おばさんが去った後も。
…あたしはしばらく外に出たまま、日向のことを考えていた。
徐々に近付く、日向と陸上の別れの時。
日向が走ることをやめた時…あたしの中でもきっと同時に、陸上は消滅してしまう。
「゙藤島の風゙か…」
…風は、走ることをやめた時に何へと変わるのだろう。
せめて少しでも優しく。
せめて少しでも暖かく。
…夏の夕焼け空を眺めながら、あたしはそう祈った。
倒れそうになっても
挫けそうになっても
諦めそうになっても
…その手の中に光があることを願います。
夢は話さなくても良いから
持ち続けて…追い続けて下さい。
―――そんな日向を、あたしは見守り続けていたいから。
「…よしっ」
流れ星でもないのに、ひたすら夕焼け雲に願いを込めると。
…もう一度顔を上げた。
うん…大丈夫。
きっと、きっと…大丈夫。
「柚っ、何やってんの?」
「わわ!…あ、お母さん」
「今日も仕事疲れたわ…」
両手に荷物を抱えていたお母さんのために、あたしはドアの鍵を開けた。
「はい。お帰りなさい」
「ありがと。…ほら、あんたも早く入りなさい」
「うん」
ドアを閉める直前に、もう一度空を振り仰いだ。
…いつか見た茜色に、どうしようもなく胸が切なくなって。
苦しくなった。
゙あと少じだから…
意地悪な神様の気が変わらないうちに…
――――何かに怯えていた
何かに焦っていた
あたしの悪い予感はどうしてこんなにも正しいのだろう。
自分が恨めしいくらいに
…でも確かに
あたしにはほんの少し先の未来を感じ取れる何かがあったのかもしれない。
だって…
…だって…
―――――゙藤島の風゙を
透明な風を
見ることが
感じることが
出来たのは…
…もう
゙本当の本当に゙
最後だったのだから…
「基礎メニュー、もうちょい追加するぞ!」
「ウォーミングアップで力入れすぎんな。体を暖めることが目的なんだから」
後輩に構ってばかりもいられない時期が近付いてきた。
…最後の、大会。
ようやぐ三年゙になったのだという実感が沸々と湧いてきた時になって、もう引退との距離が近いことに気付く。
(前の先輩達とは違い)引退したら、完全に受験勉強に打ち込むつもりの俺には…もう本当に走るのはこれが最後だ。
そして…
「日向先輩、キツいっすよー…」
「…ん、なら少し休憩」
…日向に、とっても。
「…なんか実感湧かないんだよな」
「だな。…俺もだ」
自分達が引退するという実感が湧かない。
…たまたま二人きりになった部室で、休憩しながら日向と話をしていると。
日向は肘を軽く机に付き、手のひらに広げたタオルに細い顎を乗せた。
「引退に関しても、何に関しても」
「…え?」
「分からないことばかりだよな。世の中」
窓の外に、校庭を走る一年と二年…そしてマネージャー二人が見えた。
何も変わらない。
何も変わらない風景で、何も変わらない日のはずだった。
「日向?」
「…なんでもねぇよ。月日が経つのは早いってこと」
そう軽く笑ってから、日向はスポーツドリンクを飲み干した。
「よっしゃ、また走るぞ」
「…いや、一応部長は俺なんだけど…」
「いーから急げ」
いや、良くない…
…そう思いつつも、日向のペースに呑まれることは嫌いじゃない訳で。
やれやれと苦笑しながら、日向に続いて部室を出た。
「あ、休憩終了?」
「まぁな。
…柚。やっぱ俺、部長の座をあいつに取られてるわ」
「あらら」
ふふっと笑いながら、記録を付けていた柚はクリップボードから顔を上げた。
「なんかあったの?」
「や…以前からずっと、そんな気が…」
「弱気になんないの。日向の毒舌に負けちゃダメだよ?」
柚の笑顔が、俺は好きだ。
…いや、それが友情的だとか恋愛的だとかそんなのはどうでも良くて。
ただ純粋に、柚の笑顔は人を幸せにする力があると思う。
…柚が笑っていると、とりあえず安心する。
「あれだね。
日向が太陽なら、拓巳は空だね」
「…は?」
「空があるから、太陽は安心して輝けるんだよ」
なんてね。
そう少しはにかんだ表情は…たまらなく愛しかった。
空、か…
「いーこと言うな。柚」
「でしょ?」
―――俺が空で
日向が太陽なら
…柚は星で。
遠いようで近い距離で、日向を見守ってる。
小さくも確かな、たくさんの希望を与えてくれるんだ。
「…今日は風がわりと涼しいな」
「うん」
柚の長い髪を結ぶゴムの飾りが、太陽の光を受けてきらっと光った。
茶色に近い髪が、オレンジ色に染まって見える。
「拓巳、走らないの?」
「お、靴紐結び直してから…」
そう屈んだ時、日向に目を遣った。
相変わらず奴は風のように爽やかにグラウンドを駆け抜けていて。
…そして柚は、それをまっすぐに見つめていて。
何も変わったところはなくて。
…俺は靴紐を、結び直した。
この間、柚の表情が瞬きもなく日向を見つめていたこと。
それには気付かなかった。
気付くべきだったのに気付かなかった。
変に絡まっていた靴紐を引っ張ったせいで、ブツッ…とそれが千切れた時。
…嫌でも、不吉な何かを感じずにはいられなかったけど。
「柚、悪い。靴紐って持ってないか?」
…千切れた紐をなんとか結び付けようとしながら、そう聞いても。
柚は何も…言わなかった。
「ゆ…ず…?」
――――…耳元で風が、鳴った。
見上げれば、柚は無表情で。
…呼吸さえ忘れたかのように、まっすぐとグラウンドに目を向けたままだった。
柚の視線の先を辿れば、そこには変わらない日向の姿があるわけで。
…どうして柚がそんな目をするのかは、分からなかった。
「柚…?」
「…気の、せいかな…?」
「え…」
「ごめんね。何?」
柚が慌ててそう言ったから、安心した。
…だけど心は焦っていた。
何かが不安で。
不吉で。
…千切れたこの紐を、一刻も早く繋いでおきたかった。
「靴紐ね。あるよ」
柚はそうぎこちなく微笑んで、ジャージのポケットの中から小さな缶を取り出して。
「はい」と手渡してくれた。
「サンキュ」
…早く、繋ぎたい。
今ならまだ間に合う気がした。
繋いでしまえば、今感じているどうしようもない不安も全て…