にわかごしらえの婚約者は冷徹公爵子息の溺愛を求めていない

 プレストがニコニコしながら私を見た。プレストだけじゃない。侍女長もこっちをチラチラ気にしては口元を歪ませている。

「どうした、もうおしまいか?」
 私の前では、マチルの実を手にしたステファンが頬杖を突き、愁いを帯びた視線を向けながら手を伸ばしていた。

「あの、自分で食べますので」
 何度そう言っても、ステファンは聞かない。私にマチルの実を差し出しながら「口を開け」と言っているのだ。バカップル!

「いいだろう? 俺は直接オリヴィアに食べさせたいんだ。ほら、口を開けて?」
 甘ったるい声でそう言われ、いい加減私もオーバーヒートだ。冷徹、戻って来てくれないだろうか?
「ほら」
 私に向けられた整った指先。小さなマチルの赤い実が迫りくる。なんでこんな昼日中に公開イチャイチャをっ。
 しかし、このまま頑なに口を閉じていても、ステファンは一歩も引かないだろう。私は小さく口を開ける。マチルの実が口の中に入ってくる。ポロリと落ちそうになり慌てて口を閉じると、ステファンの指の感触。

「ふむっ、やだ、ごめんなさいっ」
 慌てて口を離す。
 ステファンは、私が咥えてしまった指を、自分の唇へと運びキスをした。
「食べられてしまったな」
 ぎゃ~~~! 頬染めてそんなことしたらダメだんべ! 刺激が強すぎて頭クラックラしっちゃ~よ!

 アンディが屋敷を出てからのステファンは、とにかく甘い。接触も増えて、私は心臓がいくつあっても足りないほどだ。

 そういえば、夜会での親子再会の話をマクミリア公爵に話したと言っていた。詳しくは聞かなかったけど、少しは父と息子の距離も縮んだのだろうか?
 そうだといいな、と思う。

 生まれ変わってからの私は、両親を早くに亡くしている。父との思い出もあまりないし、母と語らうこともあまりなかった。家族がいる、というのは幸せなことだ。誤解やすれ違いで関係性を複雑なものにしていたのなら、なにかをキッカケに正常な間柄に戻ってほしい。そう、思っている。

 そんなことを考えていると、唐突に扉が開いた。部屋にいた全員が何事かと振り返る。そこにいたのは、マクミリア公爵だった。最近は食事も別々に摂っているため、顔を合わせることもあまりなかったのだが……いつになく表情が硬い。私の顔を見、表情を曇らせる。

「なんですか食事中に、乱暴な」
 ステファンがムッとした顔を見せると、公爵は片手で頭を押さえ、ステファンに言った。
「ステファン、ちょっといいか」
 凄みのある声に、さすがのステファンも只事ではないと思ったのだろう。立ち上がると公爵に歩み寄る。公爵が手にした書状のようなものをステファンに見せると、彼の表情がみるみる間に険しいものへと変わっていった。公爵の顔を見、そして私を見る。

 なに?

 手にした書状をぐしゃりと握りつぶし、ステファンが拳を壁に叩きつけた。
「なんだこれはっ!」
 納得できない。
 その一言に尽きているようだった。

「あの……」
 腰を浮かせた私を公爵が手で制する。
「オリヴィア嬢は、少しここで待っていてくれ」

 そう言って二人は、部屋を出た。

◇

 なにがあったのかわからないまま、私はしばらくその場で待っていた。程なく公爵の書斎へと呼び出され、向かう。
 中に入ると、書状の中身を知らされる。それはルナール公爵からの書状であり、こう書かれていたようだ。

『婚約破棄について』

 今更、というべきか、やっと、というべきか……。

「俺はこんなの、認められない!」
 バンッとテーブルを叩き、マクミリア公爵に凄んでみせる。公爵は椅子に座り腕を組んだまま、身じろぎもしない。

「もちろん断る方向でいいんですよね、父上っ?」
 そう訊ねるステファンに、公爵は黙ったままだ。
「なぜ黙っているのですかっ? まさか受け入れるつもりではないのでしょうっ?」
 畳みかける。
「そもそもこの婚約を決めたのは、他の誰でもないあんたたち二人だろうがっ。今更なしにしようとは、どういう了見なんだっ?」
「……うむ」

 書状に書かれていたのは、オリヴィアの不貞行為。……とはいえ、実際になにをしたということではなく、他に好きな男がいるような愚女を送り出してしまったことを改めて詫び、この婚約を直ちに破棄し、近いうちに迎えを送る。代わりに、オリヴィアの従妹にあたる令嬢を改めて婚約者に推薦する、と書かれていたようなのだ。

 その場凌ぎで私をオリヴィアに仕立てたまではよかったが、「ステファンに気に入られている」とアンディから聞かされ、このままでは本当に結婚してしまいそうだと、危機感を覚えた……といったところか。
 いつか、どこかから私の身の上がバレてしまったら……政略結婚どころか、これは《《詐欺行為》》になる。ここでオリヴィアを『愚女』とし、ルナール側の落ち度を提示し婚約破棄をさせることで、私をマクミリア家から引き揚げさせたいのだろう。隠し通す利より、発覚のリスクを恐れた結果だ。

「父上はどうお考えですかっ? 私はオリヴィアをこのまま帰すなど、絶対にしたくないっ。いや、できません!」
 激昂するステファンを前に、マクミリア公爵は落ち着いているように見えた。どうしようか考えあぐねているのか、それとももう答えが決まっているからなのか……。

「……オリヴィア嬢、君はどうしたい?」
 公爵の問い。私はなんだか、とても重要な質問を受けたような、そして試されているような気持ちになる。

 ここに来た頃の私なら、有無を言わさずこの返品話に飛びついただろう。婚約破棄を手にし、この屋敷を出て行くこと。それが当初の私の願いだったのだから。けれど、今は?
 チラ、とステファンを見れば、思い詰めた顔をして私を見つめている。

「私……は……」
 帰るべきだ。そんなことわかっている。私がオリヴィアではない時点で、ステファンの隣にいることなど許されないのだから。だけど、うまく言葉が出てこない。
「……少し……お時間をいただいても?」
 即答なんか、できない。……考えたくない答えを胸の奥にしまい込んで蓋をする。

「わかった。では少し時間を与えよう。どうしたいか考えが纏まったら教えてくれ」
「わかりました」
 私は頭を下げ、書斎を後にした。

 どうして「屋敷を出ます」と言えないのか。私は……欲深いただの“女”になってしまったのだろうか? ステファンが嫌っていた、容姿や地位に群がる“女”に……?
 どうして事前に私への知らせがなかったのだろう。まずは私に伝えてくれればよかったのに。こんな……大事なこと。

 急ぎ足で廊下を歩く私を、後ろからステファンが追いかけてきた。
「オリヴィア!」
 私はドレスの裾を掴むと、走り出す。今ステファンの顔を見たら、心が揺らいでしまいそうだった。
 これは私の一存で決めていい話ではない。ルナール家の意に沿う返事をしなければ。私の使命は、それだ。流れに……きちんと乗らなければならない。

「待てよ、オリヴィア!」
 パシッと手を掴まれ、引き寄せられる。掴まれた手をやんわりと解き、私は告げた。
「あの書状に書かれていたことは、もっともだと思います。私は……ここを去るべきなのかもしれません」
 笑え! 平気そうな顔で、笑え! おかしな風に歪みそうになる顔の筋肉を無理やり持ち上げて、声を震わせることなく言い切った。

「なにを言うんだっ。俺は君を手放す気などないからな!」
「ですが、ステファン様」
「オリヴィアは、俺が嫌いか?」
 額が触れそうなほどに顔を寄せ、ステファンに問われる。
「わ、私はっ」
 体を離そうとする私の肩を、ステファンががっちりと掴んだ。

「俺の想いは脆弱で信用に値しないか?」
 肩を揺さぶられ、私はギュッと目を閉じた。まともに顔が見られない。ステファンの真剣さは、嫌というほど伝わってきている。その想いが嘘ではないことも、彼の願う、「愛する者と共にありたい」という美しい夢も、すべてわかっている。だからこそ、ステファンには幸せになってほしい。

「……お願いします。離してください」
 小さな声で、呟く。涙目の私の体を、ステファンは壁に押し当てる。
「俺は、オリヴィアの本心が聞きたいんだ」
「……本心?」
「周りを気にして、本心を隠している。君は噓つきだ」

 ステファンが私の顎に手を掛けた。そのまま上を向かされ、顔が近付く。私はステファンの体を押しやろうと手を出すが、片手で腕を掴まれ、唇を押し付けられた。
「……っ!」

 ──なんということでしょう! 侍女だった私が、冷徹公爵令息の肩書を持つステファンと、間違いだらけの婚約をしただけでは飽き足らず、人気のないお屋敷の廊下で、キスをしてしまったのです!

 ……って、某番組出してる場合じゃない!
 ああ、脳内が混乱の極み!

「あのっ、んっ、待って、ステ……んんっ」

 止まらないキス。何度も何度も、唇を奪われる。押し退ける力も出ないまま、私はただ、受け入れてしまう。その情熱が、想いが、私を支配する。後頭部に手を置かれ、腰に手を回され、もはやなす術もない。体の力が抜けていく。頭がぼうっとして、何も考えられなくなる――。