パン屋の朝は忙しい。
焼きたてのパンの香りが、母リリアの《香送り》に乗って通りへ流れていく。
この国では、人々が生まれながらに持つ風の力を、日々の暮らしに役立てている。
リリアの《香送り》もそのひとつだ。
焼きあがったパンを棚に並べたところで、次のお客さんがやってくる。
「いらっしゃいませ!」
注文を聞きながらパンを包み、お代を受け取る。その合間にも、追加で焼きあがったパンを並べる手は止めない。
もちろん、笑顔も忘れない。
「エイル、悪いが倉庫から小麦粉を持ってきてくれ」
「はーい」
奥からダリオに声をかけられ、エイルは軽く返事をして倉庫に向かう。
数年前はひぃひぃ言いながら大騒ぎしていたし、引きずった拍子に袋を破いてしまったこともある。
今では持ち上げるコツも覚えたし、腕の力だって前よりついた。エイルは慣れた手つきで袋を抱え、作業場へ戻った。
「よっと……父さん、ここでいい?」
ドスンとダリオの作業台の横に小麦粉の袋を置いて、額に浮いた汗をぬぐう。
「おお、そこでいい。助かった、ありがとうな」
「いえいえ。また何かあったら言ってー」
そう言いながら店内に戻っていく。
「おう」
ダリオは片手をあげて笑った。
午前の忙しさがひと段落したころ。
「エイル、今日は王宮に行く日だったかしら?」
リリアに声をかけられ、棚を整えていたエイルは振り返る。
「うん。もう少ししたら行ってくるよ」
「あら、そうなのね。じゃあ今日は帰りが遅いのね」
「ん? いや、調査はそんなにかからないと思うけど」
「そうね」
にこにこと笑いながら、何事もなかったように仕事へ戻るリリアに、エイルは首をかしげる。
……なんだろう。
晩ご飯の支度の都合かな? それにしては、なんだか嬉しそうだったけど……まあ母さんだしな。
リリアのつかめない言動はいつものことだ。
エイルは深く考えず、王宮へ出かける準備をはじめた。
***
昼過ぎ、エイルは王宮に向かっていた。
いつものにぎやかな通りを歩く。あたたかい風が柔らかい髪をふわりと通り抜ける。
王宮の門に着くと、顔なじみの門兵に軽く手をあげて挨拶をする。
「今日はパンの配達? それとも調査かな?」
「今日は……調査でした!」
「調査かー! がんばれ!」
エイルは笑いながら手を振って王宮内へ入る。
慣れた足取りで、調査に使われている部屋へ歩いて行った。
三年前、ある異変をきっかけに、自分には風を鎮める力があるとわかった。以来、こうして王宮での調査に協力している。
部屋に入ると、風司が出迎えてくれた。
風司というのは、王宮で風の術を専門に扱っている人たちのことだ。エイルの力についても、ずっと調査に付き合ってくれている。
「やあ、エイル。ご苦労様。早速だが調査に入っていいかな」
「こんにちは。今日は何をするの?」
「君の風を鎮める力が、現在どのくらい制御できているかを見てみたい」
「おお、それは気合が入るね」
前にやったときは、うまく制御できず、自分が狙った以上の広い範囲まで鎮めてしまった。
その後、練習を重ねるうちに少しずつ感覚もわかってきて、最近はずいぶん精度が高くなっていると自負している。
エイルは風司に指定された位置に立ち、少し腕まくりをした。
「よし。では、始めるよ」
風司は頷き、目を閉じて手を軽く広げる。ややあって、部屋の中に風が吹き始めた。
エイルは風の方向を確かめると、目を閉じ、自分の中に湧き上がる感覚に意識を集中する。エイルを中心に透明な波紋が広がっていくイメージだ。
いい感じ。このままいける……!
「……どう? うまくいったよね?」
目を開けて、期待の眼差しで風司を見る。
すると、風司は窓の外を示しながらやさしく微笑んだ。
「塔の上にある風車、見えるかい」
風車……? エイルが目を凝らしてよく見ると、風車はぴたりと回転を止めていた。
「あ、そっちまで広がっちゃったか。今回はうまくいったと思ったのになあ」
「まあまあ、前に比べれば上出来だよ」
「それ、毎回言われてる気がするんだけど」
「焦ることはないさ。ちゃんと成長しているってことだ」
「……うん。ありがとう」
思い通りにはいかなかったけれど、少しずつ前に進んでいるのは確からしい。
その後、調査の進捗と今後のことについての確認を行い、風司に礼を言って部屋を出る。
さて、調査も終わったし。
セフィルはもう来ているだろうか。
いつもの庭へ向かうエイルの足取りは、自然と少し軽くなっていた。
日が少し傾きかけていた。
庭に出ると、長椅子にセフィルが座っているのが見える。書類の束に目を通しているようだ。
エイルが近づくと、セフィルが顔を上げた。
「終わったのか」
「うん。今日もあんまりうまくいかなかったけどねー」
「また範囲を広げすぎたのか?」
「えっ、なんでわかるの!」
軽口を叩きながら、エイルは当たり前のようにセフィルの隣に腰を下ろした。
セフィルは読んでいた書類を脇に置き、エイルのほうへ体を向ける。
「でも風司さんに、ちゃんと成長してるって言われたし」
「そうだな。俺もそう思う。以前より、ずっと扱いが上手くなっている」
「え、ありがとう。その感想は嬉しい」
セフィルに褒められて、エイルは少し照れてしまう。
風の力に関しては、王族であるセフィルの方がずっと強いし扱いにも慣れている。
そんな彼に認められるのは、素直にうれしい。
ふとセフィルの方に顔を向けると、穏やかに自分を見つめる菫色の瞳と目が合った。
いつも思うけど、綺麗な色だな。
「……なに?」
「何がだ?」
「いや、なんかじっと見てるから」
「エイルの話を聞いているんだが」
「それはそうなんだけどさ」
セフィルに褒められてうれしくてちょっと照れた自分の顔なんてあんまり見られたくないじゃん、と思ったけど言わなかった。言うのも恥ずかしいし。
「あ、そうそう! 今度、うちのパン屋で新作パン出すんだ」
「ほう、新作パンか。興味あるな」
「ふふふ、だと思ったよ! びっくりパンって言うんだ」
「びっくりパン……? 何がびっくりなんだ」
「なんと、でっかいパンの中に小さいパンが3つ入ってる! 中を開けたらびっくりするからびっくりパン」
エイルは両手で大きく円を作りながら、でっかいパンを表現している。
「なるほど、おもしろいな」
「でしょ! 僕と母さんで考えたんだ。父さんは手間が、とか材料費が、とか言ってたけど」
エイルがいたずらっぽく笑うと、セフィルの口元にもわずかに笑みが浮かんだ。
「じゃあ、今度びっくりパンを注文しないといけないな」
「お、ご注文ありがとうございます!」
「ひとまず……50個ほど頼もうか」
「50個!? 父さん倒れちゃうかも」
あはは、と笑いながら二人の肩がぶつかる。
一緒にいるのが楽しくて、話が尽きなくて、笑いあえるこの時間が好きだった。
日はすっかり傾いて、空は橙色と紺色が混じり合っていた。
少し会話が途切れた後、セフィルが口を開く。
「そういえば、少し話しておきたいことがある」
「ん? なに?」
急にそんなことを言われたので、エイルは少しだけ構えてしまう。
「実は、明日から女王の政務を本格的に手伝うことになった」
なんでもない話をするように、セフィルはさらりと言った。
「え、セフィルもついに! すごいじゃん! でも明日からって急だね?」
「話は前からあったんだが、正式に決まったのは先日でな」
そういえばこの人、王族だった……。
いつも普通に会話してるから忘れがちだけど、改めて考えるとすごいことだよなあ。
「そっかあ、じゃあ忙しくなるんだねー」
「ああ。それで……」
セフィルが一度言葉を切った。
「……会える時間が減るかもしれない」
その言葉を聞いたとき、なぜか一瞬息が詰まる感覚がした。
返事が遅れる。
「そっか」
「ああ」
セフィルは前を向いたまま小さく答えた。
「で、でもさ、すごいことだよね! がんばれ、応援してる!」
エイルは努めて明るい声を出した。けれど、なんだか自分の声じゃない感じがする。
セフィルはそんなエイルをしばらく見つめたあと、小さく息をつき、表情を緩めた。
「ああ、ありがとう。頑張るよ」
「うん」
エイルも少しだけ笑って返事をする。
気が付くと、完全に日は落ちていた。
「あ、もうこんな時間だ。そろそろ帰らなきゃ……」
「ああ、そうだな。門まで送ろう」
「いや、いいよいいよ! 一人で帰れるし、セフィルも忙しいだろうし、ね!」
エイルは顔の前でおおげさに手を振って答える。
セフィルの表情が、少しだけ曇ったような気がした。
思わずエイルは目をそらす。
「じゃあ、今日も楽しかった。またね!」
「ああ。……またな」
エイルは振り返らずに庭を抜け、門へと向かった。気づけば、いつもよりずっと早足になっていた。
なんでこんなに急いでるんだろう。
セフィルはこれから本格的に政務に関わるんだから、忙しくなるのも当然だし。すごいことなんだから応援したい。
心からそう思ってるはずなのに。なんでこんなにモヤモヤするんだよ。
だんだん、歩く速さが落ちていく。
そして、足を止めた。
……次、いつ会えるんだろ。
エイルはゆっくり振り返り、淡い光に包まれた王宮をぼんやり眺めていた。
焼きたてのパンの香りが、母リリアの《香送り》に乗って通りへ流れていく。
この国では、人々が生まれながらに持つ風の力を、日々の暮らしに役立てている。
リリアの《香送り》もそのひとつだ。
焼きあがったパンを棚に並べたところで、次のお客さんがやってくる。
「いらっしゃいませ!」
注文を聞きながらパンを包み、お代を受け取る。その合間にも、追加で焼きあがったパンを並べる手は止めない。
もちろん、笑顔も忘れない。
「エイル、悪いが倉庫から小麦粉を持ってきてくれ」
「はーい」
奥からダリオに声をかけられ、エイルは軽く返事をして倉庫に向かう。
数年前はひぃひぃ言いながら大騒ぎしていたし、引きずった拍子に袋を破いてしまったこともある。
今では持ち上げるコツも覚えたし、腕の力だって前よりついた。エイルは慣れた手つきで袋を抱え、作業場へ戻った。
「よっと……父さん、ここでいい?」
ドスンとダリオの作業台の横に小麦粉の袋を置いて、額に浮いた汗をぬぐう。
「おお、そこでいい。助かった、ありがとうな」
「いえいえ。また何かあったら言ってー」
そう言いながら店内に戻っていく。
「おう」
ダリオは片手をあげて笑った。
午前の忙しさがひと段落したころ。
「エイル、今日は王宮に行く日だったかしら?」
リリアに声をかけられ、棚を整えていたエイルは振り返る。
「うん。もう少ししたら行ってくるよ」
「あら、そうなのね。じゃあ今日は帰りが遅いのね」
「ん? いや、調査はそんなにかからないと思うけど」
「そうね」
にこにこと笑いながら、何事もなかったように仕事へ戻るリリアに、エイルは首をかしげる。
……なんだろう。
晩ご飯の支度の都合かな? それにしては、なんだか嬉しそうだったけど……まあ母さんだしな。
リリアのつかめない言動はいつものことだ。
エイルは深く考えず、王宮へ出かける準備をはじめた。
***
昼過ぎ、エイルは王宮に向かっていた。
いつものにぎやかな通りを歩く。あたたかい風が柔らかい髪をふわりと通り抜ける。
王宮の門に着くと、顔なじみの門兵に軽く手をあげて挨拶をする。
「今日はパンの配達? それとも調査かな?」
「今日は……調査でした!」
「調査かー! がんばれ!」
エイルは笑いながら手を振って王宮内へ入る。
慣れた足取りで、調査に使われている部屋へ歩いて行った。
三年前、ある異変をきっかけに、自分には風を鎮める力があるとわかった。以来、こうして王宮での調査に協力している。
部屋に入ると、風司が出迎えてくれた。
風司というのは、王宮で風の術を専門に扱っている人たちのことだ。エイルの力についても、ずっと調査に付き合ってくれている。
「やあ、エイル。ご苦労様。早速だが調査に入っていいかな」
「こんにちは。今日は何をするの?」
「君の風を鎮める力が、現在どのくらい制御できているかを見てみたい」
「おお、それは気合が入るね」
前にやったときは、うまく制御できず、自分が狙った以上の広い範囲まで鎮めてしまった。
その後、練習を重ねるうちに少しずつ感覚もわかってきて、最近はずいぶん精度が高くなっていると自負している。
エイルは風司に指定された位置に立ち、少し腕まくりをした。
「よし。では、始めるよ」
風司は頷き、目を閉じて手を軽く広げる。ややあって、部屋の中に風が吹き始めた。
エイルは風の方向を確かめると、目を閉じ、自分の中に湧き上がる感覚に意識を集中する。エイルを中心に透明な波紋が広がっていくイメージだ。
いい感じ。このままいける……!
「……どう? うまくいったよね?」
目を開けて、期待の眼差しで風司を見る。
すると、風司は窓の外を示しながらやさしく微笑んだ。
「塔の上にある風車、見えるかい」
風車……? エイルが目を凝らしてよく見ると、風車はぴたりと回転を止めていた。
「あ、そっちまで広がっちゃったか。今回はうまくいったと思ったのになあ」
「まあまあ、前に比べれば上出来だよ」
「それ、毎回言われてる気がするんだけど」
「焦ることはないさ。ちゃんと成長しているってことだ」
「……うん。ありがとう」
思い通りにはいかなかったけれど、少しずつ前に進んでいるのは確からしい。
その後、調査の進捗と今後のことについての確認を行い、風司に礼を言って部屋を出る。
さて、調査も終わったし。
セフィルはもう来ているだろうか。
いつもの庭へ向かうエイルの足取りは、自然と少し軽くなっていた。
日が少し傾きかけていた。
庭に出ると、長椅子にセフィルが座っているのが見える。書類の束に目を通しているようだ。
エイルが近づくと、セフィルが顔を上げた。
「終わったのか」
「うん。今日もあんまりうまくいかなかったけどねー」
「また範囲を広げすぎたのか?」
「えっ、なんでわかるの!」
軽口を叩きながら、エイルは当たり前のようにセフィルの隣に腰を下ろした。
セフィルは読んでいた書類を脇に置き、エイルのほうへ体を向ける。
「でも風司さんに、ちゃんと成長してるって言われたし」
「そうだな。俺もそう思う。以前より、ずっと扱いが上手くなっている」
「え、ありがとう。その感想は嬉しい」
セフィルに褒められて、エイルは少し照れてしまう。
風の力に関しては、王族であるセフィルの方がずっと強いし扱いにも慣れている。
そんな彼に認められるのは、素直にうれしい。
ふとセフィルの方に顔を向けると、穏やかに自分を見つめる菫色の瞳と目が合った。
いつも思うけど、綺麗な色だな。
「……なに?」
「何がだ?」
「いや、なんかじっと見てるから」
「エイルの話を聞いているんだが」
「それはそうなんだけどさ」
セフィルに褒められてうれしくてちょっと照れた自分の顔なんてあんまり見られたくないじゃん、と思ったけど言わなかった。言うのも恥ずかしいし。
「あ、そうそう! 今度、うちのパン屋で新作パン出すんだ」
「ほう、新作パンか。興味あるな」
「ふふふ、だと思ったよ! びっくりパンって言うんだ」
「びっくりパン……? 何がびっくりなんだ」
「なんと、でっかいパンの中に小さいパンが3つ入ってる! 中を開けたらびっくりするからびっくりパン」
エイルは両手で大きく円を作りながら、でっかいパンを表現している。
「なるほど、おもしろいな」
「でしょ! 僕と母さんで考えたんだ。父さんは手間が、とか材料費が、とか言ってたけど」
エイルがいたずらっぽく笑うと、セフィルの口元にもわずかに笑みが浮かんだ。
「じゃあ、今度びっくりパンを注文しないといけないな」
「お、ご注文ありがとうございます!」
「ひとまず……50個ほど頼もうか」
「50個!? 父さん倒れちゃうかも」
あはは、と笑いながら二人の肩がぶつかる。
一緒にいるのが楽しくて、話が尽きなくて、笑いあえるこの時間が好きだった。
日はすっかり傾いて、空は橙色と紺色が混じり合っていた。
少し会話が途切れた後、セフィルが口を開く。
「そういえば、少し話しておきたいことがある」
「ん? なに?」
急にそんなことを言われたので、エイルは少しだけ構えてしまう。
「実は、明日から女王の政務を本格的に手伝うことになった」
なんでもない話をするように、セフィルはさらりと言った。
「え、セフィルもついに! すごいじゃん! でも明日からって急だね?」
「話は前からあったんだが、正式に決まったのは先日でな」
そういえばこの人、王族だった……。
いつも普通に会話してるから忘れがちだけど、改めて考えるとすごいことだよなあ。
「そっかあ、じゃあ忙しくなるんだねー」
「ああ。それで……」
セフィルが一度言葉を切った。
「……会える時間が減るかもしれない」
その言葉を聞いたとき、なぜか一瞬息が詰まる感覚がした。
返事が遅れる。
「そっか」
「ああ」
セフィルは前を向いたまま小さく答えた。
「で、でもさ、すごいことだよね! がんばれ、応援してる!」
エイルは努めて明るい声を出した。けれど、なんだか自分の声じゃない感じがする。
セフィルはそんなエイルをしばらく見つめたあと、小さく息をつき、表情を緩めた。
「ああ、ありがとう。頑張るよ」
「うん」
エイルも少しだけ笑って返事をする。
気が付くと、完全に日は落ちていた。
「あ、もうこんな時間だ。そろそろ帰らなきゃ……」
「ああ、そうだな。門まで送ろう」
「いや、いいよいいよ! 一人で帰れるし、セフィルも忙しいだろうし、ね!」
エイルは顔の前でおおげさに手を振って答える。
セフィルの表情が、少しだけ曇ったような気がした。
思わずエイルは目をそらす。
「じゃあ、今日も楽しかった。またね!」
「ああ。……またな」
エイルは振り返らずに庭を抜け、門へと向かった。気づけば、いつもよりずっと早足になっていた。
なんでこんなに急いでるんだろう。
セフィルはこれから本格的に政務に関わるんだから、忙しくなるのも当然だし。すごいことなんだから応援したい。
心からそう思ってるはずなのに。なんでこんなにモヤモヤするんだよ。
だんだん、歩く速さが落ちていく。
そして、足を止めた。
……次、いつ会えるんだろ。
エイルはゆっくり振り返り、淡い光に包まれた王宮をぼんやり眺めていた。
