風にキス、君にキス。





君はきっと…知っているだろう。



俺は幸せなんだ。



凄く凄く…幸せなんだ。





…だからさ、もうこれ以上何も要らない。



何も…要らないんだよ…









―――――日向。




日向、ひな…たっ…











…少しずつ、その声が聞こえてくる。



耳に入り込んでくる。






薄れた意識が少しずつはっきりとしてきて…




…僅かに目を開けると、ぼんやりと歪んだ天井が見えた。




「日向…っ、いなくならないで…」



…しゃくり上げる、愛しい声と共に。





ほんの少しだけ開くことの出来た目を、視線を動かして。



隣に目を遣った。





…一番会いたかった人。



一番大切な人は、俺が目覚めたのにも気付かずにしゃくり上げて…泣いていた。



「っ…やだ…いなくならないで…っ…



死んじゃやだ…っ!やだよ…っ」





…アホか。



支障があるのは足だけで…死ぬ訳ないっての。





そう思いながらも…俺は、思わず涙を溢しそうになった。




…泣かせてばかりだ。いつもいつも。




俺の゙走りたい゙という我が儘は、結局柚を泣かせてしまう。



分かっていた。



…だけど…走れることがあまりに嬉しかったんだ…








「ごめん…柚」


「…っ…!?ひな…」


「死なねぇよ……絶対に…死なない」



涙の溜まった目を見開いた柚の…小さな手。



壊れてしまいそうな程に華奢な手を、俺は握り締めた。



「…っ」


「…本当…泣き虫だな…?」


「っ、だって…だって…っ」


「…分かってる…から…」



ぽろぽろと頬に零れ落ちる、温かい涙を感じて。



…俺は再び目を閉じた。





「俺が死んだら…柚は…また泣くもんな…?」







――――The meaning of my life is your existence.




もう我が儘を言うのはやめにしよう。



…温かい人達に守られてばかりだった、俺が。


今度は柚の幸せを…守っていくために…














「幸い、そこまで支障はきたしていない。…またすぐに、歩けるようになるだろう」



そう言う先生の表情は、厳しいものだった。



クリップボードから顔を上げて、先生はベッドの上に座る日向をまっすぐと見つめた。



「…だが、大会出場は禁止だ。今後…走るスポーツを行うことを私は認める訳にはいかない」


「っ…!」




あたしは、漏らしそうになった声を必死に抑えた。



…日向と、日向のお母さんは何も言わなかったから。



まっすぐ、先生の目を見つめて言葉を受け止めていたから。




「…君には、これから先長い未来がある」



先生は丸椅子に腰掛けて、日向と視線を合わせた。



「…連鎖反応なんだ。また走れるようになったとしても、きっとまた同じことが繰り返される。


そんなことが続けば…何かの拍子に君の足が全く動かなくなるかもしれない」





「…はい」


「全く足が動かなくなった人生を想像しろだなんて酷なことは言えない。


…だけどね、君の人生の可能性を削ってしまいたくはないんだ」



先生の言葉は切なく、深かった。



日向のことをどれ程思ってくれているのか…心に強く伝わる。





「…俺は、もう走りません」



日向の紡いだ言葉に、顔を上げると。



…日向は僅かに微笑んで、あたしを見た。



「ごめんな…柚」


「ひな…」


「…だけど、俺はもうグラウンドを走らない。




それが一番正しい道だと思うから」




日向が決めたことに…あたしは何も言えるはずもなかった。



…おばさんは涙ぐんで、日向の髪を撫でた。



「日向…」


「…ちょ、何すんだよ…」



少し身をよじってから。



…日向はおばさんに、タオルを差し出した。



「ん」




「日向…」


「…大会の応援には行けるように、頑張ってリハビリしなきゃな」



軽く伸びをして、そう言った日向の声は明るかった。



…病室に光が差したかのように。



日向の髪が…太陽の光によって、柔らかい色にまた染まった。




「先生、俺頑張りますから。またよろしくお願いします」


「…日向君」



先生は、少しだけ皺の刻まれた頬を緩めて。



…日向の腕に、軽く触れた。




その表情は真剣で…どこまでも優しかった。




「私は、あまりくさい台詞は好きじゃないんだが」


「…え?」


「…君に会えて、良かった」



日向はその言葉に、少し目を見開いた。




「先生…?」


「…君のような輝いた存在に出会うことが出来たことを、誇りに思うよ」





だから…これからも前向きに、強く生きていって欲しい。




転んでも、立ち止まりそうになっても構わない。



またいつか歩き出せるのならば。





…その言葉に、日向は微笑んで。



「はい」と強く頷いた。










――――藤島の風は、もう吹くことはない。



そう思うだけで、胸が張り裂けそうな程に寂しかった。



…だけど、悲しくはなかった。





日向が選んだ道だから。



少しでも、日向の未来の可能性が失われないなら。





…だから、涙は零れなかった。







「柚」


「…っ?」


「ごめんな」



病室に二人きりになると。



…日向はあたしの髪に手を伸ばして、静かに撫でた。



「もう一度走るって約束したのに…ごめん」


「…日向の出した答えに、間違いなんて何一つないよ」



無理せずに、微笑むことが出来た。



…日向の、どこか大人な瞳が



優しい瞳が、少し意外そうにあたしを見つめた。




「あれ。泣くと思った」


「な…泣かないよ!」



少しムキになったようにそう言い返すと、悪戯っぽく笑った。



「…あんまり泣いたら目が腫れるしな」




心がこんなにも穏やかなのは



きっと日向が…目の前にいて、その温もりを確かに感じるから。




「…なぁ」


「えっ?」





少し考えるように、窓の外に目を遣ってから。



…日向はもう一度あたしを振り向いた。



「俺の…夢の話だけどさ…」


「うん…」




ドキンッ…という心臓の鼓動が確かに聞こえた。



――――゙夢゙



その言葉を聞いただけで、呼吸さえも忘れそうになった。




「…何…?」


「…」


「…」




日向は数学の問題を考えるかのように、眉をしかめたままあたしを見つめると。



「…やっぱやめた。」



そう呟いて、小さく笑ったから。



…一気に肩の力が抜けて、さすがに聞かずにはいられなくなった。




「ちょっと!そこまで言い掛けて何よっ」


「…や。ちょっと賭けを、な」