「失敗……ですか?」
「ああ。全財産を賭博につぎ込み、無一文になって自暴自棄と化した人間の男に俺が入り込んだ地蔵を壊されてしまった」
「えっ……」
「その拍子に力が乱れて、俺は地蔵から魂を抜け出せなくなっていた」
紗子の記憶の片隅が疼き出す。
「ここで俺は死ぬのだと覚悟を決めた時、一人の少女が通りかかった」
大きな瞳が印象的な愛らしい少女。
裾が擦り切れた古びた着物を着ていて、砕けた地蔵を見ると血相を変えて、駆け寄った。
『お地蔵様、大丈夫? 痛かったよね?』
少女は小さな手で欠片を懸命に掻き集め、地蔵を元に戻そうとしていた。
大粒の涙を流しながら、必死に地蔵へ励ますように語りかけ続けている。
「――何と澄んだ心の持ち主だと思っていたら、いつの間にか力が戻り、壊された地蔵から俺は魂を離脱させることに成功していた」
紗子には壊された地蔵に覚えがあった。
病床に伏せっていた母。
紗子は父を知らぬまま、幼少期より母と2人で生活していた。
母を診てくれていた医師から「そろそろ、すずちゃんも心の準備をしておいてね」と、告げられた日。
あの時の全てが真っ暗に変わったような絶望感は思い出しても胸が千切れそうになる。
当時まだ7つだった紗子は何かに縋りたくて、一縷の望みにかけたくて、道端にお地蔵様があることを思い出し、家から飛び出したのだった。
ところが、そこにあった地蔵は壊されていた。
「もしかして、あのお地蔵様の中に凌雅様が……?」
「そう。俺の魂が入っていた」
「まさか……」
紗子にとっては思いもよらぬことだった。
目の前にいる世にも麗しき天上界の皇太子殿下――凌雅の魂が、壊された地蔵の中に入っていたとは。
「自分の望みよりも、砕かれた地蔵を放っておけず、懸命に直そうとしていた純真で清らかな心を持つ少女に俺は魅了されていた」
凌雅の落ち着いた声が紗子の心へと沁み渡っていく。
「紗子が見過ごしていたら、きっと俺はあのまま下界で死んでいた。あの後、天上界に戻ることは出来たが、勝手に下界へ降りていたことが露呈し、こっ酷く父上から咎められた」
凌雅の父上とは天上界の現当主であり、天帝様だろう。
「俺の立場が立場だから、徹底的に諸々詰め込まれ、自由に動けるまでに随分、時間がかかった。それでも、あの時の少女の名前程度なら調べられた」
――日下部紗子。
凌雅より3つ年下で、あの後すぐに母を亡くし、祖母に引き取られていた。
「あの日から俺の花嫁は紗子しか考えられなかった」
凌雅の双眸が真っ直ぐに紗子を捉える。
紗子は何も言葉に出来なかった。
ただただ胸の裡が震えている。
「成年の儀を終え、正式に下界へ降り立つ許可が出た時、真っ先に紗子へ会いに行くと決めていた」
講堂で凌雅から求婚された時は、なぜ自分なのか理由がわからなかった。
「凌雅様は10年もの長い間、私を……?」
「ああ。だが、今のほうが紗子に惚れている。お前は余りにも全てが美しい」
「そんなことは……」
「どこまで俺を夢中にさせる気だ。そろそろ振り向いてくれ」
凌雅の瞳に憂いが滲んで、紗子の胸を痛いほどに締めつける。
(こんなにも凌雅様は私を想ってくれているなんて……)
「悪かった。紗子を急かす気はない」
「……いえ」
初めは天上界の皇太子殿下である凌雅が紗子へ向けてくれる好意をどこか現実離れしたもののように感じられていた。
凌雅と接していくうちに紗子への気持ちは疑いようのない深いものだと伝わってきて。
その気持ちに応えたい。
凌雅のことをもっと知りたい。
でも、きちんと紗子も自分の想いを言葉に変換して凌雅に届けられるのか、まだ判断がつけられなかった。
***
(また週末は凌雅様に会えるのかな……)
最近の紗子は学校での授業がとても長いものに感じられていた。
紗子の本分は天華女学院での生活だ。
学業も祓いの練習も疎かにしていない。
しかし、どうしても、凌雅のことが何時たりとも頭から離れてくれなかった。
(凌雅様は今頃、何をしていらっしゃるのかしら?)
登校後、自分の席で自学していた紗子は凌雅を想うと自然に口許が綻んでいた。
「何だか、すーちゃん。楽しそうね」
「あ、おはよう。寧々ちゃん」
寧々が自席を挟んで、目の前に立つ。
「ねえ、すーちゃん。凌雅殿下とはお会いしているの?」
寧々が質問すると、そこかしこでお喋りに興じていた生徒たちの会話がぴたりと止む。
皆が興味津々で紗子の回答を知りたがっている感じだった。
(寧々ちゃんは凌雅様のことを聞いてこなかったのに……)
「あ、うん……。何度か……」
「へえ。そうなんだー」
寧々は屈託のない笑顔だった。
まるで同級の皆に、わざと聞かせているような唐突な質問。
(気のせい……だよね……)
「どうせザコのことだから、遊ばれているんじゃない?」
「だよね。あんなザコが天上人に……ましてや天上界の皇太子殿下に選ばれるわけないもの」
麗菜の取り巻きたちが紗子に聞こえるような声で言い放つ。
「まあ、皆さん、いくら本当のこととは言え、お口が過ぎますわよ。ザコさんにも夢くらい見せてあげてもいいでしょう。どうせ、殿下もすぐにお飽きになられますわ」
「ああ。全財産を賭博につぎ込み、無一文になって自暴自棄と化した人間の男に俺が入り込んだ地蔵を壊されてしまった」
「えっ……」
「その拍子に力が乱れて、俺は地蔵から魂を抜け出せなくなっていた」
紗子の記憶の片隅が疼き出す。
「ここで俺は死ぬのだと覚悟を決めた時、一人の少女が通りかかった」
大きな瞳が印象的な愛らしい少女。
裾が擦り切れた古びた着物を着ていて、砕けた地蔵を見ると血相を変えて、駆け寄った。
『お地蔵様、大丈夫? 痛かったよね?』
少女は小さな手で欠片を懸命に掻き集め、地蔵を元に戻そうとしていた。
大粒の涙を流しながら、必死に地蔵へ励ますように語りかけ続けている。
「――何と澄んだ心の持ち主だと思っていたら、いつの間にか力が戻り、壊された地蔵から俺は魂を離脱させることに成功していた」
紗子には壊された地蔵に覚えがあった。
病床に伏せっていた母。
紗子は父を知らぬまま、幼少期より母と2人で生活していた。
母を診てくれていた医師から「そろそろ、すずちゃんも心の準備をしておいてね」と、告げられた日。
あの時の全てが真っ暗に変わったような絶望感は思い出しても胸が千切れそうになる。
当時まだ7つだった紗子は何かに縋りたくて、一縷の望みにかけたくて、道端にお地蔵様があることを思い出し、家から飛び出したのだった。
ところが、そこにあった地蔵は壊されていた。
「もしかして、あのお地蔵様の中に凌雅様が……?」
「そう。俺の魂が入っていた」
「まさか……」
紗子にとっては思いもよらぬことだった。
目の前にいる世にも麗しき天上界の皇太子殿下――凌雅の魂が、壊された地蔵の中に入っていたとは。
「自分の望みよりも、砕かれた地蔵を放っておけず、懸命に直そうとしていた純真で清らかな心を持つ少女に俺は魅了されていた」
凌雅の落ち着いた声が紗子の心へと沁み渡っていく。
「紗子が見過ごしていたら、きっと俺はあのまま下界で死んでいた。あの後、天上界に戻ることは出来たが、勝手に下界へ降りていたことが露呈し、こっ酷く父上から咎められた」
凌雅の父上とは天上界の現当主であり、天帝様だろう。
「俺の立場が立場だから、徹底的に諸々詰め込まれ、自由に動けるまでに随分、時間がかかった。それでも、あの時の少女の名前程度なら調べられた」
――日下部紗子。
凌雅より3つ年下で、あの後すぐに母を亡くし、祖母に引き取られていた。
「あの日から俺の花嫁は紗子しか考えられなかった」
凌雅の双眸が真っ直ぐに紗子を捉える。
紗子は何も言葉に出来なかった。
ただただ胸の裡が震えている。
「成年の儀を終え、正式に下界へ降り立つ許可が出た時、真っ先に紗子へ会いに行くと決めていた」
講堂で凌雅から求婚された時は、なぜ自分なのか理由がわからなかった。
「凌雅様は10年もの長い間、私を……?」
「ああ。だが、今のほうが紗子に惚れている。お前は余りにも全てが美しい」
「そんなことは……」
「どこまで俺を夢中にさせる気だ。そろそろ振り向いてくれ」
凌雅の瞳に憂いが滲んで、紗子の胸を痛いほどに締めつける。
(こんなにも凌雅様は私を想ってくれているなんて……)
「悪かった。紗子を急かす気はない」
「……いえ」
初めは天上界の皇太子殿下である凌雅が紗子へ向けてくれる好意をどこか現実離れしたもののように感じられていた。
凌雅と接していくうちに紗子への気持ちは疑いようのない深いものだと伝わってきて。
その気持ちに応えたい。
凌雅のことをもっと知りたい。
でも、きちんと紗子も自分の想いを言葉に変換して凌雅に届けられるのか、まだ判断がつけられなかった。
***
(また週末は凌雅様に会えるのかな……)
最近の紗子は学校での授業がとても長いものに感じられていた。
紗子の本分は天華女学院での生活だ。
学業も祓いの練習も疎かにしていない。
しかし、どうしても、凌雅のことが何時たりとも頭から離れてくれなかった。
(凌雅様は今頃、何をしていらっしゃるのかしら?)
登校後、自分の席で自学していた紗子は凌雅を想うと自然に口許が綻んでいた。
「何だか、すーちゃん。楽しそうね」
「あ、おはよう。寧々ちゃん」
寧々が自席を挟んで、目の前に立つ。
「ねえ、すーちゃん。凌雅殿下とはお会いしているの?」
寧々が質問すると、そこかしこでお喋りに興じていた生徒たちの会話がぴたりと止む。
皆が興味津々で紗子の回答を知りたがっている感じだった。
(寧々ちゃんは凌雅様のことを聞いてこなかったのに……)
「あ、うん……。何度か……」
「へえ。そうなんだー」
寧々は屈託のない笑顔だった。
まるで同級の皆に、わざと聞かせているような唐突な質問。
(気のせい……だよね……)
「どうせザコのことだから、遊ばれているんじゃない?」
「だよね。あんなザコが天上人に……ましてや天上界の皇太子殿下に選ばれるわけないもの」
麗菜の取り巻きたちが紗子に聞こえるような声で言い放つ。
「まあ、皆さん、いくら本当のこととは言え、お口が過ぎますわよ。ザコさんにも夢くらい見せてあげてもいいでしょう。どうせ、殿下もすぐにお飽きになられますわ」



