桃原の巫女姫は迦陵頻伽を歌う

「その歌声は嵐を起こす」
 それは、この都に言い伝えられている巫女姫の伝説。

   ***

 まだ浅い春。
 真風琉(まふる)は重い十二単を引き擦りながら渡殿を歩いていた。庭の梅の蕾はまだ固そうだ。
「ほんと、重いったらありゃしない!」
 外から見ている分にも重そうだった十二単。実際着てみると、想像以上に重かった。
「着てるだけで筋肉ついちゃうわー」
 真風琉はため息をついた。真風琉がこの都の最高機関である御所に上がったのは、ほんの三日前のこと。それまでは、桃原(ももはら)の屋敷でお姫さまとして楽な衣装でゆっくりと過ごしていたのだ。
「あー、今すぐ脱ぎたい!」
「……みっともない女房だな……」
 背後から聞こえた低い声にはっと振り向く。「穂(みのる)!」
 大きな声で名前を呼ぶと、そこに立っていた若い男が眉をぐっと寄せた。
「……じゃないや、頭中将さま!」
 慌てて真風琉はさらに大きな声で言い直した。彼はさらにぐっと眉を寄せた。
「もう少し小さな声でしゃべれないものか?」
「え? あたしの声、大きいですか?」
 真風琉は口元を押さえた。そこまで大声を出しているつもりはなかったのだが。
 真風琉が口を押さえたまま首を傾げていると、彼は小さくためいきをついて、「まあ、お気をつけよ」と呟いて真風琉を追い越して立ち去っていった。
 後に残された真風琉は口から手を外して肩を落とした。
「なんであんなに変わっちゃったんだか……」
 真風琉はとぼとぼと歩き出した。十二単が先程より重く感じられる。
「ずっと同じ屋敷で育った仲じゃない」
 慣れない御所の中で、真風琉は頼りない気持ちのまま、中宮様の元へと向かった。

 真風琉と穂は従兄妹同士である。夫が妻の実家に通う「通い婚」が世のならわし。母親同士が姉妹なので、二人は同じ屋敷で育った。二つ年上の穂は、真風琉にとって実の兄のような存在だった。
 二人の母親は、この魑魅魍魎渦巻く都での守り神とも呼ばれる、桃原家の人間だった。
 桃原家は女系一族で、娘が生まれるとその子は「桃原の巫女姫」と呼ばれる。真風琉の母、千風琉(ちふる)も、穂の母、実風琉(みふる)も、強い力を持った巫女だった。
「だった」と言うのは、流行病で二人とも四年前に相次いで亡くなってしまったからである。「桃原の巫女姫」を継いだ真風琉はまだ十二歳。たいした力も身に付けていなかった。いや、母親たちは十ばかりでも霊力を持っていたらしいので、真風琉の力の発現は遅いと言えた。
「あたし、巫女姫向いてないと思うんだよなあ」
 この先何年経っても、母たちのような力を身に付けられる気がしない。真風琉ができるのは、歌や舞、効果が怪しい祈祷のみ。
 歌や舞は桃原の姫君たちにとっては、必須の事項とされていた。真風琉は加持祈祷よりも歌や舞のほうが好きだった。だから、そちらの方面にはわりと自信があった。千風琉や実風琉にもよく褒められたものだ。真風琉を褒めてくれた二人はもういないわけだが。父は都ではそれなりの身分を持った貴族だったが、既に世になかった。真風琉は桃原の屋敷に使用人たちと共に暮らすことになった。
 一方、母親が亡くなった穂は、父方に引き取られた。穂の父は、桜原家(さくらはらけ)の内大臣だ。桜原の家は、代々帝の重臣として活躍している力のある家だった。
 桜原に穂が引き取られた時のことはよく覚えている。寂しくてぐずぐず泣く真振の頭を穂は優しく撫でてくれた。
「泣くんじゃない、真風琉。お前はこれから桃原の家を背負って立つんだろう? このくらいで泣いてちゃダメじゃないか」
 その言葉に、真風琉は背筋を伸ばした。
 そうだ、あたしがこの家の当主、桃原の巫女姫なんだ。しっかりしなきゃ!
「よし、いい子だな。何かあったらすぐに俺に言うんだぞ。すぐにでも駆けつけてやるから!」
「うん!」
 頼りになる、そして厳しくも優しい、大好きなお兄ちゃんだった。
 のだが。
 三日前、御所内の渡殿でばったり再会した時のことだ。
「穂!」
 嬉しくてぶんぶん手を振った真風琉を、穂はこともあろうに無視したのである。
 聞こえなかったのかな? と思い、さらに声をはり上げると、やっと振り向いてくれた。「……『穂』?」
 そう問い返されて、真風琉は思い出した。彼が今は頭中将に任命されているということを。ここは御所。役職名で呼ぶべきだろう。
「ええと、と、頭中将様」
 すると、やっと穂はこちらに体ごと向き直った。
「本当に来たのか」
 その顔は歪んでいて、四年ぶりの再会を喜び合いたかった真風琉は肩すかしをくらってしまい返事ができなかった。いや、戸惑いが大きすぎて声が出なくなった。
「来なければ良かったのに」
 悔しそうに唇を歪ませ、穂はそう呟いた。
 その台詞に、真風琉の負けん気が顔を出した。
「な! 失礼でしょ! こう見えてもあたしは中宮様たってのお願いで出仕したんだけど!」
 扇を掴んだ拳をぶんぶんと振り回すと、瞬間穂はこちらを眩しそうな表情で見つめたあと、目を険しくした。そして真風琉に向かって冷たくこう言い放ったのだ。
「中宮様はとんでもない女房を迎え入れたものだな」と。
 その顔つきも声も、真風琉が知っている穂ではなかった。戸惑った挙げ句、真風琉は気付いたら言っていた。
「え? こいつ誰」
 あまりの態度に思わずそう言ってしまったら、穂は深いため息をつき、そのまま真風琉の前を立ち去っていった。
「なんなんだー! まったく!」
 せっかく久しぶりに会えたのに。積もる話もあったのに。
 穂は桜原に行って変わってしまったんだ。
 そう思うと自分の局に帰って泣きそうになったが、「泣くんじゃない」というあの時の穂の声が頭に聞こえてきた気がして、真風琉はぐっと目に力を入れた。
 泣かないよ。だってあの時穂と約束したもん。
 そう決意して、御所で中宮様からのお呼びを待って、三日。本日やっとお呼びがかかったということだった。