選んだあとも、選ばれなかったあとも。

「じゃあ、さくくんがおっきくなったら、わたしのおむこさん?」
「うん」
「じゃあわたし、およめさんだ」
「うん」
「けっこんする?」
「する」
「ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ、やくそくだね」
 その言葉に何か答えようとしたところで、目覚ましが鳴った。
* * *
「……なんなんだよ」
 布団の中で天井を見上げたまま、金井朔は呟いた。枕元の時計は六時四十分で、起きるにはちょうどいい時間なのに、ひどく寝覚めが悪い。原因は分かっている。夢だ。

 最近、幼いころの森野ひかりが決まって夢に出てくる。毎日ではなく、週に一度か二度。一緒に自転車に乗ったり、庭で水遊びをしたり、同じアニメを見たり、近所の大きな公園を走り回ったりする他愛のない景色の中で、ひかりは決まって「けっこん」と口にする。夢の中の自分は幼稚園児くらいで、二つ上のひかりはもう小学生だ。一緒に小学校へ通う夢は見ない。見ようがないのだ。ひかりは朔が小学校に上がる前に、父親の仕事の都合でフランスへ渡ってしまったのだから。

 フランス行きを聞かされた六年前、ひどく泣いたことだけは覚えている。仲のいい誰かがいなくなるのが、たぶん初めてだったからだ。あれが初恋だったのかどうかは、今となっては分からない。分からないのに、ここ最近、同じような夢を繰り返し見る。
「……来月か」
 誰にともなく口に出してみる。

 ひかりの父親の海外赴任が終わると聞いたのは二か月ほど前だった。最初から六年の予定だったのだから、突然決まった話ではない。
 本人と最後に喋ったのは、いつだっただろう。体を起こしながら考える。
 渡仏して一年目は、何度か話した。母親同士が電話しているところへ「朔くんいる?」と呼ばれて、画面の向こうにひかりが出てきた。二年目も、たぶんあった。三年目は――覚えていない。
 
手紙は来ていた。最初のころは本当に手紙で、フランス語がまったく分からないとか、学校でこんな子と友達になったとか、スーパーに変な味のお菓子があったとか、便箋に細かい字でびっしり書いてあって、絵までついていた。朔も返事を書いた。学校で育てている朝顔のこと、運動会のこと、双子の妹の望と喧嘩したこと。けれど手紙はだんだん短くなり、便箋はカードになって、カードの文章も短くなった。
 去年のクリスマスに来たのは、たしか――。
 机の引き出しを開けて、エッフェル塔の写真に赤と緑の縁取りがついた一枚を引っぱり出し、裏返す。

Merry Christmas!
元気?
私は元気です。
またね。
ひかり

「……短っ」
 声に出してから、引き出しを閉めた。もっとも、人のことは言えない。自分が送った年賀状だって、「あけましておめでとう」の先を書いた記憶がない。何を書けばいいのか分からなかったのだ。ただ、話すことがなくなった。そういうものなのだと思っていた。
 それが、来月帰ってくると聞いた途端にこれである。
「なんで出てくんだよ」
* * *
「朔、また寝坊!」
 階段を下りると、先に朝食を食べていた双子の妹、望がいつものように毒づいた。
「まだ間に合うだろ」
「髪、はねてる。鏡見たの?」
「見た」
「じゃあ鏡が悪いんだね」
 パンをかじりながら自分の右の側頭部を指さす望と朔のやりとりを、二つ上の姉の澪がトーストを片手に笑って眺めている。
「二人とも朝から元気だねえ」
『澪姉は関係ない!』
 図らずも声が揃った。
「そういうところは息ぴったりなのにね」
『違うし!』
 また重なって、今度は母の志保まで笑った。ほら、食べちゃいなさい、今日委員会あるんでしょう、と言われて朔が席につくと、父の孝之が新聞から目だけを上げた。
「森野さんとこの帰国便、決まったらしいぞ」
 朔の手が止まった。
「……ふうん」
 ほんの一瞬の間を、志保が埋める。
「二十八日だってね。俊明さんは会社の手続き次第で遅れるかもしれないけど、由佳はその日に帰るって」
「ひかりちゃんも?」
 そう朔が口にすると、家族で帰ってくるんだからひかりちゃんも帰ってくるでしょう、と志保が言い、望も何言ってんの、と乗ってくる。そりゃそうでしょ、と呆れ顔だった澪だが、急ににやりとして朔を見る。
「結ちゃんもいるんだよ。あんたは覚えてないかもしれないけどさ」

 森野結。ひかりの妹で、六年前は二歳だった。記憶にあるのは、よく分からない小さいものが森野家のリビングを歩き回っていたことくらいだ。
「……覚えてるよ。なんかちっちゃい子」
 あらあら結ちゃんが可哀想、と言って笑う志保の横で、澪がしみじみと言った。
「ひかりももうすぐ十四かあ」
 澪とひかりは同い年だった。十四、という数字を姉の口から聞くと、妙な感じがした。夢の中では七歳か八歳ぐらいだったのに。

「ひかり、すっごい変わったよ。綺麗になってる。正直、ちょっと妬けるくらいに」
 孝之が「……澪も望も負けてないぞ」と小声で親馬鹿を見せたが、二人とも聞こえないふりをした。ふと気づくと、望がこちらを見ていた。何、と聞くと、別に、と言ってスープを飲む。
「何だよ、その顔」
「生まれつきだけど」
「あなたたち、そろそろ出ないと遅れるわよ」
 志保が笑いながら、二人を追い立てた。
* * *
 結局、朔はその日、澪と望から少し遅れて家を出た。小山田学園へ向かう坂は、朝から賑やかだった。初等部の子供たちに、中等部と高等部の生徒。制服が少しずつ違う。それに私服の大学生の姿もちらほらある。
 初等部六年生の朔は、あと二月足らずで卒業し、そのまま中等部へ進む。この坂を上ること自体は変わらない。校舎が少し遠くなるだけだ。
 そして、その前にひかりが帰ってくる。十四歳なら、春から中等部の三年生に戻ってくるのだろう。同じ学校で、昔みたいに――。
 夢の続きがふっと浮かんで、朔はそれを振り払った。

「朔!」
 後ろから声がした。同じクラスの成瀬千夏が小走りで追いついてきた。
「おはよ。今日プリント出す日だけど」
「知ってる」
「ほんとに? 忘れてそうな顔してる。忘れて先生に怒られても知らないからね」
「千夏は俺の母親かよ」
「母親だったら、もう鞄の中まで見てる」
 千夏とは一年生からずっと同じクラスだ。こんなやりとりは、もう数えきれないほどしている。坂を上りきって校舎が見えてきたところで、千夏が思い出したように言った。
「森野さんって人、帰ってくるんだって?」
 朔は少しだけ足を緩めた。
「……誰から聞いた?」
「望。来月なんでしょ?」
「うん。二十八日、今朝母さんが言ってた」
 千夏は少し考えてから聞いた。
「楽しみ?」
 夢の中のひかりが浮かんだ。およめさんとか、けっこんとか、そんなことを言っていた女の子。
「……知らね」
 千夏はそれ以上何も聞かず、朔の横を歩いた。