バスケ少女の恋はコートから

翌日の日曜日。
大分女子は前日の2試合を勝ち上がり、朝から再び会場へ入っていた。

三年生の美咲は春大には出場しないが、キャプテンとしてやることはいくらでもある。アップの補助、ベンチからの声かけ、試合前の確認、試合後の振り返り。普段なら会場に入った瞬間から、頭の中はほとんど女子の試合だけになる。

誰の動きが硬いか。誰が昨日より疲れているか。ちかのテンポはどうか。智子のシュートタッチはどうか。相手はどこを狙ってくるか。
それだけだった。

ところがその日は、体育館へ入ってから妙に視線が落ち着かなかった。

「先輩、ボールこっちでいいですか?」

ちかがバッグからボールを出しながら聞く。

「うん。そこ」
「ボトルは?」
「昨日と同じ袋」
「はーい」

答えながら、美咲はふと反対側のコートを見る。
違う。虹ヶ丘ではない。
今度は入口の方を見る。男子のジャージ姿が何人か入ってくる。違う。
そんな美咲に気づいた智子が言った。

「先輩、誰か探してます?」
「別に」
「そうですか?」
「うん」

本人に、誰かを探しているつもりはなかった。
ただ、昨日見た虹ヶ丘の10番――渡辺秀。
今日もいたら、もう少し見てみたい。なぜか、そんなことを思っていた。

アップまではまだ時間がある。大会本部の近くには、昨日の結果と今日の組み合わせを貼り出した大きなトーナメント表があった。

「今日の流れ確認してくる」

そう言って、美咲はそこへ向かった。
―――
大分女子は順当に勝ち上がっている。
今日の相手も知っている。開始時間も、その次の試合の予定も確認済みだった。

美咲の視線が、その隣に貼られた男子のトーナメント表へ移る。
虹ヶ丘。
昨日――敗戦。

「……あ」

小さく声が漏れた。負けている。
ということは、今日は試合がない。もう会場には来ないのかもしれない。
ほんの少しだけ、胸が沈んだ。

「負けたんだ……」

口にしてから、自分でも変だと思った。
別に虹ヶ丘を応援していたわけではない。昨日までほとんど気にもしていなかった学校だ。
虹ヶ丘は県内有数の進学校で、男子も女子もバスケットボールの強豪校という印象はない。大会で名前を見ても特別意識するような学校ではなかった。

それなのに、美咲は男子のトーナメント表の前からすぐには動かなかった。
その時、隣から女子の声が聞こえた。

「男子、負けてるじゃん」

美咲の耳が反応する。
横を見ると、紺色のジャージを着た女子が二人。胸には虹ヶ丘高校の文字があった。女子バスケ部らしい。
美咲は前を向いたまま、トーナメント表を眺める。

「昨日見た?」
「ちょっとだけ」
「秀君、全然やってなかったね」

美咲の視線が止まった。ひでくん…

「先生とそういう方針なんでしょ?」
「田中先生?」
「うん。まだ身体できてないし、今は無理させないって」
「でもさ、普通に秀君もっと出したら勝てそうじゃない?」
「それは思う」

美咲の頭に、昨日の試合が浮かんだ。
もっと行けそうなのに行かない。打てそうなのにパスを出す。抜けそうなのに無理をしない。

「昨日もセーブしてたんでしょ?」
「うん。もったいないよね」
「でも本人も納得してるらしいよ」
「へえ」
「田中先生とちゃんと話してるって」

できないのではなく、やらない。
美咲は昨日感じた違和感の理由が、少しだけ分かった気がした。

「秀君って、なんで虹ヶ丘なんだろ」
「勉強もできるからじゃない?」
「ほんと?」
「らしいよ」

そこまで聞いて、美咲はもう戻ろうと思った。しかし次の言葉で足が止まった。

「あと、NBA行くって言ってるらしいよ」

美咲の眉がわずかに動く。

「え、マジで?」
「本人はそう言ってるって」
「でかく出たね」
「でも秀君なら、なんか言ってても変じゃないけど」
「今185くらい?」
「それくらいじゃない?」
「まだ伸びそうだよね」

二人がしばらく話したあと、一人が笑った。

「しかも普通にイケメンだし」
「それはそう!」

美咲はなぜか少しだけ面白くなかった。

「有名になる前にサインもらっとこうかな」
「何のために?」
「NBA行ったら自慢できるじゃん」
「絶対『私、高校の時から知ってました』って言うやろ」
「言う言う!」
「写真も撮っとく?」

二人が笑う。美咲は前を向いたままだった。
NBA。サイン。写真。イケメン。
最後のところだけ、妙に引っかかる。

「でも本人、そういうの全然気づいてなさそう」
「分かる。普通にしてるよね」
「この前も女子が話しかけてたけど、『俺ですか?』みたいな顔してた」
「え、かわいい!」

なぜか胸のあたりがざわついた。その瞬間。

「尾野先輩!」
「っ!」

本気で肩が跳ねた。
振り返ると、ちかが驚いた顔をしている。

「うわっ、びっくりした!」
「……何!?」
「いや、それこっちのセリフですよ。何回も呼びましたよ!」
「呼んでた?」
「呼んでました」

後ろには智子もいる。

「三回くらい」
「……そう」

ちかが美咲の横を見る。
トーナメント表。そして、美咲が立っている位置。

「先輩、男子の結果見てたんですか?」
「……試合結果」
「男子の?」
「全体よ」
「でもここ男子ですよ」
「分かってる」

智子も笑いながら聞く。

「で、全体の何を確認したんです?」
「結果」
「だから、何の?」
「もういい。行くよ!」
「はーい」

二人にとっては、美咲が男子高校生に少しでも興味を示しているらしいこと自体が面白かった。ちかが男子の表を見る。

「あ、虹ヶ丘負けてる」
「……うん」
「昨日の10番のところですよね」

智子が言う。

「そう」
「あの子、やっぱ上手そうなのに負けちゃったのかあ」
「うん。でもあんまり出てなかったみたい。セーブしてるらしいよ」

ちかと智子が同時に美咲を見る。

「え?」

美咲も、自分で言ってから気づいた。

「……何よ」
「なんで知ってるんです?」
「さっき聞こえたの。隣で虹ヶ丘の女子が話してたから」
「へえー」

ちかの顔が楽しそうになる。

「どんな話ですか?」
「別に。まだ身体ができてないから無理させないとか、顧問の先生との方針とか」
「ふーん」
「あと……」

言いかけて、美咲は止まった。

「あと?」
「……何でもない」
「何ですか?」
「どうでもいい話」

智子まで食いつく。

「気になる」
「ほら、もうアップの準備するよ」
「はーい」

三人で歩き始めると、ちかはすぐ試合の話へ戻った。

「今日、最初から走ります?」
「相手は昨日マンツー多かったから、まずちかが崩して」
「はい」
「智子はコーナーで待つんじゃなくて、一回上がって」
「はい」

美咲も、いつものキャプテンに戻る。ただ、頭の片隅にはさっきの話が残っていた。
NBAを目指している。それから――。

『しかも普通にイケメンだし』

「……」

自分がそこまで覚えていることに気づいて、美咲は首を振った。

「いかんいかん。試合に集中!」
「え?」
「何でもない!」

そのままコートへと向かった。
―――

その日の大分女子は快勝した。試合中の美咲は、ほとんどいつもの美咲だった。
ちかが不用意なパスを出せば、

「池上! 雑!」
「はい!」

智子がスクリーンに引っかかれば、

「智子、先に声!」
「はい!」

点差が開いても、

「最後まで同じ!」
「はい!」

そのまま大分女子が春大を制した。試合終了後、ちかが満足そうに息を吐く。

「よしっ!」
「今日よかったね!」

智子も笑う。だが、美咲は腕を組んだ。

「前半、まだまだ修正できるよ」
「先輩、厳しい!」

ちかが口を尖らせる。

「優勝した可愛い後輩にご褒美とかないんですか?」
「明日の練習で、一緒にダッシュしてあげるよ?」
「お断りします! もう走れません!」

智子も割って入る。

「先輩! 帰りにお祝いのケーキ買ってください! 二人でケーキ入刀しましょう!」
「あなたは何を言ってるの? じゃあ一緒に今日の試合の反省会する?」
「あっ、用事を思い出しました!」
「私も!」

二人は逃げるように離れていった。美咲は呆れながら、その背中を見送った。
―――
夕方。
「ただいま」
「おかえりー」

リビングから美佳の声が返ってきた。

美咲が入ってくると、美佳は一度だけ姉を見る。
何かが違う。
疲れているのなら珍しくない。自分が試合に出ようが出まいが、何事にも全力なのが尾野美咲だ。
でも、負けた日の顔ではない。
かといって、優勝した日の顔にも見えない。何となく、ぼんやりしている。
夕食になると、剛が味噌汁を飲みながら聞いた。

「今日どうだった?」
「勝ったよ」
「そうか」

少し間があく。

「……負けたのかと思った」
「何で?」
「顔」
「勝ったって」
「じゃあ内容か。納得いかなかった?」

美咲は少し考える。特別悪い試合ではなかった。

「まあ……そんな感じかな」
「そうか?」
「うん」

剛はまだ不思議そうにしている。

「なんか気が抜けたような顔してるから、お父さん負けたのかと思った」
「えっ、どんな顔?」
「なんというか、いつもの『やり切った』って顔じゃないんだよな」

里子も美咲を見る。

「確かに珍しいね」
「疲れただけじゃない?」
「美咲、試合の日は疲れてても、帰ってきたらまず内容の話するでしょ」
「今日は別にいいじゃん」
「まあ、いいけど」

美佳は黙ってご飯を食べながら姉を見ていた。妙に上の空。
機嫌が悪いわけではない。試合を悔しがっているようにも見えない。
そして、昨日。
『虹ヶ丘の一年で、ちょっと上手い子いた』
美佳が箸を置いた。

「お姉ちゃん」
「何?」
「昨日言ってた人、今日もいた?」

美咲の動きが一瞬止まった。
誰とは言われていない。それなのに真っ先に一人の顔が浮かんだ。
美佳はそれを見逃さなかった。

「……誰のこと言ってるの?」
「虹ヶ丘の」

剛も思い出す。

「ああ、昨日言ってた一年か」
「……今日は試合なかったみたいよ」
「へえ」
「負けてたから」
「へえ」

美佳が妙に楽しそうな顔をする。
剛は特に気にせず言った。

「虹ヶ丘負けたのか。大きい子が一人いたくらいじゃ、まだ厳しいか」
「うん。でもまだ一年だから、試合ではセーブしてるらしいよ。無理させない方針なんだって」

食卓が少し静かになった。
剛が美咲を見る。
「詳しいな」
「えっ……聞こえたから! 会場で虹ヶ丘の女バスが話してたの!」
「そうか」

里子は特に気にした様子もなく言った。

「一年生なら、その方がいいかもね。身体が伸びる時期に無理させてもいいことないし」
「うん」
「顧問の先生、ちゃんと考えてるんじゃない?」
「……うん」

美佳だけが姉を見ていた。
返事が妙にたどたどしい。

「その一年生、かっこいいんでしょ?」
「また何? 知らないわよ」
「で、かっこいいの?」
「バスケ上手い」
「聞いてない」
「知らない」
「昨日見たんでしょ?」
「見たけど」
「じゃあ分かるやん」

美咲は少し考えてから答えた。

「……普通に整ってるんじゃない」

美佳の目が少し大きくなる。健司も反応した。

「姉ちゃんが男の顔評価した」
「してない」
「『整ってる』は評価やろ」
「客観的に」
「客観的にねえ」

美佳がニヤニヤする。

「何その言い方」
「別に」

それ以上は追及しなかった。
―――
食後、美咲はソファに座ってぼんやりテレビを見ていた。
普段なら試合映像を見るか、自分のノートに今日の反省を書いている時間だ。

美佳が隣へ座る。テレビには人気の男性アイドルグループが映っていた。

「この人かっこよくない?」
「誰?」
「やっぱ知らないんだ」
「何で知る必要あるの」
「お姉ちゃん、本当に興味ないね」
「ない」

少し間を置いて、美佳が言う。

「でも他校の一年生の顔は覚えたんだ」
「身長高かったから」
「セーブしてることも」
「聞こえたから」
「へえ」
「何」
「何でもない」

美咲が横を見る。

「……美佳」
「何?」
「変なこと考えてる?」
「全然」

明らかに何か考えている顔だった。

「ほんと?」
「うん」
「ならいいけど」

美咲はテレビへ視線を戻す。
これで話は終わり。そのつもりだった。

「NBA行くって言ってるらしいよ」

口から勝手に出た。美佳が振り向く。

「え?」

美咲も、自分が何を言ったのか一瞬遅れて気づいた。

「いや、聞こえただけ! 私NBA好きだから、そこだけたまたま覚えてたの!」

美佳は内心で確信したが、顔には出さなかった。

「へえ。すごいじゃん」
「まだ一年だけど」
「本人が言ってるの?」
「らしい」
「本気なんじゃない?」
「……多分」
「応援したい?」

美咲は少し考えた。

「……バスケ選手としてはね」
「ふーん」

美咲はテレビを見る。しかし内容はほとんど頭に入ってこない。
虹ヶ丘高校。一年生。背番号10。渡辺秀。左利き。
今は試合で無理をさせてもらっていない。NBAを目指している。
昨日よりも、知っていることが増えていた。

自分から聞いたわけではない。覚えようとしたわけでもない。
なのに、なぜか一つも忘れていない。
そして――。

『しかも普通にイケメンだし』

余計な一言まで頭に浮かんできた。
美咲は勢いよく立ち上がった。

「部屋で勉強と試合の反省してくる!」
「いってらっしゃーい」

足早に二階へ上がっていく姉を、美佳は見送った。
―――
美咲は机に座り、ノートを開いた。
今日の試合。
ちか。判断○、速攻○。第1クォーター、少しドリブルが多い。
智子。シュート○。守備、スクリーン対応△。
チーム。前半△、後半○。
そこまで書いて、ペンが止まった。
ふと余白に、
「虹ヶ丘」
と書きかけて止まる。

「……何してんの」

すぐに線を引いて消した。
数秒後。今度は頭の中に、別の文字が浮かぶ。
渡辺秀。
美咲はペンを置いた。

「……NBAか」

小さく呟く。そして、ほんの少しだけ笑った。

その頃、美佳は自分の部屋で本を開いていた。
だが、さっきからほとんど同じページを見ている。

昨日まで、姉が男子の話をすることなどほとんどなかった。
俳優にも、アイドルにも、先輩にも、同級生にも。
告白してきた男子にさえ興味を示さなかった。
その姉が、たった二日で他校の一年生についていくつも覚えている。
学校。学年。プレー。身体をセーブしていること。NBAを目指していること。
そして顔まで。

美佳は本を閉じた。

「……これ、絶対そうじゃん」

思わず口元が緩んでいた。