不意に胸が熱くなって。
…苦しくて、切なくて…
「柚ちゃ…」
力が入らなくなってふらり、とした体を傍にいた愛ちゃんに支えられそうになった時。
「…ちょっと、いいかな?」
ずっと静かにその様子を見守っていた拓巳が、そう言った。
「たく…み?」
「陸上部部長として…皆に伝えたいことがあるんだよ」
あたしが目を向けると、拓巳はその視線を受け止めてくれて。
…静かに微笑んだ。
まっすぐな瞳だった。
「あいつは…大切な陸上部員だ」
「…っ」
「走る、走らない。
…その選択をするのに、多分あいつは一生の中で一番と言っていい程苦しんだと思う。
一生分の…涙を使ったかもしれない」
一番後ろの席に座ったままの拓巳の言葉に。
…担任も
あたしも
そして皆も
…静かに耳を傾けていた。
拓巳は一瞬だけ日向のいた席に目を遣って。
…ゆっくりと、続けた。
「選択って多分、正しい正しくないよりも大事なもんがある。
…それを決める、勇気だ。
特にあいつの場合は…誰よりも勇気がいる選択だったんだよ」
――――…ねぇ。
…生きていくうちで、人は何度の選択を要されるだろう。
あなたは、どれ程の涙を流したのだろう。
…心が震えて、止まらなかった。
愛ちゃんが優しく、背中を撫でてくれた。
「…だからさ、俺は日向を本当に凄いと思う。
よく頑張ったな…って言ってやりたい。
…そう言ったら多分あいつ、また毒舌吐くだろうけどな」
拓巳は少し、苦笑してから。
…まっすぐと皆に向き合って、強い口調で言った。
「来週の大会を最後に、俺達陸上部三年は引退します」
―――゙俺達゙。
…その言葉は温かくて、拓巳の意図を全て含んでいた。
「相原日向は…今までずっと、まだこれからもずっと陸上部のエースなんだよ。
トップランナー…なんだよ」
日向は、退部届けを渡して欲しいと言った。
…だけど、拓巳は受け取らなかった。
゙夏が終わるまでは…まだあいつは、陸上部員なんだ゙
拓巳の言葉は、あたしの心の中にいつまでも深く残っていた。
「クールダウンだ、クールダウン。無茶ぶりはすんな。前日は体を鳴らす程度にして、あまり無茶して走り過ぎないように」
拓巳の叱咤が飛ぶ。
…明日が大会なのだと朝から全然湧くことのなかった実感が、ようやく湧いてきた。
「マネージャー、タオル!」
「あっ。はいはいっ」
一年生の女の子も、だいぶマネージャーとして慣れてきて。
…いやむしろ、あたしよりも慣れている気がして。
仕事の大半を、彼女に取られているような気がしなくもない。
「悪い、スポーツドリンク…」
「あ、あたしが持って行きますっ」
さすがに仕事を取られてばかりだと悲しい。
あたしはスポーツドリンクをひっつかんで、慌てて拓巳の元へと走った。
「…柚、顔怖い」
「えっ!?」
くくっ、と笑いながらスポーツドリンクを一口飲むと。
…拓巳は蓋を閉めながら、「歩けるようには…なったって?」とさり気なく聞いてきた。
「うん。…明日はおばさんが車で競技場まで送っていくって」
「…そっか」
「頑張ろうね」
あたしは汗を拭くタオルを拓巳に渡して、微笑んだ。
「…今度は拓巳達が、希望になるんだよ」
雲一つない青空。
明日も同じくらい晴れるらしいという。
…誰ともなく、果てしなく広い青空を見上げて。
眩しい光に目を細めていた。
明日が終わってもまだ学校はある訳で。
このグラウンドはいつだって目にすることが出来るし、部室にだって遊びに行ける。
…だけど、やっぱり何かが終わってしまうんだ。
三年間走り続けたグラウンド。
いろんなことを話し、笑い、泣き、時に衝突し合った藤島学園陸上部を見守っていた部室。
自分の体に目を遣れば、すっかり着慣れた緑色のジャージ。
そして…
…ここから見上げた空は…
いつも綺麗だった…
「…ありがとう」
月並みな言葉だけど…何にも替え難い気持ちだった。
皆に出会わせてくれて…
皆を走らせてくれて…
…ありがとう。
そしてあたしは、それを見守ることが出来て…
とても幸せでした…
「明日は6時にここに集合。死んでも遅れんなよ」
「部長。死んだら来れません」
「ええい、ごちゃごちゃ抜かすな!」
日向のような憎まれ口を叩く後輩の頬を拓巳がつねって。
全員の間に笑いが零れた。
いつもは夜まで練習なのだけれど、今日は前日ということもあってそこまで遅くならずに切り上げられた。
「お疲れ様でしたー」
「お疲れ。しっかり休めよ」
全員の背中に手を振って、見送ってから。
…拓巳は優しい表情で、あたしを振り向いた。
「柚も…お疲れ」
「まだ早いよ」
あたしは小さく笑って、軽く鞄を肩に掛け直した。
「明日が終わるまではまだ…でしょ?」
「だな」
拓巳はそう頷いて、あたしに手を振った。
「じゃ明日。頑張ろうな」
「うんっ。明日ね」
拓巳に背を向けて…あたしは、日向の家へと向かった。
もう今日中には家に戻って来ているはず。
思ったよりもリハビリが順調に進んで、異例な程に早く退院出来たと聞いたから。
「えっと…
……ん…?」
団地に着いて、゙相原゙の表札を探そうとした時。
…あたしの目は、団地の一番端の方にある階段に腰掛けている誰かを捕らえた。
一目見た瞬間、例え遠目でも誰かはすぐに分かった。
「…日向!」
「わ、急に走ってくんな。…びっくりした」
「お帰り」
あたしはそう笑い掛けて、ちょこんと隣に腰掛けた。
「…外に出て、何を考えてたの?」
「ん、ちょっとな」
日向はそう言ってから、あたしの膨らんだ鞄に触れた。
「…やたらパンパンだな」
「あ、参考書がね…」
あたしはそう答えながら鞄を開けて、いくつかの参考書を取り出した。
某大学外国語学部の赤本。
英文読解問題集。
ターゲット英単語、英熟語。
「頑張ってんだな」と感心したように、日向は一つ一つを手に取った。
「もちろん!絶対翻訳家になって、海外の小説を手掛けて行くんだもん!」
「…頑張れ。柚なら出来る」