戦死したはずの旦那様が、三日後に双子の妹と結婚するようです

 住む場所も、身分も、なにもかもを捨てて逃げてから早二年。
 撫子は二束三文で売った着物を元手にして、玄関扉もない三畳一間の長屋に根を下ろしていた。
 出入り口の前に繕い物二銭と看板を掲げているが、実入りは良くない。
 そのため、撫子は昼頃から夜にかけて神田にあるカフェーで働かせてもらっている。
 軍人関係者御用達の店内は西洋風の造りをしており、艶のある濃い色の板張りが真っ白な壁を引き立てていた。
 キャンバスのようなそれを彩るように洋画やビイルの広告が飾られている。
 紳士たちが煙草を燻らせながら交わすあやかしの噂話も、夕暮れを過ぎた頃からは鳴りを潜めてしまう。
 そうして夜も更けてくると等間隔に並べられた丸い卓と臙脂色(えんじいろ)の長椅子からは徐々に談笑の声が減っていく。
 最後の客が帰った後、戸締まりを終えた撫子に店長から声がかかった。

「みやちゃん。上がっていいよ。それとこれは先月分の給料」

 みや、というのは撫子の源氏名だ。
 本名で働いて、万が一にでも父の耳に入ることがないようにとの配慮だ。
 撫子は封筒に入った給与を店長から受け取り、頭を下げた。

「店長。ありがとうございます」

 このカフェーは訳ありで名字を名乗れない撫子を受け入れてくれ、働かせてくれる唯一の場所だ。
 少々中抜きが激しいが、それは口止め料ということだろう。
 名乗れない訳ありの女子は大抵が華族の娘だ。
 駆け落ちだったり、家出だったりと理由は様々だが、新聞でお尋ね者として世間に晒されることも多々ある。

(私がいまだ新聞に載らないのは、外聞を気にしてかしら。お父様らしいわ)

 撫子はぼんやりとそんなことを考えながら、給金を抱えて控室に戻る。
 店内よりも一回り小さなそこには壁沿いに木製の戸棚が並び、女給たちが共有で使う鏡台が置かれていた。
 鏡台に置かれたままの紅や白粉の柔らかな匂いが鼻孔をくすぐる。
 撫子は自身に割り当てられた番号の引き出しに鍵を差し込み、扉を開く。
 一度給金を財布へと入れてから、撫子は白いエプロンの結び目へ手を伸ばした。

 ◆

 煤を流したような夜空の下、ちんちんと路面電車の警笛が鳴り響き、幾度となく撫子を追い抜いていく。
 目と鼻の先の停留所に止まっているそれに、撫子は心を揺さぶられる。

(今日ぐらい市電に乗っても……いいえ、駄目よ。そんな余裕どこにもないんだから)

 長時間の労働で疲れた体で三十分以上歩くのは骨が折れるが、運賃を払えるほどの余力はない。
 撫子は邪念を消すように頭を振る。
 しかし、市電に乗れる人達を少し羨む気持ちで見てしまうのは仕方のないことだろう。
 撫子が停留所を通り過ぎようとしたその時、電車から見覚えのある隊服が視界の端を掠めた。
 反射的に振り返り、隊服を探す。
 人混みから見つけた軍服の御仁は当たり前と言うべきか、知らない顔をしていた。
 そこまで無意識に見て、撫子ははたと我に返る。

(あ……私ったら、つい軍人様を探すなんて……)

 二年前は買い物中に時たま、街を警邏している咲耶に会うことがあった。
 その頃の幸せな記憶が、いまだに撫子を絶望のどん底に突き落としてくる。
 撫子はくしゃりと顔を歪めて小さく呟いた。

「馬鹿ね。咲耶様はもういないのに」

 撫子はぼやけそうになる視界を隠すように俯かせて一歩踏み出した。
 その時。
 進路を塞ぐように見慣れた軍服が現れた。

「失礼。今、私の名前を口にしただろうか」

 聞き覚えしかない声に、撫子はぎょっとして顔を上げる。
 最初に見えたのは胸元に添えられた節くれ立った大きな手だ。
 広い肩からすらりと伸びる首、引き締まった顎へと視線を上らせる。
 薄く形の良い唇、すっと通った鼻筋。
 長い睫の下にある金色の双眸は鋭く、猛禽類を思わせる。

 撫子が息を呑むのと、その軍人が目を見開くのは同時だった。

 互いに何かを言うわけでもなく、時が止まったように見つめ合う。

(咲耶様……? いえ、でも咲耶様は戦死したはずで……)

 ぐるぐると回る思考の渦に、撫子は着物の上から亡き夫の認識票を握りしめた。
 すぐ脇を路面電車が通り過ぎ、ごうっと一瞬だけ風が巻き上がる。
 彼のからすの濡れ羽のような艶やかな黒髪をさらった風が落ち着くと、どちらからともなく視線を外した。
 幽霊に出会ってしまったような焦燥感が撫子を包む。

「あの、ご婦人」
「……なんでしょうか」

 名前を呼ばれなかったことに安堵した反面、初対面のような態度に苛立ちを覚えてしまう。
 数年間、恋人として、妻として傍にいたというのに、どうしてそんな目で見てくるのだろう。
 夫と同じ顔で、冷ややかに見下ろさないでほしい。
 撫子を見つけると愛おしげに微笑んでくれた夫を思い出し、目の前の軍人は似ているだけの他人で、やはり彼はもうこの世にいないのだと自分に言い聞かせる。
 咲耶であるはずがないが、撫子の胸の奥は勝手に傷ついていく。

「貴女は私を知――」
「咲耶様いたぁ!」

 彼の言葉を遮るように、この二年聞かないようにと祈り続けた少女の声が響いた。