春大は、大分女子の優勝で終わった。
1・2年生にとっては上々の滑り出しだったが、尾野美咲にとって、それは一つの通過点にすぎない。春大は1、2年生の大会であり、3年生の美咲は試合に出ていなかった。
すぐにインターハイ予選が始まる。ここからが、美咲たちにとって本当の勝負だった。
放課後、大分女子の体育館。
「ちか、そこで一回止まらない!」
「はい!」
美咲の声がコートに響く。
インターハイ予選が近づいても、コートの上の美咲は何も変わらなかった。むしろ日に日に集中力は増している。練習では誰よりも声を出し、後輩が苦しければ自分が先に走る。ミスには厳しいが、ただ怒鳴って終わることはない。
「智子、今のディフェンス、スクリーン待ちすぎだよ。腕で相手との距離を確認するとかして、もっと早く準備して」
「はい!」
「もう一回」
智子が頷き、同じ形をやり直す。
いつもの部活の風景だった。
授業でも、特に変わりはない。
英語の授業中、教師が長文問題を解説していた。
「では、尾野さん」
指名された美咲は教科書から顔を上げ、ほとんど詰まることなく答える。
「はい、いいですね」
教師が満足そうに頷いた。
数学の小テストも満点だった。昼休み、友人の女子が答案を覗き込んでくる。
「また100点?」
「うん」
「バスケ毎日あれだけやって、美咲いつ勉強してるの?」
「普通に家で」
「その普通が私たちと違うからなー」
「そんなにやってないよ」
「出た! 勉強できる人のセリフ!」
美咲は笑った。
勉強している時も、バスケットボールをしている時も、何かに集中していれば余計なことは考えない。
問題は、その隙間だった。
授業と授業の間。何となく窓の外を眺めていると、不意にあのレイアップが浮かぶ。
違う違う。
美咲はすぐに教科書へ目を落とした。
帰りのバスでもそうだった。
信号待ちの窓の向こうを、別の高校の男子生徒が歩いている。背が高い。
気づけば、一瞬だけ顔を確認していた。
渡辺秀ではない。
「……何見てんだろ」
自分でも呆れながら視線を戻した。
家で歯を磨いている時には、今度は虹ヶ丘の女子生徒たちが話していた言葉まで思い出す。
『NBA行くって言ってるらしいよ』
美咲は口をゆすぎ、誰もいない洗面所で小さく呟いた。
「……NBAかぁ」
本当に行くのかな。
そう考えた瞬間、秀の顔まで浮かんだ。
ふと鏡を見る。少しだけ口元が緩んでいる。
「……っ!」
美咲は慌てて顔を引き締め、もう一度口をゆすいだ。
バスケが上手いし、もしかしたら本当にNBAへ行くかもしれないし。だから、これからどうなるのか気になるだけ。
それだけだ。
それに――顔。
そこまで考えたところで、美咲は勢いよく首を振った。
「……それは関係ない!」
誰にも聞かれていないのに声に出して否定すると、逃げるように洗面所を出ていった。
━━━
ある日の放課後だった。
「尾野さん」
教室の入口から呼ばれ、美咲が顔を上げる。
「あ、はい」
そこに立っていた男子には見覚えがあった。
同じ3年生。サッカー部のキャプテン、河野(こうの)直樹(なおき)。
サッカー部の中心選手で、女子から人気があるとクラスメイトたちが何度か話していた。
「ちょっと時間ある?」
「今?」
「うん。すぐ終わる」
「いいけど」
美咲が立ち上がった途端、教室がわずかにざわつく。
「え」
「これ絶対あれやん」
「ついに河野行った?」
美咲が眉をひそめた。
「何? えっ?」
友人はニヤニヤしながら手を振る。
「いや。行ってらっしゃい」
「あ……」
そこで美咲にも、ようやく分かった。
この空気には覚えがある。中学の頃から何度か経験してきた。
河野について校舎の裏へ向かう。人通りは少ない。
「用事って何かな?」
「いや……」
普段はよくしゃべる河野が、妙に歯切れが悪い。
「えっと……バスケ順調?」
「うん。怪我人も少ないし、まずまずかな。サッカー部は?」
「うちも、うん……まあまあかなぁ」
会話が途切れた。
少しの沈黙のあと、河野が一度息を吐く。
「尾野」
「うん」
「俺、尾野のこと好きなんだ」
美咲は黙った。やっぱりそうか。
「急にごめん」
美咲は、告白されること自体には慣れていた。
中学の頃から何度か経験している。先輩からも、同級生からも、後輩からもあった。
そして、そのたびに返す答えもほとんど決まっていた。
ありがとう。でも、今はバスケットボールに専念したい。
相手が嫌いだからではない。本当に、それ以外のことを考えていなかったからだ。
今回も同じ。そのはずだった。
「ありがとう。でも私――」
バスケに専念したいから。
いつもの言葉を続けようとした、その瞬間だった。
渡辺秀の顔が、ふっと頭に浮かんだ。
「……」
美咲の言葉が止まる。
「尾野?」
ほんの一、二秒。それだけだった。
けれど、これまで告白を断る時、美咲がこんなふうに言葉を失ったことは一度もなかった。
何で今、渡辺君が出てくるの。
美咲自身が一番驚いていた。
「……ごめん」
ようやく言葉を続ける。
「私、今はバスケに専念したいから」
いつもの答えだった。
なのに、なぜか自分の耳には、これまでと少し違って聞こえた。
河野はしばらく黙ったあと、少し苦笑した。
「やっぱりそう言うと思った」
「ごめん」
「いや。尾野がバスケ一筋なの知ってるし」
「……うん」
「でも、言わないで卒業するのも嫌だったから」
「ありがとう」
河野は頷いた。これで終わるはずだった。
しかし、河野は少し迷ったあと、美咲の顔を見た。
「……本当に、バスケだけ?」
「え?」
「いや……好きな人とか、いるの?」
心臓が一度、大きく鳴った。
「……いないよ」
答えはすぐに出た。
嘘をついたつもりはない。
それなのに、なぜか少しだけ嘘をついているような気分になった。
「ほんと?」
「ほんと」
「さっき、ちょっと止まったから」
「それは……急だったから」
「そっか」
「うん」
河野はそれ以上聞かなかった。
「分かった。変なこと聞いてごめん」
「ううん」
「インターハイ、頑張って」
「ありがとう。河野君も」
「じゃあ」
「うん」
河野が先に戻っていく。
美咲はしばらく、その場に残っていた。
好きな人はいない。そう答えた。
嘘をついたつもりはない。今までも同じように答えてきた。
なのに。
「……何で」
小さく息を吐く。
「何であそこで出てくるの」
また、渡辺秀だった。
自分でも、だんだん何が何だか分からなくなってきた。
教室へ戻ると、扉を開けた瞬間に視線が集まった。そして、一瞬だけ静かになる。
「……何?」
友人たちは顔を見合わせる。
「いや、何も」
「何その空気」
席に着くと、すぐに友人が寄ってきた。
「告白?」
美咲は少し嫌そうな顔をした。
「……うん、まあ……そう」
「で、断った?」
「うん」
「もったいな!」
「何が」
「河野だよ? サッカー部キャプテン、成績いい、顔いい、性格いい」
「商品説明みたいに言わないで」
「何がダメなん?」
「ダメじゃない」
「じゃあ何で?」
「バスケ」
「あー」
友人はあっさり納得した。
「やっぱそれか」
「それ以外ないでしょ」
「尾野らしいわ」
その言葉に、なぜか胸の奥が少しざわついた。
それ以外ない。本当に?
答えの出ないもやもやを抱えたまま、美咲は体育館へ向かった。
━━━
「集合!」
体育館に美咲の声が響いた。部員たちが集まる。
「インターハイ予選まで時間ないよ。春大で優勝したからって何も決まってないし、今日からもう一段上げるよ」
「はい!」
練習が始まった。
ランニング、フットワーク、シュート、そして5対5。コートへ入れば、美咲の頭はすぐに切り替わった。
「ちか、左空いてる!」
「はい!」
パスが回る。智子がスリーを打つ。
外れた。
美咲がリバウンドを奪い、着地すると同時にピボットで相手をかわしてシュートを決める。
顧問の笛が鳴った。
「3分休憩! 次のメニュー行くよ!」
「はい!」
バスケットボールに集中している間だけは、余計なことを考えずに済んだ。
練習後。
全員でストレッチをしていると、ちかが妙に甘えた声で近づいてきた。
「先輩♡」
「何?」
「今日、呼び出されてましたぁ?」
美咲が眉を寄せる。
「……何で知ってるの」
隣から智子が得意げに答える。
「私たちの情報網を舐めてもらったら困ります♡」
ちかも頷く。
「サッカー部キャプテンが尾野先輩を校舎裏に呼んだって、もう街中の噂ですよ」
「何で学校の外まで広がってるのよ」
「で、告白ですか?」
ちかが身を乗り出す。
「……そうだけど」
「おお」
「何その反応」
「河野先輩ですよね?」
「うん」
今度は智子。
「どうしたんですか?」
「断った」
ちかがすぐに聞く。
「即?」
美咲は一瞬だけ止まった。
「……まあ」
「ん?」
ちかと智子が同時に顔を上げる。
「何」
「いや、先輩なら『バスケあるから無理』って0.2秒くらいで終わりそうだなって」
「そんな言い方しないわよ」
「でもでも、断る理由はバスケですよね?」
「当たり前でしょ」
そう答えた瞬間、また胸の奥に小さな引っかかりが残った。
尾野美咲はバスケ第一。それ以外は二の次。
美咲を知る人なら、誰もがそう思っている。
智子がふと思い出したように言った。
「でも河野先輩、かっこいいですよね!」
「有名だよね!」
と、ちかも言う。
美咲は興味なさそうに答える。
「そうらしいね」
「先輩、本当に男の人の顔とか興味ないですよね」
「今はバスケで精一杯なの」
すると、ちかが急にニヤニヤしながら美咲を見た。
「本当にバスケだけですかぁ?」
「え?」
「隠してもダメですよ♡ 私たちは分かってますよ♡」
一瞬、秀の顔が浮かんだ。
「な、何がよ!?」
自分でも分かるほど声が上ずる。顔まで熱くなった。
ちかと智子が顔を見合わせる。
そして、声を揃えた。
「「可愛い可愛い後輩の私たちがいるじゃないですかぁ!」」
「……は?」
美咲があっけに取られる。
次の瞬間、智子がすっとちかの肩を抱き寄せた。
さっきまでの調子とは打って変わって、妙に低い声を出す。
「ちか、絶対俺から離れるなよ」
「きゃっ♡ 美咲先輩好き♡」
ちかが両手を胸の前で組み、本気でときめいたような顔をする。
どうやら智子が美咲役らしい。
「……」
美咲は無言で2人を見た。
「美咲先輩……私、ずっと先輩のそばにいます♡」
「ああ。俺が守ってやる」
「きゃあ♡」
茶番は続いている。
数秒前まで無駄に焦っていた自分への恥ずかしさも相まって、美咲のこめかみがぴくりと動いた。
「……あなたたち」
「はい?」
「ちょっとこっち来て!」
「ごめんなさーーーい!」
2人は一目散に逃げ出した。
逃げ足だけは、練習中より速い。
「待ちなさい!」
美咲が追いかけようとしたところで、奈緒が笑いながら近づいてきた。
「あの子たち、相変わらずね」
「奈緒、笑い事じゃないよ。こっちは困ってるのよ」
「そう? いつものことじゃない?」
「いつもだけど!」
奈緒は少しだけ首を傾けた。
「でも、美咲も今日はいつもより反応大きかったね」
「え?」
言われて、美咲は止まった。
確かにそうだ。いつもなら「はいはい」であしらって終わる。
なのに今日は、なぜあんなに焦ったのだろう。
美咲が考え込む横で、奈緒はその表情を静かに見ていた。
何かが、ほんの少しだけいつもと違う。
まさかねぇ。
そんな考えが一瞬浮かんだが、少なくとも悪い変化には見えない。だったら、美咲が自分から話すまではそっとしておこう。
奈緒は何も聞かなかった。
━━━
その夜の尾野家。
テレビではNBAのプレーオフが流れていた。
剛と健司はソファで試合を見ながら盛り上がっている。
「今のパス見たか?」
「見た見た。よく見てるよなあ」
美咲もダイニングテーブルから画面を見ていた。
いつもなら試合展開を追いながら、たまに父や健司の会話にも加わる。
ところが、その日はどこか上の空だった。
美佳は雑誌を読みながら、横目で姉を見る。
「お姉ちゃん?」
「はいっ!?」
美咲の肩がびくっと跳ねた。
美佳が目を細める。
「どうかした?」
「えっ? 普通だけど!」
「……ふーん」
じっと見られる。
居心地が悪い。
「そうだ! ちょっと明日の予習してくるね!」
美咲は急に立ち上がると、早足で2階へ上がっていった。
美佳はその背中を見送った。
どう見ても怪しい。
雑誌を閉じる。
これは取り調べねば。
少し時間を置いてから、美佳もゆっくり階段を上がっていった。
美咲は部屋に入ると、すぐに椅子へ座った。
テレビでNBAを見ていた。ただ、それだけだ。
なのに、気づけば試合の結果でも選手のプレーでもなく、秀のことを考えていた。
コンコン。
すぐにドアが鳴った。
「お姉ちゃん、入るからね」
美佳だった。
「えっ、うん!」
ドアが開き、美佳が入ってくる。
そのまま美咲の近くの床へ座った。
「お姉ちゃん」
「何?」
「言った方が楽なことってあるよ!」
「何のことよ!?」
あまりにも直球だった。
美佳は胸を張る。
「私を誰だと思ってるの?」
「……美佳」
「そう。尾野美佳。あなたの妹よ」
「知ってるわよ」
「そうなの。私もお姉ちゃんのこと、よーーーく知ってるの!」
じっと見つめられる。
美咲は居心地が悪くなり、視線をそらした。
「……今日、学校で告白されたの。それかなぁ?」
「お姉ちゃん、そんなの日常茶飯事じゃん」
「そんなことないわよ!」
「じゃあ、断ってないわけ?」
「いや、それは……断ったけど」
「何て答えたの?」
「え?」
「何て断ったの?」
「それは……いつもと一緒よ。バスケに専念したいって」
「それだけ?」
「もちろんよ」
「ほんとにそれだけ?」
「何よ。他に何があるの?」
美佳は美咲から目をそらさない。
「例えば……」
一拍置く。
「他に好きな人がいるとか?」
ドクン。
美咲の心臓が大きく鳴った。
急に顔まで熱くなった気がする。
「ちょ、ちょっと暑いわね! エアコンつけるね!」
慌てて手元にあったものを持ち上げる。
美佳が無表情で言った。
「お姉ちゃん、それスマホ」
「えっ?」
美咲の手にはスマートフォン。
なぜか、それをエアコンへ向けていた。
「ほんとだ! あの、形似てたから!」
「どこが?」
「……ちょっと似てるでしょ」
「全然」
美佳の目がさらに鋭くなる。
「お姉ちゃん」
美咲がおそるおそる妹を見る。
「私、当ててあげようか? 名前」
なぜか追い詰められている。
違う。私には好きな人なんていない。
バスケが上手いだけ。NBAを目指しているって聞いたから、気になっているだけ。
「その名前は――」
「美佳、お願い黙ってて!」
美咲が顔を真っ赤にして、勢いよく頭を下げた。
数秒の沈黙。
美咲が、はっと顔を上げる。
美佳と目が合った。
「やっぱり」
「……っ!」
「お姉ちゃん、今自分で認めたよ」
「美佳違うの!」
「誰?」
「誰もいない!」
「えーっ、まじかあー!」
「だから違うって!」
廊下から健司の声がした。
「何騒いでんの?」
「何でもない!」
「何でもないよー」
「姉ちゃんだけ声でかいけど」
「向こう行って!」
「なんだよ」
健司の足音が遠ざかっていく。
美佳はまだ笑っている。
美咲は顔を真っ赤にしたまま、妹を睨んだ。
「……もう出てって」
「お姉ちゃん、かわいい」
「出てって!」
「はいはい」
美佳は立ち上がり、ドアを開けた。
その前に、一度だけ振り返る。
「大丈夫。誰にも言わないよ」
美咲は何も言わない。
「でも、私には教えてね♪」
「何もない」
「はいはい」
ドアが閉まった。
美咲は机へ突っ伏した。耳まで熱い。
「……最悪」
しばらくして、ようやく顔を上げる。
机の前には、インターハイ予選までの予定表が貼ってあった。
それを見つめ、美咲は大きく息を吐く。
「バスケ」
自分に言い聞かせる。
「今はバスケ!」
そして、何か別のことに集中したくて、すぐに問題集を開いた。
けれど、その日はいつもよりページの進みが悪かった。
問題を解いていても、少し気を抜けば同じ顔が浮かんでくる。
美咲はもう一度深呼吸し、問題集へ向き直った。
今はまだ、考えないことにした。
1・2年生にとっては上々の滑り出しだったが、尾野美咲にとって、それは一つの通過点にすぎない。春大は1、2年生の大会であり、3年生の美咲は試合に出ていなかった。
すぐにインターハイ予選が始まる。ここからが、美咲たちにとって本当の勝負だった。
放課後、大分女子の体育館。
「ちか、そこで一回止まらない!」
「はい!」
美咲の声がコートに響く。
インターハイ予選が近づいても、コートの上の美咲は何も変わらなかった。むしろ日に日に集中力は増している。練習では誰よりも声を出し、後輩が苦しければ自分が先に走る。ミスには厳しいが、ただ怒鳴って終わることはない。
「智子、今のディフェンス、スクリーン待ちすぎだよ。腕で相手との距離を確認するとかして、もっと早く準備して」
「はい!」
「もう一回」
智子が頷き、同じ形をやり直す。
いつもの部活の風景だった。
授業でも、特に変わりはない。
英語の授業中、教師が長文問題を解説していた。
「では、尾野さん」
指名された美咲は教科書から顔を上げ、ほとんど詰まることなく答える。
「はい、いいですね」
教師が満足そうに頷いた。
数学の小テストも満点だった。昼休み、友人の女子が答案を覗き込んでくる。
「また100点?」
「うん」
「バスケ毎日あれだけやって、美咲いつ勉強してるの?」
「普通に家で」
「その普通が私たちと違うからなー」
「そんなにやってないよ」
「出た! 勉強できる人のセリフ!」
美咲は笑った。
勉強している時も、バスケットボールをしている時も、何かに集中していれば余計なことは考えない。
問題は、その隙間だった。
授業と授業の間。何となく窓の外を眺めていると、不意にあのレイアップが浮かぶ。
違う違う。
美咲はすぐに教科書へ目を落とした。
帰りのバスでもそうだった。
信号待ちの窓の向こうを、別の高校の男子生徒が歩いている。背が高い。
気づけば、一瞬だけ顔を確認していた。
渡辺秀ではない。
「……何見てんだろ」
自分でも呆れながら視線を戻した。
家で歯を磨いている時には、今度は虹ヶ丘の女子生徒たちが話していた言葉まで思い出す。
『NBA行くって言ってるらしいよ』
美咲は口をゆすぎ、誰もいない洗面所で小さく呟いた。
「……NBAかぁ」
本当に行くのかな。
そう考えた瞬間、秀の顔まで浮かんだ。
ふと鏡を見る。少しだけ口元が緩んでいる。
「……っ!」
美咲は慌てて顔を引き締め、もう一度口をゆすいだ。
バスケが上手いし、もしかしたら本当にNBAへ行くかもしれないし。だから、これからどうなるのか気になるだけ。
それだけだ。
それに――顔。
そこまで考えたところで、美咲は勢いよく首を振った。
「……それは関係ない!」
誰にも聞かれていないのに声に出して否定すると、逃げるように洗面所を出ていった。
━━━
ある日の放課後だった。
「尾野さん」
教室の入口から呼ばれ、美咲が顔を上げる。
「あ、はい」
そこに立っていた男子には見覚えがあった。
同じ3年生。サッカー部のキャプテン、河野(こうの)直樹(なおき)。
サッカー部の中心選手で、女子から人気があるとクラスメイトたちが何度か話していた。
「ちょっと時間ある?」
「今?」
「うん。すぐ終わる」
「いいけど」
美咲が立ち上がった途端、教室がわずかにざわつく。
「え」
「これ絶対あれやん」
「ついに河野行った?」
美咲が眉をひそめた。
「何? えっ?」
友人はニヤニヤしながら手を振る。
「いや。行ってらっしゃい」
「あ……」
そこで美咲にも、ようやく分かった。
この空気には覚えがある。中学の頃から何度か経験してきた。
河野について校舎の裏へ向かう。人通りは少ない。
「用事って何かな?」
「いや……」
普段はよくしゃべる河野が、妙に歯切れが悪い。
「えっと……バスケ順調?」
「うん。怪我人も少ないし、まずまずかな。サッカー部は?」
「うちも、うん……まあまあかなぁ」
会話が途切れた。
少しの沈黙のあと、河野が一度息を吐く。
「尾野」
「うん」
「俺、尾野のこと好きなんだ」
美咲は黙った。やっぱりそうか。
「急にごめん」
美咲は、告白されること自体には慣れていた。
中学の頃から何度か経験している。先輩からも、同級生からも、後輩からもあった。
そして、そのたびに返す答えもほとんど決まっていた。
ありがとう。でも、今はバスケットボールに専念したい。
相手が嫌いだからではない。本当に、それ以外のことを考えていなかったからだ。
今回も同じ。そのはずだった。
「ありがとう。でも私――」
バスケに専念したいから。
いつもの言葉を続けようとした、その瞬間だった。
渡辺秀の顔が、ふっと頭に浮かんだ。
「……」
美咲の言葉が止まる。
「尾野?」
ほんの一、二秒。それだけだった。
けれど、これまで告白を断る時、美咲がこんなふうに言葉を失ったことは一度もなかった。
何で今、渡辺君が出てくるの。
美咲自身が一番驚いていた。
「……ごめん」
ようやく言葉を続ける。
「私、今はバスケに専念したいから」
いつもの答えだった。
なのに、なぜか自分の耳には、これまでと少し違って聞こえた。
河野はしばらく黙ったあと、少し苦笑した。
「やっぱりそう言うと思った」
「ごめん」
「いや。尾野がバスケ一筋なの知ってるし」
「……うん」
「でも、言わないで卒業するのも嫌だったから」
「ありがとう」
河野は頷いた。これで終わるはずだった。
しかし、河野は少し迷ったあと、美咲の顔を見た。
「……本当に、バスケだけ?」
「え?」
「いや……好きな人とか、いるの?」
心臓が一度、大きく鳴った。
「……いないよ」
答えはすぐに出た。
嘘をついたつもりはない。
それなのに、なぜか少しだけ嘘をついているような気分になった。
「ほんと?」
「ほんと」
「さっき、ちょっと止まったから」
「それは……急だったから」
「そっか」
「うん」
河野はそれ以上聞かなかった。
「分かった。変なこと聞いてごめん」
「ううん」
「インターハイ、頑張って」
「ありがとう。河野君も」
「じゃあ」
「うん」
河野が先に戻っていく。
美咲はしばらく、その場に残っていた。
好きな人はいない。そう答えた。
嘘をついたつもりはない。今までも同じように答えてきた。
なのに。
「……何で」
小さく息を吐く。
「何であそこで出てくるの」
また、渡辺秀だった。
自分でも、だんだん何が何だか分からなくなってきた。
教室へ戻ると、扉を開けた瞬間に視線が集まった。そして、一瞬だけ静かになる。
「……何?」
友人たちは顔を見合わせる。
「いや、何も」
「何その空気」
席に着くと、すぐに友人が寄ってきた。
「告白?」
美咲は少し嫌そうな顔をした。
「……うん、まあ……そう」
「で、断った?」
「うん」
「もったいな!」
「何が」
「河野だよ? サッカー部キャプテン、成績いい、顔いい、性格いい」
「商品説明みたいに言わないで」
「何がダメなん?」
「ダメじゃない」
「じゃあ何で?」
「バスケ」
「あー」
友人はあっさり納得した。
「やっぱそれか」
「それ以外ないでしょ」
「尾野らしいわ」
その言葉に、なぜか胸の奥が少しざわついた。
それ以外ない。本当に?
答えの出ないもやもやを抱えたまま、美咲は体育館へ向かった。
━━━
「集合!」
体育館に美咲の声が響いた。部員たちが集まる。
「インターハイ予選まで時間ないよ。春大で優勝したからって何も決まってないし、今日からもう一段上げるよ」
「はい!」
練習が始まった。
ランニング、フットワーク、シュート、そして5対5。コートへ入れば、美咲の頭はすぐに切り替わった。
「ちか、左空いてる!」
「はい!」
パスが回る。智子がスリーを打つ。
外れた。
美咲がリバウンドを奪い、着地すると同時にピボットで相手をかわしてシュートを決める。
顧問の笛が鳴った。
「3分休憩! 次のメニュー行くよ!」
「はい!」
バスケットボールに集中している間だけは、余計なことを考えずに済んだ。
練習後。
全員でストレッチをしていると、ちかが妙に甘えた声で近づいてきた。
「先輩♡」
「何?」
「今日、呼び出されてましたぁ?」
美咲が眉を寄せる。
「……何で知ってるの」
隣から智子が得意げに答える。
「私たちの情報網を舐めてもらったら困ります♡」
ちかも頷く。
「サッカー部キャプテンが尾野先輩を校舎裏に呼んだって、もう街中の噂ですよ」
「何で学校の外まで広がってるのよ」
「で、告白ですか?」
ちかが身を乗り出す。
「……そうだけど」
「おお」
「何その反応」
「河野先輩ですよね?」
「うん」
今度は智子。
「どうしたんですか?」
「断った」
ちかがすぐに聞く。
「即?」
美咲は一瞬だけ止まった。
「……まあ」
「ん?」
ちかと智子が同時に顔を上げる。
「何」
「いや、先輩なら『バスケあるから無理』って0.2秒くらいで終わりそうだなって」
「そんな言い方しないわよ」
「でもでも、断る理由はバスケですよね?」
「当たり前でしょ」
そう答えた瞬間、また胸の奥に小さな引っかかりが残った。
尾野美咲はバスケ第一。それ以外は二の次。
美咲を知る人なら、誰もがそう思っている。
智子がふと思い出したように言った。
「でも河野先輩、かっこいいですよね!」
「有名だよね!」
と、ちかも言う。
美咲は興味なさそうに答える。
「そうらしいね」
「先輩、本当に男の人の顔とか興味ないですよね」
「今はバスケで精一杯なの」
すると、ちかが急にニヤニヤしながら美咲を見た。
「本当にバスケだけですかぁ?」
「え?」
「隠してもダメですよ♡ 私たちは分かってますよ♡」
一瞬、秀の顔が浮かんだ。
「な、何がよ!?」
自分でも分かるほど声が上ずる。顔まで熱くなった。
ちかと智子が顔を見合わせる。
そして、声を揃えた。
「「可愛い可愛い後輩の私たちがいるじゃないですかぁ!」」
「……は?」
美咲があっけに取られる。
次の瞬間、智子がすっとちかの肩を抱き寄せた。
さっきまでの調子とは打って変わって、妙に低い声を出す。
「ちか、絶対俺から離れるなよ」
「きゃっ♡ 美咲先輩好き♡」
ちかが両手を胸の前で組み、本気でときめいたような顔をする。
どうやら智子が美咲役らしい。
「……」
美咲は無言で2人を見た。
「美咲先輩……私、ずっと先輩のそばにいます♡」
「ああ。俺が守ってやる」
「きゃあ♡」
茶番は続いている。
数秒前まで無駄に焦っていた自分への恥ずかしさも相まって、美咲のこめかみがぴくりと動いた。
「……あなたたち」
「はい?」
「ちょっとこっち来て!」
「ごめんなさーーーい!」
2人は一目散に逃げ出した。
逃げ足だけは、練習中より速い。
「待ちなさい!」
美咲が追いかけようとしたところで、奈緒が笑いながら近づいてきた。
「あの子たち、相変わらずね」
「奈緒、笑い事じゃないよ。こっちは困ってるのよ」
「そう? いつものことじゃない?」
「いつもだけど!」
奈緒は少しだけ首を傾けた。
「でも、美咲も今日はいつもより反応大きかったね」
「え?」
言われて、美咲は止まった。
確かにそうだ。いつもなら「はいはい」であしらって終わる。
なのに今日は、なぜあんなに焦ったのだろう。
美咲が考え込む横で、奈緒はその表情を静かに見ていた。
何かが、ほんの少しだけいつもと違う。
まさかねぇ。
そんな考えが一瞬浮かんだが、少なくとも悪い変化には見えない。だったら、美咲が自分から話すまではそっとしておこう。
奈緒は何も聞かなかった。
━━━
その夜の尾野家。
テレビではNBAのプレーオフが流れていた。
剛と健司はソファで試合を見ながら盛り上がっている。
「今のパス見たか?」
「見た見た。よく見てるよなあ」
美咲もダイニングテーブルから画面を見ていた。
いつもなら試合展開を追いながら、たまに父や健司の会話にも加わる。
ところが、その日はどこか上の空だった。
美佳は雑誌を読みながら、横目で姉を見る。
「お姉ちゃん?」
「はいっ!?」
美咲の肩がびくっと跳ねた。
美佳が目を細める。
「どうかした?」
「えっ? 普通だけど!」
「……ふーん」
じっと見られる。
居心地が悪い。
「そうだ! ちょっと明日の予習してくるね!」
美咲は急に立ち上がると、早足で2階へ上がっていった。
美佳はその背中を見送った。
どう見ても怪しい。
雑誌を閉じる。
これは取り調べねば。
少し時間を置いてから、美佳もゆっくり階段を上がっていった。
美咲は部屋に入ると、すぐに椅子へ座った。
テレビでNBAを見ていた。ただ、それだけだ。
なのに、気づけば試合の結果でも選手のプレーでもなく、秀のことを考えていた。
コンコン。
すぐにドアが鳴った。
「お姉ちゃん、入るからね」
美佳だった。
「えっ、うん!」
ドアが開き、美佳が入ってくる。
そのまま美咲の近くの床へ座った。
「お姉ちゃん」
「何?」
「言った方が楽なことってあるよ!」
「何のことよ!?」
あまりにも直球だった。
美佳は胸を張る。
「私を誰だと思ってるの?」
「……美佳」
「そう。尾野美佳。あなたの妹よ」
「知ってるわよ」
「そうなの。私もお姉ちゃんのこと、よーーーく知ってるの!」
じっと見つめられる。
美咲は居心地が悪くなり、視線をそらした。
「……今日、学校で告白されたの。それかなぁ?」
「お姉ちゃん、そんなの日常茶飯事じゃん」
「そんなことないわよ!」
「じゃあ、断ってないわけ?」
「いや、それは……断ったけど」
「何て答えたの?」
「え?」
「何て断ったの?」
「それは……いつもと一緒よ。バスケに専念したいって」
「それだけ?」
「もちろんよ」
「ほんとにそれだけ?」
「何よ。他に何があるの?」
美佳は美咲から目をそらさない。
「例えば……」
一拍置く。
「他に好きな人がいるとか?」
ドクン。
美咲の心臓が大きく鳴った。
急に顔まで熱くなった気がする。
「ちょ、ちょっと暑いわね! エアコンつけるね!」
慌てて手元にあったものを持ち上げる。
美佳が無表情で言った。
「お姉ちゃん、それスマホ」
「えっ?」
美咲の手にはスマートフォン。
なぜか、それをエアコンへ向けていた。
「ほんとだ! あの、形似てたから!」
「どこが?」
「……ちょっと似てるでしょ」
「全然」
美佳の目がさらに鋭くなる。
「お姉ちゃん」
美咲がおそるおそる妹を見る。
「私、当ててあげようか? 名前」
なぜか追い詰められている。
違う。私には好きな人なんていない。
バスケが上手いだけ。NBAを目指しているって聞いたから、気になっているだけ。
「その名前は――」
「美佳、お願い黙ってて!」
美咲が顔を真っ赤にして、勢いよく頭を下げた。
数秒の沈黙。
美咲が、はっと顔を上げる。
美佳と目が合った。
「やっぱり」
「……っ!」
「お姉ちゃん、今自分で認めたよ」
「美佳違うの!」
「誰?」
「誰もいない!」
「えーっ、まじかあー!」
「だから違うって!」
廊下から健司の声がした。
「何騒いでんの?」
「何でもない!」
「何でもないよー」
「姉ちゃんだけ声でかいけど」
「向こう行って!」
「なんだよ」
健司の足音が遠ざかっていく。
美佳はまだ笑っている。
美咲は顔を真っ赤にしたまま、妹を睨んだ。
「……もう出てって」
「お姉ちゃん、かわいい」
「出てって!」
「はいはい」
美佳は立ち上がり、ドアを開けた。
その前に、一度だけ振り返る。
「大丈夫。誰にも言わないよ」
美咲は何も言わない。
「でも、私には教えてね♪」
「何もない」
「はいはい」
ドアが閉まった。
美咲は机へ突っ伏した。耳まで熱い。
「……最悪」
しばらくして、ようやく顔を上げる。
机の前には、インターハイ予選までの予定表が貼ってあった。
それを見つめ、美咲は大きく息を吐く。
「バスケ」
自分に言い聞かせる。
「今はバスケ!」
そして、何か別のことに集中したくて、すぐに問題集を開いた。
けれど、その日はいつもよりページの進みが悪かった。
問題を解いていても、少し気を抜けば同じ顔が浮かんでくる。
美咲はもう一度深呼吸し、問題集へ向き直った。
今はまだ、考えないことにした。
