後宮の『お妃選び』と黒猫の恩返し

 茜に染まる空の下で、大恩寺の鐘が鳴った。
 その鐘楼の陰で、少女は黒い子猫を膝に抱いて、傍らの少年にくったくのない笑みを向けた。
「この子、お腹すいてないかしら?」
「ぼくの夕餉をあげるから、大丈夫だ」
「和尚様に見つかったら、追い出されてしまうかしら?」
「ぼくの所でかくまおう。ぼくの宿坊には、誰も近づかないからね」
「六郎ちゃん、ありがとう。子猫ちゃん、よかったわね・・・」
 少女は猫の背を小さな手で撫でた。
 少年も手を伸ばして、子猫の顎下の柔らかな毛を楽しむように、指先で触れた。
 二人は相談して、大人たちには内緒で子猫を育てることにした。 
 夕暮れの冷たい風にあたって、薄い小袖一枚の少女は身震いした。
「そろそろ戻らないと、叱られるわ」
「そうだね」
 少年は、狩衣の袖を払って立ち上がると、少女の手から子猫を受け取った。
 二人はまだ名残惜しそうに、手を振って別れた。
 
 かくまった子猫の体が少し大きくなった頃、少年は突然、寺から姿を消した。
 六郎と呼ばれる少年が寺に来たのは三年前。寺の雑仕人たちは少年のことを『六郎君』(ろくろうぎみ)と呼んで、どこかよそよそしくしているように見えた。少年は宿坊で粛々と暮らしながら、客人の扱いを受けている。幼いながらも少女は、上等な狩衣を着た六郎が、自分とはどこか違うような気がしていた。
 少女はまだ赤子のときに寺の門前に捨てられていたと、身の上を知らされていた。和尚に拾われ、少し大きくなると、そのまま寺の雑用をして働くようになった。
 少年の宿坊に、朝夕の膳を運ぶのは少女の役目だった。少年の宿坊には、珍しい書物や絵巻物がたくさんあった。
「それは何?」
 少女がくったくなく聞くと、少年は書物や絵巻物を開いて見せ、珍しい話を語って聞かせた。
 身寄りのない少女にとって、六郎と呼ばれる少年は、兄とも慕う存在になっていた。

「六郎ちゃん、どこに行ったのかしらね・・・」
 少女は子猫を抱いて、空になった宿坊の前で俯いて泣いた。

      ◇◇◇

「おのれを大切にしなさい」
 沙羅の頭上から、帝の静かな声が降ってきた。
 ずぶ濡れでうずくまる沙羅の腕には、黒い猫が抱かれていた。
 ぐったりとする猫を抱いたまま、沙羅は低頭した。
 帝は付き人を従えて、ゆったりとした足取りで去っていった。
 はぁ、と沙羅は短く息を吐いた。緊張のあまり、無意識に呼吸を止めていたのだ。
 
 後宮の、薬草苑に近い庭園の一隅。
 清水をたたえる池の畔で、沙羅は溺れた猫を介抱した。
 水を吐かせると、猫は何事もなかったように元気を取り戻した。
 猫は「何があったの?」というように、翡翠の眼で沙羅を見上げる。
「無事でよかった・・・」
 沙羅は猫に頬ずりした。
 今しがた、池に落ちた猫を助けようと、沙羅は思わず池に飛び込んだ。
 猫を掴み、岸へ這い上がったところに、帝が唐突に現れたのだ。
「こんなみっともないところを見られるなんて・・・」
 間が悪い、と思いながら、沙羅は猫の背を撫でた。
「だめよ、クロちゃん。池に飛び込んじゃ」
 クロと呼ばれる猫は、実際には池に落ちたというより、自ら飛び込んだといってもいい。池には錦の鯉が泳いでいる。猫はそれに興味をそそられたのだ。
 沙羅は宮殿のいくつもある厨房の一つで下働きをする下女だった。いつの頃からか厨房に姿を現すようになった黒い猫に、クロと名付けて可愛がっていた。厨房の長に言われて薬草をとりにきた沙羅に、クロはついてきてしまった。そして、この顛末だった。
   
 沙羅はずぶ濡れのまま仕事場である厨房に戻った。
 お仕着せの白い小袖と臙脂の袴に着替えて、土間から一段上がった板間で夕膳の盆の前に座った。
「それで、帝のお顔を拝したの?」
 同僚のナツが雑穀の粥を匙でかき回しながら、肘で沙羅をつついてくる。
「そんな、帝のお顔を拝するだなんて。ただただ驚いて土下座していただけだもの・・・」
「もったいないわねぇ。なんで顔を見ておかなかったのよ。相当な美男だそうよ」
「できないわよ、帝の顔を見るなんて。そもそも、あんなところで帝に出くわすなんて、驚いちゃって・・・」
「だからこそよ。こんな機会、めったにないじゃないのぉ」
 ナツは沙羅と同じ年頃の十七歳だが、年寄りのように耳聡い。顎のとがった面長の顔を傾けて、沙羅の顔を覗き込む。
「でもそれって、本当に帝だったの? 帝が私たちのような下女に声をかけるもんかしら?」
「白いお直衣に緋色の袴姿だったから・・・。お付きの人も何人かいたわ・・・」
「白い直衣に緋色の袴か・・・、たしかに帝くさいわね」
 うんうんと、ナツは粥をすすった。
「それにしても、帝のお妃選びはどうなるのかしらねぇ。昨夜は大納言の姫様が、宮中入りなされたのだって。これで新しい妃の候補者は四人目よ。でもねぇ、やっぱり身分からすると、やはりお大臣様の姫君たちが有力なんじゃないかしら」
 ナツが飯粒を飛ばしながら熱弁を始める。ともかく、やんごとない人々の噂話が大好きだなのだ。
「先の中宮様が亡くなられてもう三年でしょ。まだ女御方がおいでなのに、もう三年もの間、帝は一度も後宮にお渡りにならないというのだから、これは一大事よ。もはや身分や家柄より、兎にも角にも帝のお気に召される姫様をさがそうと、今度のお妃選びがはじまったのだもの。帝は亡くなられた中宮さまに今もご執心だというでしょ。つまり、どれだけ亡くなられた中宮様に似ているかが、妃選びの肝心要よ」   
 近ごろのナツの興味は、もっぱら帝の『お妃選び』に向いている。
 帝の祖母である女院が、帝の足が遠のいた後宮の有様を心配して、新しい妃を求めて『妃選び』を始めたのだ。
 しかし沙羅の興味は妃選びのことより、ナツがまだ箸をつけていない小魚の干物にあった。
「それ、食べないの?」
 ナツの盆の小魚の干物に、沙羅は視線を注いだ。いくらか、ナツの妃選びの話に飽きていたのもあった。
「最後に食べようと思ったのよ。なに? 猫にあげようっての?」
「そう、クロちゃんの好物なの」
 沙羅は口角を上げて、にこりと笑んだ。
「その顔ったら。猫にはほんとに甘いんだから」
 ナツは口先をとがらせながら、小魚の干物を手に取って沙羅の盆に乗せた。
 こんな気前の良いところが、ナツの好ましいところだった。噂好きだが、陰湿なところがない。
 仕事の手が遅い沙羅が叱られると、こっそり手を貸してくれたりもする。
「さあ、急いで湯を沸かさないと」
 ナツが平らげた賄の盆を持って立ち上がると、沙羅も立ち上がった。
 その夜、沙羅は割り当てられた筵の寝床で、薄いボロ布にくるまった。
 春とはいえ、夜の板間は冷たかったが、足元だけはクロが温めてくれていた。
 
 その出来事は、突然に起こった。猫が池に飛び込んだ日の翌日のことだ。
 沙羅が厨房の脇の井戸端で青菜を洗っていると、厨房や洗濯場が集まる界隈には似つかわしくない、雅な風情の青年が姿を現した。艶のある直衣に漆塗の立烏帽子。一目で身分の高い者とわかった。
 その青年はなぜか、沙羅の前で立ち止まって言った。
「お支度を」
 沙羅が青菜を洗う手を止めて見上げると、青年は柔らかい笑みを浮かべて、軽く会釈をした。
 明らかに自分より身分が高い人物に会釈をされ、沙羅はあわてて立ち上がると、頭を低くして深々とお辞儀をした。
「そのような礼は不要ですよ。わたしはさる御方の使いで参りました。この度、あなたは帝の妃選びに加わることになりました」
「え・・・」
 沙羅は顔を上げて、青年の顔を凝視した。
(この人、何を言っているのだろう─?)
「あの・・・」
 言葉を失って瞠目する。
 井戸の周囲で野菜を洗っていた厨房の下女たちも、手を止め固唾をのんで、沙羅と青年のやり取りを見つめていた。
「あの・・・わたしは、厨房で働く者ですが・・・」
「存じております。ですから、こうしてこちらに迎えにあがったのです」
 青年は、それも任務の一つであるかのように、やわらかい笑みを浮かべた。
「もろもろのことは後ほどお話いたしますので、まずは一緒においでください」
(何かの間違いだろうし・・・)
 沙羅はナツに洗いかけの青菜の瓢を託して、訳が分からないまま青年に連れていかれることになった。支度といっても、はなから沙羅には財産というような荷物などなく、手ぶらでよかった。
 沙羅は半信半疑のまま、青年の案内に従って付いて歩いた。庭園の障壁を抜け、いくつかの門をくぐって連れていかれたのは、大きな殿舎が立ち並ぶ宮殿の一角だった。庭には手入れの行き届いた植木が並び、視界に入るそれぞれの殿舎は渡殿で繋がれている。
「こちらです」
 簀子を歩いていた青年が足を止め、妻戸を開けた。
 中に入ると美しい几帳が並び、畳の敷かれた席が設えられていた。
「御簾をあげさせましょうか」
 青年が言うと、裳を引いた女官たちが颯爽と現れ、手際よく御簾を巻き上げた。
 沙羅の目の前に、白石の敷かれた壺庭が現れた。
「さあ、そちらへどうぞ」
 青年は沙羅に褥の座につくよう勧めたが、沙羅は黙としたまま、あえて床板に直に座した。そして正面に座した青年に、あらためて顔を向けた。
「これは、どういうことなのでしょうか? 正直申し上げますと、不安でたまりません・・・」
「それはもっともですね、突然のことですから。しかしこれは、何も不安に思われるようなことではありません。喜ばしいことですよ。帝の妃選びの候補となられたのですから、この上の誉はありません」
「それが不安でたまらないのです。どうしてわたしのような下女が・・・」
「いえいえ、もはや下女ではありません。立派なお妃候補です」
「妃候補だなんて・・・」
 そうだ─、これは貴族の子弟たちが悪ふざけをして、このような質の悪い遊びを考え付いたのだ。身分の低い女など、どのように扱ってもよい。そんなことかもしれない。そう思い至ったとき、沙羅はようやく納得した。
(それなら、わたしはどうなるの・・・)
 彼らがこの質の悪い遊びに飽きるまで、付き合うしかないのだろうか。
「ああ、申し遅れました。わたしは藤原高臣と申します。内々の事など、帝の御用を賜って務めております」
「はぁ・・・」
 もはやこの珍事は貴族の子弟の悪ふざけだ、と思い込んだ沙羅は、何を問う気にもなれなかった。
「まずはご衣裳などを改めましょう」
 高臣が言うと、数人の女官たちがするすると裳を引いて現れ、沙羅を取り囲んだ。
 几帳を並べ立てたその後ろで、長袴を履かされ、袿を何枚も重ね着させられた後、最後に薄紅色の小袿を着せられた。
 衣装を改めた沙羅を見て、高臣は言った。
「桜襲ですね。この季節にはふさわしい装いです」
(貴族の遊びというものは、手が込んでいる。こんな豪華な衣装まで、用意するとは・・・)
「ところで、字はお読みになれますか?」
「字? 少しばかりは・・・」
「それはよかった。近く開かれる桜の宴で、妃候補の姫様方には歌を詠んでいただくことになっていますので」
「歌など、詠んだことがありません」
「ご心配はいりません。宴までにはまだ幾日かございますので、浅学ながら、この高臣が手ほどきなどをいたしましょう。ご無理なら、わたしが代わりに歌をご作ってもよいですし」
(幾日か・・・)
 幾日も解放してもらえないのか、と沙羅は眉をひそめた。
 ともすれば、日が暮れて、夜ともなれば、何をされるかわからない。 夜這い、という言葉が脳裏に浮かび、血の気が引いていくのを、沙羅は感じた。
「少しお疲れのご様子。そうですね、歌の手ほどきなどは明日からにして、今日はゆっくりとお体をお労りください」
 必要なことは女官たちに言うように、と言いおいて、高臣は沙羅を押し込めた局を出ていった。
 夜になると、女官たちが手際よく畳の上に夜具を整えてくれた。仕事場の厨房では、隙間風の入る板間で筵を敷いて寝ていたため、沙羅にとっては贅沢この上ない寝床だった。
 しかし、沙羅は夜這いを恐れて褥を被って怯えていた。
 コトン、と床板に何かが落ちるような小さな物音が聞こえたとき、沙羅は震え上った。
(いいわ、それなら、あらんかぎりの声で悲鳴を上げてやるわ・・・)
 腹をくくったとき、几帳の陰から姿を現したのは、猫のクロだった。
 クロは、真っ黒な体を沙羅に擦りよせながら、翡翠色の瞳で沙羅の顔を見上げた。
「クロちゃん! よくここが分ったわね」
 沙羅は猫を抱いて、再び褥を被ると、そのまま設えられた畳の寝所で体を横たえた。

       ◇◇◇   
 
 白いお引き直衣の襟を解き、片膝を立てて脇息に身をゆだねた帝は、片手で蝙蝠扇をもてあそびながら物思いに沈んでいた。
「高臣でございます」
 御簾の外から声がかかると、帝は視線だけをゆっくりと動かした。
「猫の娘はどうした?」
「西の殿の局に案内してございます」
「世話をかけたな」
「お渡りになられますか?」
「いや、そういうつもりはない」
「では・・・何ゆえに」
「手がひどく荒れていたんでな。苦労ばかりでは辛かろうと思っただけだ」
「さようなお心でしたか」
 高臣には察するところがあり、それ以上は詮索しようとしなかった。
「それで、例の件はどうした?」
「昨夜、大納言の娘として、入宮されております」
「そうか」
「美しい姫でごいます」
「美しい姫か・・・。顔を見るのが楽しみだな」
 帝は端正な面に、微笑を浮かべた。
         
       ◇◇◇
 
 夜が明けて、一睡もできずに起き上がった沙羅は、重い頭を左右にゆすった。
 御簾越しに外を見れば、やはり厨房ではなく、白石の敷かれた庭だった。
 幻ではないのだ。
 幸いにも、恐れていた夜這いという蛮行だけは起こらずに済んだことに、沙羅はいくらか安堵した。
 女官たちに着替えをさせられ、目の前に据えられた朝餉の膳は、湯気の立つ白米の粥と、何種類もの総菜だった。
 香りはいいが、食欲がない。
 女官に髪を梳かされて茵の上に座して呆としていると、御簾の外に人影が映った。
「高臣です。お目覚めになられましたか? 歌の手ほどきなどいたしましょうか」
(歌って・・・?)
「歌よりも、わたしはいつまでこうしていなければならないのでしょうか? どうか、厨房に帰らせていただけませんでしょうか?」
 沙羅は丁重に、そして素直に本心を訴えてみた。
 やや間をおいて、高臣が答えた。
「お妃候補なのですから、そういうわけにはまいりません」
 失礼します、と高臣は御簾をくぐって局に入ってきた。
「なにか不自由でもございましたら、何なりとおっしゃってください」
「不自由など・・・」
 夕餉と言って女官たちが運んできたのは、こんもりと高く盛られた強飯と、とりどりの総菜。寝床は畳の上に手触りのよい褥。着替えをさせられた衣は、なめらかな感触の色鮮やかな袿の重ね。不自由など、探しても思いつかない。
「不自由ではなく、ただ・・・不安なのです」
「色々と初めてのことも多いでしょうが、すぐに慣れていかれるでしょう」
 高臣は、微笑んだ。
 それから女官たちに文机を並べさせて、その上に硯箱を据えた。
「桜の宴では、桜を題に歌を詠むと決まっております。そうですね、昨夜考えたのですが、歌を詠むといっても一朝一夕にはまいりませんので、やはりわたしが代わって歌を作ってしたためておきますので、宴の当日にはそれをお持ちになればよろしいかと」
「その、桜の宴というものに、わたしも出なければならないのですか?」
「むろんです。お妃候補の女人方、つまり左大臣家の姫君、右大臣家の姫君、三篠宮家の姫君、大納言家の姫君、それから沙羅様、あなた様がお揃いになってご出席されることになります」
「そのようなご立派な家の方々とわたしが同席するなんて・・・」
「あなた様は一条宮家の姫として、この度の妃選びに列せられたのです」
「一条宮家?」
「今は養子となって藤原を名乗っておりますが、一条宮家はわたしの実家でもあり、沙羅さまはこの度、一条宮家のご養女になられたのです」
(一条宮家の養女・・・?)
 高臣が言うことは、耳を疑うようなことばかりだ。
 貴族の子弟の悪戯で、このような手の込んだ筋立てまで用意されるものだろうか。
 沙羅は自分の置かれた状況がいよいよ分からなくなり、混乱した。
「このような歌はいかがでしょう?」
 高臣はするすると筆をすべらせて歌をしたためると、鶯色に染めた料紙を沙羅の目の前に据えた。
 達筆な、かな文字の羅列。
 沙羅の眼は文字を追ってみたが、空虚に紙の上を滑っていった。
「お気にめしませんか?」
 言いながら、高臣はかわらず上品な笑みを浮かべている。
 文机の上の硯箱をちらりと見て、沙羅は思った。
(ナツに手紙を書いたら届けてもらえないかしら・・・。昨晩帰らなかったから、心配しているに違いないわ・・・)
 しかし沙羅は、すぐにそれを諦めた。
 ナツは字が読めないことを思い出した。
「あの・・・、同僚に会いに、いちど厨房にもどってもよいでしょうか?」
「それはご遠慮ください。養女とはいえ、あなた様はもはや一条宮家の姫なのです」
「それならば」
と、沙羅は思うままを口にした。
「それならば、わたしも知る人もおらず心細いので、厨房にいた同僚を侍女として、側に呼び寄せたいと思います」
 高臣はしばし沈思したあと、顔色の悪い沙羅の面を見やった。
「わかりました。それもそうですね。お心弱りのご様子ですし、お望みでしたら、そのように手配いたしましょう」

 午後になると、ナツが沙羅の局に連れられてきた。
 厨房で働く下女の、お仕着せの小袖と臙脂の袴姿のナツは、薄紅の小袿姿の沙羅を見て、ぽっかりと口を開けた。
「なんなの? どういうこと? 妃候補とかなんとか言っていたけど、ほんとうの事なのぉ?」
「ちょっと、ナツ。声が大きいわ」
 大きな広間に几帳で仕切られただけの局は、人声がよく響く。
 几帳や屏風の後ろには、女官たちが沙羅を見張るようにして控えているのだ。
「だって、これはいったいどういうことなの?」
 ナツは声音を落としたが、上体が前のめりになっていた。
「どういうことなのか、こっちがききたいわ」
 沙羅は助けを求めるように、悲壮な顔をナツに向けた。
「ええっと、ちょっと落ち着いて整理してみましょう・・・」
 ナツはぶつぶつと独り言のように、昨日、井戸端にとつぜん高臣が現れたあたりから、昨日今日の出来事を改め始めた。
「あれから、ここへ連れられてきて、こんなお姫様のような衣装を着せられて、豪華なお膳を並べられて、歌の手ほどきまでぇ・・・?」
「そうなのよ、貴族の子弟たちの悪戯かとも思ったんだけど、それにしては、手が込んでいすぎない?」
「そうねぇ、夜這いもなかったということだし・・・」
 ナツはあぐらをかき、腕を組んで首を傾げたかと思うと、すぐにへの字型に結んだ口を開いた。
「違うわ・・・。奇妙なのは、一昨日、帝に会ったところから始まっているのよ」
「帝・・・?」
「そうよ。だって、帝ともあろう方が、沙羅に声をかけてくださるなんて、そもそもからしておかしいじゃないの?」
「それはわたしも思ったけれど・・・。だからって、それがどうして突然、妃候補にされるわけ?」
「沙羅が帝に見染められたってことかもよ」
「まさか・・・。どうみたって、わたし、そんなに器量よしじゃないでしょ?」
 おせじにも美人とは言えない、凡庸な容姿であることは自分でもわかっている。
「例えばよ、沙羅が先の、亡くなった中宮様に似ているとか?」
「亡くなった中宮様に・・・?」
「帝は中宮様が亡くなられてから、後宮から足が遠のいたっていうでしょ? 帝はずっと、亡くなられた中宮さまのことが忘れられないそうだから」
 このあたりは、ナツが大好きなやんごとない人々の色恋話だ。
 沙羅は小首を傾げた。
「面白いお噺だけど、ちょっとありえなくない?」
「そうかしら? じゃあ、この珍事は、どういうことなのよ?」
 沙羅もナツも、中宮の顔など見たことがない。
 厨房の下女たちに、宮殿の奥深くに暮らす高貴な人々と接する機会などなかった。
「ともかく、今日から私も一条宮家の姫様の侍女になるのね。しばらくは、重たい水桶を運ばなくてもよさそうだし、厨房の賄よりもずっといいものが食べられそうだし、いいんじゃないの?」
 ナツは災難に遭ったような面もちの沙羅の前で、かなり楽天的に構えている。
 それらしく十二単という女房装束に衣を改めたナツは、身をよじりながら小さく唸った。
「窮屈というより、重たくて仕方がないわ。お姫様というのも、案外たいへんねぇ・・・」

 桜の宴は、帝の常御殿、正殿前の南庭で催された。
 妃候補たちは、正殿の東庇に整えられた席に集められた。
 御簾越しに、満開の桜の大樹を眺めることができ、菓子などが振る舞われて、その場の空気は晴れそのものだった。
 南庭に設えられた舞台の上では、歌詠みが持ち寄られた歌を朗々と詠みあげ、雅な楽の音も華やかに流れてくる。
 妃候補たちが列するなか、沙羅は後方の席に縮こまっていた。幸いにも、それぞれの妃候補たちの席は几帳で隔てられているため、自分の姿を他の妃たちに見られることはない。衣こそ正装に改めて臨んではいるが、沙羅の髪は腰のあたりのまでの長さで、日に焼けてボサボサだった。どう取り繕っても、妃がねとして育てられた深窓の姫たちには遠く及ばない。見劣りすることは明らかだった。
 沙羅が袖にしまった、高臣がこの日のために作った歌を綴った紙を探ったりしていると、ナツが側にすり寄ってきて、袖で口元を覆いながら小声で言った。
「ざあっとチラ見してきたんだけど、大納言家の姫はかなりの美人だわよ。強敵だわぁ」
「強敵って、そもそも競おうなんて思っていないもの」
 沙羅も小声で返した。
「そんな気弱なことでどうするのよ。わたしも『姫様』の侍女でいられたら、美味しいものが食べられるし、重たい水桶を運ばなくてもいいし、ここはいいことづくしなのよ」
 いつの間にかナツは、『妃選び』に夢中になっていた。
 高杯に盛られた菓子を引き寄せて沙羅の前に据えながら、自分の口に菓子を次々と放り込んでいる。
「おーいしいわぁ」
 もともと薄い目を、さらに細めた。
「沙羅も、ほら、食べてみなさいよ」
 近くで衣擦れの音がしたかと思うと、
「失礼いたします・・・」
と、透んだ声が聞こえて、正装の女人が長い裳を引きながら、沙羅の目の前をゆるゆると歩いていった。
「今のが大納言家の姫よ」
 ナツが沙羅に耳打ちする。
 ほんの一瞬ではあったが、目の前を横切った姿は確かに美しかった。
 すっと伸びた姿勢が優雅で、気品を感じた。
「天女とは、ああいう人のことをいうのかしら?」
 沙羅は檜扇の陰で呟いた。
「感心してちゃだめよ、競争相手なんだから」
「あんな人と、競争なんてできないわ・・・」
「なんでもあの大納言家の姫は、ほんとうの娘ではないらしいわよ」
「そうなの?」
「といっても、左大臣家の姫も、右大臣家の姫も、みんな親類縁者からの養女らしいんだけど」
「よくそんなことまで調べたわね」
「調べなくっても、女官たちが大きな声で噂しているんだもの。耳をふさいでたって、聞こえちゃうのよ」
 舞台の上で、左右大臣の姫たちの歌が詠みあげられ、三篠宮家の姫の歌が詠みあげられた後、沙羅の歌が詠みあげられた。
 沙羅ではなく高臣の作った歌だが、評価はいちばん高かった。
「やったわねぇ」
 ナツが言うやいなや、途中で中座したしたはずの大納言家の姫が舞台の上に姿を現した。
 宴に集まった客人たちが、ざわついた。
 ふつう高貴な家の女たちは人前に姿を現すことはない。
 しかし舞台の上の大納言家の姫は、美麗な面を晒して、楽の音に乗って華麗に舞って見せた。
 見る人々は嘆息を漏らして、彼女の舞に見入った。
 満開の大樹の桜も霞んでしまうような、天女の舞だった。

      ◇◇◇

「まことに、見事な舞姫であったな」
 帝はふっと笑んだ。
「はい、面白うございました。みな息をのんで見つめておりました」
 高臣も、控えめに笑みをこぼした。
「ほかの姫君がたの姿もご覧になられましたか?」
「うむ、遠くからだが・・・」
「それはよろしゅうございました。次はもっとお近くで、姫君がたとご面会できる機会を設けましょう」
「そう慌てなくてもよい。わたしも色々と考えたいことがある・・・」
「世間はもはや待ってはくれません。帝の継子誕生を、みなが危惧しております」
「わたしは、あちらの筋に皇統を移してもよいと思っている」
「お祖母さまである女院さまは、納得されないでしょう。女院さまは生粋の藤原のお方。源氏の筋である皇太子には帝位を渡せぬ、とお考えなのです」
「それゆえだ。臣下を巻き込み、争いが起きれば、途端の苦しみを味わうのは民たちだ。百年前の、庚申の乱を知っているだろう?」
「はい。藤原と源が皇統を争ったといいますね。都は荒廃し、餓死する者も大勢いたとか」
「疫病の流行までも招いたというのだ・・・」 
「しかし、主上に皇子が誕生されれば、世の中は自然とそれに従います。あちらも・・・、源氏の筋も、納得せざるおえないでしょう」
「悩ましいことだ・・・」
 帝は遠い眼差しを庭園に向けた。
「そろそろ、琵琶の季節だな・・・。届けてやってくれないか?」
「かしこまりました」
 高臣は微笑を浮かべながら、一礼した。

       ◇◇◇

「してやられたわねぇ」
 宴の席から局に戻ると、ナツが勢いよく座りながら言った。
 沙羅は気疲れて、正装を解くと、ぐったりと脇息に寄りかかった。
「帝もご覧になっているはずだし、帝といえど、素はただの男よ。あの天女の姿に惹かれないはずがないわ」
「わたしも見とれちゃったわ・・・」
「感心してる場合じゃないわよぉ。大納言家といえば、家の格では大臣家や宮家から一段低いものでしょ。あれくらいのことをやってのけないと、妃選びには勝てないって算段よ。気合が入ってるわねぇ。見習わなくっちゃ」
「かなうわけないでしょう・・・」
「気概をもって! でなきゃ、またあの厨房でこきつかわれるのよ。これは、人生に一回きりの好機なんだから」
 ねぎらいと言って高臣が果物を盛った籠を携えてやってきた。
 高臣が姿を現すやいなや、
「次はどんな催しがあるのですか?」
ナツは息巻いた。
「薫物合がございますよ」
「薫物合? それって、あの、お香をたいてなんやかやするあれですか?」
「さようです。それぞれお妃候補の姫君がたが持ち寄った香を聞き、優劣を競うのです。ですが・・・」
「ですが、なんですか?」
 沙羅ではなく、ナツが前のめりになった。
「この薫物合は、帝が間近に姫君がたのお顔をご覧になるために催されることになりますので、香を競うものではありません」
「つまり、顔が勝負ってことですか? そんなぁ、顔の良し悪しでは、大納言の姫様が勝つに決まっているじゃないですかぁ」
「容姿だけで決めるのなら、はじめから妃選びなどしなくてもよいのです。人柄や教養、新しいお妃さまには、そういった様々な素養が求められます」
「教養はともかく、沙羅は人柄だけはいいんですよ。それだけは、このナツがお約束します! 帝にぜひぜひお伝えください」
「承知しました。帝に伝えておきましょう」
 高臣が安易に請け負うので、沙羅は慌てた。
「いいえ、高臣様。ナツが言うことはでたらめですから」
「そういう奥ゆかしいところはよいですが、遠慮も過ぎればよくありません。他の妃候補の姫君方は、帝に歌など贈られているのですから」
「ええ? 歌ですか?」
 ナツが苦虫を噛んだように顔を歪めた。
「沙羅、あんた、歌なんて駄目でしょ?」
「さっぱり・・・」
「でも、絵は描けるんじゃない?」
「絵・・・?」
「ほら、竈の燃えかすで猫の絵を描いてたじゃない?」
「あれは落書きだし」
 子どもの頃、沙羅が煮炊きの燃えかすを拾って板戸に絵を描いていたことがあった。厨房の長に叱られて、ナツも一緒に仕置きを受けた。
「ねぇ、高臣様。絵を描いて、歌の代わりに帝に贈るってのはどうですか?」
 当然、却下されると思われたナツの提案を、
「そうですね・・・。それは名案ですね。帝は絵物語など、お好きなご様子ですし」
高臣は笑みを浮かべて、頷いた。
「よい紙など、用意させましょう」
「ふふ、たまにはいいこと思いつくでしょ?」
 面食らう沙羅を横目に、ナツは得意げに面長のとがった顎をついと上向けた。
 自分の落書きを帝に見せようというのか─。
「そんな・・・絵なんて描けません。筆だって、あまり扱ったことないのに・・・」
「紙は十分に用意しますから、失敗してもかまいません。何枚か描いてみて、よいものが描けたら、帝にお届けするのはいかがです?」
 高臣が妙に乗り気なことが気にはなったが、筆で絵を描く、ということにいくらか好奇心が疼いた。
「それなら・・・」
と、沙羅は頷いた。
「そうこなくっちゃ!」
 ナツは手を打った。
「で、次なる問題は薫物合とやらね」
「香については、それぞれの家に伝わる秘伝の香木などございますので、沙羅さまには、この高臣が一条宮家伝来の香をご用意いたします」
 高臣が語る傍らで、沙羅の興味は別に移っていた。
 高臣の持ってきた果物の中に琵琶を見つけた沙羅は、そろそろと手を伸ばして、その一つを取った。
「いただいてもよいのですか?」
「もちろんです。今日は気を張って、さぞお疲れになられたでしょう」
「いいえ、わたしは座っていただけですから」
 重い正装は、座っていただけでも疲れたというのが本心だった。
 水桶の方がまし・・・、と沙羅は思う。
 手に取った琵琶を鼻先にもって来ると、その香りに懐かしさを覚えた。
「ずっと気になっていましたが、さる御方、とはどなたでしょうか? ここへ連れらてきた時、おっしゃっていました。さる御方のご命でと・・・」
 沙羅が尋ねると、高臣が一度口を引き結んだ。
「今は申せませんが、いずれ・・・」
「その方の気まぐれで、わたしは妃選びなどに巻き込まれているんですね」
「気まぐれと申されますが・・・、ではもし、まことに妃に選ばれたらどうなさいますか?」
「選ばれたら・・・? わたしが妃に・・・?」
 あり得ない、と沙羅は心の中で笑った。
 ただ、貴族の子弟の悪戯ではなさそうだと思うと、あまりにこの事態は謎が多すぎる。
 妃選びのために一条宮家が娘を探していたなら、血縁者の中から探すのが当然だ。
(わたしでならなければならない理由は・・・?)
 沙羅のもとに、クロが寄り添ってきた。
 手にした琵琶を籠に戻し、沙羅は猫を膝に抱いて、丁寧に黒い背を撫でた。
 クロは「みゃ・・・」と甘えるように答えた。
「クロちゃん・・・」
 沙羅はクロの背を撫でながら、さみしさを含んだような、ほのかな懐かしみをいつも覚えた。
 不思議な感覚だった。
 空白の記憶─。
 自分に記憶の欠落があることを、沙羅は自覚していた。
 自覚はあったが、厨房で働きながら生きるためには特に不都合があるわけでもなく、気にすることを自ら止めた。
 見知らぬ男に連れられて宮殿にきたことは覚えている。そして、そのまま厨房で下働きをすることになった。まだ幼い子供の頃のことだ。それ以前の記憶が、沙羅にはない。
 厨房の長に問われても、年齢も、名前さえも、答えられなかった。
 ただ沙羅は、文字をいくらか知っていた。沙羅、という名は、己が手が勝手に動くようにして、問われて砂の上に書くことができた。
 ナツの場合は、口減らしのために、宮殿の下働きとして売られてきたのだと言っていた。そういう人が、厨房や洗濯場には多いらしく、自分もそのような類だろうと思うことで、記憶の空白を補っていた。
「その薫物合では、帝を間近で拝することができるのですか?」
 ナツが面長の顔を高臣に振り向けた。表情は明るい。
「そうですね、どうでしょうか。帝次第ではありますが・・・。ともあれ、他の妃候補の姫君がたも、期待されてご衣裳など凝っておみえになるでしょうから、沙羅さまにもお支度は万全になされてご出席いただくのがよろしいかと」
「もちろんです!」
 沙羅の代わりにナツが勢いよく答えた。
 高臣は苦笑しながら優雅に立ちあがると、御簾をくぐって退室していった。
「それにしても、高臣様って、男前だわねぇ」
 ナツが血色のよい頬に両手のひらをあてた。
「帝の内々の用向きを賜っているというのだから、よほど信頼されてるのね。一条宮家から藤原家の養子になったってことは、血筋的には帝の従兄弟になるということかしらねぇ」
「そうなの?」
「そういうことになるわよ。わたしの知識からすれば」 
 沙羅はナツの頭の回転に感嘆した。さすが高貴な人々の噂をかき集めて楽しんでいるだけある。
「沙羅は、まさか、なんて言っているけど、そんな高臣様が後見人のように世話してくださってるんだから、ほんとに妃になれないとも限らないわ」
「またそんなことを・・・」
「もしもお妃さまに選ばれても、わたしを見捨てないでちょうだいね。ああ、もう、冬場の水仕事はたくさんだわぁ」
 ナツはさっそく、衣装箱を女官に運ばせると、薫物合の日のための、沙羅の衣装を選び始めた。
「衣装の色合わせって、ほんと難しいわねぇ。季節を先取りして、上品に、よね」
「ねえ、ナツ・・・」
「え、何?」
「わたし、怖くてたまらないの・・・」
「また、それ?」
「だって・・・」
「だから、言ったでしょ? あの日、猫を助けようと池に飛び込んだ日、帝は沙羅を見染めたのよ」
「こんな容姿で、どこを見染めるのよ?」
 お世辞にも美人の類ではない、と沙羅は自分の容姿を認めている。
「わたしの予想では、おそらく沙羅は先の中宮様に似ているのよ。だとしたら、見染められても不思議はないでしょ?」
「わたしが中宮様にね・・・」
 沙羅は首を傾げた。
「ほら・・・わたし、幼い頃の記憶がないでしょ? わたしって、いったい誰なのかしら・・・」
「そっかぁ・・・、そのあたりも、可能性ありだわね。ひょっとして、さるやんごとない家の隠し子だったとか? 実は、一条宮家の隠された姫だったとか?」
「いい加減にして。真面目なんだから・・・」
「真面目な話よ。だって、沙羅は字をしっているでしょ?」
「字・・・」
「字を読める人なんて、そうはいないわ」
「もしかして、高臣様はわたしの過去を何か知っているのかしら・・・」
「高臣様が、どうして?」
「お届けくださった果物の中に、琵琶が入っていて・・・」
「琵琶? そんな珍しいものでもないけど?」
「大好きなの、琵琶の香り・・・。何か懐かしい感じもして・・・」
 沙羅は猫を膝に抱いたまま、籠の中の琵琶に視線を向けた。
「何か思い出せそうなの?」
 袿を物色していたナツが手を止め、沙羅に真顔を向けた。
 沙羅は、頭を振った。
「何も・・・。ただ、悲しい気持ちになるような・・・」
「だったら、考えないほうがいいのよ。無理に思い出さなくたっていいじゃない。それに、今は薫物合に集中しなくっちゃ。お化粧だって、ほら、流行りの感じにしなくちゃね」
 
 その夜、沙羅が畳の寝所に上がると、枕の下に呪詛札が仕込まれていた。
「きゃ・・・!」
 沙羅は驚いて、後ずさった。
 几帳を隔てたすぐ隣で横になっていたナツが、顔を覗かせた。
「どうしたの?」
「これ・・・」
 沙羅は呪詛札を指さした。
 ナツが手燭で、呪詛札を照らした。
 うねった蛇を思わせるような朱色の文字が這っている。
「なんて書いてあるの?」
「わからないわ・・・、わたしが知っている文字じゃないし・・・」
「初めて見たわ、こういうの。これが噂の呪詛というものなのね・・・」
 ナツはやや怯えながらも、興味津々といった態だった。
「あ、近づいちゃだめよ!」
 沙羅が注意しても、ナツは這って呪詛札を眺めている。
「これは、高臣様にお知らせしなくっちゃ。きっと他の妃候補の誰かの仕業よ」
「どうして分るの?」
「他にこんな事される覚えはないでしょ?」
「わたし、恨まれるようなことなんてした覚えないわ」
「聞いたのよ。高臣様が沙羅の世話をやいているのが、他の妃たちの気に障っているらしいの」
「誰にきいたの?」
「女官たちよ。菓子を渡せば、すぐに口が緩むから。高臣様って、女官たちの間でもたいそうな人気ぶりだそうよ」
「そうなんだ・・・」
 二人は呪詛札には触れず、その晩はナツの寝所で並んで横になった。
「こうしてると、なんだか、厨房の寝床で寝てるみたい」
「そうねぇ、こうやって十年近くもいっしょに寝てたんだもんね。まさか、こんな御殿で寝られるなんてねぇ」
「それは、わたしの台詞よ」
「この好機、しっかりものにしないとね」
 ナツの寝息を聞きながら、沙羅は目を閉じた。
 翌朝、高臣の采配で陰陽寮から人が呼ばれ、呪詛札は取り除かれた。
「お気に病むことはありません。念のために、局は改めて新しい場所に設えさせましょう」
「いいえ、それには及びません。これ以上、世話をかけたくありません」
「念のためです。障りがあってはなりません。局は新しい場所へお移りください」
「それなら、もう少し几帳は華やかなほうがいいわねぇ」
 ナツがすかさず言った。
「ちょ・・・」
「だって、いつ帝が夜這いにみえるかもしれないのよ」
(夜這い・・・?)
 高臣が小さな笑声をもらした。
「よいお心掛けです。承知いたしました。もう少し華やかな設えをさせましょう」
「どうして、わたしにこのようなご親切をしてくださるのですか?」
「それは、一条宮家から立てた、お妃候補だからですよ」
「いいえ、そうではなくて・・・。高臣様は、何かわたしの過去をご存じなのでしょうか・・・?」
 沙羅は思い切って、きいてみた。
「わたし・・・、実は幼い頃の記憶がないのです・・・」
 沙羅が言ったとき、高臣はわずかに眉を寄せた。
「さようでしたか・・・」
「宮殿の厨房に連れて来られるまでのことを、どうしても思い出せないんです。こんな素性の分からない者を・・・」
「お記憶のないことは、どうかお気に病まれずに。大切なのは、これからなのですから」
 沙羅の局は、東殿の北舎に移された。
 その北舎には、大納言の姫も局を与えられているらしいと聞いたが、顔を合わせることはなかった。
 
 薫物合は、帝の常御殿である正殿の、庇の間で開かれた。
 その場で沙羅は初めて、他の妃候補たちの姿を見ることになった。
 左大臣家、右大臣家、三篠宮家の姫たちは、いずれも豊かな黒髪にふっくらとした丸顔で、手にした檜扇で顔こそは半分隠しているものの、感情を現さない眼差しから、気位の高さと気の強さを感じた。
 年のころは、みな十代後半だろうか。かしづく女房たちも、みな器量よしで若い。
 沙羅はひととおり衣装を整え、化粧を施してきたものの、妃がねとして育てられた姫たちの中で、やはり明らかに見劣っていた。
 ほんの少し前まで、厨房で下働きをしていたのだ。背に垂れた腰ほどの長さの髪は、日に焼けて傷んだままだ。
 沙羅はあかぎれの痕の残る手を、そっと袖の中にしまって縮こまった。
「背筋を伸ばして、堂々としてなきゃ」
 ナツが斜め後ろから、気後れする沙羅の背中をつついた。
「だって・・・」
 仕方がないでしょ、と沙羅は檜扇の陰でナツに返した。
「あら、嫌な香りがすると思ったら、こちらに下人の娘が紛れているという噂は本当ですのね」
 左大臣家の姫にかしづく女房が、誰にともなく言った。
「厨房で働いていた姫君だそうよ」
「まあ、厨房・・・、さようでございましたの」
 右大臣家の姫にかしづく女房が呼応した。
 あちこちからクスクスと嘲笑がおこった。
 明らかに沙羅を嘲っている。
 主人たる姫たちは女房たちを叱るわけでもなく、丁寧に化粧を施した丸顔をほころばせ、女官たちまでもが袖で口元を覆いながら笑っていた。
 沙羅の背後で、ナツが立ち上がった。
 ナツがきぃっと、女房たちを睨むと、
「まあ、何ですの? 付人の女房殿も瓜のような顔をしておられるわ。おほほほ・・・」
女房たちは怯むどころか、今度はナツの面長を嘲った。
 ナツの性格からして、ここは黙っていないだろう。沙羅は冷や汗をかいた。
「あたしが瓜なら、おたくらの顔はそろって瓢箪そうろうよ!」
(もうやめて!)
 沙羅が心中で叫んで止めようとしたとき、大納言家の姫が遅れてやってきた。
「遅れて申し訳ありません。支度に手間取ってしまいまして」
 女官が巻き上げた御簾をくぐって、ゆったりと歩いて、末席に設えられた席に座した。それは沙羅よりも下座の席だった。
「一条宮家の姫さまの下座ということは、わたくしなど、厩の下働き、とでも呼ばれそうですわね」
 大納言家の姫は、美貌の面に微笑を浮かべた。
 女房たちはむっとして黙った。
「帝のおこしにございます」
 女官の先ぶれの声に、一同は頭を低く垂れた。
 帝が着座したのは、庇の間の奥まったところ、御簾を垂れて設えられた畳の上の席だった。
「面を上げよ。きょうはみなで楽しもうと思って開いた薫物合わせだ。判者はあえて揃えておらぬから、存分にくつろいでよい」
 帝の声は、若々しいが、低く張りがあった。
 平伏していた沙羅が他の姫にならって頭を上げると、下半分が巻き上げられた御簾の向こうに、緋色の袴と白い直衣が見えた。
 顔は半分垂れた御簾の陰に隠れて、はっきりとは見えない。
「このような晴れやかな場を設けていただき、誠にありがとうございます」
 左大臣家の姫が、用意していたかのような辞句を並べた。
「父が主上にぜひにと、我が家に伝わる香をお持ちいたしました」
 女房が漆の箱から、白磁の香合を取り出した。
「藤の花が咲くのを待つ、という意味で、『紫苑』と申しあげます」
 左大臣家の姫が歌を添えて披露する。
 他の姫たちも習って、我が家に伝わる秘伝の香と称して、さまざまに意匠を凝らした香合を披露し、その調合の所以などを歌にして添えて披露していく。
 沙羅は、高臣の用意した螺鈿の細工が施された香合をもってきていた。
「ねえ、ナツ・・・」
 沙羅が己が番になると、檜扇の陰で顔をこわばらせた。
「どうしよう、高臣様が作ってくださった歌、忘れてしまったわ・・・」
「ええ!? そんなぁ、あれだけ諳んじていたのにぃ」
「だって、どうしても思い出せないのよ・・・」
「だめじゃないのぉ、この大事なときに・・・」
「頭の句は、とこしえの、だったかしら? いにしえの、だったかしら?」
「あたしにきかないでよぅ」
 沙羅とナツがそわそわしていると、隣の、少し離れた場所に座していた大納言の姫が、そろりと沙羅の方へ向き直った。
「まあ、具合でもお悪いのですか?」
 小声ではなく、あえてみなに聞こえるような声で言った。
 一同の視線が沙羅に向く。
「申し訳ございません、少し頭が痛みます・・・」
 とっさに、沙羅は答えた。
 ちょうどうまい具合に、歌を思い出せずに焦った沙羅の顔は、血の気が引いて顔色が悪い。
「姫様、大丈夫でございますか?」
 ナツがわざとらしく介抱する。
「ご無理なさらず、局でお休みになられてはいかがです?」
 大納言の姫が、さらに言う。
 しかし、帝が主催される催しを途中で中座するなど、あまりにも無礼な気がする。
 沙羅が躊躇っていると、上座の帝が口を開いた。
「よろしい。宮中では慣れぬことも多い。疲れもあろう。一条宮家の姫は、退出して養生するとよい」
 静かな声音で言った。
「申し訳ございません・・・」
 沙羅は深々と頭を垂れ、ナツも傍らで平伏した。
「なんと、無礼な。帝の催しを中座するなど」
「出自を蔑まれて、居たたまれなくなったのよ」
「下賤な者が、初めから妃選びに加わるなど、おかしなことよ」
 さまざまな嘲りの言葉に追われながら、沙羅は庇の間を退いた。
 夕刻、殿舎を廻る回廊に明かり灯される時刻、沙羅は簀子に出て風にあたっていた。
 そこへ姿を現したのは、大納言の姫だった。
 大納言の姫は、女房の一人も連れず、一人で簀子を渡ってくる。
 すれ違いざま、沙羅が会釈をすると、大納言の姫もそれに返して軽く会釈をした。
 沙羅は思わず、声をかけた。
「あの・・・」
 大納言の姫は歩みを止めた。
「先ほどは、薫物合のときは、ありがとうございました」
 沙羅が頭を下げると、大納言の姫は沙羅の方へ向き直った。
 沙羅よりも、頭半分ほど背が高く、少し見上げる格好になった。
「何のことです?」
 大納言の姫の美しい顔は、無表情だった。
「厨房と笑われたときも、歌を忘れたときも、お助けくださいました」
「少しはご自分でも言い返したらどうです? ここの女たちは美しく装っていますが、心根はあのような有様です」
「厨房で働いていたのは本当のことですから、言い返しようがありません」
「・・・・・」
 大納言の姫は、あきれた顔をした。
「その素直さは、ここでは何の役にもたちませんよ」
 言い残して、するすると簀子を進んでいった。
           
      ◇◇◇

「いかがでしたか? お顔をご覧になられましたか?」
 御簾越しに庭を眺める帝に、高臣は問いかけた。
「うむ、やはり似ていた・・・。似ているというより、幼女であった時と変わっていないくらいだ・・・」
「では沙羅さまが、まことにお探しの娘ですか?」
「沙羅は記憶を失くしていると言っていたな?」
「はい、宮殿に来る前のことは記憶がないと・・・」
「ならば、わたしのことも覚えてはいないということか・・・」
 御簾の外に影が映った。
「主上、わたくしでございます」
「ああ、大納言の姫か」
 帝は影の主を御簾の内に招いた。
「薫物合、機転をきかせてくれたな」
「お褒めにあずかって光栄ですが、あの一条宮家の姫といのは、少し頭が足りないのではないですか? 見ていてイライラしてきます」
「そう言うな。慣れぬ宮中暮らしなのだ。少し味方になってやってくれ」
 帝は愉快そうに笑った。
「しかも、わたくしは、いつまでこのような女のフリをしていればよいのですか?」
 大納言の姫は不機嫌を露わにした。
「妃候補たちの素行はどうですか?」
 もらい笑いをしていた高臣が、真顔にもどって問う。
「まあ、どの姫も根性は似たり寄ったりです。左大臣家の姫はとくに意地が悪い。右大臣家の姫は陰湿極まりなく、先日は一条宮家の姫の局に呪詛札を投げ込みました。まあ、いちばんましなのは三篠宮家の姫でしょうか? 左右大臣の姫たちほどに強欲さがなく、まあまあ大人しい質のようですから」
「三篠宮家の姫か・・・」
 帝は呟く。
「三篠宮家の姫ならば、女院様もお喜びになりましょうが・・・」
 高臣は帝の顔色を確かめながら、慎重に問う。
「・・・が、沙羅様はいかがなされますか? お諦めになるのですか?」
「さて、どうかな・・・。あのような内気な性格では、後宮などで暮らしてはいけないだろう。昔は物怖じしない、はつらつとした性格だったが、何があのように人を変えてしまったのか・・・」
「では、なにゆえ妃候補になされたのですか? 一条を誘って、段取りをつけましたのに・・・」
「妃の候補として箔を付ければ、生まれがどうであろうと、少しはよい嫁ぎ先がみつかるだろうし・・・。わたしは沙羅がつつがなく暮らしていけるなら、それはそれでよいと思っている」
 大納言の姫が、美しい面をゆがませた。
「何ですか、それは? 大茶番が見られると思って女装をひきうけたのに、面白くないですね」
「よいではないか、みなに天女のような美貌とほめそやされているのだ」
「主上! 私は坊主です。美貌などと言われても嬉しくありません。幼馴染のよしみで引き受けはしましたが、そうそうに寺に帰らせていただきたいところです」
「妃選びはまだ終わっていないのだぞ」
「わたくしが妃になるわけではありません」
「わからんぞ。そなたが望むなら、抱いてやってもよいが?」
「はぁっっ!?」
 大納言家の姫は、長い黒髪の鬘を鷲掴んで引っ張ると、床に叩きつけるように放り出した。
 あらわになった形良い坊主頭が、ほんのり赤く染まっていた。
「いい加減にしてくださいっっ」
 叫んで立ち上がった。
「いや、待て。もう少し、妃候補たちの様子を探ってくれ。とくに左右大臣たちの思惑を、もう少し見極めたいのだ」

      ◇◇◇

「まあまあ、すんだことはくよくよしても仕方がないでしょ?」
 ナツは、見舞いと言って高臣から届けられた菓子を口に頬張った。
「美味しいわよ、これ。食べてみなさいよ。昨日から何も食べていないじゃないの」
「帝の催しの会を中座するなんて、なんて失敗・・・」
「あら、どういうこと? その気になったの?」
「そんなじゃないけど、どう思われたのかしらと思って・・・」
「次があるわよ。挽回すればいいのよぉ」
 沙羅はうなずいて、菓子に手を伸ばした。
 するとナツが急に真顔になって、咄嗟に沙羅の手を止めた。
「待って・・・」
 ナツの顔がみるみる青ざめていく。
「ナツ? どうしたの?」
「・・・変・・・、なんだか胸が・・・」
 ナツは呼吸を荒くして、その場に伏せて身を捩った。
「ナツ? ナツ?」
 沙羅は、眉間に皺を寄せて身を捩るナツの顔を覗き込んだ。
「・・・菓子、変よ・・・」
「え・・・菓子?」
(まさか、毒─?)
 沙羅の頭に恐ろしい考えがよぎった。
(菓子に毒が─?)
 沙羅は慌てて、女官に薬師を呼ぶように言った。
「吐くのよ、ナツ。全部、吐いてっ」
 ナツの体を支え、頭を下げさせた。
 沙羅がナツの背中を叩いていると、高臣がやってきた。
「何事です?」
「ナツが、菓子を食べて・・・」
「菓子?」
「さきほど、高臣様が届けさせてくださった菓子です」
「わたしは菓子など届けさせておりませんよ」
「え・・・?」
 ほどなくして、薬師が姿を現した。
 薬師はナツに食したものを吐き出させると、薬湯を用意して飲ませた。
 発作のような急な症状は、じきに治まった。
 床に寝かせたナツの顔を、沙羅は覗き込んだ。
「大丈夫よ、ナツ。猛毒なら、すでに命はないはずだそうだから。薬も飲んだし・・・」
「沙羅・・・、わたしでよかったわ・・・」
 力ない声で、ナツが呟く。
「少し休んで。わたしのことは心配ないから」
 沙羅はナツが落ち着くと、いくらか安堵して几帳の外へ出た。
「菓子を届けたのは、どのような者でしたか?」
 高臣が険しい顔で問う。
「女童でした・・・」
「女童・・・。どこの殿舎にもたくさんいますからね。特定するのは難しいかもしれません・・・」
「私の命を狙おうとしたのでしょうか? それをたまたまナツが食べて・・・」
「菓子に仕込まれたらしい毒は、薬師に調べさせています。しかし、大胆なことを」
「後宮とは、このように恐ろしいところなのですね・・・」
「妃候補の姫君方に出される膳には、毒見役がついております。以降、知らない者の持ってきた物については、食されぬように」
「承知しました。でも、ナツは・・・」
 沙羅はナツに申し訳なかった。
 ナツは自分の身代わりになって、毒を飲むことになったのだ。
 その夜、沙羅は眠るナツの手を握りながら考えた。
(ここを出よう・・・)
 翌朝、沙羅は、ナツが目を覚ますと、己が心を打ち明けた。
「ここを、出る?」
「ここにいたら命を狙われることになるのよ。高臣様にたのんで、厨房に戻らせてもらいましょう。こんなことがあったのだから、高臣さまだって、承知してくださるわ」
「何を言ってるの? 妃になれるかどうかの瀬戸際よ。これしきのことで諦めちゃだめよ」
「ナツまで危険な目に合わせたくないのよ」
「わたしなら、ほら、このとおり大丈夫」
 褥をはねのけ、ナツは立ち上がった。
「あぁ、あ・・・」
 ナツが顔を歪めた。
「ちょっと、厠に行ってくるわっっ」
 夜着の裾を膝までたくし上げて、ナツは走って局を出て行った。
 薬師の調べで、毒は腹を下す作用のもので、命にかかわるようなものではないと分かった。
「ほうらね、大事ないわよ。誰かの悪戯よ」
 ナツは腹をさすりながら言う。
「悪戯にしては、質が悪いわ」
「まあ、呪詛札の方がまだマシだわねぇ・・・」
 ナツはまだ凝りていないようだ。起き上がれるようになると、女官の手をかりて女房装束に衣装を改め、一条宮家の姫君の侍女でいようと努めていた。
(ここは危険だ・・・)
 ナツだけでも、厨房に戻ったほうがいいと考え始める沙羅の傍らで、ナツは硯箱を用意し、高臣から届けられた白い料紙を広げた。
「絵をたしなむ姫っていうのも、なかなか粋よ。これで薫物合の失敗を挽回しましょ」
 ほらほら、とナツは沙羅に筆を握らせる。
「ええ・・・?」
 仕方なく、沙羅は文机の前に座った。
 猫を描いてみようと思った沙羅は、首を回してクロを探した。
「クロちゃん、きょうはどこに行ったのかしら?」
 クロはときおり姿を消したかと思うと、何時も経ってから何事もなかったような顔をして帰ってくることが度々あった。
「どこかの殿舎の女房に可愛がられているのかも・・・」
「猫は人たらしっていうしねぇ」
 
       ◇◇◇
 
 巻物を眺めていた帝は、ふと、小さな足音に気づいて顔を上げた。
「んん? クロか、今日はここで過ごすのか?」
 帝はクロを膝に抱いて、まるまった背を幾度か撫でた。
「お前がいなかったら、沙羅を見つけ出すことはできなかったろうな・・・」
 クロは、翡翠の眼で帝の顔を見上げた。
「まさか、こんな近くにいようとは・・・」
 帝は床に広げた巻物を手に取った。
「この絵物語は、むかし沙羅に読んでやったものだ」
 猫は「みゃ」と、小さな声で応えた。
「まさか六郎と呼ばれた自分が、帝位に就くなど、誰が想像しただろうか・・・」
 遠くで鳴る寺の鐘を聞くと、いつも大恩寺で過ごした子供の頃を思い出す。
 苔むした寺の庭。風に揺れて鳴る大松の葉擦れの音。宿坊の屋根を打つ雨音も、すべてが懐かしいと思われた。
「この物語は、美しい姫が天女に連れられて空に帰るところで終わっている・・・。別れとは、いつもこんなふうに突然に訪れるものだな・・・」
 先帝の皇子として生まれながら、母の身分が低いために皇籍を離れて隠遁生活を送っていた少年時代。随身は、初老の男一人だった。
 母の臨終にも立ち会えず、死後一年もした後に死亡の知らせだけを受けた。
 現世に己一人というあの孤独を、誰が分かち合ってくれるだろう。
 寺の雑仕女であった幼い少女が、心の慰めだった。
 少女は寺の雑役をこなしながら、朝夕に宿坊へ膳を運んでくる。
 寺の庭で顔を合わせると、はにかみながらも嬉しそうに笑った。
 聞けば、自分は寺の門前に捨てられていた捨て子だと話していた。和尚に拾われ、そのまま寺の雑用をしているという。
 子猫を拾って、和尚に隠れて二人で世話をした。
「なあ、クロ。沙羅は記憶を亡くしているというが、わたしのことも、お前のことも、覚えていないのか?」
 あの六郎が、帝位に就いているなど、想像もしないだろう。
 都に流行病が蔓延し、先帝が身罷り、兄たちまでも病に倒れると、祖母である女院によって、突然、宮殿に連れ戻された。
 都の貴族、臣下たちは、もはや女房腹の六番目の皇子の存在など、とうに忘れてしまっていた。
「第六皇子・・・?」
 みなが眉をひそめた。
 先帝の皇后であった女院は、藤原の出で、源氏に皇統が移ることを憂いて、誰もがその存在を忘れていた皇子を担ぎ出した。
「そう、まだ十二歳のわたしは、女院様の言われるままだった・・・。しかし、今は成人して摂政の任も解いた。妃選びは女院様の意向だが、妃はわたしの妻なのだ。心映えよく、優しい人であってほしいというのは、我儘か・・・」
 いっそ、源氏の血筋の皇太子に位を譲り、退位してもよいと思う。
「主上・・・」
 高臣が訪れ、御簾の外で片膝をついた。
「中へ」
「は・・・」
 高臣は御簾をくぐると、帝の膝で丸くなるクロに視線をやった。
「今日はこちらに?」
「うむ、久しぶりに訪ねてきてくれた。あちらは、どのような様子だ?」
「菓子に毒が盛られて、ひと騒ぎございましたが・・・」
「毒だと?」
「いえ、沙羅様はご無事でございます。菓子を食したのは侍女の者でしたので・・・」
「死んだのか?」
「いいえ、腹を下しただけでございました」
「誰の仕業か?」
「大納言の姫によれば、おそらくは、左大臣のあたりかと・・・」
「恐ろしい目にあわせてしまったようだな・・・」
「厨房に帰してほしいと懇願されましたが、なだめて参りました」
「沙羅が厨房で雇われていた経緯は、何かわかったのか?」
「これは、わたしの憶測も含まれますが─」
 高臣はそう前置きをしてから、話し始めた。
「もはや大恩寺は廃墟の様相です。盗賊に襲撃されたという話が事実なら、沙羅さまはその折に賊に捉えられ、奴婢として売られてきたのではないでしょうか?」
「それなら、つじつまが合うな・・・」
 帝はクロを抱き直し、翡翠の眼を覗き込んだ。
「おまえは沙羅に懐いていたからな。沙羅を追って、宮殿まできたのか?」
 クロは「みゃ」と、小さな声で答えた。

        ◇◇◇

「どぉ? いい絵は描けた?」
 筆を走らせる沙羅の手元を、ナツが覗き込んだ。
 とうに夜は更けている。
 沙羅は燭台の灯の元で、無心に筆を走らせていた。
「初めて筆で絵を描くようには見えないけど・・・」
 ナツは感心したように呟く。
「そうよね、変なのよ。だって、筆で絵を描いたことなんてないはずなのに、手が勝手に動くのよ」
 沙羅の向かいには、クロがちょこんと座っている。自分の役割を心得ているかのように、身動きせずにじっとしている。
 沙羅はそのクロの肢体を見ながら、筆をするすると走らせていた。
 描き上げた沙羅の絵は、猫が片手を口元にやって毛づくろいをしている、愛嬌のある黒猫の姿絵だった。
「やっぱり、こんな絵、前にも描いたことあるような・・・」
 迷いなく描いたクロの姿絵に、沙羅は強い既視感を感じた。
「でも、筆で絵を描いたことなんてない、て言ってたじゃない?」
「そうなんだけど・・・」
「うーん、たしかに・・・初めて描いたにしては上手すぎる気もするわねぇ・・・」
 ナツは手燭をかざして、沙羅の絵を灯りに晒した。
 細かい筆致、淡墨の滲みや濃淡が、玄人じみていた。
「まぁ、でも、そんなことはいいんじゃないの? 上手いに越したことないんだから。これなら帝もご覧になって喜ばれるかもよ」
 ナツは満足げにほくそ笑む。
「うん・・・、そうね」
 沙羅はようやく筆を置いた。
 そろそろ休もうと、夜着に着替えて褥に入ろうとしたところだった。
 静寂に包まれた殿舎に、女たちの悲鳴が沸き上がった。
「なに・・・!?」
 几帳を隔てた向こうで寝ていたナツが飛び起きた。
「何かしら? 様子を見てくるわ。ここで待ってて」
 ナツが夜着のまま局を飛び出して行った。
 すぐに舞い戻ったナツは、
「火事よっっ」
と、血相を変えて報告した。
「火事? どこ?」
「となりの南舎よ!」
 簀子に出てみると、壺庭の向こう、隣の建物から赤い炎が見えていた。
「逃げなくちゃ!」
 ナツが沙羅の手を取った。
「待って、クロちゃんが・・・」
 沙羅は慌ててクロを探した。
 煙の臭いが鼻をついた。
「何をしているんですか? 早く逃げられよ。風向きが悪い。こちらに火が回るかもしれませんぞ」
 簀子を足早に渡ってきた大納言の姫が、取り乱す沙羅とナツを促す。
 詰めていた女官たちも足早に避難していく。
「猫はすばしっこいから大丈夫よ。とにかく逃げなきゃ!」
 ナツが催促するが、沙羅は茫然としたように右往左往し始めた。
「火事よー」
「火事だぁー」
 遠く近くで、悲鳴ともつかない声が上がっている。
 沙羅には人々の声が、現のものとは思えなかった。
「クロちゃん・・・」
 呟きながら、沙羅は、階を駆け下りて火の手の上がる南舎に向かって走り出した。
「沙羅っ!? どこへ・・・」
 ナツの叫び声は、沙羅の耳には届かなかった。
 
 逃げてくる女官たちとぶつかりながら、沙羅は裸足で走った。
 南舎を燃やしていく炎が、沙羅の記憶を揺さぶった。
「和尚様・・・?」
 呟いた沙羅の視界に、血しぶきが散った。
 賊の一刀で、和尚の袈裟が血に染まった。
「ぐわぁ・・・」
 呻き声を聞いた気がした。
 雑仕人の死体が境内に転がっていた。
 本堂に放たれた火が、火の粉を吹きながら勢いよく吹き上がった。
 沙羅は猫を抱いて、鐘楼の陰に息を潜めてうずくまった。
 寺に押し入った賊人は複数人いたように思われた。
 やがて、夜の闇から賊人の気配が消えたような気がした瞬間だった。
 頭の後ろに何かで打たれたような、大きな衝撃が走った。
 
       ◇◇◇

「東殿で火が?」
 帝が問うと、
「例の姫は、火の手の方へ走っていきましたよ」
大納言の姫は呆れたように答えた。
「なんだって?」
 帝は立ち上がると、控えていた女官を振り返った。
「直衣を」
 女官がすぐさま白い直衣を捧げてくると、
「それではなく、常の直衣を」
帝は改めて、指図した。
「どちらへお出ましに?」
 大納言の姫が眉を顰めた。
「東殿だ」
「あちらは衛士や舎人が消火をしております。こちらの正殿まで火が回ることもないですし」
「沙羅が気になる・・・」
 帝は二藍の直衣を着付けさせると、付き従う女官たちに「共は無用」とだけ言いおいて、一人で正殿を出た。
 帝の証の白い御引直衣では素性が隠せないため、色直衣で身分を隠した。女官たちも帝の顔を知るものは上級女官たちだけなので、逃げるのに必死な女官たちは、渡殿を足早に進む帝を誰も不振に思わない。
 帝が目にしたのは火の粉を上げる南舎だったが、すでに炎の勢いは衰えて初めている。衛士や舎人の掛け声だけが、煙の中で賑わしく響いていた。
「高臣ではないか」
 帝は階を降りて、声をかけた。
 高臣は南舎で消火に当たる衛士たちの間で、何かを探すように右往左往していた。
 帝の声に振り向いた高臣は、
「主上・・・?」
驚いて一瞬、瞠目した。
「なにゆえ主上がこんなところへ? 火は衰えていますが、まだ油断はなりません。危のうございます」
「沙羅はどうした?」
「いま、お探ししているところです」
「探す? いないのか?」
「姿がみあたりません。侍女の話では、火の手の上がる南舎の方へかけて行ったというのですが」
「どういうことか、なぜ火の手の上がる南舎へ・・・」
 帝は眉を顰めた。
 そのとき、足元の暗がりでチリンと小さな鈴の音が鳴った。
 見ると猫のクロが、「みゃー、みゃー」と翡翠の眼でじっと見上げてくる。
「沙羅の居場所を知っているのか?」
 帝が問うと、クロは誘うように駆け出した。
 帝はクロの後を追った。高臣もそれに続いた。
 クロは衛士や舎人、火事を見守る野次馬の人だかりを抜けて、門をいくつかくぐると、やがて宮殿を囲うように巡る築地塀を飛び越えて姿を消した。
「宮殿の外です」
「馬を」
「馬ですか?」
「クロを追いたい」
「馬に乗るなど、危のうございます」
「忘れたか? 私は『六郎』だったのだぞ。そなたより乗馬は上手いくらいだ」
 帝が頑として言うので、高臣が馬を引かせてきて、二人は馬上の人となった。
 宮門を出たところで、クロは二人を待っていた。
「やはり我々を案内しようというのでしょうか?」
「違いない。クロは沙羅を主人と思っている」 
 
        ◇◇◇

「和尚様・・・」
 沙羅は廃墟となった寺の前に佇んでいた。
 半ば崩れた土塀の隙間から境内に入ると、茫々と草の生い茂る荒地が月の明かりに照らされて広がっているだけだった。
 賊に火を放たれた境内には、もはや本堂も、いくつも棟を並べていた宿坊も跡形もなく無くなっている。
 ただ、鐘楼の礎石だけが草間に侘びしく残っていた。
「クロちゃん・・・」
 鐘楼の陰で、猫を抱いて西の山際に沈む夕陽を眺めた。
 隣には、誰かがいた。
「誰・・・? あの少年は・・・」
 沙羅は裸足を草間に踏み入れると、おぼつかない足取りで鐘楼の礎石に近づいた。
(あの少年はの名は─)
 喉元まで出かかった名がある。
 そう思った瞬間、何者かに突き倒されて沙羅は地面に転がった。
 黒い影が馬乗りになって、沙羅の手足を抑えつけた。
 恐ろしい力で、抗う沙羅を封じた。
 何度か頭部を殴られた気がしたが、恐怖で痛みを感じるどころではなかった。
 黒い影は忙しなく、沙羅の夜着を剥いていく。
「きゃっ!」
 沙羅が声を上げるたび、黒い影は沙羅の顔を殴った。
 沙羅は遠のいていく意識の端で、「みゃあ」という猫の声と、馬のいななきを聞いたような気がした。

         ◇◇◇

 帝は横たわる沙羅の傍らに片膝をつくと、はだけた夜着の前を合わせてやった。
「沙羅・・・?」
 呼びかけると、沙羅はうっすらと目を開けた。
「怯えるな、わたしだ」
「・・・」
「六郎だ」
「六郎・・・?」
 うつろな視線で沙羅の眼は帝の顔を捉えたが、月光の影にその面輪は隠されていた。
 しかしその声が、帝のものではないかと沙羅は朦朧とする意識の中で感じた。
(帝がなぜここにいるの・・・?)
 「みゃ・・・」という猫の声が耳元で小さく鳴った。
(クロちゃん・・・? クロちゃんもいるの?)
 顔をわずかに傾けると、翡翠の眼が月光を孕んできらりと光った。
「危ないところだった。高臣、賊人はどうした?」
「衛士が追っております。おそらく物取りではなく、女を襲う輩でしょう」
「だろうな。若い娘など、すぐに餌食にされてしまう」
 帝はすっと両腕で沙羅を抱き上げると、自らの馬に跨り、沙羅を抱いたまま手綱を握った。
「宮殿に戻る」
 帝は言って、馬の腹を蹴った。
 高臣と数人の護衛も馬に跨り、帝に続いた。

        ◇◇◇
 
 沙羅が目を覚ました時、御簾越しに、午後の日差しが室内を明るく照らしていた。
 寝かされている寝所は、見覚えのある自分の局ではなく、大きな屏風が並べ立てられた厳かな空間だった。
 几帳の陰に人の気配は感じるが、ただ、静かだった。
 沙羅が身を捩りながら半身を起こすと、几帳の向こうに控えていた女官らしき者たちが動き出した。
「お目覚めになられたようにございます。主上にお伝えくださいませ」
 そんな声が伝達されていくのが聞こえた。
「ん・・・」
 沙羅は、小さく呻いた。体中に痛みがあり、何とか半身を起こしたものの、首を回すことことさえままならない。
 間もなく、
「主上のおなりにございます」
女官の声とともに、衣擦れの音が近づいてきた。
 御簾が巻き上げられ、白い御引直衣の帝が姿を現した。
 帝は沙羅のいる畳の縁に片膝をつくと、切れ長の細い目で静かな眼差しを沙羅に向けた。
(帝・・・?)
 畏れ多いと、沙羅は褥をはね退けて正座をすると、両手をついて頭を垂れた。
「横になっていなさい。少しばかり、昔語りをしようと思ってきただけだ」
 帝は沙羅が頭を上げると、自身は胡坐をかいて座り直した。
「どこから語ればいいものか・・・」
 前置きをしてから、女官に命じて筆と紙を用意させた。
 帝は白い紙に、『沙羅』と、二文字の漢字を大きく書いた。
「そなたの名だ」
「はい・・・」
「大恩寺の和尚が、そなたに名づけたものだろう。わたしが何度も手習いをさせて、そなたに教えてやった漢字だ」
「大恩寺・・・」
「そして、わたしはかつて『六郎』と呼ばれていたのだよ」
 大恩寺、六郎─。
 耳馴染みのある音だった。
「八年前、わたしがまだ帝位につく前に、大恩寺で過ごした時のことを語ってみよう」
 沙羅は小さく頷いた。
「わたしは八つ、そなたはまだ六つだったか。寺の下働きをしていたようだったが、宿坊で隠遁していたわたしの元へ、朝夕に食膳を運んできていた。そして、わたしの絵巻などを見つけては読んで聞かせろとせがんできた・・・」
「覚えております・・・」
「苔庭に寝転んで絵を描いたり、詩を諳んじたことも?」
「はい・・・」
「子猫を拾って、和尚に隠れて育てたことも?」
「はい・・・。黒い猫だったので、クロと名付けました・・・」
「思い出したのか?」
「はい、昨夜の南舎の火事で、思い出しました・・・。あの夜、寺に盗賊が押し入り、和尚様が斬られたことも、鐘楼にクロちゃんを抱いて隠れたことも。それから、火を放たれて焼け落ちていく本堂も・・・」
「賊人が押し入ったのは、ちょうどわたしが大恩寺を去って間もなくのことだった」
「気が付けば、わたしは宮殿の厨房で働いていました・・・」
「賊人につかまり、売られてきたのだろう。巷ではいまだ奴婢の売買が横行している」
「十年も、記憶もないまま厨房で働いてきました・・・。でも一つ、どうしても分からないことが・・・」
 面を伏せていた沙羅が、わずかに顔を上げた。
「なんだ、遠慮はいらない。聞きたいことがあれば、なんでも聞くがいい」
「なぜ、厨房の下女だったわたしが、妃選びに加わることになったのかと・・・」
「わたしが命じたからだ」
「え・・・」
「わたし、というより、『六郎』が命じたといってもいい」
 六郎という名が、沙羅は大好きだった。
 上等な狩衣を着ていた六郎を、寺の雑仕人たちは『六郎君』と呼んでいた。
 寺に捨てられ、和尚の情けで養われていた孤独な沙羅は、何でも知ってる六郎を兄のように慕っていた。
「『六郎』は、女房腹の皇子で、僧侶になるしかない身の上だったからな。みなが遠巻きにするのもかまわず、ついて回る少女が愛らしくてたまらなかった・・・。宮殿に連れ戻され、位についた後も、沙羅という少女のことを度々思い出していた」
「畏れ多いことでございます・・・」
 沙羅が平伏すると、帝はさっと沙羅の肩に手を添えて支え起こした。
「今は『六郎』と話をしてくれ」
「それは、難しく思います・・・」
「ならば、『帝』として聞くが、もしもわたしがそなたを妃に選んだら、どうする?」
「ありえません・・・。孤児で、厨房の下女だったわたしが妃だなんて・・・」
「わたしは、大恩寺で過ごした日々の続きを、今から始めたいと思っている。女院さまの命令で、何の前ぶれもなく、さらわれるように宮殿に連れてこられた。あの時、途切れた日々の続きを、今からでも、ここで始めたいと思っている」
 帝が沙羅の目の前に手を差しだした。
 幼い頃、手を引かれて歩いた境内の石畳の小径。
 差し出されたこの手を取ったら、あの小径の続きを歩けるのか─。
「これは帝の手ではなく、『六郎』の手だとしたら、そなたはどうする?」
 帝は言うが、沙羅には『帝』の手にしか見えない。
 創ひとつない美しい長い指。
 あかぎれの痕と傷で荒んだ自分の手は、あまりにもふさわしくないと沙羅には思えた。
 ただ沙羅は、その美しい手をはっきり拒む勇気もなかった。
 帝がはそっと、膝の上で震える沙羅の手の甲に己の手を重ねると、ゆったりと立ち上がった。
「まずは、体をいたわりなさい」
 御引直衣の裾を翻し、室から出て行った。
 憂いを纏うような帝の後姿を、沙羅は見送った。
 
         ◇◇◇

 沙羅が東殿の局にも戻ったとき、出迎えたのはクロだった。
 クロは「みゃ」と声を上げた。
「クロちゃん、ありがとう。クロちゃんのおかげで、助かったのよ。寺が襲われたときも、一昨日の火事のときも、いつもクロちゃんが助けてくれたのね・・・」
 記憶を取り戻し、クロが大恩寺で拾った子猫だったのだと、沙羅はようやく気が付いた。
「てっきり、厨房にご飯をおねだりにきた猫だとばかり思ってたの・・・」
 沙羅はクロを抱き上げて頬ずりした。
「ナツは・・・どこかしら?」
 振り返って、高臣を見た。
 帝の正殿の控えの間で養生していた沙羅を、局まで送ってきたのは高臣だった。
「侍女殿は今、取り調べを受けております」
「え・・・、取り調べとは、どういうことですか?」
 沙羅は慌てた。
「火事のおり、火元の南舎をうろついていたところを、捉えられたようです。放火の疑いがかかっております」
「そんな、ナツが放火だなんて」
「放火は重罪ですので・・・」
「ナツが放火などするはずがありません。南舎から火が出たとき、ナツはわたしが絵を描くところを、ずっと傍らで見ていたのですから」
「ではなぜ、みなが逃げ出した南舎をうろついていたのです?」
「わたしのせいです。きっと、わたしを探して、南舎に行ったのです」
「誰か他に、証言できる者はおりませんか? 沙羅様の言葉だけでは・・・」
 高臣は難しい顔をした。
「帝に会わせてください」
「帝に?」
「帝に直に、お願い申し上げます」
「・・・わかりました。朝議の終わりを待って、お伝えしましょう」
 高臣の計らいで、沙羅は帝と対面した。
 一段高い御座所に胡坐をかくように座した帝の前で、沙羅はひれ伏した。
「ナツが、侍女のナツが、放火の罪で取り調べを受けているとききました。無実でございます。どうかすぐにご赦免をいただけませんでしょうか」
「そなたの侍女が?」
「はい、侍女と申しましても、わたしには大切な友であり、厨房で働いていたおりには、何度も助けられた恩人でもあります」
「・・・」
 帝は黙って、床に額を付ける沙羅を見下ろした。
「そのように慌てて何かと思えば・・・。少し落ち着くといい」
「落ち着いてなどいられません。放火は重罪だとききました。ですが、ナツは放火などしておりません」
「主上」
 沙羅の後ろに控えていた高臣が声をかけた。
「大納言の姫に、火事のおりのことをきいてみましょう。同じ北舎に居たのですから、何か知っているかもしれません」
 高臣の提言で、すぐさま大納言の姫が呼ばれた。
 大納言の姫は、ちらと沙羅を見、それから衣装の裾をはらいながら、ひれ伏したままの沙羅の隣に座した。
「一条宮家の姫の侍女・・・、あの瓜顔の女のことでしょうか?」
「そうです。その瓜顔の者です」
 沙羅は即座に答えた。
「でしたら、火事の折、北舎から退こうとしたときに見かけました。一条宮家の御方を追って、南舎の方へ走っていきました」
 淡々として、大納言家の姫は語った。
「それなら、南舎で火の手が上がったときに、沙羅様の侍女は北舎にいたことことになりますね」
 高臣が口を添えた。
「はい、確かに北舎でわたしと一緒にいたのです。放火など、できるはずがありません」
 沙羅が重ねて、平伏する。
 すると帝は、声をたてて笑った。
「いい加減に頭を上げよ、沙羅。大納言の姫がこう証言するなら、そなたの侍女は無実であろう。放免するよう、取り計らおう」
「あ・・・、ありがとうございますっっ」
 沙羅は帝が言うのとは逆に、さらに何度も額を床に打ち付けた。

        ◇◇◇

「これで妃選びの茶番は終わりですか?」
 大納言の姫が、ふぅ、と息を吐きながら、長い黒髪の鬘を外した。
「そろそろ陽気もよくなって、暑苦しくてたまりません」
「そなたの女っぷり、見事だったな。ずっとそうしてくれていたら、目の保養になるのだが、惜しいものだ」
「いい加減にしてくださいっ。もうまっぴらですよ」
「妃は沙羅様にお決めになりますか?」
 高臣が問うと、帝は首を振った。
「いや、沙羅は妃にはしない」
「何故です? 一人でも選ばねば、女院様が納得されません」
「沙羅のことは考えてある。妃は、三篠宮家の姫とする。大納言の姫が言うとおり、三篠が無難というのもしかりだ。左右大臣の姫たちの気の強さは、政局に障りかねない。女院様も、三篠宮家の姫なら、よしとされるだろう」
「ご本心は、例の姫をお望みなのですよね。亡き中宮様にも似ているというではありませんか」
 大納言の姫が、坊主頭を掻きながら言う。
「少々違う・・・。沙羅が中宮に似ているのではなく、中宮が沙羅に似ていたのだ・・・」
 帝は端正な面輪に、憂いを忍ばせた微笑を浮かべた。
 程なくして、三篠宮家の姫は女御として入内するべし、と公に宣旨が出された。

 取り調べから解放されたナツが、沙羅の局に戻った。
「ナツ・・・」
 少しやつれた様子のナツだが、沙羅の顔を見ると、ぱぁっと表情を明るくした。それから一瞬の間を置いて、沙羅に抱きついた。
「沙羅っ! 無事だったのね・・・。心配したのよぉ。火の中に飛び込んで行くんだものぉ」
 ぽろぽろと大粒の涙をこぼして、自分に降りかかった災難よりも、沙羅の無事を喜んだ。
「心配したのはこっちよ・・・。でも、ナツ、ありがとう・・・」
 沙羅の頬にも、涙がつたった。
 取り調べでひどい目に会わされただろうナツだが、それをことさらに沙羅の前で語るようなことはしない。ナツの性分を分かっている沙羅は、つぶさに問うようなことは敢えてしなかった。
「お妃選びも終わったことだし、これで厨房に戻れるわね」
 ナツは、これが最後とばかりに上等な菓子を口に頬張っていた。
「わたしが妃じゃなくて、残念じゃないの?」
「もうこんな所はこりごりよ。南舎であんたを探してたら、いきなり捉えられて縄で縛りあげられたのよ。大人しく水汲みしてりゃ、食いっぱぐれもないし、なんてったって、気が楽だわ。実はこの女房姿も、重くてうんざりしてたのよぉ」
「よかった・・・。高臣様にお願いして、厨房に帰してもらいましょう」
「うんうん、それがいいわ」
 ところが、高臣が沙羅の局を訪れて伝えたのは、まったく予想しないものだった。
「沙羅様には、正殿にて帝の側仕えの女房としてお仕えしていただくことになりました」
「え・・・側仕え、ですか?」
 沙羅は困惑した。
「それは、つまり正殿の女官になるということですか?」
 ナツが横から身を乗り出した。
「いいえ、少々違います。公の女官ではなく、帝の私的な側仕え、つまり、お話相手のようなものと言って差し支えないでしょう」
 ナツが顰面になった。
「じゃあ、わたしは沙羅と一緒にいられなくなるということですよねぇ?」
「沙羅様の侍女のままでかまいませんよ。帝の側仕えともなれば、言ってみれば上級女房と変わりありません。身の回りの世話をする下仕えの者が必要です」
 沙羅とナツの顔が同時に明るくなった。
「それじゃ、これからも高臣様とお会いする機会があるということねぇ・・・」
 高臣が去ったあと、ナツがほんのり顔を赤らめて呟いた。
 
 帝の常御殿、正殿で仕えることになった沙羅は、ナツの手を借りて正装に衣を改めると、緊張しながら簀子を渡り、帝の御在所に向かった。
 沙羅が妻戸の前で立ち止まると、女官が頭を下げて静かに妻戸を開いた。
 長い裳を引きながら、沙羅はゆっくりと帝の前へ進んだ。
「よく来たね。あの調子では、側仕えさえも断られるかと思ったのだが」
 帝は畳に設えられた上段の座ではなく、床に直に胡坐をかいていた。
 衣は白い御引直衣ではなく、色直衣。六郎がよく来ていた藍の狩衣と同じ色だった。
「八年前は、この物語の途中だった・・・」
 帝は床に広げた、一幅の絵物語を扇でなぞった。
「そなたと続きを読みたかったのだ。そのため、わたしも、この物語の先はまだ読んでいない。いつかそなたと続きを読むために、そなたを探していた。あの日、池の畔でクロを見かけなかったら、厨房にいたそなたを探し当てることはできなかっただろう・・・」
 チリンと鈴を鳴らして姿を現したクロは、それが当たり前のように帝の膝の上に乗ると、「みゃ」とひと声挨拶をした。
「なぁ、クロ。おまえは本当に主人をよく助ける」
 かつて六郎がそうしていたように、帝はクロの首元を指先で撫でた。
「ご厚恩、感謝いたします・・・」
 沙羅には他に、ここで言うべき言葉が見つからなかった。
「そなたは自由だ。もう売られた下女でもなく、わたしの妃でもない。望めば好きな男の妻になるのもよい」
「いいえ、わたしは・・・生涯、六郎君のお傍にいたいと思います」
「なら、幸いだ。さて、続きを読んでやろう・・・」
 促され、沙羅は帝の隣で絵巻を覗いた。