「走る前の日向って、雰囲気柔らかいよな」
「…え?」
隣に座っていた拓巳が、立ち去っていく日向の背中を見つめながらそう呟いた。
「そうかな?」
「普段は口が悪くて刺々しい奴だけど」
「…昔からそうだよ、日向は」
あたしは微笑んで、そう返した。
…昔から、呆れるくらいに陸上バカで。
走ってる時が、誰よりも何よりも幸せそうで。
「…柚ちゃんは、そんな日向が大好きだもんなー?」
「ばっ、バカ!」
慌てふためいて拓巳を見上げると…口は笑っているのに、その目は少し切なそうに見えた。
「…拓巳?」
「え、何だよ。そんなに見つめんなって」
気の…せいかな?
「…あ、ほら」
拓巳に肩をつつかれて、はっと視線を競技場に戻すと。
数人の大人に囲まれ、日向と他の出場者がスタートの方へと歩いていくのが見えた。
日向は誰よりも冷静で、何食わぬ顔のまま軽くストレッチをしていた。
「…余裕だな」
「違うよ。
…ここまで来たら、自分を信じるしかないんだって」
余裕なんてない。
一度だって、余裕だったことなんかない。
…いつか日向があたしにそう言ったことを、思い出していた。
「始まる…」
誰からともなく、そう呟いた。
日向を含む出場者が、各レーンについて。
中距離…800mを全力を尽くして走るために、身構えた。
放送なんて耳に入っていなかった。
…風の音すら、聞こえない。
スタートは短距離のクラウチングスタートではなく、スタンディングスタート。
その体勢になったのを確認した係の人が、「位置について」とピストルを上に掲げた時。
隆史先輩が、静かに呟いた。
「…Be wind which has a color of clearness.」
―――透明な風となって。
…思い切り、駆け抜けろ。
―――パンッ…!
乾いた音が空に鳴り
彼は地面を強く蹴り
走り、出した…
隣の奴よりも速く、とか。
優勝する、とか。
…正直、何も無かった。
走る直前までは考えていても、地面を蹴って走り出した瞬間…そんな気持ちは全て消え去っていた。
「っ…」
重力から解き放たれたかのように、軽やかに体が動くのは幸せだった。
風に溶け込むこと以上の幸せはなかった。
「は…」
…周りの声も、耳に入らない。
暑さも感じない。
ただひたすらゴールを見つめて。
あと、少し…
あと…少し…
…青空に輝く太陽が、体を照りつける。
絡み付く光を、透明の風が解いて包み込む。
ゴールは…目の前…
終わりを求めた足は、最後の一歩で強く地面に叩きつけられた。
「っ」
その瞬間、ワァァァァ…と歓声が沸き上がる。
塞がれていたかのように何も聞こえていなかった耳は、急にそれを受け入れたせいで少し痛んだ。
「日向ーーっ!」
俺の名前を呼ぶ、騒がしくも愛しい仲間達の声に。
…俺は微笑むと、体の力を抜いた。
誰よりも速く、この足がゴールを切ったことを知ったのは。
…すぐ、のことだった。
―――――――
―――――
「藤島学園陸上部一年、相原日向」
「はい」
「男子800m優勝おめでとう」
「ありがとうございます」
「全国大会で、更なる強豪が君を待っている。
…けれど、勝負にかかわりなく君は君の走りで魅せて欲しい。
頑張って下さい」
拍手の中で、代表者であるおっさんから表彰状とトロフィーを受け取ると。
俺は頭を下げた。
いつも思う。
…大切な一瞬一瞬ほど、あまりに呆気ない…と。
全てを一瞬に掛けている俺達は、どんなに辛くてもそれを積み重ねて生きていかないといけない。
だけど不思議と…
…今の俺にはそれが、たまらなく幸せで…
何故かと言えば、多分。
―――…多分、大切な人達が俺の傍にいてくれるからだろう。
「日向、明日は祝福ミーティングだな」
「ありがとうございます」
結局シードを進めたのは、俺と隆史先輩の二人。
…他の部員達の応援をむげにしないように…これから更にレベルアップをしていかなければならない。
とりあえずは…今日は休んで、明日から色々と考えよう。
そう思ってから、俺はいつもの緑色のジャージ姿を探した。
「…アイツは?」
そう聞いた俺に、隆史先輩が少し悪戯っぽく笑った。
「日向のタオル握り締めたまま、走ってどこかに行っちゃったよ」
行っちゃった、って…
「追い掛けてくればぁ?」
「多分あの体育館の裏とかだろ」
他の奴らもそう腕組みしたまま、ニヤニヤしている。
「…」
「お姫様を迎えに行ってあげなよ」
「うっせぇな、わーったよ」
…言われなくても分かってるっつの。
拓巳にそう返して、俺はひたすら柚の行きそうな所(陰、その他地味な場所)を探しに掛かった。
「…世話の焼ける奴…」
人のタオル持って、勝手にいなくなってんじゃねぇよ…
…まだ、言ってないことがあるんだから。
――――「ひなたっ」
「ゆず、競争しようぜっ」
「やだよ!ひなた、速いもん」
「…しょうがねぇなぁ。じゃ、ゆずのペースに合わせてやるよ」
「ううん、いい」
「なんで?」
「…ゆず、見てる。
ここで、ひなたが走ってるのずっと見てる。」
…そう。
柚がいたから、俺は安心して走って来れたのかもしれない。
誰よりも愛しい、誰よりも大切な君が傍にいたから。
いつも俺を見てくれている、存在があったから。
…だからこそ、言いたいことがあるんだって。
言わないといけない…ことが。
「ゆーず」
「…っ」
「…それ、俺のタオルなんだけど」
柚の隠れていた陰に、日向が差す。
…こいつの居場所なんて、すぐに見つけてやる。
「ひな…たぁ…」
ぐしゃぐしゃの顔で、泣きじゃくる柚の涙は。
…俺のタオルをぐっしょりと濡らしていた。
水道の裏側にうずくまっていた柚は、タオルから顔を上げようとしなかった。
「何泣いてんだよ」
「…っ、嬉…しくて…っ」
「昔から嬉しくても悲しくても泣くよな、柚は」
…呆れた奴。
そう呟きながらも、俺は柚の髪を優しく撫でてやった。
「ん、こっち来てみ?」
「…っ」
「ゆーず」
ジャージ越しに伝わる、小さな温もり。
愛しくて、愛しくて…
―――…君は俺の、走る意味。
「日向…っ」
「…ありがとな」
腕の中に収まる柚を強く抱き締めると。
…その背中を撫でた。
「…柚」
「っ…え…?」
「…好きだ」
柚の、華奢な顎を軽く持ち上げて。
涙で濡れた頬を指でなぞると。
「…ん…っ」
――――…俺を包み込む風のように。
誰よりも愛しい君に、キスをした。