戦死したはずの旦那様が、三日後に双子の妹と結婚するようです

 怒りを押さえたような低音に、撫子は思わず彼の名を口にした。

「咲耶様……?」

 座敷に軍靴を履いたまま足を踏み入れた咲耶は、撫子を視界に入れると僅かに目を見開いた。
 ぐっと眉間にシワを寄せたかと思うと、大股で撫子に近づいてくる。
 咲耶は撫子の前に跪き、そっと頬に手を添えた。
 彼は百合にぶたれ血の滲んだ頬を悔しげに見ると、隠しきれない激情を金色の瞳に宿した。

「無事、ではないな。遅くなってすまない」
「い、いえ。あの、どうしてここに?」
「待っていてくれと言っただろう? だというのに俺を待たずこんなところに連れ去られて……」
「え、ひゃっ!?」

 慈しむように微笑んだ咲耶が、軽々と撫子を抱き上げる。
 訳が分からずあわあわと挙動不審になっている撫子に、咲耶は目尻を和らげた。
 片腕で撫子を抱き上げたまま咲耶が振り返る。

「さて……どういうことか、説明していただけますか。芹沢伯爵」

 じろりと咲耶が父を睨む。
 いまだに腕を自身の影で捻り上げられていた彼は、額にびっしりと脂汗をかいていた。
 痛みで物言えないと判断したのか、しゅるりと影が元に戻った。
 影で縛られていた腕をさすりながら、父は引き攣った笑みを浮かべる。

「どういうこともなにも、それは私の娘でして……」
「それ……?」
「咲耶様! いらっしゃるなら一声かけてくださってもよかっ……な、どうして百合を抱き上げていらっしゃるの!?」

 女中から咲耶が訪ねてきたと聞いたのだろう。
 父の後ろから百合の金切り声が聞こえた。
 咲耶は冷め切った瞳を百合に向ける。

「百合? おかしいですね。先ほど芹沢伯爵は彼女を撫子と叱りつけていましたよ」
「あ、あれは、その、お恥ずかしながら双子で容姿もそっくりですから……昔から呼び間違えることがありまして」
「そうよ。お父様はよく私と百合を間違えるの」

 引き攣った笑みを浮かべる百合が自分は撫子だと暗に主張する。
 父も視線をうろうろとさせながらそれらしい言い訳を咲耶に告げた。
 端整な横顔がにっこりと「そうですか」と頷いた。
 あまりにも素直な反応に百合が胸を撫で下ろす。
 しかし、撫子は百合とは正反対の感想を抱いていた。

(さ、咲耶様、恐ろしく怖い顔をしていらっしゃるわ……!)

 他人ならば見過ごしてしまう僅かな変化も、撫子には草原に咲く一輪の花のように鮮やかに見えた。
 口元に笑みは湛えられているが、咲耶の双眸は笑っていない。
 しかし父と百合は気がついていないようだ。

「咲耶様、その子は百合なんです。ですからもう降ろしてくださらない?」
「彼女を降ろす前にいくつか私から質問をしても?」
「質問、ですか」
「はい。芹沢家のお嬢様はお二人。双子の姉妹でしたね」
「え、えぇ」

 父は咲耶からの唐突な質問に困惑しながらも頷いた。
 百合は自分の意見が通らなかったため、目に見えて顔を赤くしている。

「双子の妹、百合嬢は火の異能を持っている。間違いありませんね?」
「えぇ。そうよ」
「では姉の撫子は?」
「異能なんて持っていないわ。咲耶様もご存じでしょう? 私は無能者だといびられてきたのよ」

 百合はしおらしく俯いてみせた。
 無能者だと蔑まれてきたのは撫子の方だが、百合も父も知らない。
 撫子が異能を使えることを。

「では何故、市井で暮らす彼女は燐寸(マッチ)を使い火を起こしているのでしょう? 火の異能をもつのなら台所仕事では異能を使った方が効率がよいと思うのですが」
「気分ではなかったのではないでしょうか。それは昔から、気の難しい娘で……」
「なるほど。では実演してもらいましょうか」
「はい?」

 咲耶が腕の中の撫子へ柔和な視線を向ける。

「その頬、異能で治してください」

 咲耶の指示に、撫子はごくりと息を呑む。
 今まで隠し通してきた異能を、頬をぶたれた程度で晒せというのだろうか。
 撫子の体が硬直したのを感じ取ったのか、咲耶が耳元へ唇を寄せた。

「これ以上、誰にも手出しはさせない。俺を信じてほしい」

 意志の強い目を向けられ、撫子は小さく頷いた。
 指示された通りに自身の頬へ手を添え、異能を発動させる。
 淡い光が指先から滲み、じくじくと熱を持っていた頬から痛みが和らいでいく。

「……は?」
「おわり、ました」
「ええ。見事な治癒の異能です」

 咲耶がにこにこと微笑みながら頷いた。
 異能を持たないはずの撫子が治癒を使ったことに、百合も父も言葉が出ないようだ。
 百合に至っては笑みが張り付いていた顔から表情が抜け落ちている。

「ご覧のように彼女は火の異能ではなく、治癒の異能をお持ちです」
「そ、そんなこと、あり得るはずが……」
「治癒だなんて、嘘でしょう? 咲耶様が治してあげたのでは?」
「……目の前で起きたことだというのに信じられないと。では質問を変えましょう。貴女は以前、妹の百合は私と撫子の結婚を受け入れられず、一年前に家を出たと仰いましたね?」
「え、えぇ」

 百合の反応に、咲耶が呆れたように笑った。

「私の帰還が一年前だからとそう仰ったんでしょうが、嘘をつくなら時期くらい合わせるべきでしたね」
「……どういうこと?」
「この娘は二年前から神田のカフェーで働いています」
「っ!」

 百合の唇が震えた。

「あぁ。二年前と言えば、私の誤った戦死報告が通達された時期と重なりますね。……さて、これは本当に偶然でしょうか?」
「そ、れは……」

 百合が助けを求めるように父へと視線を向ける。
 しかし、父もまた返す言葉を失っていた。
 咲耶は閉口してしまった二人から目を離すことなく、開いている手を懐へ入れた。
 取り出されたのは、小さな金属板だ。
 それを目にした瞬間、撫子の心臓がひっくり返った。
 息が止まっているかと錯覚しそうなほど凝視してしまい、くすりと咲耶に笑われる。

「これがなにか、貴女は知っていますか?」

 咲耶は百合へ見せるように突き出す。
 それは咲耶の指に引っかかったままちゃりっと音を立てた。
 それは撫子が唯一、鷹宮公爵家から持ち出した咲耶の遺留品だ。
 咲耶が戦死したと聞かされてから、片時も離さず持っていた。

(咲耶様の認識票……。咲耶様に拾われていたのね)

 撫子はそっと目を伏せた。
 これだけ状況証拠が揃えば、聡明な頭脳を持つ咲耶は事実に辿り着く。
 必ず辿り着いてしまう。

「し、知らないわよ、そんな物!」
「ほう? 軍人の妻だったと豪語していたが、所詮は紛い物か」
「え? さ、咲耶様……雰囲気が……」
「真に俺の妻だと言うのならば、あるだろう? 俺と貴女しか知らないことが、一つぐらい」

 咲耶の形の良い唇が弧を描き、挑発するような目で百合を見る。
 真意を推し量るようにじっと見つめられた百合の口が、開いては言い淀んだように閉じる。
 それを何度か繰り返し、ぐっと息を詰めた。

「ふ、夫婦の秘密をこんな親のいる前で言える婦人がどこにいましょうか!」

 百合を庇うように前に出た父が声を上げた。
 天啓を得たと言わんばかりに百合もこくこくと頷いている。

「はぁ。もういい」

 咲耶の声から僅かに残っていた温度が消えた。

「貴女との婚約はなかったことにしてもらおう」
「え、そ、そんなっ!」
「……いや」

 咲耶は勝ち誇ったように笑って眉を上げる。
 彼の瞳が撫子を映した。

「元々の婚姻は貴女ではなく、彼女とのものだったな」
「……は?」

 百合の口から低い声が漏れた。
 彼女を一瞥した咲耶は冷ややかに告げる。

「ならば婚姻を破棄する必要もあるまい。貴女は芹沢百合で、俺の腕の中にいるこの娘こそ撫子なのだから」
「――っ!」
「違う! 違うわ! 咲耶様お願い、話を聞いて頂戴!」
「貴女に名を呼ばれる筋合いはない」
「なっ! なによ! どうしてその子が撫子になるのよ! 私が撫子だって言っているのに!」
「まだ分からないのか?」

 咲耶の口元に、冷ややかな嘲笑が浮かぶ。
 彼は指先に吊るしていた認識票を握ると、撫子の首にそっとかけた。

「これは彼女が連れ去られた際に落とした物だ」

 認識票に唇を寄せた咲耶に、撫子はごくりと息を呑んだ。

「そして、俺の戦死が報じられた際、遺留品として妻へ渡された認識票でもある」
「……は?」
「軍部の記録にも受取人は鷹宮撫子本人と記されている」
「それは、その女に奪われたのよ!」
「もう辻褄が合わなくなっているぞ。先程貴女は知らないと言っていただろう」
「あぁもう!!」

 咲耶の挑発に乗せられ、百合が目尻を釣り上げた。

「どうしてよ! 上手くいってたと思ったのに! なんでそんな物持ってるのよ。咲耶様に選ばれて公爵家に嫁いだだけでも許せないのに……。異能だってないくせに、どうして、どうしてお姉様ばっかり――!」
「百合!」

 父が静止するがもう遅かった。
 口に出した言葉はもう戻らない。
 座敷に重い沈黙が流れる。

「今『お姉様』と呼んだな?」

 咲耶がにやりと笑ったと同時に、百合と父の影が彼らの自由を奪った。