──目を合わせ、初めまして、と告げた瞬間の彼の顔を、きっと生涯忘れない。
白雪を被った山々のすそ野に、茅葺き屋根の家が寄り添う小さな集落がある。ひときわ大きな屋敷が里長の住まいだ。
そこで雪華は数年前から女中として住み込みで働いている。
この日は帝都から来る客人を迎える為に、特別に朝から忙しく動き回っていた。
雪華が来客用の布団を抱えて客間へ向かう途中、同様に布団を持った先輩がそっと横に並んだ。そして耳打ちされる。
「えっ、いらっしゃるお客様って陰陽師なんですか⁉」
雪華は思わず大声をあげた。すぐに白手袋で覆った両手で自分の口を塞ぐが、布団がすべり落ちてしまう。
叱責が飛ぶ前に詫びて布団を拾うと、雪華を咎める言葉を溜め息に変えて先輩は頷いた。
「それも、あの朱燈家の方らしいわ」
「そ、そんな名門のお方がこんな田舎へどうして……?」
「あら雪華さん、知らないの? この前の雪祭りの日に、お祓いさんの娘さんが消えたの」
この国には、あやかしを取り締まる陰陽師が各地にいる。『お祓いさん』とは地域に駐在する陰陽師の愛称だ。
「消えたって……」
「あやかしが拐かしたって話なのよ。噂では雪女の仕業ですって」
「……へー。雪女、ですか」
わずかに雪華の表情が硬くなるが、ほんの些細な変化で先輩は気づかない。
それから興が乗って話を続ける先輩に適当に相槌を打っていれば、その声を聞いて、通り掛かった女中頭に一喝される。揃って首をすくめ、慌てて準備へ戻った。
しかし先ほど聞いた話が雪華の頭から離れない。雪女の仕業など絶対にあり得ない、とかぶりを振って気持ちを切り替えた。
なにせ、この辺りに暮らす雪女は雪華だけなのだ。
十年前まで、この瑞穂ノ国では人間の隣に常に“あやかし”がいた。今では敵対関係にあるが、互いの不得手を補い合って繁栄した長い歴史がある。
そんな世で雪華はあやかし──雪女として生まれた。
彼女の日焼けを知らない雪の肌や、腰まで届く濡羽色の長髪こそ、典型的な雪女の特徴だ。けれど毛先が緩く波打つ髪も、『可憐』という表現が似合う幼さの残る顔立ちも、『美しい』や『あでやか』の代名詞である雪女とは対局にある。
だからか雪華の正体を見抜いた人間はいない……その筈だった。
「お前か。妙に動き回る気配は」
来客を迎える準備を整えた後は、言葉巧みに彼らの前に出る仕事を回避した。近づく気配には遠回りして、曲がり角や部屋を出入りする際は鉢合わせに注意した。
そうして夕暮れまでやり過ごして、ひとり廊下を歩く雪華が少し気を抜いた瞬間のことだ。計ったように背後から腕を掴まれた。
驚き振り向けば、剣呑な三白眼で雪華を見おろす男がいた。
年頃は二十代半ばか。短い黒髪を後ろへ撫でつけ、陰陽師の制服をきっちり着込んでいる。その制服越しでも引き締まった体躯なのが伺えた。
「我々と遭遇する前に必ず道を変えたな。なぜ逃げる?」
「なんの話でしょう……?」
「おれは気配に敏感なんだ。だから不審な動きの気配も特定できる」
この人はまだ正体までは掴んでない。冷や汗をかく一方でそう分析した雪華は冷静だった。
そんな雪華の余裕を察したように、腕を握った男の手に力がこもる。雪華は痛みに顔をしかめ、とっさに腕を引くが、びくともしない。
「答えろ。それとも後ろめたい理由でもあるのか?」
「い、いえ、なにも」
「ならば──いや待て。お前のこの気配……」
「なにをしている」
不意に静かな声が男の声を遮った。男ははっと体ごと振り返る。
「朱燈さん」
雪華の息が一瞬止まる。視線が絡めば、男のそばに立つその青年もまた、目を見張った。
青年の玉の肌や繊細で儚い面差し、隣の男と比べても細身の体つきは、楚々とした雰囲気をかもす。だが涼しい目もとや美しい姿勢が凛々しさを与え、中性的な魅力が絶妙だ。
なにより特徴的なのは、世にも珍しい鮮やかで艶のある赤い髪だろう。陰陽術の発現に必要な霊力が、飛び抜けて豊富なことを示している。
雪華は思わず見惚れたが、すぐ正気に戻って、彼がなにか発する前に声をあげた。
「お初にお目に掛かります、朱燈様」
掴まれた腕にお辞儀を諦めた雪華が目礼をする。
青年はひとつ瞬きすると、次いで愛想よく微笑んだ。
「──初めまして。朱燈良夜と言います。あなたの名前を聞いても?」
「……雪華と申します」
「雪華さん。僕の部下が無礼を働き、すみません」
青年、改め、良夜が男を一瞥すれば、すぐに男は雪華から手放した。
安堵と同時に湧いた哀愁が胸を刺す。雪華は堪らず目を伏せた。
「やっと見つけた」
ぞわり、と急に雪華の背筋に冷たいものが走る。
(今、なんて……?)
雪華が良夜へ視線を戻すも、彼の意識はもう横の男に移っていた。
「それで、烏丸は彼女になにを?」
「はい。ご報告した『我々を不審に避ける気配』を捕えて、聴取しておりました」
「そう。で結果は?」
「黒寄りの灰色です。この者の気配は、あやかしと酷似しています。よほど力が強いか、混血かと」
共存の時代を経て、あやかしの多くは人間の姿を真似る術を覚えた。特に力のあるモノは匂いや気配すら変化でき、雪華も男こと烏丸の予想どおり、気配を偽装して世を忍んでいた。
完璧に取り繕った雪華の正体を看破した烏丸に警戒が増す。
「あの、わたし……違います。あやかしじゃありません」
「抵抗するな。たとえ本当に人間でも、陰陽師を害せば罪になるぞ」
「そんな、横暴です!」
そのとき、パンッと乾いた音が響いた。手を叩いて注目を集めた良夜は、とても綺麗な笑みを雪華へ向ける。
「じゃあこうしよう。雪華さん、あなたには僕と一緒に行動してもらう」
「……はい?」
「朱燈さん、それは……」
「大丈夫。いざとなれば責任をもって──僕が祓うよ」
つまり良夜は監視役だ。わずかでも化けの皮が剥がれれば、きっと命はない。そう嫌でも悟った雪華は身を固くした。
笑顔のままだが、雪華を見る眼光は冷たく鋭い。当事者でない烏丸すら気圧されるほど。
かと思えば次の瞬間けろりと笑った良夜は、はたと自身の拳で手を打った。
「そうだ。せっかくなら調査に協力してほしいな。よそ者の僕達より信頼関係や土地勘があるし」
「えっ?」
「なるほど、妙案ですね。使えるものは使いましょう」
「でも」
「あなたの雇い主には僕から言っておくね」
まるで拒否権がない。陰陽師二人分の圧力に雪華は肩を落とした。
「……わかりました」
白雪を被った山々のすそ野に、茅葺き屋根の家が寄り添う小さな集落がある。ひときわ大きな屋敷が里長の住まいだ。
そこで雪華は数年前から女中として住み込みで働いている。
この日は帝都から来る客人を迎える為に、特別に朝から忙しく動き回っていた。
雪華が来客用の布団を抱えて客間へ向かう途中、同様に布団を持った先輩がそっと横に並んだ。そして耳打ちされる。
「えっ、いらっしゃるお客様って陰陽師なんですか⁉」
雪華は思わず大声をあげた。すぐに白手袋で覆った両手で自分の口を塞ぐが、布団がすべり落ちてしまう。
叱責が飛ぶ前に詫びて布団を拾うと、雪華を咎める言葉を溜め息に変えて先輩は頷いた。
「それも、あの朱燈家の方らしいわ」
「そ、そんな名門のお方がこんな田舎へどうして……?」
「あら雪華さん、知らないの? この前の雪祭りの日に、お祓いさんの娘さんが消えたの」
この国には、あやかしを取り締まる陰陽師が各地にいる。『お祓いさん』とは地域に駐在する陰陽師の愛称だ。
「消えたって……」
「あやかしが拐かしたって話なのよ。噂では雪女の仕業ですって」
「……へー。雪女、ですか」
わずかに雪華の表情が硬くなるが、ほんの些細な変化で先輩は気づかない。
それから興が乗って話を続ける先輩に適当に相槌を打っていれば、その声を聞いて、通り掛かった女中頭に一喝される。揃って首をすくめ、慌てて準備へ戻った。
しかし先ほど聞いた話が雪華の頭から離れない。雪女の仕業など絶対にあり得ない、とかぶりを振って気持ちを切り替えた。
なにせ、この辺りに暮らす雪女は雪華だけなのだ。
十年前まで、この瑞穂ノ国では人間の隣に常に“あやかし”がいた。今では敵対関係にあるが、互いの不得手を補い合って繁栄した長い歴史がある。
そんな世で雪華はあやかし──雪女として生まれた。
彼女の日焼けを知らない雪の肌や、腰まで届く濡羽色の長髪こそ、典型的な雪女の特徴だ。けれど毛先が緩く波打つ髪も、『可憐』という表現が似合う幼さの残る顔立ちも、『美しい』や『あでやか』の代名詞である雪女とは対局にある。
だからか雪華の正体を見抜いた人間はいない……その筈だった。
「お前か。妙に動き回る気配は」
来客を迎える準備を整えた後は、言葉巧みに彼らの前に出る仕事を回避した。近づく気配には遠回りして、曲がり角や部屋を出入りする際は鉢合わせに注意した。
そうして夕暮れまでやり過ごして、ひとり廊下を歩く雪華が少し気を抜いた瞬間のことだ。計ったように背後から腕を掴まれた。
驚き振り向けば、剣呑な三白眼で雪華を見おろす男がいた。
年頃は二十代半ばか。短い黒髪を後ろへ撫でつけ、陰陽師の制服をきっちり着込んでいる。その制服越しでも引き締まった体躯なのが伺えた。
「我々と遭遇する前に必ず道を変えたな。なぜ逃げる?」
「なんの話でしょう……?」
「おれは気配に敏感なんだ。だから不審な動きの気配も特定できる」
この人はまだ正体までは掴んでない。冷や汗をかく一方でそう分析した雪華は冷静だった。
そんな雪華の余裕を察したように、腕を握った男の手に力がこもる。雪華は痛みに顔をしかめ、とっさに腕を引くが、びくともしない。
「答えろ。それとも後ろめたい理由でもあるのか?」
「い、いえ、なにも」
「ならば──いや待て。お前のこの気配……」
「なにをしている」
不意に静かな声が男の声を遮った。男ははっと体ごと振り返る。
「朱燈さん」
雪華の息が一瞬止まる。視線が絡めば、男のそばに立つその青年もまた、目を見張った。
青年の玉の肌や繊細で儚い面差し、隣の男と比べても細身の体つきは、楚々とした雰囲気をかもす。だが涼しい目もとや美しい姿勢が凛々しさを与え、中性的な魅力が絶妙だ。
なにより特徴的なのは、世にも珍しい鮮やかで艶のある赤い髪だろう。陰陽術の発現に必要な霊力が、飛び抜けて豊富なことを示している。
雪華は思わず見惚れたが、すぐ正気に戻って、彼がなにか発する前に声をあげた。
「お初にお目に掛かります、朱燈様」
掴まれた腕にお辞儀を諦めた雪華が目礼をする。
青年はひとつ瞬きすると、次いで愛想よく微笑んだ。
「──初めまして。朱燈良夜と言います。あなたの名前を聞いても?」
「……雪華と申します」
「雪華さん。僕の部下が無礼を働き、すみません」
青年、改め、良夜が男を一瞥すれば、すぐに男は雪華から手放した。
安堵と同時に湧いた哀愁が胸を刺す。雪華は堪らず目を伏せた。
「やっと見つけた」
ぞわり、と急に雪華の背筋に冷たいものが走る。
(今、なんて……?)
雪華が良夜へ視線を戻すも、彼の意識はもう横の男に移っていた。
「それで、烏丸は彼女になにを?」
「はい。ご報告した『我々を不審に避ける気配』を捕えて、聴取しておりました」
「そう。で結果は?」
「黒寄りの灰色です。この者の気配は、あやかしと酷似しています。よほど力が強いか、混血かと」
共存の時代を経て、あやかしの多くは人間の姿を真似る術を覚えた。特に力のあるモノは匂いや気配すら変化でき、雪華も男こと烏丸の予想どおり、気配を偽装して世を忍んでいた。
完璧に取り繕った雪華の正体を看破した烏丸に警戒が増す。
「あの、わたし……違います。あやかしじゃありません」
「抵抗するな。たとえ本当に人間でも、陰陽師を害せば罪になるぞ」
「そんな、横暴です!」
そのとき、パンッと乾いた音が響いた。手を叩いて注目を集めた良夜は、とても綺麗な笑みを雪華へ向ける。
「じゃあこうしよう。雪華さん、あなたには僕と一緒に行動してもらう」
「……はい?」
「朱燈さん、それは……」
「大丈夫。いざとなれば責任をもって──僕が祓うよ」
つまり良夜は監視役だ。わずかでも化けの皮が剥がれれば、きっと命はない。そう嫌でも悟った雪華は身を固くした。
笑顔のままだが、雪華を見る眼光は冷たく鋭い。当事者でない烏丸すら気圧されるほど。
かと思えば次の瞬間けろりと笑った良夜は、はたと自身の拳で手を打った。
「そうだ。せっかくなら調査に協力してほしいな。よそ者の僕達より信頼関係や土地勘があるし」
「えっ?」
「なるほど、妙案ですね。使えるものは使いましょう」
「でも」
「あなたの雇い主には僕から言っておくね」
まるで拒否権がない。陰陽師二人分の圧力に雪華は肩を落とした。
「……わかりました」
