風にキス、君にキス。




そう小さく笑ってから、付け足した。



「…地面と風があればいーから」


「陸上バカ。」


「バカ。」


「なっ…ストレートに言われると、本当に腹立つっ」



些細な会話でさえ、幸せだと感じた。



柚が可愛くて…すげー可愛くて。




「あ、日向」


「ん?」


「あのね…」



柚が少し照れ臭そうに何かを言おうとした。







――…その、時だった。







「…っ!」



ギュイイイイイイイイインッッ!





――――突然、乱雑な音が響いて。




明らかに走り方のおかしいトラックが、突っ込んできた…のは。




「え…?」





…何、飲酒運転?



そんなことを考える余裕もなく。




「…っ、柚っ!」


「っっ!」



咄嗟に柚を背中に庇った。









――――キュイイイイイイッ……!!






「日向…っ!」




車の進入が禁止されているはずの歩道に、俺の逃げる余地はなく。


逃げたい。
それなのに、逃げられない。



…次の瞬間には、全てが反転し。



強く体が跳ねとばされ、踏みじられる衝撃。



……それも、一瞬のことだった。




なんでこんな酷なことも、同じ一瞬で片付けられるのかも分からないうちに…





「っ…」



痛みとか、苦しみとか…そういう次元ではなく。




ただ…体に力が入らず。





…少しずつ、全てが失われていく感覚だけがあった。




体が…麻痺していく。




「ひな…たぁ…っ」



景色が見えなくなっていく。




柚の…顔も。









……ああ、ごめん。



また泣いてんなって…






その涙を拭って…やり…たい…のに…





誰でもいい。

柚の目を塞いで、俺を隠してやって。





「日向…っ、日向…!」




――――――

――――







…最後に見たのは



誰よりも愛しい君の





泣き顔…だった。












もしも神様がいるのなら



…あたし達はきっと、こんなにも泣かずに済んだはずだよ。





日向が一番大切なものを


奪われたことさえも

運命だなんて言うのなら



あたしは運命なんて信じない。











「先生…っ!息子は…日向はっ、無事なんですか…!?」――――



――――「大変危険な状態です。



意識が戻るかどうか…戻ったとしても体や脳に酷く障害が伴うことは間違いないと思います…



…全力を、尽くします」―――――









ねぇ…



…どうして、日向がこんなことになったの…?











「柚、あなたも疲れてるの。今日はひとまず家に帰って…」



諭すように言ったお母さんの手を、あたしは何も言わずに振り払った。



「っ、柚!」


「…」




涙も…出なくて。



目の前も、よく見えない。



…何時間が経っただろう。



病院のソファーに座り込んだまま、ただただ待ち続けるだけだった。







何時間でも待てる。




…日向が、帰って来てくれるなら。






「お母さん…」


「…柚?」


「日向…助かるよね?絶対に、助かるよね…?」


「ゆ…」



お母さんにそんなこと言ったって、困らせるだけだとわかっているはずなのに。




もう…何が正しいのかも、わからない。





「っ、柚ちゃん!」


「柚!」



幾つも重なる声に、ゆっくりと顔を上げると。



…隆史先輩を始めとする陸上部員達が、いた。



「皆…」


「…日向は?」



静かな質問に、ゆっくりと首を横に振ると。




…雄大先輩の顔から、血の気が引いて。



「っ、雄大!」



止められるのも聞かずに、手術室の前へと駆け出した。



「待てよっ、落ち着け!」


「日向っっ…!



頑張れよっ!頑張ってくれよ…っ!



うぅ…っ、あ…」


「落ち着けって言ってんだろ、バカ…!」






…いつも優しい先輩達が、こんなにも感情を剥き出しにしたのを。



初めて…見た気がした。







「皆…ありがとうね」



その声に振り向くと、目をハンカチで押さえた日向のお母さんが立っていて。



…あたしは、静かに歩み寄った。




「おばさん…」


「ありがとうね、柚ちゃん。…ずっと付いててくれたんでしょう?



無理…しないでね?
あなたが倒れたら、日向に怒られちゃうわ」



優しく微笑みながらおばさんは、あたしの髪を撫でてくれた。




…日向と同じ。



昔からずっと…いつも温かい人だった。





「おばさん、あの事故は…」



…躊躇いながらも、そう言葉を紡ごうとした時。







「っ」




――――…その場にいた全員が、息を呑んだ。




"手術中"のランプが消え…静かに白い扉が開き、担当医が現れた。






「っ、先生…!」


「一命は取り留めました」



その言葉に、全員が熱い息を漏らした。



…でもあたしは、まだ息がつけなかった。






医師の険しい目付きが、何かを暗示していたから。



…そして、それをあたしは一番恐れていたから。




その悪い予感は当たっていた。






「…ですが、大きなリスクを背負っています。落ち着いて聞いて下さい」


「え…?」




医師の重々しい言葉を、あたしの心は怖いぐらいに冷静に構えていた。






「複雑骨折が非常に多く、特に腱を酷く損傷しています。…歩くことが、難しくなるかもしれません。







…脳に関しましては、後日もう一度CTスキャンを使用して詳細を調べますが。








様子によると…記憶を失っている可能性が、高いと思われます。」









――――…目の前に、暗闇が広がった。



風も地面も…この世界には、何も無い。












「…日向」



…おばさんは、病室にあたしを日向と二人きりにしてくれた。



おばさんだってきっと、日向にたくさん話したいことがあったはずなのにね…




ありがとう。…ごめんなさい。





「…っ、痛い…よね」



たくさんの針を刺されて、たくさんの道具に繋がれて眠る日向の口元に手を当てて。



…何度も何度も、息を確かめた。





「っ…」




息は温かくて



頬も髪も温かくて…





…確かに、日向は生きている…のに。







「ーっ、っう…っ…あ…」



涙が出てくるのはどうしてだろう。



酷く、胸が張り裂けそうなんだ…





「っ…う…」





――――"歩くことが難しくなるかもしれません。"



―――――…"記憶を失っている可能性が高いと思われます。"