溜め息を零す。
「…やっぱり、ありきたりなのよねぇ。」
編集部の一角、
忙しなく働く人々の声や足音。
鳴り響く電話。
綺麗に整頓されたデスクに頬杖をついて、彼女は言う。
「文章力はある、でも香住さんが書く物ってそれだけなのよね。
何ていうか…ライトノベルっぽい。」
「ライトノベル、ですか…。」
「そう!エロスが足りないのよ!読者を引きつけるようなパンチのあるエロスがっ!!」
力説する彼女を冷静に見つめる。
エロスが足りないなんて官能小説家としては致命的だろう。
しかし、俺は頭の片隅で別の事を思っていた。
未だに力説を繰り広げる編集者の女、
彼女のような女性は昔から苦手だった。
外へ出ると、日差しは容赦なく降り注ぐ。
蒸し暑く、身も心も重くなる。
足取りも重く、家路へと突き進む。
人々でごった返す駅から電車に乗り込んだ。
都心から郊外へ向かう車内は平日の昼下がり、比較的空いている。
シートに腰を下ろして、流れゆく景色を見つめていた。
ビルに囲まれてゴチャゴチャとしている東京の街。
巨大な看板の広告、入り組んだ道路。
温かみも何もない、日差しを受けても何となくグレーがかった車窓の向こう側。
過ぎ行く街並みに辟易して、俺は静かに目を閉じた。
そろそろ、潮時かもしれない。
本当は、いつも思っていた。
高校時代、興味本位で書いた官能小説が佳作になったことがある。
それに目をつけたのが今の出版社だ。
愚かにも自分の才能を信じてしまった俺は、それから官能小説家を目指すことになる。
あの頃は、紛れだとか微塵も思わなくて、何も考えずに走ることが出来た。
若いってのは、勢いに任せて何でも出来るのかもしれない。
恐れるものなど、何もなかった。
今にして思えば、俺は自惚れていただけなんだろう。
いくつもの物語を作りあげても、それが光を浴びることはなくて。
言われるのは、いつもお決まりのセリフ。
『ありきたり』。
「隼人には何もない。」、と冷たい瞳で清香(きよか)は言った。
2年前のことだ。
俺は将来を真剣に考えるほど、清香に入れ込んでいた。
後にも、先にも、恋愛にあれほど溺れたのは、
あの時だけだ。
だから、俺は追いかけ続けた夢を諦めるつもりでいた。
清香と生きていくために安定したまともな職に就こう、と。
けれど、プロポーズをした時、
清香の表情は俺の想像するそれとは違っていた。
レンガ造りの薄暗い喫茶店、
昭和の匂いが残るレトロな店内、
壁に掛けられた紫陽花の絵。
清香は眉をひそめて、俯いていた。
清香は言う。
“隼人には何もない”、と。
― 何年も夢を追いかけて、何一つ結果がない。
…何もないじゃない。
私を、夢を諦める理由にしないで。
そういうのは重いの。 ――
格好悪いとか、プライドとか、
そんなものはもうどうでもよくて、俺は必死で清香に縋った。
けれど、清香が頷くことはなかった。
終わってしまうのは、
酷く呆気ない。
仕事がデキて、芯が強く頑固だった清香は、
何となく編集部の彼女に似ている――。