「みやちゃん聞いてくれよ。うちの部長がまた無茶を言い出してね。あやかしの被害を抑えろって言うんだ。あやかしの出現なんて、私らじゃ予想もつかないってのに」
「まぁ。それはお疲れ様でございました」
臙脂色のソファーに座る男性が渋い顔をしながら大きなため息をつく。
初めて見る顔の男性だが、彼は馴れ馴れしく話しかけてきた。
常連のような口ぶりに違和感を覚えつつも撫子は珈琲を男性の前に置くと、そっとソファーに腰掛ける。
女給の仕事は給仕の他に、お客の隣で話を聞くことだ。
下町のカフェーでは女給との触れ合いがあると小耳に挟んだが、このカフェーでは上品さを売りにしていてそのような無体は禁止されている。
その性質上、カフェーに訪れる客は軍人や会社経営者、銀行員など懐に余裕のある人ばかりだ。しかしそれゆえに彼らと話の合う女性は少ない。
だからこそ、華族の子女がひっそりと女給をやっているこのカフェーは繁盛している。
からりと呼び鈴が鳴り、女給たちが「いらっしゃいませ」と声を揃えた。
女給たちの声につられて入り口へと目を向け、撫子は息を呑んだ。
恰幅のいい壮年の軍人たちに囲まれた美丈夫へ女給たちの目が釘付けになる。
(咲耶、様……?)
少し嫌そうに細められた金色の目が、女給たちの視線を避けるように逸らされた。
その先でぱちりと目が合う。
咲耶の目が驚愕に見開かれ、撫子は二度見されてしまう。
撫子が知っている咲耶では絶対にしない行動だったが、その様子が面白くて思わず口角が上がってしまった。
(可愛い人……って違う違う)
邪念を払うように首を振り、撫子は隣の男性へ視線を移した。
◆
「なんだぁ、鷹宮。みやちゃんが気になるのか?」
「いえ、べつに……」
咲耶の肩に腕を回したのは、東郷中佐だ。
今夜は咲耶の結婚前祝いと称してカフェーへと連れ出されてしまった。
中佐の問いを濁した咲耶は女給が持ってきた品書きに目を向ける。
が、品書きの向こうにいる少し痛んだ黒髪へ意識を持っていかれてしまう。
「ほぉお? 浮ついた噂もなかった鷹宮がねぇ?」
「そのにやけ面やめてください」
「まぁ、あの芹沢家と婚姻じゃあ、他に逃げたくなる気持ちもわからんではないが」
「帰還前の私はその芹沢嬢と結婚していたようですけどね」
「あんときのお前は柄にもなく浮ついていたな。まっ覚えていないだろうが」
「……そうですね」
「せめて私たちにも紹介してくれていたらなぁ。あの時のお前は囲い込んで社交にも連れてこなかったから」
「……自分でも信じられませんよ、そんな話」
急に人が変わってしまった元妻。使用人たちは一度戦死したと報告され、不安なのだろうと言っていた。
だが、咲耶は元妻を名乗る芹沢家の娘を見てもぽっかりと開いてしまった心の隙間を揺さぶられることはなかった。
それどころか嫌悪感が胸中を渦巻く。
戦死前と同じように再び妻にと乞われたが、違和感と直感に従って一年の婚約期間を設けた。
(俺はいったい、何を忘れているんだ? いや、妻のことだけ抜け落ちているのは分かっているが、それだけ忘れているのには違和感がある)
戦死扱いとなっていた咲耶は、あやかしとの戦いから一年後に生還した。
奇跡的に助かったと言われているが、咲耶は助けられたのだと理解していた。
なぜなら、致命傷だと判断できるほど隊服に損傷があったが、咲耶の体には傷一つ残っていなかったからだ。
他にも不可解な点は多く残っている。
あやかしの攻撃に倒れた場所と寸分違わない場所で目覚めたこと。
戦地跡で目覚めたばかりの咲耶の傍には砕けた結界石があったこと。
そして、その結界石からは結界と治癒の異能の残滓が確認された。
結界石によって命が繋がれたのだと考えるのが自然だろう。
だが、咲耶はそれを誰からもらったのか一切の記憶がなかった。
『私の結界は、自分の身を包めば景色と同化することもできますから』
そう恥じるように言った彼女の顔が脳裏を過る。
もし、彼女の異能が瀕死の咲耶に発動されていたのであれば筋が通ってしまう。
(芹沢家の姉に異能はなく、妹は火の異能があると聞き及んでいた。だが実際はどうだ?)
妹だと紹介された女性は治癒と結界の異能を使って見せ、七輪に火をつけるにも燐寸で火をおこしていた。
火の異能を持っているならば、異能を使うはずだ。
自身の目で見た彼女たちと手持ちの情報があまりにも食い違っている。
咲耶が小さく息を吐くと、中佐がにんまりと笑った。
嫌な予感に制止をかけようとした咲耶だったが、すんでの所で間に合わなかった。
「おーい、みやちゃん! こっちにも来てくれ」
「はい。ただいま参りますね」
ぎょっとする咲耶だったが、中佐は片目を瞑ってにやにやと笑うだけだった。
「まぁ。それはお疲れ様でございました」
臙脂色のソファーに座る男性が渋い顔をしながら大きなため息をつく。
初めて見る顔の男性だが、彼は馴れ馴れしく話しかけてきた。
常連のような口ぶりに違和感を覚えつつも撫子は珈琲を男性の前に置くと、そっとソファーに腰掛ける。
女給の仕事は給仕の他に、お客の隣で話を聞くことだ。
下町のカフェーでは女給との触れ合いがあると小耳に挟んだが、このカフェーでは上品さを売りにしていてそのような無体は禁止されている。
その性質上、カフェーに訪れる客は軍人や会社経営者、銀行員など懐に余裕のある人ばかりだ。しかしそれゆえに彼らと話の合う女性は少ない。
だからこそ、華族の子女がひっそりと女給をやっているこのカフェーは繁盛している。
からりと呼び鈴が鳴り、女給たちが「いらっしゃいませ」と声を揃えた。
女給たちの声につられて入り口へと目を向け、撫子は息を呑んだ。
恰幅のいい壮年の軍人たちに囲まれた美丈夫へ女給たちの目が釘付けになる。
(咲耶、様……?)
少し嫌そうに細められた金色の目が、女給たちの視線を避けるように逸らされた。
その先でぱちりと目が合う。
咲耶の目が驚愕に見開かれ、撫子は二度見されてしまう。
撫子が知っている咲耶では絶対にしない行動だったが、その様子が面白くて思わず口角が上がってしまった。
(可愛い人……って違う違う)
邪念を払うように首を振り、撫子は隣の男性へ視線を移した。
◆
「なんだぁ、鷹宮。みやちゃんが気になるのか?」
「いえ、べつに……」
咲耶の肩に腕を回したのは、東郷中佐だ。
今夜は咲耶の結婚前祝いと称してカフェーへと連れ出されてしまった。
中佐の問いを濁した咲耶は女給が持ってきた品書きに目を向ける。
が、品書きの向こうにいる少し痛んだ黒髪へ意識を持っていかれてしまう。
「ほぉお? 浮ついた噂もなかった鷹宮がねぇ?」
「そのにやけ面やめてください」
「まぁ、あの芹沢家と婚姻じゃあ、他に逃げたくなる気持ちもわからんではないが」
「帰還前の私はその芹沢嬢と結婚していたようですけどね」
「あんときのお前は柄にもなく浮ついていたな。まっ覚えていないだろうが」
「……そうですね」
「せめて私たちにも紹介してくれていたらなぁ。あの時のお前は囲い込んで社交にも連れてこなかったから」
「……自分でも信じられませんよ、そんな話」
急に人が変わってしまった元妻。使用人たちは一度戦死したと報告され、不安なのだろうと言っていた。
だが、咲耶は元妻を名乗る芹沢家の娘を見てもぽっかりと開いてしまった心の隙間を揺さぶられることはなかった。
それどころか嫌悪感が胸中を渦巻く。
戦死前と同じように再び妻にと乞われたが、違和感と直感に従って一年の婚約期間を設けた。
(俺はいったい、何を忘れているんだ? いや、妻のことだけ抜け落ちているのは分かっているが、それだけ忘れているのには違和感がある)
戦死扱いとなっていた咲耶は、あやかしとの戦いから一年後に生還した。
奇跡的に助かったと言われているが、咲耶は助けられたのだと理解していた。
なぜなら、致命傷だと判断できるほど隊服に損傷があったが、咲耶の体には傷一つ残っていなかったからだ。
他にも不可解な点は多く残っている。
あやかしの攻撃に倒れた場所と寸分違わない場所で目覚めたこと。
戦地跡で目覚めたばかりの咲耶の傍には砕けた結界石があったこと。
そして、その結界石からは結界と治癒の異能の残滓が確認された。
結界石によって命が繋がれたのだと考えるのが自然だろう。
だが、咲耶はそれを誰からもらったのか一切の記憶がなかった。
『私の結界は、自分の身を包めば景色と同化することもできますから』
そう恥じるように言った彼女の顔が脳裏を過る。
もし、彼女の異能が瀕死の咲耶に発動されていたのであれば筋が通ってしまう。
(芹沢家の姉に異能はなく、妹は火の異能があると聞き及んでいた。だが実際はどうだ?)
妹だと紹介された女性は治癒と結界の異能を使って見せ、七輪に火をつけるにも燐寸で火をおこしていた。
火の異能を持っているならば、異能を使うはずだ。
自身の目で見た彼女たちと手持ちの情報があまりにも食い違っている。
咲耶が小さく息を吐くと、中佐がにんまりと笑った。
嫌な予感に制止をかけようとした咲耶だったが、すんでの所で間に合わなかった。
「おーい、みやちゃん! こっちにも来てくれ」
「はい。ただいま参りますね」
ぎょっとする咲耶だったが、中佐は片目を瞑ってにやにやと笑うだけだった。



