鈴蘭後宮譚

 神事の舞が図解されている書物を最終確認として眺めていた蓮華の手が止まる。
 注釈に暗号が仕込まれていると気づいたのだ。
 この注釈の一部は、前回や前々回に贄巫女を務めた者も書き込んでいるとは聞いていた。
 しかし蓮華はこれまで舞の所作を頭に叩き込むのに必死で、前回誰が贄巫女を務めたのかとか注釈を誰が描いたのかとかを気に留める余裕がなかった。
(この書き方は……!)
 よく見れば、故郷の村で使っている暗号が書かれている。
 文字の端々にほんの少し装飾をつける方法で、知らない人が見ても癖のある字としか思わない代物だ。
(ええっと……【き】、【け】、【ん】……?)
 どういうことだろうか——蓮華の頭の中でなにかが警鐘を鳴らす。
 蓮華は書物の最初の頁へと戻り、もう一度注意深く注釈を確認した。
(あった。 【に】、【げ】……【ろ】……!?)
 墨の濃さがちがうから、おそらく【危険】と書いた人物と【逃げろ】と書いた人物は別人だ。
 故郷の暗号を使ってこれを書いたのは誰なのか——。
「どうしたんだい?」
 蓮華は弾かれたように顔を上げた。
 徐尚儀の双眸がじっとこちらをとらえている。
「つかぬことを伺いますが、五年前の贄巫女はどなただったのでしょうか?」
 声が震えないよう努めながら蓮華は静かに問うた。
 すると徐尚儀は喉をゴロゴロ鳴らして笑った。
「やっぱりその書に、なにか暗号でも書かれていたってことね。もうあの村から贄巫女を連れてくるのは、おしまいにしなきゃねえ」
 試されていたのだろうか。暗号を見つけたとしても、もっと平静を装わねばならなかったのに。
(どうやらまんまと罠にはまってしまったのだわ)
「わたしの質問にお答えください」
「すでにわかっているんだろう? たしか、悠悠って名前だったかしらね」
 蓮華の背中がゾクリと震えた。
「悠悠ねえさまは、いまどちらに……?」
 徐尚儀は、わかっているくせにといわんばかりにニタリと笑う。
「もちろん白蛇様の生贄として喰われたのさ。ずっと従順に稽古していたはずなのに、当日の朝になって突然辞めたいと言い出してねえ。なだめるのに苦労したわ」
 蓮華の嫌な予感が当たっているのなら、もうひとりは小菊だろう。
 そしてふたりとも、白蛇様の生贄として実際に命を落としたにちがいない。
 ようやくわかった。遠くの村から五年おきに後宮内の仕事と嘘を吹き込んでここへ連れてきた女性を生贄として捧げる、おぞましい儀式が行われているのだと。
 後宮は秘匿事項が多いため、便りが途絶えても家族はあきらめる。まして村は首都から遠く離れた田舎だ。
「あなたたちの村は、気力、体力、忠誠心のある優秀な生贄を育ててくれるから重宝していたっていうのに」
 徐尚儀は悪びれもせずにニタニタ笑う。
 つまり蓮華の村は、都合のいい生贄の養殖地としか思われていなかったのだろう。
(ひどいわ……!)
 蓮華は書物を胸に抱えて、じりっと後ろへ下がった。
「おやおや、蒼月様の顔に泥を塗る気なのかい?」
 ハッとして動きを止める蓮華に向かって、徐尚儀は猫なで声で続ける。
「好いた男のために死ねるんだ、本望じゃないか」
 即位して初めての神事で贄巫女役が逃げ出したとなれば、蒼月の立場がなくなるだろう。
 それだけで済めばまだましだ。
「白蛇様を怒らせたらどうなるのですか?」
 蓮華は震え声で問うた。
「大変な災害が起こる。花も作物も枯れ、雨も降らずに干からびて大勢の民が死に絶えるだろうねえ」
 皇帝の神事がうまくいかずに白蛇を怒らせたと噂されたら、蒼月は無事ではいられなくなる。
 蒼月だけの問題ではない。国の危機だ。
「だから悠悠ねえさまも小菊ねえさまも、受け入れるしかなかったのですね」
 それでも書物に暗号を残さずにはいられなかったのだろう。
「わかったんなら、おとなしくすることさ」
「……白蛇様は強い女性がお好きなのですか?」
 徐尚儀がフンッと鼻を鳴らす。
「何度も言っているだろう。気力、体力、忠誠心が高くなければ神気は養われない。占術で最も生贄に適した娘を占って、その数値が一番高かったのがあんたってことさ」
 なるほどと頷いて、蓮華は瞑目した。
 頭上の数字は単なる強さの指数ではなかったのだ。白蛇様への生贄としてふさわしければふさわしいほど数値が高くなるのだろう。
 だから、限界到達している蓮華ほどの適任者はいない。一方で、皇帝が生贄になることなどないのだから、蒼月は常に【零】だったわけだ。
「蒼月様はご存知だったのですか?」
「知らないはずないじゃないか。あんたを村から呼びたいと言ったのも陛下だ。なかなかの目利きだよ」
 徐尚儀の楽しそうな声を聴いた蓮華は、一瞬さらにギュッと目を瞑ってから静かに息を吐いて瞼を開けた。
「承知しました。わたしは逃げも隠れもしません。明日、立派に神事を成功させてみせましょう」
「いい度胸だ。嫌いじゃないだけに惜しいね」
 徐尚儀のどこまでも他人事のような態度に嫌悪感が募る。
 しかし、こうなればもう仕方ない。蒼月のため、国のためにこの命を差し出すしかない。
 蓮華の脳裏に蒼月の笑顔が浮かび、途端に痛みだす胸をそっと押さえたのだった。