選ばれたあとも、選ばなかったあとも。

 目を覚ますと、雨の音がしていた。
 カーテンの隙間から入ってくる光は白く濁っていて、時計を見なくても、もういつもよりだいぶ遅い時間だと分かった。土曜日だから問題はない。そう思って、成瀬千夏は布団の中でしばらく天井を見ていたが、そのうち、雨音が気になってきた。
――朔、傘持って出たかな。

 千夏は寝返りを打った。
 持っていなくても、誰かが貸すだろう。だいたい今日は、家族で車に乗っていくのかもしれない。どちらにしても、千夏の知ったことではなかった。
 幼馴染の金井朔が歴史の自由研究で賞を取ったことは、千夏も知っていた。ただ、それを最初に教えてくれたのは朔ではなかった。森野ひかり先輩からのメッセージで、初めて知ったのだ。
 あれから二か月あまり。付き合い始めた二人を登下校で見かけることもあったが、千夏の方から声をかけたことは、まだなかった。

 表彰式が今日だということは一昨日に知った。知ったというより、聞こえてきた。放課後、同じクラスの根岸が、朔の机までやってきた時のことだ。
「金井! お前、賞取ったんだって?」
「……今さら?」
「さっきの学年だより見るまで知らなかったよ。すげえじゃん! 何で先にみんなに言わねえんだよ」
「わざわざ言うことじゃないだろ」
「俺だったら全クラスに毎日言うぜ」
 根岸は何がおかしいのか、一人で笑っていた。
「表彰式みたいなのあんの?」
「次の土曜」
「明後日じゃん。なんか賞金とか出るわけ?」
「表彰されるだけだって」
「つまんねえの」
 根岸はまた笑って、大げさに肩を落としながら自分の席へ戻っていった。
 朔は首の後ろを掻いて、それから何事もなかったように、教科書を机の中にしまっていた。千夏の席は朔の後ろで、何も意識しなくても二人のやりとりは全部耳に入ってきた。
 今までなら、そういうことは知っていた。知っているのが当たり前だった。でも、今の自分は、表彰式のことを一昨日まで知らなかった。

 階段を下りると、台所で母が洗い物をしていた。
「おはよう。……もうお昼みたいなもんだけど」
 テーブルの上に、食パンの袋と、学校から配られたプリントが置いてあった。学年だよりの一番上の囲み記事には、朔の名前が載っている。研究の題名まで、ちゃんと全部書いてあった。
「これ、朔くんでしょ。すごいね」
 母は手を拭きながら言った。
「表彰式とかあるの?」
「今日」
「千夏、行かないの?」
「行くわけないじゃん。家族じゃないんだから」
 思ったより強い声が出た。母は少し目を丸くしたが、そうなの、とだけ言って、トースターにパンを入れた。椅子に座ってすぐ学年だよりを裏返しにして、千夏は牛乳をコップに注いだ。
     * * *
 午後になっても、雨はやまなかった。
 部屋で数学の課題に取り掛かった。今年の数学は、授業で配られるプリントに途中式まで書いて提出することになっている。先生は一枚ずつ丁寧に朱を入れてくれるし、授業もわかりやすい。正直、去年の先生より好きだ。ただ、初等部のころから使ってきた方眼ノートを、授業で使わなくなったことだけは、まだ慣れなかった。今年のホワイトデーに朔からプレゼントされたのも、同じノートだった。

 三時を少し過ぎたころ、スマートフォンが震えた。朔の双子の妹、望からだった。
《会場、意外とちゃんとしてる》
 続けて、写真が一枚届いた。ホールの入口に立て看板があって、長い名前の賞の、表彰式の文字が並んでいる。いつもの制服だけれど、少し顔が硬い朔が、黒い傘を持って立っていた。持って出たんだ、と思って、千夏はちょっと笑った。
《人多い?》
《大人ばっか》
《みんな家族でしょ?》
 送ってから、送らなければよかったかな、と思った。返事はすぐには来なかった。三問目の問題文を読んだけれど、どうにも解けなくて、千夏はシャープペンの先で余白に意味のない線を引いた。

 しばらくして、またスマホが震えた。控室のような部屋の写真で、壁際のパイプ椅子に、制服の朔が座っている。膝の上に両手を置いて、背筋だけが妙にまっすぐで、どこを見ているのか定まらない顔をしていた。ネクタイが、いつもより少しだけきちんと締まっている気がする。たぶん、母の志保さんが直したのだろう。
《緊張してる》
《顔かたすぎ》
《本人に言っとく》
《言わなくていいから》
 それきり、メッセージは来なくなった。式が始まったのかもしれない。
 千夏は画面をしばらく眺めていた。控室の写真には、朔のほかに、端のほうに父親の孝之さんらしい肩が少し写り込んでいる。それだけだった。会場に誰がいて、誰がいないのか、写真からは分からない。
 分からないようにしてくれたのかもしれない、と一瞬思って、考えすぎだ、と打ち消した。望は、そういう回りくどい気の遣い方はしない。でも、さっき自分が送ったメッセージを見返すと分からなくなる。まだ空欄が残っているプリントの上にスマホを置いて、ベッドに寝転んだ。

 天井の雨漏りのしみのような模様は、小学生のころから同じ場所にある。あれが犬の顔に見えると言ったのは、望だった。朔は、見えない、と言った。どこが、と言うので、三人で布団に並んで寝転んで、千夏が指でなぞってみせた。結局、朔には最後まで見えなかった。
 ――あれ、初等部の何年生の時だったっけ。
 思い出せなかった。
     * * *
 夕方になって、雨が細くなった。
 牛乳が無くなったから買ってきて、と母に言われて、千夏はビニール傘を差して外へ出た。坂の下にある駅前のスーパーまでは歩いて五分もかからない。アスファルトが濡れて黒く光り、側溝のふたの隙間から水の流れる音がしていた。

 牛乳をかごに入れた千夏は、飲み物の冷蔵ケースの前で足を止めた。学校の近くのコンビニとは棚の並びが違うが、いつものペットボトルは、ここでもいちばん手の届きやすい場所にあった。少し喉が渇いていたから、扉を開けて一本取った。
 これまでは手を伸ばすより先に、横から差し出された。朔が何も聞かずに渡してくることを、ひかり先輩に指摘されたこともある。いつもこれだから、と答えたのは、千夏ではなかった。取り出したボトルは冷たくて、手のひらが少し痛かった。

 会計を済ませて店を出ると、白っぽいミニバンが、通りの坂を上っていくところだった。金井家の車と同じ色で、同じ形に見えた。後ろの席に誰が乗っているのかは、雨粒の向こうでよく見えない。ただ三列目まで目一杯、人が乗っていた。両親と、朔の姉の澪先輩、朔と望、それにこの春に生まれた汐里ちゃん。家族全員を数えても、一人多い。はっきり見えたわけではなかった。千夏は傘を少し傾けて、車が角を曲がるまで、そのまま立っていた。違う家の車だったのかもしれない。望に聞けば確かめられる。でも、ポケットのスマホには手を触れず、千夏は車が消えた角を避けて、遠回りになる道へ歩き出した。

 家に帰って冷蔵庫に牛乳をしまうと、買い物袋にはペットボトルが一本残った。喉が渇いていたことを、すっかり忘れていた。
     * * *
 夜、九時を過ぎてから、望から最後の写真が届いた。今度は、賞状を両手で持った朔が、ホールの外の植え込みの前に立っていた。まだ明るいうちに撮ったものらしい。雨は上がっていて、植え込みの葉が濡れて光っていた。朔は、控室のときよりはちょっとましな顔をしていた。笑っている、と言えなくもない、くらいの顔だった。
《終わった。お父さんが泣きそうだった》
《泣いたの?》
《泣いてない。泣きそうだっただけ》
 千夏は、写真をもう一度見た。賞状の文字は小さくて読めなかったが、何と書いてあるかは知っていた。学年だよりに、全部書いてあったから。

《おめでとうって、言っといて》
 そう打って、指が止まった。少し考えて、書き直した。
《おめでとうは、月曜に自分で言う》
《分かった》
 望の返事は、それだけだった。いつもなら、何か一言付け足してくるところだった。付け足さないでくれたことが、ありがたいのかどうか、千夏には分からなかった。スマートフォンを机に置いて、部屋の電気を消した。
 暗闇の中、口の中だけで言ってみた。

 おめでとう。

 声は、ちゃんと普通に出た。受賞を知った翌日より、ずっと普通だった。
 それが、なぜかいちばん、こたえた。