戦死したはずの旦那様が、三日後に双子の妹と結婚するようです

 咲耶と呼ばれたその軍人の腕に抱きついたのは、撫子と瓜二つな顔をしている百合だった。
 撫子の喉から嫌な音が漏れる。
 指先が震えたと脳が認識した瞬間に、撫子の顔から血の気が引いた。

(百合っ……!)

 撫子の焦りとは裏腹に、百合の目には咲耶しか映っていない。
 往来ではしたなくも腕に抱きつく彼女の顔と、青ざめる撫子の顔を見比べるように咲耶の視線が動く。
 彼は怪訝そうに撫子を見た後、百合の体を勢いよく離した。
 その振る舞いは撫子の知る咲耶であれば絶対にやらないであろう粗暴さだ。

(やっぱりこの方は、咲耶様ではない……)

 追い詰められた鼠のように後退った撫子の足下で、履き古した下駄が石畳をからりと鳴らす。
 さぁっとますます顔を青くした撫子に、百合の興味が向いてしまった。
 華族の令嬢らしいハイカラな洋装の裾が彼女の動きを追うように揺れる。
 そのワンピースは二年前よりも随分と上等なものに見えた。

(相変わらずお父様は百合に甘いのね。こんなワンピース、高くて買えなかったはずなのに)

 撫子を視界に捉えた百合は、嫌悪感を隠さずに顔を歪めた。
 百合の表情の変化を咲耶が見逃すはずもなく、眉間にシワを寄せて問いかけた。

「……芹沢嬢。彼女をご存じなのですか?」
「ええ。私の双子の妹。百合ですわ」

 告げられた名に、撫子は目を丸くする。

「百合は一年前帰還された咲耶様と私の結婚が受け入れられず……家出を……」

 反論しようと開いた口は、続いた言葉に固まってしまった。

(帰還された……? 一年も前に? ではこの人は、本当に咲耶様だというの? でも、本当に咲耶様なのであれば、どうして百合の隣にいるの?)

 問いたいことばかりが脳内を埋め尽くす。
 しかし、撫子の口から何一つ質問が零れ出ることはなかった。
 百合は笑みを深くして、咲耶の腕を放した。そして混乱する撫子へと抱きついた。
 まるで再会を喜ぶように。

「百合、無事で良かったっ!」

 自分のものではない名を呼ばれ、撫子は頬を強ばらせる。
 耳元に寄せられた百合の唇がいやらしく弧を描いた。

「咲耶様ったら無事に帰ってきたかと思ったら、どこかに記憶を置いてきてしまったみたいなの」
「え……」
「だからね、私がお姉様の代わりに咲耶様と結婚するの。三日後にね」

 ぱっと離れた百合は屈託のない笑顔を浮かべる。
 咲耶の隣に立ち、勝ち誇ったような表情をする百合に、撫子は喉の奥が引き攣るのを感じた。
 成り行きを見守っていた咲耶が百合へと目を向ける。

「話は終わりましたか?」
「えぇ。ちゃんと家に帰ってきてほしいとお願いしました」
「そうですか」

 淡々と返す咲耶が百合を見る瞳には一切の熱がない。
 その目が撫子に向く前に勢いよく頭を下げると、踵を返した。
 半ば駆け足でその場から逃げ出す。
 ひとたび鋭い目を向けられてしまえば、涙が溢れてしまうかもしれないと思った故の行動だった。
 呼び止める声が聞こえた気がしたが、撫子に足を止める理由はなかった。

 夜霧に滲むガス灯の灯りを頼りに帰路を進む。
 あやかしが活発に動き始める時間に刻々と近づいており、自然と足取りも速くなる。
 家への近道だと広場の中を通り過ぎようとすれば、広場で遊んでいた子どもが母親に抱き上げられているのが見えた。

(あのまま私が芹沢家にいたら、帰還なさった咲耶様を迎えることができたの……? そうすれば、私も、咲耶様と温かな家庭を……)

 百合と咲耶から逃げるように動かしていた足が止まってしまった。
 母親に抱き上げられて駄々をこねていた子どもの元に優しげな父親が笑いかけている。
 仲睦まじい家族が寄り添う光景を撫子は眩しそうに見ていた。
 歩き出した彼らの背後がぐにゃりと歪む。だが、その異変に彼らは気がついていない。

「っ!」

 撫子は思わず彼らの元へ駆けだした。
 歪んだ空間からぬるりと黒々としたあやかしが這い出てくる。
 彼らの影に隠れるように現れたあやかしが鋭い爪を子どもに振り上げ――

「危ないっ!」

 ――間一髪のところで間に入り、子どもとともに倒れ込む。
 母親から甲高い悲鳴が漏れ、父親が撫子への礼を口にして砂利にまみれてしまった子どもを抱きかかえた。
 腰が抜けている母親の手を引いた父親は一瞬気遣うように撫子を見たが、すぐに己の家族を守るように逃げ出した。
 素早い行動に撫子は目を丸くするが、あやかしが苛立ったように鋭い爪で地面を抉っている光景に我へ返る。
 地に伏したままの状態ではいけないと体を起こすが、あやかしの目は逃げた家族へと向いていた。

「っ!」

 彼らを追おうとするあやかしの眼前で、空気が薄く揺らいだ。
 逃げていく家族を追って飛び出したあやかしが見えない壁に弾かれる。
 だが、行く手を阻んだそれは一瞬でひび割れ、光の欠片となって四散した。

「ぎぎっ!?」
「あなたの相手は私よ」

 もう一度、あやかしと逃げる家族の間に結界を張る。

(私の手に負えないのは確かね。私の結界じゃ足止めが精一杯だわ)

 行く手を邪魔された苛立ちからか、あやかしは撫子を血走った目で視界に入れた。
 あやかしが怒りのまま跳躍したその時。
 突風とともにあやかしが真っ二つに割れ、はらはらとその姿が闇夜に混じって消えた。
 そして、あやかしが着地するはずだった撫子の目の前に、音もなく軍人が降ってきた。
 軍刀を納める姿が、記憶の中の彼と重なる。
 見上げた撫子の口から思わず彼の名が零れ落ちた。

「……咲耶、様……?」