風にキス、君にキス。




…陸上部。



声に出してみると、ほんの少し震えた気がした。




"懐かしい"でもなく



"温かい"でもなく




壊れそうな程に脆く儚く、だけど大切に思える。





「…そうだよ」



雄大先輩が、静かに頷いた。



「日向。お前は陸上部のエースだったんだ」



…俺が?




「お前は、俺達の"風"だった」



…か…ぜ?





―――「風になること。」


「風?」


「走ることは、風になること。



…ある人がね、以前にそう言ってた」





柚の言葉を、思い出していた。




それと同時に、不意に頭をよぎったのは。



「っ…!」




――――…青空の、断片。



微かに耳に残る、歓声。




「日向ぁぁ…っ」


「頑張れっ」







夕焼けに染まった帰り道。



―――…隣にいたのは、柚だった。




「日向はどこに行きたい?」


「んー、別に。



しいて言うなら…」




…目の前が真っ暗になった。



世界が反転した、あの瞬間。



「っ…!」


「日向…っ!」






とぎれとぎれの断片が、脳内をかすめて。



強い痛みを感じた。






……今のは、何なんだ…?





「日向…!?」


「っ…あ、大丈夫です…」



俺の体を支えた先輩に、そう呟くと。



…続けて、言った。



「今日は…帰ってもらえますか?」


「ひな…」


「…一人に、して下さい」



先輩達が帰った後、俺は母さんの入室も拒んだ。






ただ、汗が止まらなかった。



空気も何もない世界に行って、一人になりたかった。






…思い出すことが怖い。



それは人知れずの思い。





思い出すことで、何かを失う気がした。




完全に思い出した時、俺は本当の絶望を知るのかもしれないと感じていたから。







…そしてそれは、間違いではなかった。













「拓巳、最近調子いいね」


「まぁな。次の大会は絶対勝つし!」


「隆史先輩、そろそろ受験に専念しなくていいんですか?」


「大丈夫!…じゃない」


「あらら」



相変わらず部室は騒がしくて



だけど確実に時は流れて



部長の座は隆史先輩から雄大先輩に譲られ



もう秋が、巡ってきた。




「そろそろ上がろうか」


「はいっ」



…あれから誰も、もちろんあたしも日向の話題を口にしない。



理由は…たった一つだった。





「誰とも会いたくないんですって…


あの子がそう拒んだの」



陸上部だった。



そう知らされたあの日から、日向は人と会うことを拒むようになった。



おばさんは静かにそう告げた。



「あの子は…思い出すことが怖いんだと思うの」






「…え…?」


「記憶を失うということがどんなものなのか…私達には分からない。



少なくとも日向は、私達には分からない苦しみを持ってる」



おばさんは涙を溜めた目で、あたし達を見つめた。





「だから…ごめんなさいね。



日向が望むまで…日向が会いたいって言うまで。



もう会いに来ないで欲しいの」






日向を誰よりも愛してるおばさんだからこそ、出せた答えだった。



だから誰も…何も言えなかった。






でもあたしの中では、小さくて脆い何かが壊れてしまったような気がした。




「日向を忘れて下さい」






…そう言われたような、気がした。







「柚ちゃん、片付け…」


「大丈夫です!あたし一人でやりますっ」


「え、でも…」


「皆さんは先に着替えちゃってください」



笑顔を作って、そう言って。



…一人になった後、再びグラウンドを眺めた。




白いラインを引いた、地面。



地面に転がった、ストップウォッチ。




紐を引っ張って拾い上げると、あたしはそのまま白いラインの端っこへと歩いていって。



…中距離、長距離の"スタンディングスタート"を構えてみた。



「よーい。




…なんてね」




おかしくもないくせに、一人でくすくすと笑った。



無性に悲しかった。



無性に孤独だった。




「…っ」



ジャージの袖で、零れ落ちそうになった涙を拭うと。



…もう一度スタートを構えて、がむしゃらに走り出した。



「ーっ…」





"脇引き締めて、腕しっかり振って"



"呼吸のリズムをしっかり整える"



"足の裏をべたんとつけるんじゃなくて、軽やかに"




小さい頃から、日向は偉そうで。



…あたしの走り方をあれこれ指摘してきた。




「っ…!」



足が折れてしまうくらいの勢いで、必死に800mを走り切ると。



…体が、グラウンドに倒れ込んだ。





「っ…た…」


「頑張ったな」


「…え…?」




日向の声が聞こえたような、気がした。



…けれどそれはやっぱり、気のせいで。




そこには風と地面があるだけだった。





「日向…っ」



…なんで、忘れなくちゃいけないの?



そんなの…






地面が、ぐにゃりと歪んで見えた。



大粒の涙が、溢れた。





無理だ…



出来ないよ…




「っ忘れるなんて無理っ…無理だよ…っ」


「柚」


「ーっ…く…」




後ろから、拓巳の声がした。



…聞こえていても、振り向けなかった。



「っ…」


「帰るぞ」


「うーっ…」


「ほら、ちゃんと立って。


…お前がしっかりしなきゃどうすんだ」



拓巳はあたしの腕を引いて、立たせてくれた。



「っくっ…」



いつも強くて、優しくあたしを支えてくれる。



そんな拓巳にあたしはいつも泣きっぱなしで、ありがとうも言えなかった。







…ねぇ、日向…



あたしは…強くなりたいよ。

強くなりたい。



…もう泣きたくないの。

誰かを守れる程に…あなたを守れる程に、強くなりたいの。










あの日、日向と歩いた茜色の道を…今は拓巳と歩いていた。



「見てみ、柚」


「…っ」


「もうすっかり秋だなー。紫苑(しおん)が咲いてる」




明るい声だった。



明るく、優しくあたしに話を続けてくれた。



「紫苑の別名知ってるか?」


「…ううん」


「勿忘草(わすれなぐさ)って言うんだ」


「…え?」



思わず、拓巳を見上げた。



知らなかった。



勿忘草の名前は知っていたけど、紫苑の別名だったとは。




「…なんか昔の伝説で…


親を亡くした兄弟が、墓参りに行ってそれぞれ持ってきた草花を植えるんだ」


「うん」


「兄が植えたのが、悲しみを忘れるための"忘れ草"。


…弟が植えたのは、永遠に忘れないための"忘れな草"…別名、紫苑」



花言葉は、"君を忘れず"。



拓巳はそう呟くように言った。




「墓を守る鬼は…弟の、親を忘れまいとする心に感心して幸福を与えたんだってさ」