鈴蘭後宮譚

「蓮華様、おはようございます。昨夜のお渡りはいかがでしたか?」
 蒼月との再会の翌朝、燈香は目をキラキラ輝かせて蓮華を起こした。
 いつもなら夜明けとともに目を覚まして朝の鍛錬に励むのが日課だが、深夜まで蒼月と話していたため寝不足で頭がぼうっとする。
「蒼月様が遅くまでいらしたから、寝不足だわ」
 重い体を起こして燈香を見やると、真っ赤に染まった頬に両手を当てている。
「まあっ、素敵です!」
「あ、ええっと、そうじゃなくてね——」
「いえいえ、大丈夫です! さすがにこれ以上は下世話になってしまいますのでっ!」
 燈香がふるふると首を横に振る。
 夜に皇帝が妃の宮へお渡りし、深夜までふたりきりで過ごしたとなれば、勘違いされても仕方ない。
 昨夜の蓮華は、蒼月から話を聞くまでそれがお渡りだとすら気づいていなかったのだが。
 女官長や宦官長と話が噛み合わなかった理由もわかった。
 この宮が後宮警護の武人たちの宿舎だと思い込み、なぜ誰もいないのだろうと思っていたのは、もはや笑うしかない。
 察しの悪い己も腹立たしいが、どうしてみんなもっとハッキリ言ってくれなかったのか。
 蓮華は遅い朝餉を食べ終えると、燈香に後宮内を案内してもらった。
「あちらが牡丹宮で、そのお隣が芍薬宮です」
 鈴蘭宮よりも大きくて立派だ。
 それぞれの宮の周りには大輪の花が咲き誇っている。
 きっと位の高い妃が暮らしているのだと、平民出身の蓮華にもピンときた。
「お妃様はほかに何人いるの?」
「蓮華様を合わせて五人です」
 つまり自分は第五妃というわけか——蒼月がほかの妃の宮にもお渡りしているのだと想像するだけで、途端に蓮華の胸の内に影が差す。
「ご安心ください。いろいろなしがらみがあって仕方なく招いたお妃様たちです。陛下の本命は蓮華様ですよ!」
 あからさまにシュンとなった蓮華を励まそうとしたのか、燈香はひときわ大きな声を出した。
「仕方なくだなんて、ずいぶん失礼な言い草だこと」
 背後から険のある声がしてふたりは振り返った。
 妃嬪と思われる女性と女官が立っている。
「陛下に対しても失礼ではありませんか」
 女官が憤慨した様子で小鼻を膨らませている。
「盗み聞きとは行儀の悪い」
 燈香がしれっと言い返し、女官の横に立つ妃に向き直る。
「祥明(ショウメイ)様、お健やかでいらっしゃいますように。いまちょうど蓮華様に牡丹宮を紹介しておりました」
 挨拶を兼ねて燈香が相手の素性を教えてくれた。
 目の前に立つのは、牡丹宮で暮らす第一妃の祥明なのだろう。
 いつもの癖で抱拳礼をしそうになった蓮華は、慌てて両手を重ねて腰に当て膝を折る万福礼をとった。
「祥明様、お初にお目にかかります。鈴蘭宮の柳蓮華(リュウレンカ)でございます」
 扇子で口元を隠した祥明の表情はよくわからないが、きゅっと吊り上がった目は冷ややかさをたたえている。
 しばし蓮華を見つめた後、祥明はなにも言わずに行ってしまった。
 燈香はその後ろ姿を眺めながら肩をすくめる。
「我々女官たちにとってなにより名誉なのは、お仕えするお妃様が皇帝陛下の寵愛を受けることなのです」
 その言い方だとまるで、第一妃よりも蓮華が蒼月から愛されているのではないかと勘違いしてしまいそうになる。
「燈香がずっと誇れるような妃になりたいわね」
「ご安心ください。本日もお渡りがあるとすでに伝達をもらっているのです。昨日の今日で現金ではありますが、誠心誠意お仕えいたします」
 ふんすと胸を張る燈香の様子に、蓮華はクスリと笑った。
 武人の格好で入内した奇妙な妃に仕えよと命じられた昨日の彼女の胸中を慮れば、この状況は痛快な大逆転なのだろう。
 期待に応えられたらなによりだと蓮華も思う。しかしそれは、蒼月の心に委ねられているのだとも。
 昨夜の様子から察するに、彼も蓮華との再会を喜んでくれたように見えた。
(今夜もまたいらっしゃるのね)
 トクンと胸が高鳴る。
 はにかむような微笑を浮かべる蓮華を祝福するように、後宮内の花々が風に揺れていた。

「ほかにご覧になりたい場所はございますか?」
 後宮はひとつの町のように広い。
 今日はほかの妃たちの宮を見て回るだけで終わることにした。
「後宮内の警護をしている武人たちの仲に、小菊(コギク)と悠悠(ユウユウ)という名前の者はいないかしら」
 十年前と五年前に村から派遣された娘たちだ。
 蓮華もふたりの顔をよく覚えている。
 最初のうちは故郷の両親のもとに便りが届いていたようだが、すぐに途絶えてしまったという。
 村から便りを送っても、なしのつぶてだとか。
 後宮に足を踏み入れた者は二度と外には出られないけれど、手紙のやり取りぐらいは許されるはずだ。きっとなにか事情があるのだろう。
 そこで今回、蓮華が家族からの手紙を預かってきたというわけだ。
 事情があるのなら、それを聞き出して自分が必ず手紙をしたためると約束もしてきた。
 しかし、燈香は首を傾げる。
「わたくしがここへ来てから二年経ちますが、どちらも存じません」
「そうよね。ここには大勢の人がいるものね」
 女官と武人だと担う役割もまったくちがうから、接点がなくても仕方ない。
(武術衣を着た者を見かけた時に聞いてみればいいわ)

 この日の昼下がり、蓮華は中庭で鈴蘭を眺めながら鍛錬に励んでいた。
 そこへ、燈香と数名の女官が荷物をたくさん抱えてやってくる。
「どうしたの?」
 蓮華は、前方へ踏み込んだ突きの体勢のままぎょっとした。
「鈴蘭宮を暮らしやすいようにせよとの陛下の命で、蓮華様のお衣装と装飾品や調度品を持ってまいりました」
 手伝おうとした蓮華に燈香が首を振る。
「手の空いている女官に手伝わせるので大丈夫です。蓮華様は今宵のお渡りまでどうぞごゆるりとお過ごしください」
 誇らしげに『お渡り』を強調する燈香を、ほかの若い女官たちがうらやましそうに見ている。
 主の寵愛がなによりの誉だと、今朝言っていたのは本当だったのだろう。
 ところが、この華やいだ雰囲気に水を差すような声が響いた。
「なにをしているのです!」
 皆で一斉に入り口を振り返ると、女官長が眉を吊り上げた怖い顔で立っていた。
「鈴蘭宮の手伝いをしなさいと言った覚えはありません」
 蓮華はどうもこの女官長が苦手だ。
 しかし燈香は涼しげな顔で言い返した。
「皇帝陛下から直々に頼まれた仕事です」
 女官長はさらに顔を真っ赤に染める。
 その怒りの矛先が今度は蓮華の方へ向いた。
「今朝、祥明様をひどく侮辱する態度だったと耳にしました。浮かれるのもほどほどになさいませ」
 散歩中に偶然顔を合わせたから挨拶をした。それだけだったはずなのだが。
 それとも燈香が『仕方なく招いた妃たち』と言ったことを指しているのか。
「皆が噂していますよ。鈴蘭宮に来た武人気取りの妃が浮かれていると」
「ずいぶんと噂に尾ひれがついてしまったようですね」
 女官長にキッと睨みつけられても、蓮華はちっとも怖くなかった。山でマムシと睨み合いをするほうがよほど怖い。
 噂を鵜呑みにするのはいかがなものかと目で問うと、女官長の顔には怒りとは別の色が浮かぶ。
 これで手打ちでいいだろう。ただ、巻き込んでしまった若い女官たちには申し訳なさが募る。
「燈香を手伝ってくれてありがとう。持ち場に戻ってちょうだい」
 女官たちは女官長に連れられて宮を後にする。
 後で燈香に菓子でも持たせて彼女たちに渡してもらおうと思いながら蓮華はその背中を見送った。
「女官長様は祥明様の遠縁の親戚なのです。だから蓮華様が陛下の寵愛を受けているのがおもしろくないのでしょうね」
「寵愛と言えるほどでもないのに」
 ただ再会がうれしくて話が弾んでいるだけだ。昨夜は夫婦としての触れ合いはなかったし、おそらく今夜もないだろう。
 蓮華はそう思って苦笑したが、燈香は目を丸くする。
「蓮華様はご存知ないのです。陛下はこれまで、ほかの宮にこんなにも贈り物をされたことはありません」
「わたしが田舎の出身でなにも持ってこなかったからだわ」
 それでも、彼の心づかいがうれしいことには変わりない。
 今夜、蒼月が来たらしっかりお礼を言おうと蓮華は胸を弾ませた。