風にキス、君にキス。






――――――
――――





「…今でも、そう思う?」


「今でもそう思う」



カラン…とアイスコーヒーの氷が涼しげな音を鳴らした。



…薄い桜色のグロスを軽く塗った、綺麗な唇が静かに開く。





「…日向は、走るためにいなくなったんだ。って」






……アメリカ、カリフォルニア州。



西洋人で埋め尽くされた喫茶店で向かい合って話をする、二人の日本人がいた。





「でも…彼の足は…」



話を聞いていた彼女は、言いにくそうにそう眉をひそめた。



「…そう」



桜色のグロス。



さらさらとした、綺麗な髪。



…清楚な雰囲気を持つ彼女の話は、聞き手をすっかり虜にしていた。




「だけど…あたしは今でも信じてるんだ」


「でもね、柚」





黙って話を聞いていた彼女は、不意に口を出さずにはいられなくなった。




「足を失って…他にどんな道があるって言うのよ」


「道はいくらでもあるよ。…作ろうと思えば、ね。




…one more sugar please,boy?」



通り過ぎたボーイを呼び止めて砂糖を追加すると、"柚"は目を伏せて再びアイスコーヒーをかき混ぜた。




「でもね…確かに、そこが問題なんだ」


「…え?」


「小さい頃に…日向が、もう一つの夢を語っていた気がしたの」




でも、それが何なのか思い出せない。



…柚は目をきつく閉じて、もどかしそうに首を振った。



「もう…忘れなよ、柚」


「…」


「彼はもう…いないんだよ」







"もう、いないんだよ"




その言葉は柚の心に、深く染み付いて離れなかった。



そうだね…



…もう…あなたはいない…



まるで透明な風のように…あなたは去っていったんだ…





「それより、仕事に集中しないとね」


「…うん。そうだね」


「本当に柚の自然で綺麗な英語、羨ましい!昔から得意だったの?」


「ううん。本当に全然…」



…日向に、教えてもらったんだ。



その言葉を飲み込んで、柚は窓からの景色に目を遣った。









…八年前。



不器用ながらも、確かに毎日を精一杯生きていた。



忘れるには思い出があり過ぎる。





――――…君のいた、思い出が。












…昼下がりの、病室。




「体の力を抜いて」



医師がそう言って、俺の足をゆっくりと上下させる。



一種のリハビリらしい。
いきなり歩く練習は無理だから、とりあえず動かす練習だとか何だとか。




「痛みがあったら、すぐに言うように」


「…先生」



痛い訳ではなかった。



ずっと静かに足を見つめていたけど、俺は遂に口を開いた。




「…世界が壊れるくらいに努力しても、走れるようにはなりませんか?」


「…」




答えを知りたい質問は、その一つだけだった。



…他の何もいらなかった。



「日向君」


「教えて…ください」



俺は…何を頑張ればいいですか?





…走れるようになるためだったら、何にでも縋りつく思いだった。





どんな痛みにも耐える。



どんな努力でもする。




そう呟いた俺に、先生は静かに足を下ろすと…視線を合わせた。



「日向君」


「…」


「私達医者はね、君に淡い期待を抱かせることは出来ないんだ」



その目は何の曇りもなく。



…俺に、真剣に向き合ってくれている瞳だった。




「歩ける可能性はある。だけど、必ずしも歩けるようになるという期待は抱かせられない」


「…っ」


「歩けるようになったら、走れるようになるかもしれない。


…でも必ずしもそうだという、期待は抱かせられない」




だけどね、と静かに微笑みを向けた。



…優しい、笑みだった。




「期待は抱かせられなくとも、私達は君に希望を与えたいんだ。



…そのために、いるのだから」






君に。



君の人生に。



君の夢に。



…君を大切に想う人々に。




希望、を。




「っ…」


「だから、日向君も希望を与えて欲しい。



…誰のためでもなく、君自身のために。



そして君の…大切な人のために」




その言葉は、一生忘れられないものだった。



何か…忘れかけていた何か、大切なものを見つけたような気がした。



「先生」


「うん?」


「…ありがとう、ございます」




この人に出会えて良かった。



そう、思った。







"諦めないで"



"あたしは…諦めたくないよ。


日向が生きることを。…日向が走ることを。"



"生きてる限り…希望はあるんだよ?"





柚。




…柚。柚、柚…




「…っ、ごめん…」



先生が去って…誰もいなくなった病室で思い出すのは、柚のことばかりだった。



あれだけ傷つけたくせに、俺はどこまで身勝手なんだろう。




…柚の、着ていたジャージ。



柚の、皆のいた部室。



柚が俺を見てくれていた、グラウンド。






…戻りたい。



凄く凄く、戻りたいんだ。





"日向君が、希望を与えて欲しい。"



「…っ」




俺は両手を使って、ゆっくりと右足を持ち上げた。






「…頼むから…動いてくれ…」



頑張るから…



努力するから…



朽ちるまで、諦めないから…




…もう柚を、泣かせないから。











――――――
――――




…その記憶は優しく、温かかった。





「ヒナタっ」


「なんだよ、ユズ」


「…ヒナタの夢って…なぁに?」



…その日の夜。



あの日のことを…ふと思い出したのは、何故だろう。



俺は、何て答えたかな…



「トップアスリート」


「やっぱりね」


「やっぱりってなんだよ」


「スポーツバカのヒナタには、それしかないと思ってたよっ」



くすくすと笑う柚の表情まで、不思議と鮮やかに思い出せる。



「なんだよ、バカって」


「本当のことだもん」







憎らしい奴。



…俺よりもバカで、泣き虫のくせに。




「あ。」


「なぁに?」


「トップアスリートもいいけど、もし無理だったら…」


「だったら?」



だったら…?






…その先の記憶は無かった。



何故か、すっぽりと抜け落ちていた。



まるであの頃の俺が、悪戯で隠したかのように。





"もし無理だったら…"



その答えが気になって、眠れなかった。





…結局答えを見つけたのは、明け方で。



俺はすっかり眠りへと落ちていた。