***
講堂の扉が閉ざされると、紗子はようやく息を抜けた。
自分に注がれていた無数の視線の針が、まだ全身に刺さっているような心地がする。
それでも、この繋がれた手の温もりと、手を引いて紗子の前を行く長身の男が天上界の皇太子であることに間違いはない。
(結婚を申し込まれるなんて……)
夢ならば早く覚めるべき、ありえないことだ。
前を行く凌雅は紗子の手を引いて学園の廊下をぐんぐん進んでいく。
「あ、あの……」
「何だ?」
「どちらへ向かわれているのでしょうか?」
「紗子と2人きりになれる場所だ」
紗子の胸が跳ねる。
何一つ現状がわからないままでいる紗子を余所に、凌雅は応接室の前で立ち止まった。
凌雅は扉を開け、紗子へ先に入るよう促す。
手は離されたものの逃げだしたところですぐに捕まるだろうと、紗子は素直に中へと入る。
初めて紗子が入室した応接室。
来客用の応接セットが中央へと位置し、高級そうな調度品が壁際に並んでいる。
窓の向こうには春の庭園が広がっていた。
「座れ」
「失礼いたします」
勧められるまま応接用の座椅子に腰かけると、凌雅も対面へと着席する。
長い足を持て余すように組むその姿からは溢れるほどの色気と気品に満ちており、目の前の男が只者ではないと一目で理解させる存在感があった。
(天上界の皇子様なんて、只者ではなさすぎるけど……)
凌雅の美貌はどこか満足げに紗子を見据え続けている。
その鋭く、深い眼差しに余りにも真っ直ぐ見られ、紗子は落ち着かなかった。
「あの……皇太子殿下?」
「凌雅だ」
「はい?」
「名で呼べ」
「恐れ多くて呼べません」
「いずれ夫婦になるのだから、俺を名で呼ぶのが自然だろう」
紗子は黒目がちな大きな目を可能な限り丸くした。
(夫婦……? 天上界の皇太子殿下と私が……?)
非現実的すぎて、にわかには信じられない。
信じろという方が無理な話だった。
「殿下……ではなく、あの、凌雅様。どうして私なのでしょうか?」
「どうして?」
「どう考えても、私は凌雅様に不相応かと存じます。この学園内にも凌雅様にふさわしい女生徒が他にたくさんいらっしゃいます」
「他など不要だ」
凌雅は断言した。
「俺が望んでいるのは紗子だけだ。それの何が不満だ」
「い、いいえ。不満というわけでは……」
「なら、何の問題もないだろう」
紗子は自分が本気で天上界の皇太子から婚姻を申し込まれているのだと、ようやく初めて理解するに至った。
そうして困り果ててしまう。
殿方から求婚されるのは当然、生まれて初めての経験だ。
初恋ですら未経験の紗子に、様々なものを飛び越えて、いきなり結婚など考えられなかった。
「……私は凌雅様の花嫁にはなれません」
小さくも、はっきりと言い放った紗子に、凌雅の美貌が固まった。
紗子の回答が凌雅の及びもつかなかったものだったのだろう。
剣呑に変化した空気に怯みながらも、紗子は凌雅を見つめ続けていた。
「何だと?」
「突然そのようなお話をいただいても、すぐにお受けすることは出来ません」
「それは何故だ」
凌雅は心底、目の前の紗子を理解できないといった様子でいる。
「私は凌雅様のことを何も存じ上げません。もちろん凌雅様のことを知ってはいたのですが、性格でいらっしゃるとか、お好きなものとか何もわからないのです。よく知らない殿方と急に結婚など考えられません」
紗子は柔らかくも、芯のある声で伝える。
凌雅は何か考え込んでいるようで、しばらく黙していた。
緊張しながら紗子は凌雅の返事を待つ。
天上界の皇子からの求婚を断るなど、不敬にあたって、処罰されるのだろうか。
それでも相手が誰であろうと自分の一生に関わる重要事項を思考を止めて頷くことはできなかった。
「――なるほど。紗子の言い分も一理あるな」
凌雅は紗子の返答に納得したようだった。
(わかっていただけたようだわ)
紗子は胸を撫で下ろす。
「――ならば、これから俺を知ればいい」
「え?」
「俺を知って、俺を愛せ。そうすれば何の問題もない」
自信に満ち溢れた美しい顔立ちで、凌雅は不遜に言い放つ。
紗子の困惑は当初より膨張してしまった。
「ですが、人を好きになるというのは、そんな簡単なことでは……」
「難しく考える必要はないだろう。俺を知れば、自ずとそうなる」
「あの……えっと……」
「俺の花嫁は紗子だけだと思って、ずっと生きてきた。お前以外の女と結婚するつもりはない」
少しも悪びれず凌雅に答えられ、紗子は言葉を失った。
「俺に自分の意見を臆せず伝えられる者は、そう居ない」
「……さよう……ですか……」
「ますます紗子を気に入った」
紗子は天上界の皇子から自分への求婚を取り下げてもらうことは不可能なように思えてきて、ただただ戸惑いながらも、固まっていた。
講堂の扉が閉ざされると、紗子はようやく息を抜けた。
自分に注がれていた無数の視線の針が、まだ全身に刺さっているような心地がする。
それでも、この繋がれた手の温もりと、手を引いて紗子の前を行く長身の男が天上界の皇太子であることに間違いはない。
(結婚を申し込まれるなんて……)
夢ならば早く覚めるべき、ありえないことだ。
前を行く凌雅は紗子の手を引いて学園の廊下をぐんぐん進んでいく。
「あ、あの……」
「何だ?」
「どちらへ向かわれているのでしょうか?」
「紗子と2人きりになれる場所だ」
紗子の胸が跳ねる。
何一つ現状がわからないままでいる紗子を余所に、凌雅は応接室の前で立ち止まった。
凌雅は扉を開け、紗子へ先に入るよう促す。
手は離されたものの逃げだしたところですぐに捕まるだろうと、紗子は素直に中へと入る。
初めて紗子が入室した応接室。
来客用の応接セットが中央へと位置し、高級そうな調度品が壁際に並んでいる。
窓の向こうには春の庭園が広がっていた。
「座れ」
「失礼いたします」
勧められるまま応接用の座椅子に腰かけると、凌雅も対面へと着席する。
長い足を持て余すように組むその姿からは溢れるほどの色気と気品に満ちており、目の前の男が只者ではないと一目で理解させる存在感があった。
(天上界の皇子様なんて、只者ではなさすぎるけど……)
凌雅の美貌はどこか満足げに紗子を見据え続けている。
その鋭く、深い眼差しに余りにも真っ直ぐ見られ、紗子は落ち着かなかった。
「あの……皇太子殿下?」
「凌雅だ」
「はい?」
「名で呼べ」
「恐れ多くて呼べません」
「いずれ夫婦になるのだから、俺を名で呼ぶのが自然だろう」
紗子は黒目がちな大きな目を可能な限り丸くした。
(夫婦……? 天上界の皇太子殿下と私が……?)
非現実的すぎて、にわかには信じられない。
信じろという方が無理な話だった。
「殿下……ではなく、あの、凌雅様。どうして私なのでしょうか?」
「どうして?」
「どう考えても、私は凌雅様に不相応かと存じます。この学園内にも凌雅様にふさわしい女生徒が他にたくさんいらっしゃいます」
「他など不要だ」
凌雅は断言した。
「俺が望んでいるのは紗子だけだ。それの何が不満だ」
「い、いいえ。不満というわけでは……」
「なら、何の問題もないだろう」
紗子は自分が本気で天上界の皇太子から婚姻を申し込まれているのだと、ようやく初めて理解するに至った。
そうして困り果ててしまう。
殿方から求婚されるのは当然、生まれて初めての経験だ。
初恋ですら未経験の紗子に、様々なものを飛び越えて、いきなり結婚など考えられなかった。
「……私は凌雅様の花嫁にはなれません」
小さくも、はっきりと言い放った紗子に、凌雅の美貌が固まった。
紗子の回答が凌雅の及びもつかなかったものだったのだろう。
剣呑に変化した空気に怯みながらも、紗子は凌雅を見つめ続けていた。
「何だと?」
「突然そのようなお話をいただいても、すぐにお受けすることは出来ません」
「それは何故だ」
凌雅は心底、目の前の紗子を理解できないといった様子でいる。
「私は凌雅様のことを何も存じ上げません。もちろん凌雅様のことを知ってはいたのですが、性格でいらっしゃるとか、お好きなものとか何もわからないのです。よく知らない殿方と急に結婚など考えられません」
紗子は柔らかくも、芯のある声で伝える。
凌雅は何か考え込んでいるようで、しばらく黙していた。
緊張しながら紗子は凌雅の返事を待つ。
天上界の皇子からの求婚を断るなど、不敬にあたって、処罰されるのだろうか。
それでも相手が誰であろうと自分の一生に関わる重要事項を思考を止めて頷くことはできなかった。
「――なるほど。紗子の言い分も一理あるな」
凌雅は紗子の返答に納得したようだった。
(わかっていただけたようだわ)
紗子は胸を撫で下ろす。
「――ならば、これから俺を知ればいい」
「え?」
「俺を知って、俺を愛せ。そうすれば何の問題もない」
自信に満ち溢れた美しい顔立ちで、凌雅は不遜に言い放つ。
紗子の困惑は当初より膨張してしまった。
「ですが、人を好きになるというのは、そんな簡単なことでは……」
「難しく考える必要はないだろう。俺を知れば、自ずとそうなる」
「あの……えっと……」
「俺の花嫁は紗子だけだと思って、ずっと生きてきた。お前以外の女と結婚するつもりはない」
少しも悪びれず凌雅に答えられ、紗子は言葉を失った。
「俺に自分の意見を臆せず伝えられる者は、そう居ない」
「……さよう……ですか……」
「ますます紗子を気に入った」
紗子は天上界の皇子から自分への求婚を取り下げてもらうことは不可能なように思えてきて、ただただ戸惑いながらも、固まっていた。



