桃原の巫女姫は迦陵頻伽を歌う


 翌日、真風琉は中宮にしばしの暇を願い出た。桃原の屋敷で調べ物をするためだ。さすがに今の真風琉では使い物にならない。とにかく桃原に伝わる巻物を片っ端から読まなくてはならない。時間の猶予はあまりない。
 朝から真風琉は巻物を広げながら唸っていた。
「うーん。嵐を起こす、なんてこと書いてないなあ」
 昼過ぎになると、さすがに集中力が切れてきた。腕を思い切り後ろに伸ばして伸びをする。
 というか、始めの疑問に戻るけど、王を封じ込めるような嵐を起こしたら、人間も死んじゃわない? やっぱり「嵐」って、何かの比喩なのでは。
 真風琉は床に広げた巻物を眺めながら、うんうんと首を捻った。
「おお、なんかやってるね」
「うわっ!」
 突然頭の上から聞こえてきた声に、真風琉は思わず後ろに倒れそうになった。
「なんだい、せっかく来てやったのに」
「おばあちゃん……」
 そこに立っていたのは、近くに住むおばあさんだった。庭から直接上がってきたらしい。真剣だったので全く気付かなかった。
 このおばあさんには一年ほど前に市で買い物をしているときに知り合った。近くの屋敷で下働きをしているそうだ。近いからとたまに遊びに来てくれる。真風琉がおばあさんの勤め先の屋敷に遊びに行くこともある。真風琉もこのおばあさんと話すのを楽しみにしていたのだ。
「おばあちゃん、どうぞ、白湯でもお持ちしますね」
 今はお客人の相手をしている暇はないのだが、むしろ良かったかもしれない。このまま考えていても埒があかない。少し気晴らしが必要だろう。
「ああ、気を遣わなくていいよ」
 おばあさんは立ったままだ。真風琉が首を傾げているとおばあさんは突然ゆらりと傾いだ。
「おばあちゃん!?」
 真風琉はおばあさんを支えようと咄嗟に手を伸ばした。その手が、がっちりと掴まれた。髪の毛に。
「えっ?」
 手を引こうとするが、髪の毛はそれ自身が意思を持ったようにぐるぐると真風琉の手首に巻き付いてくる。真風琉は己のほうに手首を力一杯引き寄せた。
 間近に引き寄せられたのは、おばあさんの顔。そう、その髪の毛はおばあさんのものだった。
 真風琉は一瞬固まってしまった。手首に巻き付いた髪の毛は徐々に真風琉の動脈を圧迫する。
「おばあちゃん!」
 叫んだ声はおばあさんの口の中に飲み込まれた。おばあさんの口は、真風琉の頭くらい大きく開いていた。
 何? 何が起きているの?
 魑魅魍魎。
 その言葉が脳裏を過った。
「悪霊退散!」
 真風琉は力の限り大きな声を上げた。その声に反応しておばあさんは口を閉じ苦しそうな顔をした。
「ああ、真風琉ちゃん……、私は一体……」
 手の平で顔を押さえながらゆらりゆらりとおばあさんは体を揺らした。
「おばあちゃん、良かった。今、悪霊が」
 その瞬間だ。手首に巻き付いた髪の毛が、勢いよく引っ張られた。
「きゃっ!」
 おばあさんの胸の中に倒れこんだ真風琉の首に熱い息が吹き掛かった。
「……っ!」
 首に牙のような何かが突き立てられた。
「あく……」
 悪霊退散と言いたいのに、震えて声が出ない。その時。
「ヴィン!」
 太く大きな声が、門の方から響いた。
「ぎゃああ!」
 雄叫びが耳をつんざいた。
「カラヴィンカ!」
「うああ……!」
 おばあさんの形をしたモノが、叫び声を上げると共に、真風琉の首に突き立てられていた牙は離れた。真風琉は両手でおばあさんを突き飛ばし、後ろに下がった。
「う……」
 首の後ろに触れると、ぬるりとした熱い感触がした。血が出ているらしい。
「カラヴィンカ!」
 再び声が聞こえ、次の瞬間、植木の陰から人が現れた。
「穂!」
 そこには指で空に文字を書きながらこちらに突進してくる穂がいた。穂は頭を押さえてうずくまるおばあさんの頭の上に手刀を振り落とそうとした。
「ヴィン!」
「待って!」
 思わず真風琉はその手刀とおばあさんの頭の間に割って入った。
「待って、穂。意識があるの。おばあちゃん、さっき一瞬」
 真風琉はそれ以上続けることができなかった。穂が無言で真風琉を突き飛ばしたからだ。「カラヴィンカ!」
「ぐわああああ!!」
 おばあさんから白い煙が上がる。
「おばあちゃん!」
 駆け寄りたいが、腰が抜けているのか立ち上がれない。
「あああ……」
 おばあさんは断末魔を上げ、そして、倒れた。割れた頭から真っ赤な血を流しながら。
 真風琉はただそれを見ていることしかできなかった。
「大事ないか」
 いつの間にか目の前に来ていた穂が、へたりこんでいる真風琉に手を差し伸べた。それで真風琉は我に返った。
「なんで!」
 穂の手を叩いて、地べたに倒れたまま、真風琉は声を荒げた。
「なんでおばあちゃんを調伏しちゃったの!?」
「魑魅魍魎に取り憑かれていたからに決まっている」
 穂は淡々と返した。真風琉は首を横に振った。
「でも、一瞬おばあちゃんは正気に戻ったの! なんとか助ける方法が」
「あるわけない」
 穂は吐き捨てた。
「魑魅魍魎にひとたび体を操られてしまったら、その時点でもうその人間の魂は消えている」
「でも、おばあちゃん『真風琉ちゃん』って……」
「魑魅魍魎は乗っ取った人間の記憶も一緒に食う。正気に戻ったフリをして、獲物の油断を誘うのは、魑魅魍魎の常套手段だが」
 そこで穂は言葉を切った。そして真風琉をじろりと睨む。
「まさか、お前、そんなことも知らなかったのか」
 真風琉はぎゅっと口を引き結んだ。知らなかったのだ。
「でも、今学んでいるところで……」
 自分の無知を少しでも埋め合わせようと反論するが、穂は深いため息をつくだけだった。 真風琉は悔しくて涙が零れそうになった。
 そうしているうちに、穂はおばあさんだったモノの死体の片付けを下働きの者たちに手際よく指示していた。
 ーーだって知らなかった。
 でもそれは幼い言い訳だ。そんな言い訳が通用する場所などどこにもない。
 あたしは無知だ。無力以前に無知だ。
 真風琉は悔しくて、でも泣きたくなくてぎゅっと拳を握りしめて板の間を見つめていた。「泣くんじゃない」あの時の彼の言葉を思い出しながら。
 無知なあたしが今泣いていいわけはない。
 穂は腰を曲げて真風琉と目を合わせた。
「本当は、お前に受けて欲しくなかった」
「え? 何を?」
 突然振られた話題に、真風琉はついていけずにゆっくりと顔を上げた。穂はふっと寂しそうに微笑んだ。
「中宮様のご命令だ」
 ということは、魑魅魍魎を調伏するという命令のことだろう。真風琉は強がって口を尖らせた。
「中宮様のご命令を拒否することなんかできるわけないじゃない」
 この国の最高権力者は帝だ。その第一の妃が中宮。命令は絶対だ。
 しかし穂は首を横に振った。
「お前は、桃原の巫女の力がない」
「な……!」
 いきりたって、真風琉は立ち上がった。「ない」とまで言い切られると、さすがに腹が立ってきた。
「そんなことない! ただ、まだ少し、じゃないけど、かなり、未熟なだけで……」
 勢い込んだものの、尻すぼみになってしまった。
「桃原の血を引くだけの男子の俺より力がないのは、桃原の巫女とは言えない」
 真風琉は黙り込むしかなかった。穂の言うとおりだった。穂は続けた。
「でもお前は受けてしまった。魑魅魍魎はお前を狙い始める。もう後戻りはできない」
「……わかった」
 とにかく急ぐしかないのだ。早く一人前の桃原の巫女になって、そして一刻も早く魑魅魍魎の王を封じ込めなければ。
 真風琉は唇を噛んだ。口の中に血の味が広がったが、そんなことには構っていられない。心ばかりが焦る。そんな真風琉の心の内を見透かしたのか、穂は真風琉の頭にそっと手を置いた。
「急げ。でも焦るな。心だけ焦ってもろくなことにならない」
 そんなことはわかっている。でも、どうすれば。
「真風琉。お前は才能だけはある。歌の」
「は?」
 真風琉は我ながら感じの悪い声を出した。
「何それ。気休めにもならない。バカにしてるの?」
 目をいからせて難じたが、穂は大真面目な顔をしている。
「お前の声はよく通る。歌も舞も上手い。お前なら迦陵頻伽の姫になれる」
「だから、迦陵頻伽なんてこの事態で意味ないよね!?」
「ある」
「え?」
 真風琉が目を丸くすると、穂も共に目を丸くした。そして額に手をあてて「そこからか……」と呟いた。真風琉は戸惑った。
「な、なんなのよ!」
 戸惑いを隠すように大きな声で非難すると、穂は人差し指をすっと真風琉の唇に当てた。
突然のことに、びっくりして後ずさる。
「な、なに、を」
「迦陵頻伽の歌声が嵐を起こす」
 穂は呟いた。
「知らなかったようだが、お前ならできる。男の俺にはできない」
「歌声で嵐を……?」
 だからなのか。巫女姫にとっては意味がないと思われた歌や舞の稽古があったのは。母たちが褒めてくれたのは。
 ーーなら、自信を持っていいのかもしれない。
 どうやって嵐を起こすのかは、今すぐにでも考えなければいけないけれど。
 あたしは、できる。
 真風琉はキッと穂を見上げた。
「穂。協力してくれるって言ったよね?」
 穂は頷いた。
「もちろんだ。俺だけじゃない。お前が一人前になるまでに、陰陽師、行者、僧侶、とにかく皆でなんとか魑魅魍魎を押さえておく」
 それはとてもありがたいが、彼らの命を危険にさらすということも意味する。早くしなければ。彼らの命の為にも。
 真風琉が顔を強張らせていると、ふっと穂が表情を緩めた。真風琉の唇についた血を親指で拭う。
「とりあえず、飯でも食うか? 今はまだこの屋敷のまわりはまじないが効いているから、しばらくは安全だ」
「でも」
「腹が減っては戦はできない。言ったろ? 心だけ焦ってもろくなことはない。お前の声を守る為にも、自分の体を大事にするんだ」
「そうだね……」
 食欲はわかなかったが、真風琉は食事の準備を言いつけようと奥に行こうとした。
 そこで、ふと疑問がわいた。
 穂の「本当は受けて欲しくなかった」という言葉。受けなかったらそれは即ち国の消滅を意味するのではないだろうか。
 真風琉は後ろをついてきた穂を振り返った。「穂はあたしに受けて欲しくなかったって言うけど、もしあたしが受けなかったらどうするつもりだったの?」
 多分穂はそこまでは考えていなかったのだろうが。そう思ったのだが。
 穂は真っ直ぐに真風琉の瞳を見つめた。
「俺が引き受けるつもりだった。桃原の巫女の血を、お前の次に強く受け継ぐ者として」
 穂は、最初から命を賭けて国を守るつもりだったのか……。
 そう思うと、自分のあさはかさにうんざりする。
「ごめんね、あたしが頼りないからだよね」
 しゅんとなって俯いたその頭の上に、そっとあたたかい手が載せられた。
「いや、違う。たとえ国が消えることになったとしても、お前を危険に晒したくなかったという、俺の特大の我儘だ」
 真風琉は顔を上げた。
「どういうこと……?」
 さすがは兄代わりということだろうか。
 そんなことを思いながら穂の顔を見つめていると、穂はしれっとした口調で呟いた。
「惚れた女を守りたいのは、男として当然だろう」
「……は?」
 一瞬意味がわからなかったが、穂の言葉の意味を理解したと同時に、体中が沸騰しそうになった。
「え? え?」
 ぼんやりと突っ立っている真風琉に穂は苦笑した。
「全然脈無しだったってことか。こっちの戦も前途多難そうだな」
「え、待って穂、え?」
 真風琉は歩き出した穂の後を追いかけた。

   ***

 これが後に語り継がれる「桃原の妹背の戦」のはじまりだが、それはまた別の物語である。