風にキス、君にキス。





「日向…」


「…ん…?」


「生きていてくれて…ありがとう…」




それ以上に何があるんだろう。



愚かだった。


欲張りだった。




…それ以上なんて、望んではいけなかったんだ。



"生きてる"…それがどんなに尊いことなのか、目の前で優しく微笑んでいる日向の存在が教えてくれた。







「ーっ…」


「…柚」



拓巳が優しくあたしの腕を引いて、背中をさすってくれた。



「っ…ありがと…」



「どーも、相原日向」



変わって…隆史先輩が明るい笑顔で、日向の前に立った。




「…どうも。…んと…」


「俺達は少しだけ年齢の差があったけど、お前とすっっごく仲が良かったんだ」



雄大先輩が隆史先輩の肩越しに顔を出して、そう続けた。





「早く戻って来いよ。いつでも待ってるから」


「あ…ありがとうございます」



少し戸惑ったようにそう返す日向に、隆史先輩が微笑んだ。



「すげー毒舌だったのに、口調が柔らかくなったな」




…その表情は少し切なくて、少し寂しげで。



でもあたしがもう一度先輩の目を見た時には、いつも通りの悪戯っぽい瞳に戻っていた。



「せんぱ…」


「じゃ、明日からもほぼ毎日見舞いに来るからな!ウザイと思うけど覚悟しとけよ?」


「あ、自覚あるんですね」


「…もっぺん言ってみ、雄大?」


「なんでもないです」



軽口を叩いて、明るく笑いながら。



日向の前では決して涙を見せまいとする人達。




…あたしも、強くならなきゃいけないのだと思った。





「…また、来るね」


「おう。…ありがとな」



先輩達に続いて病室を出る前に、あたしは日向にそう微笑みかけた。



…そして、そこでやっとお見舞いの花を持って来たことを思い出した。



「あ、忘れるところだった」


「…ん?」


「これ…」




あたしが選んだ、赤くて小さな花をたくさんつけた鉢。



日向に差し出して、「ゼラニウム。小さい花が次々と付くの」と説明した。




…選んだ理由は、言おうとしたけどやめた。




「水、あげてね」


「俺よりもお前…柚、に似合ってるけどな」



日向は少し苦笑いして、花を受け取ってくれた。




「確かに日向には可愛すぎるかも」


「な?」


「またね」




泣かない。



日向がいるから…もう、泣かないよ。










「Next...yuzu?」


「Yes,the answer is...」



英語の時間になると、思い出して困る。



…いつも爆睡してて、先生に当てられて、面倒くさそうに…でも綺麗に英語を読み上げる彼の横顔を。





「もっと動いてパスを受け取りに行け!」


「柚、パスっ」


「はいっ」




…バスケも得意だった、彼の姿を。



あなたが誰よりも軽やかにドリブルをしながら走って、シュートを決める姿はもう見られないのかな…




「先輩!記録、上がってますっ」


「え、本当に!?」




…グラウンドを見ると、そこには相変わらず風が吹いていて。



まだ心は少し、切ない。






強くなることは難しいこと。



…あたしに、出来るのかも分からない。



だけど。



あたしが頑張らなくちゃきっと…大切な何かが消えちゃうね…







「柚ちゃん、お弁当は?」


「あ。あたし食堂だから!」



友達に誘われても、あたしはそう断って。



…パンを持って、屋上へと一人で向かった。





誰かが日向の話をするのが嫌だった。


日向のいない教室にいるのが嫌だった。



…どうしようもないくらい、一人になりたくなった。





「金谷」


「っ…」




屋上に行こうとする途中、廊下で担任に呼び止められてびくっとした。



「はい…?」


「…どうだ、最近?」





心配してくれているのだと、すぐに伝わった。



「はい。大丈夫です」


「あまり一人で抱え込み過ぎるなよ?何かあったら相談するように」


「ありがとうございます」



一人で、かぁ…




そう担任の言葉を反芻しながら、屋上でパンを頬張った。




風が涼しくて、教室よりもずっと気持ちいい。



「…記憶って、儚いな…」



思わずそう呟いていた。





日向は今どんな風に物事を感じているのだろう。



汚いことも美しいことも、幸せなことも苦しいことも全て白紙に戻った心で。



…この世界は、どう見えている?



そう問い掛けたい。





「全てを忘れられたら楽なのにな」



小さい頃から、軽く使ってきた言葉の真の重さを。



…伝えて欲しい。


教えて欲しい。






「っ…」



口を固く結んで、目を閉じた。



瞼に柔らかい風を感じて心を落ち着ける。






ーーーー「あの…先生」


「はい」


「日向の記憶が戻る可能性は…」


「なんとも言えません」





ふとした衝撃で"戻る"かもしれない。



一生"戻らない"かもしれない。




…確かなことは何一つ無かった。




足だって、リハビリを重ねれば"歩ける"かもしれない。



けれど傷があまりに深く足を砕いているせいで、"動くのが精一杯"になるかもしれない。







…日向が再び走れるようになる可能性は、悲しいくらいに小さくて。




「とにかく、信じよう。



俺はずっと、ずっと日向を待ってる」




結局大会を辞退した隆史先輩はそう言った。



三年生は引退しても自主練を続けながら、あの部室で日向を待っていた。



二年生も…



そして、拓巳とあたしも…





…日向のいない部室は、やけに広く見えた。








――――――

――――


「日向、柚ちゃん来てくれたわよ」


「…おう」


「こんにちは」



おばさんにまず挨拶をしてもらってから。



…あたしは、日向の病室に入った。




「お加減…いかがですか?」


「別に頭が痛いとかはない。…けど」




日向は少し顔をしかめながら、色々と巻き付けられた重そうな足を眺めた。




「…"歩く"ってどういう感覚、なんだ?」



「…えっ…と」




言葉に詰まる。



…歩く、ってどんな感覚?



あまりに当たり前だったから、うまく説明出来ない。



「…っ、と…」



ゆっくりと、足踏みをしてみると。



日向が不意に吹き出した。



「何やってんだよ」


「だって、やってみた方が伝わりやすいかと…」





そう口を尖らせていると、ふと説明を思いついた。




「あ。」


「何」


「…空気の上を踏みつけて越えていくような、そんな感じ」


「へぇ」


「伝わった?」


「全然」


「なっ!」


「嘘。…なんとなく伝わった」



日向は悪戯っぽく笑った。



そんな表情を見ていると、何故だか胸が苦しくなった。



「っ…」


「じゃあさ」


「うん…」


「"走る"ってどんな感覚?」




それは…



あなたが誰よりも、一番よく知っていたはずなんだよ…







涙を堪えて、あたしは背筋を伸ばした。



「風になること。」


「…え?」


「走ることは風になること。透明な、風になること。


…ある人がね、以前にそう言ってた」




こんなに切ない気持ちは、初めてだった。