戦死したはずの旦那様が、三日後に双子の妹と結婚するようです

 常連の東郷中佐に呼ばれた撫子は、接客していた男性との会話を手早く切り上げる。
 軽く会釈をして立ち上がった瞬間。
 ぐんっと手首を引かれてしまった。
 撫子は微笑みを崩さぬまま振り返る。

「お客様。申し訳ございません。他のお客様に呼ばれましたので……」
「別にいいじゃねえか。もう少しぐらい付き合ってくれよ。それとも金を積まなけりゃ隣にいてくれないって?」
「……当店ではそのような接待は行っておりません」
「なら早い者勝ちだろ?」

 にやりと笑った男性は、周りからの非難の視線に気がついていないらしい。
 撫子の体を舐めるように見つめる様子は、断られないだろうと高を括っているようだ。
 掴まれたままの手首に視線を下ろし、撫子は静かに告げる。

「お客様。当店では女給へみだりに触れないようお願いしております」
「だからなんだよ」

 男性の爪が撫子の肌に食い込む。
 撫子が僅かに眉を顰めた、その時。

「嫌がる女性を口説くのは感心しないな」

 地を這うような声色が店内に響いた。
 すぐ後ろから聞こえたその声に撫子が顔を上げると、咲耶がすぐ傍らに立っていた。
 表情は穏やかに微笑んでいるというのに、金色の瞳だけが笑っていない。
 咲耶の見たことのない冷ややかな表情に撫子もぎくりと固まってしまう。

「な、なんだよ。軍人が女給遊びに口出しするのか?」
「ここはそのような接待はしていないようだが?」
「はぁ? カフェーなんてどこも一緒だろ」

 男性が威圧するように咲耶を睨む。
 その拍子に撫子の手首を握る手に力がこもった。
 今度こそ痛みに顔を歪めた撫子を見るやいなや、咲耶が男の手を捻り上げた。
 苦痛から男性は撫子から手を放す。

「痛ってえ! なにすんだ、放せ!」
「貴殿はもう少し周りを見た方がいい」
「は? なにを……」

 咲耶の言葉に、男性は初めて周りへと視線を滑らせた。
 周りの女給も客たちも、皆が皆軽蔑しきった目を男性へ向けている。
 そのことにようやく気がついた男性はすくみ上がってしまったらしく、大慌てで勘定をして退店してしまった。
 店内に安堵が立ちこめた頃、店の裏で作業していたであろう店長が女給に呼ばれてカウンターの奥から顔を出した。

「遅くなって申し訳ありません。鷹宮少佐。ありがとうございました」
「いえ。私は当たり前のことをしただけですので」

 咲耶は男性が出ていった扉から目を離し、そっと首を振った。
 先ほどまでの冷酷そのもののような顔つきではなく、普段の表情に戻った咲耶に、撫子は人知れず息を吐いた。

「みやちゃんはもう少し気をつけないといけないよ。君が働き始めた二年前と比べたらあしらうのは上手くなったけど……」
「はい。以後気を付けます」
「よろしい。では鷹宮少佐の卓へお付きして」
「かしこまりました」

 店長がパンパンと手を叩くと、事の成り行きを見守っていた店内の人々は思い思いに喋り始めた。
 撫子は咲耶とともに中佐のいる卓へ足を運ぶ。
 咲耶がソファーに腰掛けると、中佐が心底驚いたと言わんばかりに呟いた。

「ったく、いきなり揉め事に首を突っ込むなんてお前らしくないな」
「……そうかもしれませんね」

 咲耶が気まずげに逸らした視線の先には、先ほどの騒動でぬるくなってしまった珈琲が複数置かれていた。
 撫子はお盆を手に取ると、珈琲カップを全て回収する。

「今温かい珈琲をお持ちいたします」
「あぁ。それとみやちゃんにも珈琲を」
「中佐様、そのようなお気遣いは無用ですわ」
「遠慮せずに貴女も飲めばいい。少しぬるめで、猫舌の貴女が火傷しないぐらいのものを……ん?」

 当たり前のように口から出た言葉に、咲耶自身も首を傾げている。
 彼から出た気遣いに撫子は息を呑んだ。
 撫子が猫舌だと知っているのは咲耶だけだ。

(どうして、どうして違う人だと思わせてくれないの……?)

 ぐっと喉が詰まったような感覚に、撫子は口元を覆った。
 その仕草に気がつき、一番にぎょっとしたのは咲耶だ。

「み、みや嬢……?」
「?」

 咲耶が慌てる理由が分からず首を傾げると、床にぽたぽたと水滴が落ちた。
 軍服から取り出した手巾(ハンケチ)を顔に押しつけられ、ようやく撫子は自身が泣いていることに気がついた。

「あ、あら?」

 戦死の報告を受けたあの日、撫子は涙を一生分流したはずだった。
 枯れたと思っていたはずのそれに、撫子は困惑を隠せない。

(私、どうして涙なんて……)

 あたふたとしていた咲耶ははっとした様子でがばりと軍服を脱ぎ、撫子の顔を隠すように包み込んだ。
 再び店内の視線が撫子へ集中していると気がついたのだろう。

(っ、咲耶様の匂いがするわ)

 安心する匂いに包まれ、撫子の目からさらに涙が溢れ出した。