バスケ少女の恋はコートから

春大は、大分女子の優勝で終わった。
1・2年生にとっては上々の滑り出しだったが、尾野美咲にとって、それは一つの通過点にすぎない。春大は1、2年生の大会であり、3年生の美咲は試合に出ていなかった。
すぐにインターハイ予選が始まる。ここからが、美咲たちにとって本当の勝負だった。

放課後、大分女子の体育館。

「ちか、そこで一回止まらない!」
「はい!」

美咲の声がコートに響く。
インターハイ予選が近づいても、コートの上の美咲は何も変わらなかった。むしろ日に日に集中力は増している。練習では誰よりも声を出し、後輩が苦しければ自分が先に走る。ミスには厳しいが、ただ怒鳴って終わることはない。

「智子、今のディフェンス、スクリーン待ちすぎだよ。腕で相手との距離を確認するとかして、もっと早く準備して」
「はい!」
「もう一回」

智子が頷き、同じ形をやり直す。
いつもの部活の風景だった。

授業でも、特に変わりはない。
英語の授業中、教師が長文問題を解説していた。

「では、尾野さん」

指名された美咲は教科書から顔を上げ、ほとんど詰まることなく答える。

「はい、いいですね」

教師が満足そうに頷いた。
数学の小テストも満点だった。昼休み、友人の女子が答案を覗き込んでくる。

「また100点?」
「うん」
「バスケ毎日あれだけやって、美咲いつ勉強してるの?」
「普通に家で」
「その普通が私たちと違うからなー」
「そんなにやってないよ」
「出た! 勉強できる人のセリフ!」

美咲は笑った。
勉強している時も、バスケットボールをしている時も、何かに集中していれば余計なことは考えない。
問題は、その隙間だった。

授業と授業の間。何となく窓の外を眺めていると、不意にあのレイアップが浮かぶ。
違う違う。
美咲はすぐに教科書へ目を落とした。

帰りのバスでもそうだった。
信号待ちの窓の向こうを、別の高校の男子生徒が歩いている。背が高い。
気づけば、一瞬だけ顔を確認していた。
渡辺秀ではない。

「……何見てんだろ」

自分でも呆れながら視線を戻した。

家で歯を磨いている時には、今度は虹ヶ丘の女子生徒たちが話していた言葉まで思い出す。

『NBA行くって言ってるらしいよ』

美咲は口をゆすぎ、誰もいない洗面所で小さく呟いた。

「……NBAかぁ」

本当に行くのかな。
そう考えた瞬間、秀の顔まで浮かんだ。
ふと鏡を見る。少しだけ口元が緩んでいる。

「……っ!」

美咲は慌てて顔を引き締め、もう一度口をゆすいだ。
バスケが上手いし、もしかしたら本当にNBAへ行くかもしれないし。だから、これからどうなるのか気になるだけ。
それだけだ。

それに――顔。

そこまで考えたところで、美咲は勢いよく首を振った。

「……それは関係ない!」

誰にも聞かれていないのに声に出して否定すると、逃げるように洗面所を出ていった。

━━━

ある日の放課後だった。

「尾野さん」

教室の入口から呼ばれ、美咲が顔を上げる。

「あ、はい」

そこに立っていた男子には見覚えがあった。
同じ3年生。サッカー部のキャプテン、河野(こうの)直樹(なおき)。
サッカー部の中心選手で、女子から人気があるとクラスメイトたちが何度か話していた。

「ちょっと時間ある?」
「今?」
「うん。すぐ終わる」
「いいけど」

美咲が立ち上がった途端、教室がわずかにざわつく。

「え」
「これ絶対あれやん」
「ついに河野行った?」

美咲が眉をひそめた。

「何? えっ?」

友人はニヤニヤしながら手を振る。

「いや。行ってらっしゃい」
「あ……」

そこで美咲にも、ようやく分かった。
この空気には覚えがある。中学の頃から何度か経験してきた。

河野について校舎の裏へ向かう。人通りは少ない。

「用事って何かな?」
「いや……」

普段はよくしゃべる河野が、妙に歯切れが悪い。

「えっと……バスケ順調?」
「うん。怪我人も少ないし、まずまずかな。サッカー部は?」
「うちも、うん……まあまあかなぁ」

会話が途切れた。
少しの沈黙のあと、河野が一度息を吐く。

「尾野」
「うん」
「俺、尾野のこと好きなんだ」

美咲は黙った。やっぱりそうか。

「急にごめん」

美咲は、告白されること自体には慣れていた。
中学の頃から何度か経験している。先輩からも、同級生からも、後輩からもあった。
そして、そのたびに返す答えもほとんど決まっていた。

ありがとう。でも、今はバスケットボールに専念したい。

相手が嫌いだからではない。本当に、それ以外のことを考えていなかったからだ。
今回も同じ。そのはずだった。

「ありがとう。でも私――」

バスケに専念したいから。
いつもの言葉を続けようとした、その瞬間だった。

渡辺秀の顔が、ふっと頭に浮かんだ。

「……」

美咲の言葉が止まる。

「尾野?」

ほんの一、二秒。それだけだった。
けれど、これまで告白を断る時、美咲がこんなふうに言葉を失ったことは一度もなかった。

何で今、渡辺君が出てくるの。

美咲自身が一番驚いていた。

「……ごめん」

ようやく言葉を続ける。

「私、今はバスケに専念したいから」

いつもの答えだった。
なのに、なぜか自分の耳には、これまでと少し違って聞こえた。

河野はしばらく黙ったあと、少し苦笑した。

「やっぱりそう言うと思った」
「ごめん」
「いや。尾野がバスケ一筋なの知ってるし」
「……うん」
「でも、言わないで卒業するのも嫌だったから」
「ありがとう」

河野は頷いた。これで終わるはずだった。
しかし、河野は少し迷ったあと、美咲の顔を見た。

「……本当に、バスケだけ?」
「え?」
「いや……好きな人とか、いるの?」

心臓が一度、大きく鳴った。

「……いないよ」

答えはすぐに出た。
嘘をついたつもりはない。
それなのに、なぜか少しだけ嘘をついているような気分になった。

「ほんと?」
「ほんと」
「さっき、ちょっと止まったから」
「それは……急だったから」
「そっか」
「うん」

河野はそれ以上聞かなかった。

「分かった。変なこと聞いてごめん」
「ううん」
「インターハイ、頑張って」
「ありがとう。河野君も」
「じゃあ」
「うん」

河野が先に戻っていく。
美咲はしばらく、その場に残っていた。

好きな人はいない。そう答えた。
嘘をついたつもりはない。今までも同じように答えてきた。
なのに。

「……何で」

小さく息を吐く。

「何であそこで出てくるの」

また、渡辺秀だった。
自分でも、だんだん何が何だか分からなくなってきた。

教室へ戻ると、扉を開けた瞬間に視線が集まった。そして、一瞬だけ静かになる。

「……何?」

友人たちは顔を見合わせる。

「いや、何も」
「何その空気」

席に着くと、すぐに友人が寄ってきた。

「告白?」

美咲は少し嫌そうな顔をした。

「……うん、まあ……そう」
「で、断った?」
「うん」
「もったいな!」
「何が」
「河野だよ? サッカー部キャプテン、成績いい、顔いい、性格いい」
「商品説明みたいに言わないで」
「何がダメなん?」
「ダメじゃない」
「じゃあ何で?」
「バスケ」
「あー」

友人はあっさり納得した。

「やっぱそれか」
「それ以外ないでしょ」
「尾野らしいわ」

その言葉に、なぜか胸の奥が少しざわついた。

それ以外ない。本当に?

答えの出ないもやもやを抱えたまま、美咲は体育館へ向かった。

━━━

「集合!」

体育館に美咲の声が響いた。部員たちが集まる。

「インターハイ予選まで時間ないよ。春大で優勝したからって何も決まってないし、今日からもう一段上げるよ」
「はい!」

練習が始まった。
ランニング、フットワーク、シュート、そして5対5。コートへ入れば、美咲の頭はすぐに切り替わった。

「ちか、左空いてる!」
「はい!」

パスが回る。智子がスリーを打つ。
外れた。
美咲がリバウンドを奪い、着地すると同時にピボットで相手をかわしてシュートを決める。
顧問の笛が鳴った。

「3分休憩! 次のメニュー行くよ!」
「はい!」

バスケットボールに集中している間だけは、余計なことを考えずに済んだ。

練習後。
全員でストレッチをしていると、ちかが妙に甘えた声で近づいてきた。

「先輩♡」
「何?」
「今日、呼び出されてましたぁ?」

美咲が眉を寄せる。

「……何で知ってるの」

隣から智子が得意げに答える。

「私たちの情報網を舐めてもらったら困ります♡」

ちかも頷く。

「サッカー部キャプテンが尾野先輩を校舎裏に呼んだって、もう街中の噂ですよ」
「何で学校の外まで広がってるのよ」
「で、告白ですか?」

ちかが身を乗り出す。

「……そうだけど」
「おお」
「何その反応」
「河野先輩ですよね?」
「うん」

今度は智子。

「どうしたんですか?」
「断った」

ちかがすぐに聞く。

「即?」

美咲は一瞬だけ止まった。

「……まあ」
「ん?」

ちかと智子が同時に顔を上げる。

「何」
「いや、先輩なら『バスケあるから無理』って0.2秒くらいで終わりそうだなって」
「そんな言い方しないわよ」
「でもでも、断る理由はバスケですよね?」
「当たり前でしょ」

そう答えた瞬間、また胸の奥に小さな引っかかりが残った。

尾野美咲はバスケ第一。それ以外は二の次。
美咲を知る人なら、誰もがそう思っている。

智子がふと思い出したように言った。

「でも河野先輩、かっこいいですよね!」
「有名だよね!」

と、ちかも言う。
美咲は興味なさそうに答える。

「そうらしいね」
「先輩、本当に男の人の顔とか興味ないですよね」
「今はバスケで精一杯なの」

すると、ちかが急にニヤニヤしながら美咲を見た。

「本当にバスケだけですかぁ?」
「え?」
「隠してもダメですよ♡ 私たちは分かってますよ♡」

一瞬、秀の顔が浮かんだ。

「な、何がよ!?」

自分でも分かるほど声が上ずる。顔まで熱くなった。
ちかと智子が顔を見合わせる。
そして、声を揃えた。

「「可愛い可愛い後輩の私たちがいるじゃないですかぁ!」」
「……は?」

美咲があっけに取られる。
次の瞬間、智子がすっとちかの肩を抱き寄せた。
さっきまでの調子とは打って変わって、妙に低い声を出す。

「ちか、絶対俺から離れるなよ」
「きゃっ♡ 美咲先輩好き♡」

ちかが両手を胸の前で組み、本気でときめいたような顔をする。
どうやら智子が美咲役らしい。

「……」

美咲は無言で2人を見た。

「美咲先輩……私、ずっと先輩のそばにいます♡」
「ああ。俺が守ってやる」
「きゃあ♡」

茶番は続いている。
数秒前まで無駄に焦っていた自分への恥ずかしさも相まって、美咲のこめかみがぴくりと動いた。

「……あなたたち」
「はい?」
「ちょっとこっち来て!」
「ごめんなさーーーい!」

2人は一目散に逃げ出した。
逃げ足だけは、練習中より速い。

「待ちなさい!」

美咲が追いかけようとしたところで、奈緒が笑いながら近づいてきた。

「あの子たち、相変わらずね」
「奈緒、笑い事じゃないよ。こっちは困ってるのよ」
「そう? いつものことじゃない?」
「いつもだけど!」

奈緒は少しだけ首を傾けた。

「でも、美咲も今日はいつもより反応大きかったね」
「え?」

言われて、美咲は止まった。
確かにそうだ。いつもなら「はいはい」であしらって終わる。
なのに今日は、なぜあんなに焦ったのだろう。

美咲が考え込む横で、奈緒はその表情を静かに見ていた。
何かが、ほんの少しだけいつもと違う。

まさかねぇ。

そんな考えが一瞬浮かんだが、少なくとも悪い変化には見えない。だったら、美咲が自分から話すまではそっとしておこう。
奈緒は何も聞かなかった。

━━━

その夜の尾野家。
テレビではNBAのプレーオフが流れていた。
剛と健司はソファで試合を見ながら盛り上がっている。

「今のパス見たか?」
「見た見た。よく見てるよなあ」

美咲もダイニングテーブルから画面を見ていた。
いつもなら試合展開を追いながら、たまに父や健司の会話にも加わる。
ところが、その日はどこか上の空だった。

美佳は雑誌を読みながら、横目で姉を見る。

「お姉ちゃん?」
「はいっ!?」

美咲の肩がびくっと跳ねた。
美佳が目を細める。

「どうかした?」
「えっ? 普通だけど!」
「……ふーん」

じっと見られる。
居心地が悪い。

「そうだ! ちょっと明日の予習してくるね!」

美咲は急に立ち上がると、早足で2階へ上がっていった。
美佳はその背中を見送った。

どう見ても怪しい。

雑誌を閉じる。
これは取り調べねば。
少し時間を置いてから、美佳もゆっくり階段を上がっていった。

美咲は部屋に入ると、すぐに椅子へ座った。
テレビでNBAを見ていた。ただ、それだけだ。
なのに、気づけば試合の結果でも選手のプレーでもなく、秀のことを考えていた。

コンコン。
すぐにドアが鳴った。

「お姉ちゃん、入るからね」

美佳だった。

「えっ、うん!」

ドアが開き、美佳が入ってくる。
そのまま美咲の近くの床へ座った。

「お姉ちゃん」
「何?」
「言った方が楽なことってあるよ!」
「何のことよ!?」

あまりにも直球だった。
美佳は胸を張る。

「私を誰だと思ってるの?」
「……美佳」
「そう。尾野美佳。あなたの妹よ」
「知ってるわよ」
「そうなの。私もお姉ちゃんのこと、よーーーく知ってるの!」

じっと見つめられる。
美咲は居心地が悪くなり、視線をそらした。

「……今日、学校で告白されたの。それかなぁ?」
「お姉ちゃん、そんなの日常茶飯事じゃん」
「そんなことないわよ!」
「じゃあ、断ってないわけ?」
「いや、それは……断ったけど」
「何て答えたの?」
「え?」
「何て断ったの?」
「それは……いつもと一緒よ。バスケに専念したいって」
「それだけ?」
「もちろんよ」
「ほんとにそれだけ?」
「何よ。他に何があるの?」

美佳は美咲から目をそらさない。

「例えば……」

一拍置く。

「他に好きな人がいるとか?」

ドクン。
美咲の心臓が大きく鳴った。
急に顔まで熱くなった気がする。

「ちょ、ちょっと暑いわね! エアコンつけるね!」

慌てて手元にあったものを持ち上げる。
美佳が無表情で言った。

「お姉ちゃん、それスマホ」
「えっ?」

美咲の手にはスマートフォン。
なぜか、それをエアコンへ向けていた。

「ほんとだ! あの、形似てたから!」
「どこが?」
「……ちょっと似てるでしょ」
「全然」

美佳の目がさらに鋭くなる。

「お姉ちゃん」

美咲がおそるおそる妹を見る。

「私、当ててあげようか? 名前」

なぜか追い詰められている。
違う。私には好きな人なんていない。
バスケが上手いだけ。NBAを目指しているって聞いたから、気になっているだけ。

「その名前は――」
「美佳、お願い黙ってて!」

美咲が顔を真っ赤にして、勢いよく頭を下げた。
数秒の沈黙。
美咲が、はっと顔を上げる。
美佳と目が合った。

「やっぱり」
「……っ!」
「お姉ちゃん、今自分で認めたよ」
「美佳違うの!」
「誰?」
「誰もいない!」
「えーっ、まじかあー!」
「だから違うって!」

廊下から健司の声がした。

「何騒いでんの?」
「何でもない!」
「何でもないよー」
「姉ちゃんだけ声でかいけど」
「向こう行って!」
「なんだよ」

健司の足音が遠ざかっていく。
美佳はまだ笑っている。
美咲は顔を真っ赤にしたまま、妹を睨んだ。

「……もう出てって」
「お姉ちゃん、かわいい」
「出てって!」
「はいはい」

美佳は立ち上がり、ドアを開けた。
その前に、一度だけ振り返る。

「大丈夫。誰にも言わないよ」

美咲は何も言わない。

「でも、私には教えてね♪」
「何もない」
「はいはい」

ドアが閉まった。
美咲は机へ突っ伏した。耳まで熱い。

「……最悪」

しばらくして、ようやく顔を上げる。
机の前には、インターハイ予選までの予定表が貼ってあった。
それを見つめ、美咲は大きく息を吐く。

「バスケ」

自分に言い聞かせる。

「今はバスケ!」

そして、何か別のことに集中したくて、すぐに問題集を開いた。
けれど、その日はいつもよりページの進みが悪かった。
問題を解いていても、少し気を抜けば同じ顔が浮かんでくる。
美咲はもう一度深呼吸し、問題集へ向き直った。

今はまだ、考えないことにした。