会計時、
やはり金額より多めに支払うと、釣りも受け取らなかった。
会員証で見た少年の名前は『花本千早(はなもと・ちはや)』。
俺はまだ10分前にも関わらずタイムカードを切ると、身仕度を整えて、慌てて少年の後を追いかけた。
ツレのギターも、背負って。
俺の夢は、きっと、
まだまだ捨てたモンじゃねぇ。
そう思える希望に出会えたのだ。
見失うわけにはいかなかった。
まだ明けきらない真冬の空は、薄紫色に滲んでいる。
人の姿も疎らな早朝。
空気は凍えるほど冷たい。
カラオケ店のある繁華街から一番近い最寄りの駅に、少年はいた。
コインロッカーを開けて、汚れている紙袋をいくつか引っ張りだしていた。
影から、その様子を見つめる俺の頭に浮かんだ一つの可能性。
もしかして、家出少年?
少年は紙袋の中から一つを手にすると、他を再びコインロッカーに戻した。
それから少年が向かったのは、駅のトイレ。
少年の動向をぼんやりと眺めていた俺は、
次の瞬間身を乗り出していた。
少年が入っていったのは、女子トイレだったからだ。
訳が分からない俺は、それでもそこに立ち尽くしていることしか出来ない。
少年の姿が見えなくなってから数分後、
女子トイレから人が出てきた。
それを見て、俺は呆然とする。
出てきたのは、確かにあの少年だった。
けれど、
ボロ布みたいなパーカーも、ボロ雑巾のようなスウェットも着ていない。
着ていたのは、ごく普通のセーラー服だった。
歩きながら、束ねていた髪を颯爽と解くと無造作に頭を掻く。
手にしていた紙袋をコインロッカーに戻すと、代わりに濃いブラウンの学生カバンを手にした。
俺は目の前で起こっている状況を、さっぱり飲み込めない。
ただ一つ、確かな事は、
花本千早がただの家出少年ではないという事だ。
軽やかに揺れる金色の髪は柔らかそうだ、なんて思った。
今日、一日中“花本千早”を尾行して分かったこと。
花本千早は、この辺りじゃ名門として知られる透桜女学園高校に通っているらしい、ということ。
つまり――。
知れば知るほど、花本千早への謎は深まっていくばかりだった。
少し距離をとって後をつける俺は、正直途方に暮れている。
夕方の紫色が街を包んでいた。
紫に照らされた花本千早の金色の髪は、息を呑むほど美しく憂いを帯びている。
美少年、ではなく美少女。
一体、何で男装なんか………。
花本千早は今朝と同じ駅のコインロッカーを開けると、今朝と同じ紙袋を持って、
やっぱり女子トイレへと消えた。
数分後、
姿を見せた花本千早は、もう名門女子高校のセーラー服を身に纏っていない。
クシャクシャに汚れたパーカー、濁ったような色のスウェット。
慣れた様子で髪を一つに束ねると、荷物をコインロッカーへと戻した。
どこへ行くんだ?またカラオケか?
しかし、花本千早は繁華街とは逆方向へ歩きだす。
俺は見失わないように細心の注意を払いながら、
再び後を追った。
花本千早は両手をスウェットのポケットに突っ込んで、俯きながら歩いていた。
先程、美しささえ感じたはずの背中は猫背ぎみ。
擦れ違う人々は、
一瞬、花本千早を見やるが、すぐに目を逸らす。
透桜女学園高校の生徒である面影は一切ない。
服装だけで人間はここまで変わるものなのか、と変なところで関心してしまった。
花本千早が辿り着いた先は、公園だった。
陽は沈んで、公園の遊具はうっすらと暗くなった中に佇む。
風が冷たくなってきた事もあってか、人の気配はなく嫌に静かだった。
花本千早は噴水を横切ると、階段を上って木々が騒めく方へと向かっていく。
そちらに、道らしい道はないはずだった。
渇いた草や木の枝を掻き分けていくと、木々に周囲を囲まれた広々とした場所に出る。
目の前には灰色の壁があって、それに沿うようにブルーシートで作ったらしいテントがいくつか連なっていた。
そして、花本千早はその中の一つへと入っていった。
ここがホームレスたちの棲み家であることは明らかだ。
困惑していると、花本千早はテントの中から顔だけを出して叫んだ。
「シゲさーーん!!」
ほんの少しの間の後、
どこからかシャガれた男の声が届く。
花本千早はテントから飛び出すと、駆け出していった。
慌てて後を追いかける。
奥へ進むとスプレーで落書きされた壁、その更に向こうには小川があるようだ。
さらさらと水の流れる音が聞こえる。
落書きされた壁の下で、一人のオッサンが火を焚いていた。
「やっぱり焼きイモだ!匂いがしたからさ!」
オッサンに駆け寄る花本千早は笑った。
初めて見た笑顔だ。
俺は、なぜかドキリとした。
「千早は本当に鼻がいいなぁ。独り占めしようと思ってたのによ。」
「シゲさん、そりゃねぇよ!くれよ!イモ!」
「わぁーった、わぁーった。」
シゲさんと呼ばれたオッサンは白髪交じりの髪で、黒いニット帽を被っている。
洋梨のような体型で、ベルトに腹の肉が乗っていた。
花本千早と同じように、汚れた服に身を包んでいる。
「もう12月だな。シゲさん、紅白楽しみなんだろ?」
「あったりめぇだ。紅白と焼酎がねぇと、年は越せねぇさ。」
「飲み過ぎだっての。」
その時、俺はシゲさんと目が合ってしまった。
「誰だ?」
ドスの効いた低い声。
花本千早が振り返る。
俺は、酷く動揺した。
「おめぇ、誰だ?」
「いや、あの…千早さんに………。」
「千早?おめぇの知り合いか?」
花本千早は怪訝な表情で呟いた。
「…知らねぇな。」
「だとよ。
おい、兄ちゃん。ここはホームレスの溜まり場だ。とっとと出ていけや。」
有無を言わせない空気、
威圧感。
俺は意を決して口を開いた。
「『カラッ!カラッ!カラオケ本舗』で働いています、
梅田 壱(うめだ・いち)と言います。」
「カラッカラッ?」
シゲさんは眉をひそめる。
「昨夜、千早さんが当店に来店されて。偶然、千早さんの歌を聴きました。
私はアマチュアバンドを組んでいましたが、
ボーカルが抜けてしまったため、新しいボーカルを探しています。
俺は……千早さんの歌に惚れました!宜しければ、俺とバンドを組んでもらえませんか!?」
頭を下げた俺を、シゲさんは不思議そうに見下ろす。
花本千早は、まだ一度も目を合わせてくれない。
「おい、千早。どうすんだ?」
「知らねぇって。」
シゲさんは困ったように口を開く。
「カラカラだ、バンドーだ、俺にゃ この兄ちゃんの言ってることがよく分かんねぇ。
千早。おめぇ、ちゃんと二人で話してこい。」
「あ゛?イモは?」
「……残しといてやるから。」
花本千早は、渋々立ち上がった。
来た道程を戻り、上ってきた階段の手前まで来ると花本千早は無愛想に言った。
「めんどくせぇ。」
「え?」
「お断わりだな。バンドだか何だか知らねぇけど、分かったら消えろ。」
酷く不機嫌そうで、
その真っすぐな瞳に初めてまともに見つめられて、俺はまた心臓が跳ねた。
「ちょっと待ってくれっ!頼むから……チャンスをくれ!」
「チャンス?」
「今、ここでギターを弾くから。認めてくれたら、俺と組んでくれ!」
「認めるって、何を…。」
俺は、花本千早に耳をかさず、慌ててギターを引っ張りだした。
必死だった。
ここで、コイツを逃がすわけにはいかないんだ。
花本千早は腕を組み、諦めたように溜め息を吐いた。
俺は一つ呼吸をして、ピックで音を紡いでいく。
高校時代にバンドを始めるきっかけになった、イギリスのバンドの曲だ。
俺が一番好きな曲。
夜の公園にギターの音色が響く。
吐く息は白く、風は冷たい。
今、俺と花本千早を取り囲むものは、藍色の夜とロック。
自信はある。
必ず頷かせてみせる。