ぐずつくわたしに呆れたのか、やがて岩陰から深い溜め息が聞こえ、ドブンと水音がした。その音に共鳴するように、足元の海面がゆらりと大きく揺れる。
「……幻滅すんなよ」
何かを諦めたような彼の声がすぐ傍に近付き、顔を上げたわたしは息を飲んだ。
そこにいたのは、胸から下をすべて海に浸した泳げないはずの七瀬──ではなく、彼の姿をした別の生き物だった。
水に濡れた髪から耳があるはずの位置に覗く、魚の胸びれのようなもの。
顔回りや首から下は薄いパールブルーの鱗に覆われていて、肌に張り付いた制服のシャツからも透けて見える。
岩に添えられた手には長く尖った爪。指と指の間には河童のような水掻き。そして何より、海の中でゆらゆらと揺れている、碧く輝く尾びれ。
この十年間、一度だって忘れたことはなかった、あのひとの、尾びれだ。
「……七瀬?」
「うん、そう」
「……人魚?」
「そう。人魚『姫』じゃなくてごめんな」
海に浸かったままらしくもなく眉尻を下げて笑う彼は、いつもの嫌味ったらしさが消え、どこか儚げな面持ちをしている。
夕暮れの海に、碧い人魚。ずっと焦がれていた。会いたくてたまらなかった。
でもおとぎ話の中から飛び出してきたかのような光景はあまりにも非日常的で、夢なのか現実なのかよくわからない。
「……泳げないなんて、嘘じゃん」
「そーね。実はめっちゃ泳げる」
なんならこの町の住人の中で一番泳げるわと、人間離れした美しい顔に似つかわしくない軽口で返してくる彼に、少しほっとする。
あぁやっぱり、見た目は違えど、七瀬だ。
「七瀬、上がってこれる?」
「ん? うん」
「隣、来てほしい」
今度は断られず、七瀬は二つ返事でわたしの座る岩場へ上がってきた。
ザバァ、と波打つ水から現れた、七瀬の「魚」の部分。腰から下に普段見慣れた二本の足はなく、夕日を反射して輝く鱗に覆われた碧い皮膚が、ひらひらと海中をたゆたう尾びれへと続いている。
溺れて気絶しかけた状態でしか見たことのなかった、あの碧色。
子どもの頃の記憶の答え合わせをするように、つい不躾に見つめてしまう。
「……怖くない?」
七瀬の声に視線を上げると、私の目は彼のガラス玉のような瞳にとらえられた。
光の加減で深い青が奥から透けて見えるような、澄んだ薄茶色の虹彩。今はその中に、海の濃紺と月の光のような金色も揺らめいて見える。
怖くないか、と彼は問う。二度わたしを飲み込んだ、目の前に広がる海。本当は人ではなく、あの日の人魚だった七瀬。
さっきまで心細かった。体の力が抜けて、震えが止まらなかった。でも、今は。
わたしは首を横に振り、彼の頬を両手で包んだ。
「こわくないよ。七瀬、すごくきれい」
七瀬は一瞬丸めた目を、すぐに柔らかく細めて。はぁ、と呆れたように息を吐いて。シャツの袖口から伸びる美しい鱗の並んだ腕で、わたしの体を抱き寄せた。
「……佐波、無事でよかった」
「……うん」
頷いて、わたしも彼の背中にそっと腕を回す。腕の中は、潮のにおい。鱗は硬くざらざらとしていて、肌に触れると少しくすぐったい。
頭を撫でてくれる彼の手はいつもよりひんやりと冷たいけれど。
「あの日も今日も。助けてくれてありがとう、七瀬」
やっぱりいつもと変わらず、安心した。


