鈴蘭後宮譚

 牛車を降りた蓮華は、ゆっくりと後宮の門をくぐった。
 後宮は、皇帝陛下を除き生殖能力のある男性の立ち入りを許さない女の園だ。
 一度そこへ足を踏み入れれば親族との面会もままならず、亡骸になるまで外へ出られないといわれている。
 ここから先はもう二度と引き返せない一本道だが、蓮華にとって重圧はまったくない。
 むしろ蓮華は、やっとここまで来られたと安堵するかのように大きく深呼吸して笑みを浮かべた。
「ようこそ後宮へいらっしゃいました。柳蓮華様でまちがいございませんか?」
 宦官長と女官長が戸惑った様子で出迎えた。
「はい。柳蓮華でございます」
 蓮華は拳に手を当て抱拳礼をする。
「……その服装はどういうことです?」
 女官長は咎めるような声色だ。
 蓮華は己の武術衣を見下ろした。深紅の長袍の腰部分を黒い帯で締め、下は足さばきの良い黒い袴だ。
 この日のために用意した一張羅だったのだが、左肩にあしらった龍の刺繍が派手すぎただろうか。
「浮かれて調子に乗りすぎたようです。着任早々申し訳ございません。かくなる上は叩頭でお詫びを——」
「その必要はございません」
 跪こうとする蓮華を宦官長が慌てて止めた。
「さっそく宮へご案内いたします」
 女官長の刺すような視線を背中に感じながら、歩き出す宦官長の後ろをついていく。
「女官は連れていないのですね?」
 途中で宦官長がチラリと振り返った。
「はい、ひとりです」
 それが蓮華と父との約束だった。そもそも身の周りの世話ぐらいひとりでできるのだから不要だ。
『豪華な道具も装飾品も用意できん。それでもいいのだな?』
 なぜそんな念押しをされるのかよくわからぬまま、蓮華は無論だと答えた。
 蓮華の荷物は竹籠ひとつのみ。それで十分だった。
「では、女官をひとりつけましょう」
 たしかに右も左もわからぬ状況で活動するよりも、勝手のわかる者がひとりいてくれたほうがいいかもしれない。
 蓮華は神妙な面持ちで頷いた。
「お願いいたします」
 案内されたのは、こぢんまりとした宮だった。
「鈴蘭宮でございます」
 妃嬪の暮らす宮にはそれぞれ花の名がつけられているらしい。
 宮の周囲や中庭にも鈴蘭が植えられている。
「こちらが住居でしょうか」
 呆気にとられる蓮華に、宦官長が申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「左様でございます。もっと大きな宮を用意できればよかったのですが、いろいろとありまして……」
「とんでもないことでございます。わたしは田舎の武闘集団の出身ですので、こちらはもったいないほど立派な宮です。ありがとうございます」
 蓮華は慌てて首を横に振った。
 なんなら屋外で雑魚寝だってできる。雨風や寒さをしっかり凌げそうな建物をあてがってもらったことに驚いただけだ。
 宦官長がフッと表情を緩める。
「それは今夜陛下に直接言って差し上げてください。きっと喜ばれます」
 蓮華の両肩が跳ねた。
(今夜……蒼月様に会えるのね!?)
 急に火照ってきた頬に手を当てる蓮華の様子に宦官長が目を細めて一礼し、去っていった。
 小さな庭に植えられた鈴蘭の葉の間から蕾が顔を覗かせている。
 あと一カ月もすれば白い花を咲かせるだろう。
 宦官長はなにやら申し訳なさそうにしていたが、鈴蘭宮を選んでくれたのは蒼月本人にちがいない。
『また会おうね』
 十年前、手ずから摘んだ鈴蘭の花を蓮華に差し出した蒼月は、女の子のような可憐な顔立ちだった。
 あの時の鈴蘭を彼がいまでも覚えているのなら、こんなにうれしいことはない。
 蓮華は胸を震わせながら鈴蘭の蕾を眺めつづけたのだった。

 夕方、早めの夕餉を持って若い女官がやってきた。
「燈香(トウカ)と申します」
 蓮華よりも幼く見える。年齢は十五、六といったところだろうか。
「よろしくお願いします」
「蓮華様、わたしに敬語は不要でございます」
「わかったわ」
 卓子に皿を並べたり下げたりするきびきびした様子に好感が持てる。
 しっかりした子だと思いながら、蓮華はこの宮へ案内された時からずっと感じていた疑問を口にした。
「この宮のほかの方は、まだお仕事中なの?」
 蓮華は燈香が来るまでの数刻の間、ひとりでポツンと過ごしていた。
 といっても、鍛錬のために体を動かしてはいたのだが。
「女官はひとりと伺っておりますが?」
 燈香が首を傾げる。
「わたしの女官の話ではなくて、護衛任務についている武人たちはどこにいるのかと思って」
「武人……でございますか?」
 燈香はますます意味がわからないと言いたげに眉根を寄せる。
 どうにも話が噛み合わないのは蓮華も感じていた。
「それよりも急ぎましょう。今夜は皇帝陛下がこちらへいらっしゃるそうですよ。しっかり準備しましょうね!」
 なにやら燈香が張り切っている。
「準備なんて必要?」
 この日のためにあつらえた一張羅ならすでに着ている。これ以上、なにを準備するというのか。
 すると燈香が心底驚いた様子で目を見開いた。
「まさか、その格好で陛下を迎えるおつもりですか……?」
 ここでようやく蓮華は、しまったと思った。
 昼間に女官長にも怪訝な目を向けられたではないか。後宮には後宮の慣わしがあるのだろう。
「そうね、これではいけないわね」
「おっしゃる通りです。荷物を取ってきますね!」
 燈香がポンと両手を合わせて姿を消したと思ったら、荷物を抱えて戻ってきた。
 蓮華が持参した竹籠だけでなく、いくつも櫃がある。
「ご安心ください。宦官長様がお衣装をたくさん用意してくださいました」
 櫃からひらひらした薄紅色の襦裙が取り出されるのを見て、蓮華はぎょっとした。
「それを着るの?」
「好みと合わなくても本日は我慢してください」
 これ以上文句は聞かないとでもいわんばかりに、燈香は真剣な顔でてきぱき作業を進める。蓮華を着替えさせ、鏡台の前に座らせ髪を梳(す)いて結い上げ、薄化粧を施した。