にわかごしらえの婚約者は冷徹公爵子息の溺愛を求めていない

「オリヴィア、少しいいか?」
 その日の夜、部屋を訪ねてきたのはステファンだった。こんな時間に女性の部屋に? と言おうとして、やめた。婚約相手なのだから、許されるだろう。とはいえ、ドア越しに話が済まないものかと模索する。

「いかがなさいましたか? もし眠れないのなら、お茶でもお淹れしてきましょうか?」
「いや、いい。顔を見て話がしたい」
 先手を打たれ、仕方なくドアを開けると、ステファンがホッとした顔で私を見つめた。

「……入っても?」
 遠慮がちにそう言われ、中へ通す。
「どうぞ」
 寝室とはいえ、きちんと応接セットがあるので問題はない。お茶は出せないが、置いてある水差しでグラスに水を入れ、ステファンの前に置いた。

「こうして二人になるのは久しぶりだ」
「そう……ですね」

 ユノリスカの登場で、二人きりの時間はほとんどなくなった。ステファンはずっと屋敷で仕事をしていたけど、同じだけずっと、ユノリスカに付き纏われていたもんね。賑やかな数日間、私はとても……楽しかった。

「……ユノに聞いた。君はルナール家に帰るつもりなのか?」
「え?」
 まさかバラされているとは思っていなかった私は、ちょっと狼狽えてしまう。
 書簡に書かれていた「迎え」の日。そこでお別れをするつもりでいたんだ。きちんとお礼をして、静かに立ち去ろうって思ってたのに。
 黙っている私を見て、ステファンが大きく溜息をつく。

「なぁ、オリヴィア。よく考えてくれ。ここで、俺の隣で笑って生きていく未来を思い描いてはくれないのか?」
 何度も伝えてくれる私への思い。嬉しい。そして、苦しい……。
「それは……私でなくてもいいじゃありませんか」
「は?」
「ステファン様は、愛されてしかるべきお方です。幸せにならなければ。……ユノリスカ様でしたら、きっとステファン様を大切にしてくださいます」

 嘘ではない。これは私の本心だ。だから、まっすぐに伝える。顔だけ男なんて言ってごめんなさい。ユノリスカがあれだけ想いを寄せる相手なんだもの、きっとまだ私が知らない良いところが沢山あるんだわ。

 ユノリスカの隣で微笑むステファンを思い描く。つきん、とまた胸が痛くなった。

「どうして君はそんなに俺とユノをくっつけようとするんだっ? そんなにこの結婚が嫌なのかっ?」
 立ち上がり声を荒げるステファンに、私はいよいよ、この告白をするしかなくなった。言えば決定的となるだろう。今まで言えなかったのは……言えばすべてが終わるから。私は、終わらせたくなかったのだろうか?
 両手を握り締め、グッと力を籠める。ぶつけられるのは、怒りか……それとも呆れた顔をされるのか……わからないけど。

「あの……ステファン様、ずっと黙っておりましたが、正直にお話いたします。私は……私は本当のオリヴィア・ルナールではありませんっ。だからステファン様のお傍にはいられないんですっ。本当のオリヴィアは、町で会った、侍女を名乗っていたセレナの方でっ」
「ああ、知ってる」
「ですよね、だからっ………………は?」

 私は、視界がコマ送りになりそうなほど、瞬きをした。
 今この人、知ってるって言わなかった?

「……ちょっと待ってください。なんですって?」
「だから、君が本当のオリヴィアじゃないことは知っている」
「なんでっ?」
「この前届いた書簡に書いてあったんだよ、全部」
「全部……?」
「全部」
「どこから、どこまで?」
「最初から、最後まで、だ!」
「はぁぁぁぁぁ?」
 今度は私が立ち上がる。

「知ってたならなんで知ってるって言ってくれなかったんですか! え? 書簡に書いてあった? じゃ、あの日以降、私の正体を知っててそのままお屋敷に置いていたってことですか? え? なんで? 正体わかったなら迎えなんか待たずに即刻返品でよかったじゃないですかっ!」
 一気に捲し立て、ハタと気付く。書簡が届いた日って……あの日?
「……え? 待って……待って待って、あの書簡で私の正体を知った……? じゃあ、あの時のあれ(・・)はっ……」

 キスは!? オリヴィアじゃないってわかってて……したの?

 うわぁぁぁぁ、なにしてくれちゃってんだかこの人は! 侍女だっつってんのにちゅーしちゃっちゃダメだんべよ!

「オリヴィア、顔が真っ赤だけど、なにを思い出してたの?」
 ニマニマしながら顔を近付けるステファンを前に、私はよろけてソファに腰を落とす。そのまま両手で顔を覆うと、
「知ってたなんて……」
 …………ん? あの書簡で……ってことは、

「マクミリア公爵様も知ってるってことですかっ?」
 もう一度、勢い良く立ち上がり、危うくステファンとぶつかりそうになった。

「おっと。……そうだよ。父に呼び出され、二人で話したんだ。君がオリヴィアでないのなら、これからどうすべきなのか、って」
 公爵も知ってた……。知ってて、あの時「オリヴィアはどうしたい?」って聞いたの? どうしてっ?

「――父に言われたよ。命はひとつ。人生は一度きりだと」
 フッと遠い目をする。あ、もしかして……。
 私が表情を変えたことに気付いたのか、ステファンが寂しそうに笑った。
「病気のことも聞いた。借金が嘘だったこともね。オリヴィアはそのことも見抜いてたんだろ? すごいな」
「いえ……そんな」

「父は君をいたくお気に入りだ。そして、ルナール公爵は、我々が真実を知った上でそれでもと望むなら、君をオリヴィア・ルナールとして送り出したいと言っている。ただ……オリヴィア自身にその気がないなら無理強いはしたくない、というのが両家の総意なんだ。みんな君の幸せを第一に願っている」

 そんな、私に都合のいい話があるの? 私に選択権を委ねるだなんて、ルナール公爵もマクミリア公爵もどうかしてるわっ。

「書簡には、娘のために君を犠牲にするようなことをして申し訳なかった、と記されていたよ」
「でも……だけど」
 狼狽える私の目を、ステファンが優しく見つめた。
「俺はね、オリヴィア……今すぐ君を力ずくでねじ伏せて、一生閉じ込めてしまうこともできる」
「ふぇっ?」
 急になによ、その怖い話はっ。
 後退る私にステファンが手を伸ばし、私の髪をひと房掴み、キスをする。
「既成事実を作ってしまえば、君を失うことはないだろ?」
「や……やだなぁ、ステファン様、冗談が過ぎますよ?」
「いいや、本気」
 本気なんかーい!

「俺、自分が思っていたより心が狭いんだな。オリヴィアを手に入れるためなら、なんだってできそうだ」
 左手が、私の手を握る。
「こうして触れてるだけで、とても幸せな気持ちになるんだ」
 右手が、私の頬に触れる。
「もっと近くで、もっと深く触れたい」
 私の瞳には、ステファンが映っている。そしてステファンの瞳には、私が。

「でも、でもっ、ユノリスカ様はっ」
「ユノとも話したよ。俺の気持ちはユノにきちんと伝えたし……実は俺の背中を押してくれたのもユノだ」
「え?」
「とっとと押し倒してこい、とさ」
「はっ? だってユノリスカ様はっ」
「ユノはね、オリヴィアならいい、って言ってた」
「え?」
「なにかを我慢して、なにかに苦しんで、それなのに自分にとても優しくしてくれたオリヴィアを、ユノも気に入ったんだって」
「ええっ?」
 だって、ユノリスカはずっとステファンが好きだったのに! それに、私……我慢したり苦しんだりなんて……して、た?

「さぁ、どうする?」
 ステファンが私の額にキスをする。
「このまま押し倒されるか、それともただイエスと答えるか?」
「ええっ? 二択なんですかっ?」
「ぷっ……そう、二択」
 悪戯っぽい顔で笑うと、私の頬を撫でつけ上を向かせ、そのまま唇を奪う。

「俺のこと、嫌いじゃないよね?」
 囁くようにそう言われ、頭がクラクラする。ずるい! 顔がいい男はやっぱりずるくて……ずるい! 嫌いか嫌いじゃないかって言われたらそりゃ嫌いではないけど、だけどそれって好きってことなのかなぁっ? だって私はユノリスカみたいに何年もステファンを思い続けてたわけでもない、ただのポッと出の身代わりの侍女でっ、だから、こんなのっ……

「好きだよ、君が。オリヴィアであろうとなかろうと、どうでもいいんだ。俺は、君のことが好き……」

 唇が重なる。

 ああ……。
 私は、また……流されてしまう。大きくて深い、甘いうねりの中に、引きずり込まれてしまうんだ……。