鈴蘭後宮譚

 夜、燈香が下がったとほぼ同時に蒼月が鈴蘭宮を訪れた。
「蓮華、会いたかった」
 蒼月に甘く微笑まれて名を呼ばれると、蓮華は途端に目を合わせるのも恥ずかしくなる。
 胸元をあまり開けないでほしいとあらかじめお願いしたのだが、燈香に聞き入れてもらえなかった。今夜もまた胸のふくらみを強調するような着付けが、蓮華の気恥ずかしさに拍車をかける。
「お待ちしておりました」
 言葉とは裏腹に長い睫毛を伏せてうつむく蓮華の腕を、蒼月が優しく引いた。
「困ったな。恥じらう蓮華が可愛すぎる」
 焚きしめられた白檀の上品な香りがして、ようやく蓮華は蒼月の広くて逞しい胸に抱かれているのだと気づいた。
 どうしていいかわからず目を瞬く蓮華の様子に、蒼月は頬を緩めっぱなしだ。
「たくさんの贈り物をありがとうございました」
 いま蓮華が纏っている浅葱色の襦裙も、今日もらったものだった。
「そういえば」
 なにかを思い出したかのように蒼月が体を離し、袖から小箱を取り出した。
「これだけは直接蓮華に渡したくて持参した」
 受け取った蓮華が箱を開ける。中には髪飾りが入っていた。
 簪(かんざし)の飾りが垂れていて揺れるように細工されている歩揺(ほよう)だ。
 白く揺れている花は鈴蘭を象ったものだろう。
 箱から持ち上げると、白い花がシャラシャラ揺れる。
「素敵……! ありがとうございます」
 蓮華が目を輝かせた。
 さっそく手鏡を見ながら歩揺を髪に差し振り返った。
「いかがですか?」
「とてもよく似合っている」
 ふたりで微笑み合う。
 しかしここで、蒼月の肩越しに見えた人の気配に蓮華の顔からスッと笑みが消えた。
 それに気づかず腕を伸ばそうとする蒼月へ向かって無言で人差し指を立て、次に紗窓を指さす。
(窓のすぐ下に誰かいる……)
 窓に背を向けている蒼月も真顔になり目配せで頷いた。
「さあ、今宵も白酒を用意いたしました」
 蓮華はなにも気づかぬふりをして明るい声を出す。
「そうか、楽しみだ」
 蒼月の声は少々硬いが、窓の外にいる者はそこまでの機微はわからないだろう。
「温めなくてよろしいですか?」
「そのままでかまわない」
 蓮華は酒を用意しているような会話を続けながら、足音を立てずに窓へ近寄る。
 蒼月も懐に手を入れて静かに窓の横へ立った。
 ふたりで目配せし、呼吸の合ったタイミングで蓮華が窓を開け放つ。
 次の瞬間、窓辺にしゃがんでいた不審者の首へ蒼月が小刀の切っ先を突き付けた。
「ひっ!!」
 闇夜に紛れやすいようにか黒装束を着ているが、手練れの刺客には見えない。
 どう見てもただの女官だ。いきなり刀を向けられてガタガタ震えている。
「牡丹宮におまえとよく似た顔の女官がいたと記憶しているが?」
 蒼月の目と声は真冬の吹雪を思わせるほど冷え切っている。
 腰を抜かした彼女は、肯定も否定もしないまま震えつづける。
「誰かいるか」
 蒼月が大きな声で呼ぶと、暗闇から複数の武官が出てきた。後宮内であるため全員女性だ。
「賊が紛れ込んだようだ。連れていけ」
 武官たちは無言で頷き、彼女を引きずっていった。
 小刀を懐にしまった蒼月が小さく息を吐く。
「盗み聞きでもするつもりだったのだろう。蓮華はよく気配に気づいたな」
「見えたのです……影が少し」
 本当は影ではない。数字が見えた。
 数字が見えるようになって便利になったのは、しっかり隠れていても頭上の数字だけは浮かび上がっているためわかることだ。
 二百台の弱い数値から察して刺客ではないだろうと予想していたが、まさか牡丹宮の女官とは……。
「そうか、助かった」
「こういうことは、よくあるのですか?」
 警備体制は大丈夫なのかと疑いたくなる。
「これまで、なかったわけではないとだけ」
 蓮華は蒼月の頭上に浮かぶ【零】を見やった。
「毎晩わたしのもとへ通われるのなら、必ずや陛下をお守りしてみせましょう」
 蒼月がククッと笑う。
「口説かれていると思っていいか?」
「い、いえ! そういう意味ではなく……でも、そう受け取っていただいても……」
 顔を火照らせてもごもご言う蓮華を蒼月がふわりと抱きしめる。
「今宵は仕事ができてしまったから、また明日楽しみにしておく」
 蒼月は、鈴蘭の歩揺をつけた蓮華の髪を撫でて宮を後にした。

 翌朝、武官のひとりが昨夜の一件の説明をしに蓮華のもとを訪れた。
「彼女は牡丹宮の女官でした。どんな会話を交わしているのか知りたかったそうです」
 やはり蒼月の言った通りだった。
「なぜそんなことを?」
 誰の指示なのか。牡丹宮の妃、祥明の指示だと考えるのが自然ではある。
 しかしその女官は、自分ひとりで思いつき実行したと主張しているらしい。
「警護にあたっていた者は『お渡りの準備を手伝うために来た』と言われて通したそうです。申し訳ございません、我々の落ち度です」
 そのまま宮から出てこずとも、中で待機しているのだろうと思ってもおかしくはない。
 しかも警護の武官たちは、おそらく気を利かせて宮の外側で待機していたのだ。
 女官の処分や今後の警備体制をどうするかは、蒼月と武官たちに任せればいい。
「ところであなたは、武官の経験が長いの?」
 年齢は三十代だろうか。数字は【七壱参】だから、蓮華には及ばないもののそれなりに強い。
「ご安心ください。私は先代様の頃から後宮で十年以上武官をしておりますゆえ、今後は同じ失態を犯さぬよう心掛けてまいります」
 咎められたと受け取ったのか、武官はさらに首を垂れた。
 しかし蓮華の質問の意図はそれではない。
「ここの武官に、小菊か悠悠という名前の者はいなかったかしら」
「小菊と悠悠……? 記憶にございません」
 嘘をついている素振りはないから、本当に知らないのだろう。
 武官が去った後、蓮華はずっと考えを巡らせていた。
 小菊と悠悠のふたりは、後宮に到着したと報告する内容の手紙を実際に村へ送っているのだ。
 強さだってそれなりだった。先ほどの彼女と比較しても、遜色ないほどの数値だったと記憶している。
(てっきり武官として活躍しているのだと思っていたのに……)
 女官でも武官でもないとしたら、彼女たちは後宮でどんな仕事を与えられたのだろうか。

 蓮華は筆をとり、手紙をしたためた。
 無事に到着したが武官ではなく妃になったこと、元気に過ごしていること、ふたりとはまだ会えていないが捜しあてたら必ず預かった手紙を渡すと書いた。
 一気に書き上げて窓の外を見る。
 きれいな青空が広がっているのに、蓮華の気持ちは晴れない。
 ふたりの消息がわからない不安だけではない。蒼月の数値がどう考えても不気味だった。
 昨夜の彼の素早い動きを見れば、彼が【零】のままであるのはおかしい。
「わたしはなにか、大きな勘違いをしているのかもしれない」
 蓮華の胸に、底知れぬ不安がひたひたと迫っていた。