後宮の【女千人】と呼ばないで!  〜最強の武装女官は、再会した幼馴染の近衛少将に溺愛される〜

 その足で織葉(おりは)と颯登(はやと)は御卜(みうら)女官弓削燈子(ゆげとうこ)のところへ戻った。
「馬飼野(まかいの)家の女官が身につけていた衣装を借り受けて来たわ。廃棄して構わないとは言われたけれど」
「衣装は別に問題なさそうね」
 燈子(とうこ)は一目見ただけで衣装には興味を示さなかった。
「——このかすかに香(こう)の匂いがする組み紐がやはり怪しいわね」
 燈子はほぼ黒く変色した血を吸った組み紐に鼻を寄せていた。織葉は顔をしかめた。
「一応桐壺(きりつぼ)の香りがするわね」
「桐壺の香り?」
「あら知らないの? 藤壺(ふじつぼ)、梅壺(うめつぼ)、桐壺(きりつぼ)、梨壺(なしつぼ)、萩壺(はぎつぼ)、五家特有の香(こう)というものがあるのよ。嗅いでごらんなさい。藤壺の香とは違うでしょう?」
 言われて織葉は一瞬逡巡したが差し出された紐に顔を近づけた。香の匂いは感じられなかった。かすかに血の臭いがした。
「血の臭いではないの? よくわからないわ」
「あなたは血の臭いしかわからないのね。可哀相」
 まるで戦場で死線をくぐり抜けてきたみたいな言い方だな。自分は後宮内警備に特化しているので実際に誰かを殺(あや)めたことはないのだが——と織葉は思った。
「どれ——俺にも」颯登が織葉の腕を掴んで自分の鼻先に紐が来るように引き寄せた。
「自分で持ちなさいよ」
「あなたに触れたいのね」燈子が目を細めた。
 違うだろう。単に血で汚れた組み紐に触れたくないだけだ——と織葉は思った。
「なるほどこれが桐壺の香か」
「は?」織葉は引いた。腕は颯登につかまれたままだ。
「——藤壺の匂いも混じっている気がするな」
「それは榊原内侍(さかきばらないし)の匂いでしょう」燈子は可笑しそうに口許(くちもと)に手を当てた。
「そうだった。これは織葉の匂いだ」
 織葉はさっと颯登の手を振り払い、その袖口の匂いを嗅いだ。何も匂わなかった。
「自分の匂いはわからないものよ」燈子は笑い続けた。
 藤宮(ふじみや)家の私塾で武芸を学んでいた頃、颯登は匂いで織葉の防具や袴(はかま)を選(よ)り分けていた——と織葉は思い出した。その能力は健在なのか? 気持ち悪い奴だな。
「それでどうなの? この組み紐に向かって矢を飛ばせることは可能なの?」
「そうね、できそうね。実地検分したいところだけれど」
 燈子は不気味に笑うだけだった。